アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

827 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ④

2021-04-21 10:03:13 | 日記

四、建武の新政「狂気の政権だったか。」

吉野後醍醐稜を守る如意輪寺

 さて、今回のシリーズは「武士と戦った天皇たち」である。従って、何故後醍醐は倒幕にこだわったかを書いて来たが、その前に「建武政権」と「足利高氏」について考えなければその真相にたどり着けない。なお、討幕と倒幕は使い分けねばならない。後醍醐は「倒幕」を目指したが、実現したのは新田・足利の「討幕」による。つまり、幕府を倒すことを倒幕と言うが、武力行使により力ずくで討ち果たすのが討幕である。ややこしいか。

 まず、従来からの建武の新政のイメージというものは、「後醍醐天皇が、時代に合わない非現実的な施策を独裁的に行った。」「公家に厚く武士に薄い論功行賞だった為、武士に不満がたまった。」という政治的な批判や、「怪僧文観をそばに置き妖術を駆使した異形の天皇だった。」というのも代表的印象だろう。これはやはり、『太平記』の影響が大きいと思われる。この「太平記史観」により、後醍醐は三種の神器を保有する正当な君主であるが、暗愚で不徳の天皇でそれを必死に支える「忠臣」の存在が、日本人の精神構造上「判官贔屓」のようなものになって、新田義貞や楠木正成という英雄を生んだ。さらに、不公平な恩賞配分、無謀な内裏造営計画、御家人たちへの重税などの批判が、現代までの普遍的イメージとなっている。

 また、『神皇正統記』を記した南朝の重鎮である北畠親房や子の顕家でさえも、建武の新政については強く批判をしている。さらに、江戸時代に入っても「正徳の治」として有名な学者で政治を主導した新井白石なども、著書の中で他と同様の厳しい評価を下している。それが明治になり「皇国史観」のもと、南朝を正式に正統と定め、さらに一層楠木正成を「大楠公」と崇め、建武の新政の失敗を「逆賊」足利尊氏の悪行に責任を押し付けた。それでも後醍醐への批判的見方は太平記史観の域を脱せなかった。

 そして、太平洋戦争以降、一時隆盛を極めたマルクス主義的思考方法が歴史研究にも波及し、建武の新政は、古代への復古を目指した「反動的政権」と見なされた。加えて、網野善彦氏が『異形の王権』論を唱えることで後醍醐の「異常人格」像が一層後醍醐のイメージを定着させることになった。一方、亀田俊和氏『南朝研究の最前線(建武の新政は、反動的なのか、進歩的なのか?)』には、すべての研究は太平記史観の申し子であり、建武の新政も後醍醐も正統には評価されていないとした。その根本は「同政権が短命に終わったという事実」により、すぐに倒された政権は政策に間違いがあったという先入観があったことを強調した。従って、「政権の寿命と政策の善悪は必ずしも比例しない。」と主張した。

 現在では、建武政権の諸政策を積極的に評価し、その先進性に着目する説が多く出されている。鎌倉幕府から室町幕府の中間に位置する建武政権は、決して反動的なものではなく政策的には連続したもので、むしろ建武政権の諸施策が室町幕府で花開いたとする見方も出てきている。後醍醐天皇像も、今後若手の研究者により決して「異形の天皇」ではなく生き生きとした生身の人間であることが見えて来るのかも知れない。

 

 

① 尊氏との関係「尊氏の人物像と後醍醐との関係」

足利氏菩提寺 等持院

 足利尊氏は、後醍醐天皇の諱である「尊治」の一文字を下賜されて尊氏と名乗った。従って、建武政権当初の二人は良好な関係であったことは間違いがない。鎌倉で幕府を倒したのは新田義貞だが、倒幕の第一功労者は尊氏その人であった。しかし、歴史的に尊氏の評判は最悪だ。幕府執権の北条家の一族に連なる足利家は、北条得宗家に次ぐ待遇を受けていた名門であった。しかも源義家を源流に持つ源氏の総帥でもあった。(そのあたりは諸説あり怪しいが)要するに北条家を除くと一番幕府に近い家柄のはずだったのだ。それが裏切ったのだ。足利家菩提寺「鑁阿寺」に残っていた※「願文」にはその三代後には天下を束ねると書いてあり尊氏がその三代目であったとか、当時の征夷大将軍は宮将軍(皇族から将軍を迎えていた)だったのでそれを狙ったとか諸説あるが、裏切った事実は間違いない。さらに、その後、後醍醐とも決別し北朝を立てるが、それも一時裏切る。最後は最愛の弟直義を裏切り殺害する。まさに紆余曲折の裏切り人生だった。

 話を建武政権に戻す。鎌倉幕府崩壊後、最後の執権高時の遺児時行(ときつら)の反乱「中先代の乱」の鎮圧の為鎌倉に転戦後、尊氏は、後醍醐の要請を受けて京都に戻る際、弟直義に「京都は危ない殺される。」と進言され出家し籠ってしまう。その後、あろうことか足利討伐の院宣を受けて新田義貞が鎌倉に攻め込んできた時、劣勢の弟直義を見殺しに出来ないと再び出陣する。このように数々のエピソードや経緯を見て行くと英雄のかけらもない。ただし、戦いには不思議に強く、連戦連敗の弟直義とは大いに違う。歴史的研究でも、優柔不断なところが多く、八方美人とも言われている。室町幕府設立という武家社会の英雄なのだが、計画的に物事をすすめ「野望」を「勝ち取った」とは到底思えない。それでも後醍醐政権である建武政権の一番の侍大将は尊氏だったし、そのままでもいずれ征夷大将軍の称号も望めたかも知れなかった。実際、後醍醐天皇は公家ばかりではなく、かなりの数の御家人を登用している。結果として、お二人とも時代の英雄なのだが、時代を見通す眼力とバランスある政治力を有していれば二人の関係性には違う結果があったのではないか。また、素朴な疑問として後醍醐天皇が完全に武士を敵視するのなら尊氏に「諱」を与えるほど重用しないだろうとも思う。後醍醐天皇は、持明院統の背後にある鎌倉幕府を敵視したのであって、武士そのものを敵視したものではなかったのではないか。

 

※ 八幡太郎源義家が「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文を残している。義家の七代の子孫にあたる足利家時は、自分の代では達成できない事を悔い、八幡大菩薩にさらに三代後の子孫には天下を取らせよと「願文」を残して自害した。三代の子孫とは足利尊氏・直義兄弟だ。

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