地元舞鶴の古刹多禰寺に初めてお参りに行きました。薬師瑠璃光如来をご本尊とする
「醫王山」という山号のお寺で西国薬師霊場の第三十番札所です。
東舞鶴の山の中にあるお寺ですが、創建は大変古く飛鳥時代に遡ります。
お寺で頂いた由緒書によりますと、この地の豪族の反乱を用明天皇の勅命で平定した
第三皇子の麻呂子皇子が護持仏の薬師如来を本尊に創建した・・・とあります。
用明天皇は聖徳太子の父帝で麻呂子皇子は聖徳太子の弟王にあたります。
丹後(京都府北部)には間人(たいざ)という聖徳太子の母后である穴穂部間人皇女の
名にちなんだ地名があり、麻呂子皇子の鬼退治伝説は丹後丹波各地に残り、さらに隣接する
若狭(福井県西部)には太子創建と伝える古刹があり、このあたり一帯は太子と麻呂子皇子および
その一族に関わる伝承が多く残る地域です。また当ブログでも数ヶ寺紹介していますが
若狭には国宝・重文級の建物や仏像を有する古刹が多くあり、記紀の時代から朝廷・皇室
と深いかかわりのある地域でもあります。
多禰寺は東舞鶴市街地から大浦地区を通り海水浴場のある三浜・野原への道の途中から
分岐した山中にあります。あたりには人家がほとんどなくて降雪があれば雪に埋没する
ような山間の地域ですが、かつては七堂伽藍を有して門前も参詣の人で大変賑わった大寺
であったということです。
門前の駐車場に車を停めてから、まず目にするのがこの風景です。平地区と舞鶴港がひろがります。
山門(仁王門)梵鐘が吊られています。鐘楼門は多くありますが、単層門で梵鐘が吊られている山門は
山上山中の山寺の他ではあまり見かけません。山門下には旧参道と思われる石段が続いていましたが、
すでに廃道となっている感じでした。一撞して入山します。
山門を入り直進すると右手に弁天社を見て本堂への石段があります。
多禰寺本堂。江戸後期の再建。手前に菊の御紋章の入った立派な青銅製の灯篭が建っています。
お参りを終えて本堂を退がりますと、ご住職がいらっしゃいました。ご住職は紅葉で有名な
金剛院の住職も兼務されていまして、金剛院のブログで度々コメントを交わさせて頂いて
いましたが、お目にかかるのは今回が初めてです。
ご住職の案内で宝物殿の中を拝観させていただきました。まず目に飛び込んでくるのは
身の丈4m近くもある大きな木造金剛力士像(仁王さま)です。筋肉隆々で血管浮き立つ
ボリューム感いっぱいの迫力満点な体である一方、木目をうまく利用して掌紋を表現
するなど細かいところも秀逸で、鼻の先に仁王さまがいるような間近な距離で拝見
しましたのでよく見えました。吽形像は胸を張って右手を大きく胸の横で開いて顔も
凛々しくてすごくカッコイイです。見惚れる仁王さまです。
ご住職のお話によれば鎌倉時代の慶派仏師による作で大きさとしては東大寺のあの
どでかい仁王さまに次ぐクラスの大きさということで、その大きさからして多禰寺が
かつては大寺であった歴史を物語っているということです。それゆえに兵火にもあい、
明治の廃仏棄釈でも被害を免れなかったということです。
この金剛力士像の他にも可愛らしい童子を従えた優しい普賢菩薩像や観音菩薩像など
平安時代以降の仏尊像や般若経の諸天善神を描いた仏画など貴重な宝物が数多くありました。
境内を下がると桃山時代に作庭されたという古庭園があります。大きな自然石を笠に頂いた
豪快な石灯籠が印象的なお庭です。平安期の菩薩・明王像、鎌倉期の仁王像、室町期の仏画、
桃山期の庭園、江戸期の本堂・・・と日本の各時代のものがぎっしりと詰まったお寺でした。
