後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔237〕矢部顕さんの「鶴見俊輔とハンセン病」と小学校での授業、独り占めではもったいないので公開させてもらいました。

2019年11月10日 | メール・便り・ミニコミ
 このブログにたびたび登場していただいている岡山の矢部顕さんからメールが届きました。下掲するメールに画像が3枚添付されていました。私だけ読んでいるのではもったいない内容なので許可を得て掲載させていただきました。少し字が小さくて読みづらいのが残念ですが。

●福田三津夫様
 最近、こんなことがありました。群馬県高崎市の社会福祉法人「新生会」というところから、岡山のわたくしに「新生会広報」紙への原稿依頼がきました。
 なんで群馬県から? その社会福祉法人の理事長の原慶子氏という方は熱烈な鶴見俊輔さんのフアンで、学生時代に薫陶をうけ、今も日々著作から刺激を受けているという方のようです。
 鶴見さんの本を読んでいると、たびたび「交流(むすび)の家」に関する文章を目にする。そして、どこかにわたくしの名前も見つけたということで、会ったこともない矢部という人に「鶴見俊輔とハンセン病と交流(むすび)の家」をテーマに原稿を書いてほしい、とのこと。理事長からの要請を受けて、その社会福祉法人の広報紙の編集長からわたくしあてに原稿依頼がきたという次第でした。
  お会いしたことは無いのですが、どうも、彼女とわたくしは同時代に同じ大学の同じ学部にいたようで、専攻が異なっていたので、彼女は鶴見ゼミではなかったようです。が、何かの縁で鶴見さと親しくしていたとのことでした。
まぁ、こんな経緯があって原稿を書きました。見本として過去の広報紙のバックナンバーが送られてきて驚きました。16頁の広報紙なのですが、、4頁~16頁は法人内のたくさんの施設のニュースなのですが、なんと1頁~3頁は施設に直接には関係の無いであろう硬派の論調で、その社会福祉法人の志の高さがうかがえるものでした。 その広報紙は3700部印刷しているときいて驚きました。たくさんの施設をもっている大きな法人のようです。
 今回の10月20日発行の42巻秋号の1頁~3頁を添付します。2頁が理事長の頁のようで、今回鶴見さんにふれて書かれています。3頁は論壇という名前の頁になっていて、小生の文章が載っています。論壇風ではなくエッセイ風の文章です。
 またまた、この歳になっても不思議なご縁があるものです。
                               矢部 顕







 しばらくして矢部さんからの第2信が届きました。こちらも貴重な小学校の実践です。こんなおじさんが近くに住んでいたらこどもたちはどんなに喜ぶでしょうか。授業の様子を紹介した記事と、指導内容を掲載させていただきます。


