アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

823 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後鳥羽上皇 ⑧ 最終

2021-04-14 09:50:55 | 日記

六、事後処理  後鳥羽にも「顕徳院」と「徳」のつく怨霊封じの諡号を贈ったが。

 

 乱後の事後処理も速やかに行われた。3上皇の配流はすでに書いたが、さらに順徳上皇の子である今上天皇(仲恭天皇)は廃された。即位した事も消された為、九条廃帝とも言われ仲恭と諡号されるのは明治になってからだ。義時は次期天皇を後鳥羽の兄である守貞親王の皇子茂仁親王とした。後堀河天皇である。従って、守貞親王は天皇を経ず、「治天の君」になる。後高倉院という大上天皇の尊号を贈られるという歴史上初めての事態だ。別項「光格天皇尊号一件」で重要な先例となるので覚えておきたい。

100 順徳院 ももしきや | PolygonDrill百人一首の最後は順徳院

 これにて、保元の乱以来の「武者の世」の到来を告げた戦乱の時代は、大きな画期を迎える。義時・泰時の親子は、「御成敗式目」を制定し法の支配も強め武家社会の安定に努める。その頃には、平家合戦の記憶も遠くなりこの70年に及ぶ戦乱の犠牲者を悼む動きや、「平家物語」などの軍記物も出来てくる。そのような一時の平和の訪れで、3上皇の「恩赦」や「(京都への)還幸」を期待する動きもあった。現に、九条道家など両勢力に姻戚関係を持つ前関白は、幾度か幕府に働きかけたようだ。しかし後鳥羽は、隠岐で遂に60歳で崩御する。最後まで都への思いを断ち切れず、未練の死であった。その後、後堀河天皇から譲位された四条天皇が急逝した為、順徳上皇の皇子に次期天皇の期待が高まった。しかし、その夢も破れ、結果土御門上皇の皇子(後嵯峨天皇)に決まった。ただこの時すでに、土御門はこの世になく、幕府は生きている順徳が「治天の君」になることを警戒したのだ。徹底的に承久の乱の影響を廃したい幕府の姿勢は変わっていなかった。遂に、ここに順徳も「還幸」の望みを絶たれ配流池で絶命する。最後は、自ら食を絶つという壮絶な死であったという。

土御門天皇 金原陵 | 京都旅屋 ~気象予報士の観光ガイド・京都散策~土御門上皇陵

 当然、幕府・朝廷はそれぞれの怨霊を恐れた。特に後鳥羽は生前から強い霊力を発揮し、乱後すぐ北条政子始め幕府の重鎮の死を招き、餓死者を多く出す飢饉をおこした。身内でも、後の天皇はことごとく早世した。先の、九条道家の「還幸」の願いは「怨霊」を恐れてのことだったのだ。幕府は、諡号に「順徳」同様に後鳥羽にも「顕徳」と「徳」のつく怨霊封じの諡号を送ったが、それでも霊力が強く、泰時が懊悩の末に頓死するのを見て、後鳥羽と改めたほどだ。後世、後鳥羽天皇というのはこのような複雑な事情による。以降、「徳」のつく天皇諡号はない。

 武士と戦う天皇を、後鳥羽天皇から書いたが、武力の前に全面敗北であった。その後、後醍醐天皇が一瞬「中興」する。このようにまだ皇室が武力を行使できた時代である。戦国時代には、武力どころか経済力もなくなり、後水尾天皇は権威だけで幕府と戦おうとする。本格的尊王思想の高まりは、江戸時代後期光格天皇を経て、王政復古を果たすのは、まだまだ先の幕末であり、ここから600年も後のことである。

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822 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後鳥羽上皇 ⑦

2021-04-14 09:01:59 | 日記

五、後鳥羽の君主意識  権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもの。

ここまででどうしても確認しておかねばならないのが、後鳥羽上皇の君主意識である。ここは、本郷和人氏『承久の乱』に分かり易く書いている。同書「第5章後鳥羽上皇の軍拡政策」の中で、後鳥羽と義時の国家観の違いを説明している。

まず、後鳥羽は、「伝統的な国家観」を持っていたとした。つまりすべての頂点に皇室がいて、貴族には政治、寺社には文化・宗教、武家には治安維持というように役割分担があり、それを「権門」といい、相互補完しながら最終的には天皇を支えるという事だ。一方、それらに対して大臣・将軍・僧正というように権威を与えるのが天皇であり、征夷大将軍もその例外ではない。それに対して、義時の国家観は「在地領主の為の政権を在地領主が支える。」独立した関東政権であり「東国国家論」とも言うべきものであった。相対立するようだが、その共存を考えたのが実朝だったのではないか。つまり東国支配に留まる鎌倉幕府が、朝廷の権威を最大限に利用し安定的に治め、地盤を固めることによっていずれは西国も支配下に治めて行くという目論見だ。その後、江戸時代になって「大政委任論」(天皇から政治運営の大権を委任されている。従って、幕末に「大政奉還」と言う概念に行きつく。)という考え方が出て来たが、それを先取りするような考え方だ。その為には、朝廷と対立するのではなく、幕府の強化のために皇族将軍を招いて、むしろ朝廷崇拝を一層高めるという政策だ。

 北条義時とはどんな人?生涯・年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱 ... 北条義時

その為に実朝は、朝廷の忠実な近臣になろうとした。天皇⇨将軍⇨御家人という統治ラインを考えたのである。実朝が、初代頼朝の右大臣を越えて太政大臣にまで地位を挙げたのは、このような深い読みがあったと見るべきだ。幕府にとって「対立」には何のメリットもないのである。しかしそれは義時と後鳥羽では成り立たず、御家人たちからは、実朝は朝廷へ迎合したとしか見えなかったのだ。

古今和歌集 [1] (国立図書館コレクション) | 紀貫之 [ほか] | Kindle本 ...

さらに、後鳥羽の国家意識は、極端なものであった。三種の神器を欠いた即位であったことによるコンプレックスが終生付きまとった。従って、強い「復古主義」の実践者となった。延喜・天暦の醍醐天皇・村上天皇の時代に憧れた。それは、勅撰和歌集に「新古今和歌集」と命名したことに顕著に現れている。(古今和歌集は醍醐天皇の勅撰)従って、自らも朝廷儀式の勉学に励んだ。時には、公家衆にもきつく叱責したようだ。また、自由闊達を標ぼうするが、自由も闊達も後鳥羽が考え与えるものであって、部下である公家たちが天皇や上皇の権威を冒すような振舞いがあれば、「戯れと雖も、頗る恐れあり」(明月記)と叱責した。突然に激怒するようなこともあったようだ。権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもので個人の自由ではなかった。そのような神経質な対応は、いつの時代でも人望を得ることはない。そのような後鳥羽にとって、義時は「自由に振舞う不埒者」に見えたのだ。義時討伐の精神的背景はここにある。

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