先週は南都・飛鳥方面をぶらついておりましたが、今週は羽曳野周辺に出没。久しぶりに野中寺・西琳寺を訪れた。
どれぐらい久しぶりかと過去の納経帳を引っ張り出してみて見ると、なんと10年ぶり。4、5年ぶりぐらいの感覚で
いたのに。というのも西国巡礼にも以前に始めた巡礼が太子巡礼で、その始まりが八尾・羽曳野だったので思い出
深くて記憶にもけっこう残っているのだ。
まずは野中寺。葛井寺へ行く時に門前は車で何度か通っているのだが、境内に入るのは先述の通り10年ぶり。

聖徳太子発願で蘇我馬子がその建立に携わったとされ、飛鳥時代に起源をもつ野中寺の境内に入ると右手に
金堂の礎石、左手に三重塔の礎石が残る。いずれも飛鳥時代の遺跡である。
金堂の礎石


三重塔の礎石。塔心礎は花びらの形で孔があり、太子霊場ご朱印はこの形の印。手前に亀の線刻がみえる。


ご本尊は薬師如来。西国薬師第14番でもある。

渡来人との縁が深い野中寺。地蔵堂前には渡来人らしき石像がぽつんと建つ。

野中寺の鎮守社である野々上八幡神社とは隣接していて境内はつながっている。

野中寺からそう遠くない場所に聖徳太子の弟である来目皇子の陵があるので行ってみた。地図上では野中寺の
門前の道路を南へ直進で800mほど、10分も歩くと見えてくるはず。それらしき森と鳥居を横目で確認して
入り口を探す。すると大阪府立大学の構内へ・・・。 まさか大学構内から行けるのか??と思いながら日曜日で
人が誰もいない構内を部外者でありながら進む。しばらくして、んなこたあない!と確信して踵を返して構内から出る。
んで入り口はどこなの??と道を戻って探してみる…。
なんのことはない。さっき横目で確認した森に続く道があるではないか!まあ道とはいっても、マンション駐車場と
宗教団体らしきビルの間の幅1mちょいぐらいの小道なので、私道と間違えるのも無理はない。せめて案内板
ぐらいあれば・・・。

来目皇子埴生崗上墓(はにゅうのおかのうえのはか)


50m余辺で高さは10mほどとされる方墳。来目皇子は新羅討伐の将軍として渡海する前に筑紫で病没したと
される悲劇の皇子。聖徳太子の勢力を削ぐために蘇我馬子が将軍に推したとの説もある。
陵のそばにはマンション。そう高くなく大きくもない陵の全容をマンション最上階から望めそうだが、
マンション入り口の「関係者以外の立ち入り禁止」の看板が、行く手を阻んだので陵を後にした。
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どれぐらい久しぶりかと過去の納経帳を引っ張り出してみて見ると、なんと10年ぶり。4、5年ぶりぐらいの感覚で
いたのに。というのも西国巡礼にも以前に始めた巡礼が太子巡礼で、その始まりが八尾・羽曳野だったので思い出
深くて記憶にもけっこう残っているのだ。
まずは野中寺。葛井寺へ行く時に門前は車で何度か通っているのだが、境内に入るのは先述の通り10年ぶり。

聖徳太子発願で蘇我馬子がその建立に携わったとされ、飛鳥時代に起源をもつ野中寺の境内に入ると右手に
金堂の礎石、左手に三重塔の礎石が残る。いずれも飛鳥時代の遺跡である。
金堂の礎石



三重塔の礎石。塔心礎は花びらの形で孔があり、太子霊場ご朱印はこの形の印。手前に亀の線刻がみえる。



ご本尊は薬師如来。西国薬師第14番でもある。

渡来人との縁が深い野中寺。地蔵堂前には渡来人らしき石像がぽつんと建つ。

野中寺の鎮守社である野々上八幡神社とは隣接していて境内はつながっている。

野中寺からそう遠くない場所に聖徳太子の弟である来目皇子の陵があるので行ってみた。地図上では野中寺の
門前の道路を南へ直進で800mほど、10分も歩くと見えてくるはず。それらしき森と鳥居を横目で確認して
入り口を探す。すると大阪府立大学の構内へ・・・。 まさか大学構内から行けるのか??と思いながら日曜日で
人が誰もいない構内を部外者でありながら進む。しばらくして、んなこたあない!と確信して踵を返して構内から出る。
んで入り口はどこなの??と道を戻って探してみる…。
なんのことはない。さっき横目で確認した森に続く道があるではないか!まあ道とはいっても、マンション駐車場と
宗教団体らしきビルの間の幅1mちょいぐらいの小道なので、私道と間違えるのも無理はない。せめて案内板
ぐらいあれば・・・。


来目皇子埴生崗上墓(はにゅうのおかのうえのはか)


50m余辺で高さは10mほどとされる方墳。来目皇子は新羅討伐の将軍として渡海する前に筑紫で病没したと
される悲劇の皇子。聖徳太子の勢力を削ぐために蘇我馬子が将軍に推したとの説もある。
陵のそばにはマンション。そう高くなく大きくもない陵の全容をマンション最上階から望めそうだが、
マンション入り口の「関係者以外の立ち入り禁止」の看板が、行く手を阻んだので陵を後にした。