●福田三津夫様〔第2信〕
 10月のはじめは高校生でしたが、今度は小学生に話をしました。先週、小学校6年生に「倹約令の立て札」の話(日本史江戸時代末期)と、綿花から糸を紡ぐ実際を、昨年と同じくやりました。今年は、新聞もテレビも取材が無かったので(これがあたりまえ?)、昨年のものを送ります。昨年お送りしたか、どうか?
2018年10月02日RSKイブニングニュース.mpg
 江戸時代末期の「倹約令の立て札」が近所の旧家で発見(2013年)され、それを見せながら小学校(6年生)の歴史の授業をやりました。上記の青字をクリックして見てください。TVニュースを見ることが出来ます。
 この倹約令の立て札の最初の文はこうです。―当村(沼村)は昨年と今年の水害で百姓はたいへんに困窮している。(中略) そこで左記のように倹約を申し付ける。―(以下、条文)
 立て札に書かれている条文のひとつに「綿の商人以外は村に入ることを禁じる」というのがあって、沼村は商品作物の綿を栽培していたことがわかります。(沼村は、わたくしの住まいしているところで、今は岡山市東区沼という住所です)。
江戸時代の綿栽培については、何十年かぶりに『カムイ伝』(白土三平)を読み返し勉強しました。学生時代に読んで凄いと思いましたが、いま読みかえしても凄い漫画(?)です。
 倹約令が江戸時代末期に何度もだされたことは、ペリー来航と関係があることがわかりました。ペリー来航のようなことが、今後たびたび起こることを予想して幕府は各藩に対して三浦半島や房総半島の沿岸警備を命じたのです。各藩は兵隊を派兵するために出費を強いられますので、年貢の取り立てが滞ることを恐れたようです。それで倹約令の頻繁な発令となったようです。また、「なぜペリーは日本に来たのか?」 そのころ日本近海には200隻以上のアメリカの捕鯨船が操業していたが、目の前に見える日本列島の港に入港すれば水や食料が手に入るのに鎖国政策でそれが出来ない。アメリカの捕鯨業の利益のために、つまり当時のビッグビジネスのためにアメリカ政府がおこなった脅かしだった。まぁ、そういうことをわたくしは小学校の日本史で語ったのですが、中学や高校レベルの話だったでしょうか??
 次の時間には、実際の糸紡ぎ体験です。綿から糸を紡ぎ、機織りで糸から布をつくり、布から衣服をつくる、という、江戸時代から昭和15年くらいまで行われていた村の暮らしの一部の「糸紡ぎ」を経験させました。各自にあらかじめ材料を渡しておいて自作した紡錘車(スピンドル)で糸紡ぎに挑戦しました。
 綿を栽培したのは、綿から何を作るためなのか? 綿飴をつくるためだと思う人?と問うたら、ひとり手があがりました。冗談が通じる子だったのか、どうだか・・・・
 今年、はじめて畑に綿の種を蒔いてみました。いま1.5mくらいに成長し、花が咲き、実がなり、その実がはじけて、白い綿が出てきました。綿があらわれたときはなかなか感動的でした。綿の木を小学校の校舎横の花壇に移植して、綿が出来る様子を子どもたちが見ることが出来るようにしました。
                          矢部 顕



●浮田小学校6年                                  2019.10.31.
「倹約令の立て札」からみえてくること
             講師・中西 厚/矢部 顕
はじめに
1. いつごろの立て札か
巳年の記述と内容から→安政4年(1857年)    <明治元年1868年>
1855年 安政2年 岡山藩倹約令御触書をだす
2. 内容
       沼村
  当村は水害が多く、百姓どもが困窮している。
  昨年・今年は特に~が水害ですべて無くなってしまった。
  このたび厳しく左の通り倹約を申し渡す。
一、木綿の布や毛綿以外の商人は立ち入らせてはいけない。
一、親しいかどうかに限らず、諸々の付き合い(贈り物など)はやめること。
一、御師による神社のお札の配布、浪人や物もらいなどは堅く断ること。
右の事を厳重に守るように。
        巳年八月  村役人
3. 沼の地形―水害って何?  (昨年7月、砂川堤防決壊による水害)
① 戦国時代  沼城(亀山城)
② 新田開拓 堀田 吉井水門 足踏み水車
③ 砂川の水路変更工事  延宝5年(1677年)から数年かけての大工事
    効果 1678年8月5日の大雨―以前は水がぬけるのに80日、
今年は8日で水がぬけた、という記述『赤磐郡誌』
  ④現在  大型排水ポンプ
        沼の人たちが交代で日夜ポンプを稼働
        稼働しているときは黄色の点滅ランプが見える
4. 稲作と綿花栽培
  稲作はいつからはじまったか          絵本『稲と日本人』(図書室にあります)
  年貢米
  水田の効用  主要食糧、環境保全、ダム効果、水平=土壌が流れない←→ミシシッピー川
布・衣類は何からつくられているか?    木綿、絹、麻、羊毛、化学繊維
木綿の布、毛綿―綿を買う商人は村に入ってもよいとは?
綿花栽培の最盛期―江戸時代
肥料  鶏糞、牛糞、人糞、油粕、干鰯、・・・・・    桶の普及
5. 御師、浪人、物もらい、って何?
  御師(おし)
6. 立て札の効用―沼村は山陽道筋で人の往来も多かったので「現代の『防犯パトロール中』の札のよう
   に、目立つ場所に設置して、押し売りなどよそ者を寄せ付けまいとする抑止効果も狙
ったのでは」と推測(県立記録資料館館長)
7. 江戸時代(1603~1867)とはどういう時代だったのか
① 約260年間、右肩上がりの無い時代
② 戦争のない時代―他国を攻めない、他国から攻められない
③ 日本文化の成熟、庶民レベルでの成熟