
「よりよい生活」の章から
本当の命を生きる
(同 P.135)
なんて、
強い言葉なのでしょう。。。
「定めに任せる」の章には、
2010年のTemerの論文から
再発進行肺がん患者を対象とした
早期からの緩和ケアの導入が
緩和ケアを受けなかった患者に比較して
25%長く生きたことも記述されていました。
加えて、膵がん患者さんは平均3週間、
うっ血心不全患者さんは3か月も
緩和ケアの導入によって
長く生きることができたことも。
(この2つの疾患の論文は私は読んでいません。
同 P.176より引用)
そして、
人は長生きを諦めたときだけ、長生きを許される。
と記述されていました。
(同 P.176)
この言葉の意味は、
けして放り投げることを推奨しているのではなく、
適切な時期に、
適切な範囲の医療を受けることが望ましく、
往々にして、
人が求める医療は適切という範囲から
はみ出してしまうことが見受けられる
ということなのだろうと思います。
一方、
医療依存度が高そうに見えても、
適切な医療で生命や生活を
維持している場面も数多くあることにも
私は解説を加えさせてほしいと思います。
ガワンデは、
私たちが社会に向かって
言い辛いことも
ズバッと文字にしています。
現代のハイテク社会は、社会学者の言う「死にゆく者の役割」が臨終で果たす重要性を忘れている。死にゆく人は記憶の共有と知恵や形見の伝授、関係の堅固化、伝説の創造、神と共にある平安、残される人達の安全を願う。自分自身のやり方で自分のストーリーの終わりを飾りたい。(同 p.250)
そして・・
何が医療者の仕事なのかについて私たちは誤った認識をずっとひきずっている。自分たちの仕事とは健康と寿命を増進することだと私たちは考えている。しかし、本当はもっと大きなことだ。人が幸福でいられるようにすることだ。そして、幸福でいるとは人が生きたいと望む理由のことである。(中略)おかれた状況とこれからの可能性を本人がどう理解しているか?恐れていることと望んでいることは何なのか?何を犠牲にするのが駄目なのか?そしてこの理解を深めるのに役に立つ最善の行動とは何か?緩和ケアとはこうした考え方を死期が迫った患者のケアに持ち込むためにこの2,30年に芽生えた領域である。この専門分野は進歩を続け、生死とは無関係に他の重い病気の患者のケアにも同じアプローチが応用されるようになった。(中略)しかし、お祝いすることはできない。それができるのは、すべての医療者が担当するすべての患者にこのようなアプローチをとるようになったときだけだ。
(同 P.261~2)
外科医であるガワンデは、
このように、エピローグの中で、
緩和ケアはすべての医療者が備えるべきアプローチであり、
医療の基本であることを述べています。
「患者」ではなく、「人」としての幸福追求。
その為の医療的アプローチが
緩和ケアだと言っているのです。
Ulrike LeoneによるPixabayからの画像
切除不能の胃がん患者さんが「私は絶対に治る」と言われていて、そうならないかも知れないときのことを考えることが全くできないでいます。
治って欲しいと願う気持ちを大切にしたいと思いながらも、「考えたくもないことを考える」ことを求めなくてはいけないと思っています。
「死すべきさだめ」知ることができて良かったです。
私の関わりが、何か少しでも役に立ちますように、祈って悩む毎日です。
後悔しないでほしいという、その一方で、考えたくもないことを考えさせようとしている医療者なのだ気づくことが、とても大切なことだったのですよね。
きみさんのコメントで、改めて意識させてもらいました。ありがとうございました。
前回の幸福度の事もそうですが、今回
>>幸福でいるとは人が生きたいと望む理由>>
この行は、胸に深く刺さります。
身体の事では、多くのお医者様と関わってきましたが、治癒できる病でも、先生のような意識で患者さんと向き合っていただけたら、とつくづく思います。
我がままかもしれませんが(苦笑)
余談になりますが、今年は父の一周忌で、ちょうど故郷のエドヒガンが咲く頃に帰省します。
チューブに繋がれたまま逝ってしまった父の事を思うにつけ、命の尊厳というものを想います。
長くなりすいませんでした。
向いている方向、それでよいのですよと言っていただけたようで心熱くなります。
大切な人の死にあっては、答えが出ない問いを持たない人はいないのかも・・と思うほどです。
今年の桜は何を語りかけてくれるのか…もうすぐですね。
コメント、ありがとうございました。
aruga