医師、僧侶でいらっしゃる田中雅博さんは
2014年10月膵臓がんと診断され、
その後、肝転移がわかりました。
栃木県益子町 西明寺の住職でいらっしゃり、
普門院診療所をお持ちでもいらっしゃいます。
その田中さんの言葉から。
「生きられるいのちは粗末にしたくありません。一方で、自分のいのちにこだわらないようにする。」
生きることへの執着、欲を捨てることで
死への恐怖をケアし、
欲を捨てると言っても死んでしまいたいと思うことではなく、
その間でバランスを取ることが大切。
患者さんの話を聞くときの姿勢は、
「どんな人生であったとしても肯定し、価値を見いだしてもらえるよう促す。」
医療のあり方について
「それらも受け入れ、最後の最後まで人生の『ものがたり』を形づくる手伝いをする人が必要です。それを含めての医療であるべきだと思います。科学では何もできなくなったときこそ、非常に多くのことができるはずです」
「人というのは、元気なうちは自己の欲望にとらわれたり、怒ったり、他人を差別したりするものです。しかし死が避けられないとなったときは、そう したことから離れて、自分のいのちを超えた価値を獲得するチャンスでもあります。いのちより大事にしたいもの。それは信仰を持たない人にとっても、自身の 『宗教』だと思うんですよ。それに気づくことができれば、その大事なもののために残りの時間を生きることができるのではないでしょうか」
これは、過去に書いたことがある
ONE to one
(クリスチャンの方にとっては、
ONEとは神を指すのだそうですが、
大きな捉え方では、自分にとっての大きなもの
運命とか、支えとかそうしたものがONE)
霧と夜のヴィクトール フランクルが
収容されている人々に向けて
話をしたときの、天からの視線、
大きなもの、ヴィクトールにとっては、
収容で引き離された妻の眼差しに、
共通したことであることに気づきました。
死を意識しながら生きていくときに、
いのちを越えた大きな何かに気づき、
それに守られながら生ききることについて、
複数の方が、言葉を変えながら
表現していることに気づきます。
「欧米でスピリチュアルケアにあたる人は宗教だけでなく、哲学や医療などもしっかり勉強しています。ただ、ある人は『知識があるだけではだめだ』と話し ていました。むしろ、死にゆく患者さんに大事なことを教えてもらうという態度で臨むのです。非常に高度なことですね。人格的にも優れていなければならない でしょう」
がんという診断を受け、
死を意識した患者さん達から、
打ちのめされるような感覚を
教えてもらうことが少なくありません。
ただ、それをキャッチするのは、
高度なことというより、
感度によるように思います。
小さなことにも
きちんと気づくことができるような。
ですから、人格の優劣とは
ちょっと異なるような気がします。
緩和ケア領域で仕事をしている人たちは、
この感度が医療的経験のなかで、
ゆっくりとかもしれませんが、磨かれてきている人であり、
そうすることに心地よさを感じる人々のように思います。
医学教育の中で、
このことを学生や若い医師に伝えることに
苦慮します。
どうすれば、この感覚的な、情緒的な、
でも、大変大切な医師としての
スキルを伝えることができるのか・・
様々な賢人の言葉を備忘録として
書きとめる作業をしているこの頃です・・
<田中雅博さんの言葉の引用元>
朝日新聞デジタル
まさに、我が意を得たりです。
ちょっとした出来事から大切なことを拾っていけるレンコンさんって、素敵です!