② およつ御寮人事件 青年天皇の恋心を踏みにじられ幕府への敵愾心が。
幡枝御所 圓通寺 上は比叡山を借景とする庭園。
後水尾天皇の最初の戦いは、女性問題である。徳川家康は生きている間に、幕府政権を盤石にする為には二つの大きな仕事が残っていた。一つは豊臣氏の抹殺である。関ケ原の戦いの結果、一大名の地位に成り下がった豊臣秀頼だったが、反徳川勢力の象徴的存在である事は間違いなかった。秀頼・淀君に対して、戦乱で荒廃した京都の巨大寺院の修理・再建を促して、その膨大な財力を削ぐよう仕向けた。それでも心配で仕方ない。とうとう、方広寺の梵鐘の銘文にいちゃもんをつけて戦いを仕掛けた。大阪冬の陣・夏の陣である。
そして、もう一つの仕事は、公武合体である。徳川家から朝廷への「入内」という策を企てる。すなわち自らの孫娘を天皇の后にすることで、古来より藤原氏がとった手段で、天皇の外祖父の地位を獲得することである。具体的には、秀忠の第5女子である和子(まさこ)が、慶長12年に誕生していてこの姫を考えていた。後水尾天皇の12歳下ということになる、年齢的にはやや無理はある。因みに、幕末将軍家茂に嫁いだのは、「和宮」で、名は、親子(ちかこ)である。それぞれ立場は反対だが、融和を象徴する「和」の文字を名に持つお二人の姫は公武合体の運命に翻弄されたのである。
しかし、入内直前に大変な事が発覚した。後水尾天皇の典侍(そば近くに侍る女性)である四辻御与津(よつつじおよつ)に子が出来ていることが発覚したのだ。すでに20代半ばになっていた天皇に子が出来たことに何の不思議もないのだが、出来た子が皇子であったこと、さらに和子の母が「お江与の方」であることだ。お江与の方とは、淀君の妹であり信長の妹お市の方の3姉妹の一人である。戦国の渦中に生きたお江与は、極度の「悋気」持ちであった。因みに、夫である秀忠の隠し子の保科正之は、会津藩初代藩主という優秀な大名になったのだが、お江与を恐れて生涯父子対面は叶わなかったほどだ。そのお江与が後水尾天皇に対して激怒したのである。
結局、およつの兄四辻季継を含む公家衆6名に対して、流刑などの重刑が下された。さらに、およつ自身も程なく洛外に追放される。そのあたりは川口松太郎氏の名著「およつ御寮人」に詳しい。そしてその事は、後水尾天皇の逆鱗に触れた。因みに「逆鱗」は天皇にのみあるもので、庶民に逆鱗はない。しかしこの時代、天皇が武士と戦うとしても手段は限られている。唯一の手段は、「譲位」だった。後水尾の最初の戦いだ。
ここで、戦国武将の生き残り藤堂高虎が登場する。身長190cmに及ぶ武闘派筆頭だが、生涯に9人主君を変えたという世渡りの上手い武将でもある。天皇に公武合体を強要し、公家衆を通じて、「此儀我等不調法に罷成候はば、切腹仕り候までにて候」と、あからさまに脅した。後水尾は事実上の初恋の女性とその子との別れを突き付けられたのである。およつとの年齢差は不明であるが、魅力的な女性であったのだろう。川口氏の小説では、事件以降も岩倉の山荘「幡枝御所」(現在の圓通寺)にお忍びでしばしば会っている。もう一人皇女(梅宮)も生まれている。この梅宮が後の文智女王で和宮(東福門院)とも深く交流する。因みに問題となった最初の皇子は早世している。生きていたら天皇の地位にもなるお子であったはずなので幕府による暗殺かとも言われる。
青年天皇の恋心を踏みにじった幕府への敵愾心は、後々まで影響する。