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「醫王山」という山号のお寺で西国薬師霊場の第三十番札所です。
東舞鶴の山の中にあるお寺ですが、創建は大変古く飛鳥時代に遡ります。
お寺で頂いた由緒書によりますと、この地の豪族の反乱を用明天皇の勅命で平定した
第三皇子の麻呂子皇子が護持仏の薬師如来を本尊に創建した・・・とあります。
用明天皇は聖徳太子の父帝で麻呂子皇子は聖徳太子の弟王にあたります。
丹後(京都府北部)には間人(たいざ)という聖徳太子の母后である穴穂部間人皇女の
名にちなんだ地名があり、麻呂子皇子の鬼退治伝説は丹後丹波各地に残り、さらに隣接する
若狭(福井県西部)には太子創建と伝える古刹があり、このあたり一帯は太子と麻呂子皇子および
その一族に関わる伝承が多く残る地域です。また当ブログでも数ヶ寺紹介していますが
若狭には国宝・重文級の建物や仏像を有する古刹が多くあり、記紀の時代から朝廷・皇室
と深いかかわりのある地域でもあります。
多禰寺は東舞鶴市街地から大浦地区を通り海水浴場のある三浜・野原への道の途中から
分岐した山中にあります。あたりには人家がほとんどなくて降雪があれば雪に埋没する
ような山間の地域ですが、かつては七堂伽藍を有して門前も参詣の人で大変賑わった大寺
であったということです。
門前の駐車場に車を停めてから、まず目にするのがこの風景です。平地区と舞鶴港がひろがります。
山門(仁王門)梵鐘が吊られています。鐘楼門は多くありますが、単層門で梵鐘が吊られている山門は
山上山中の山寺の他ではあまり見かけません。山門下には旧参道と思われる石段が続いていましたが、
すでに廃道となっている感じでした。一撞して入山します。
山門を入り直進すると右手に弁天社を見て本堂への石段があります。
多禰寺本堂。江戸後期の再建。手前に菊の御紋章の入った立派な青銅製の灯篭が建っています。
お参りを終えて本堂を退がりますと、ご住職がいらっしゃいました。ご住職は紅葉で有名な
金剛院の住職も兼務されていまして、金剛院のブログで度々コメントを交わさせて頂いて
いましたが、お目にかかるのは今回が初めてです。
ご住職の案内で宝物殿の中を拝観させていただきました。まず目に飛び込んでくるのは
身の丈4m近くもある大きな木造金剛力士像(仁王さま)です。筋肉隆々で血管浮き立つ
ボリューム感いっぱいの迫力満点な体である一方、木目をうまく利用して掌紋を表現
するなど細かいところも秀逸で、鼻の先に仁王さまがいるような間近な距離で拝見
しましたのでよく見えました。吽形像は胸を張って右手を大きく胸の横で開いて顔も
凛々しくてすごくカッコイイです。見惚れる仁王さまです。
ご住職のお話によれば鎌倉時代の慶派仏師による作で大きさとしては東大寺のあの
どでかい仁王さまに次ぐクラスの大きさということで、その大きさからして多禰寺が
かつては大寺であった歴史を物語っているということです。それゆえに兵火にもあい、
明治の廃仏棄釈でも被害を免れなかったということです。
この金剛力士像の他にも可愛らしい童子を従えた優しい普賢菩薩像や観音菩薩像など
平安時代以降の仏尊像や般若経の諸天善神を描いた仏画など貴重な宝物が数多くありました。
境内を下がると桃山時代に作庭されたという古庭園があります。大きな自然石を笠に頂いた
豪快な石灯籠が印象的なお庭です。平安期の菩薩・明王像、鎌倉期の仁王像、室町期の仏画、
桃山期の庭園、江戸期の本堂・・・と日本の各時代のものがぎっしりと詰まったお寺でした。
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