アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

番外  俺にも言わせろ

2021-04-19 19:27:55 | 日記

福島原発の汚染処理水放出の件で、またまた韓国・中国が反発している。自らも同様の処理水を海洋に放出しているくせに日本が行うと言うと反発する。放出する水は韓国の水道水よりも水質は良いらしい。それを批判するのは言いがかりでしかない。そもそもIAEAと言う国際機関が適正と認めたものを非難する筋合いはない。

一方、中国は、ウィグル自治区の迫害問題など、各国が発言すると内政干渉だと大騒ぎする。日米で台湾問題に脅威を表明しただけで猛反発だ。このような高圧的な対応に我々日本は弱腰でここまで対応してきた。言わば大人の対応をして来たのだ。

しかし、惻隠の情とか武士の情けなどと言う日本の文化で言う美徳は通じない。三国志にあるように陰謀・裏切り・虐殺・略奪の当たり前のお国柄なのだ。日本の忍耐も限界に近い。特に、韓国は小国にも関わらず上から目線の横暴は許しがたい。

ここは日本も、靖国参拝批判を「国内干渉」だと、堂々と国際社会にアピールしよう。日本のお国の為に命をささげた英霊に、哀悼の誠を捧げることに我々が外国の批判に影響されることの異常性をしっかり主張しようではないか。このままでは日本の国柄が保てない。

戦争を賛美するのではない。間違った国粋主義を良しとするものではない。平和主義の前提のもと、正しく日本の主張をすべきなのだ。まずは、教育現場で正しく日本の歴史を教えて貰いたい。日本は神の国と言って批判された首相がいたが、神武以来万世一系の天皇を頂く「神の国」であることは間違いない。

だからと言って、日本だけが世界で優位に立つ唯一の国なのではない。国際社会と協調して行くのは基本姿勢だ。中国の中華思想が前面に出て来た現在、各国が覇権争いではなく如何に強調し環境問題や民族自決運動を支援できるかがポイントだ。領土を広げる争いでは決して無い。

 

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826 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ③

2021-04-19 08:10:30 | 日記

三、幕府の実情 元寇以降の幕府衰弱と各名門家の分裂

 

さて、この間の幕府の事情を確認すると、前項で書いたように承久の変で完全に朝廷を抑え込んだ幕府だったが、鎌倉時代の中期に、結果として幕府滅亡に至る大事件が起こった。2度の「元寇」である。文永11年(1274年)の文永の役、弘安4年(1281年)の弘安の役である。まさに、後嵯峨天皇から後深草天皇を経て亀山天皇に至る「両統迭立」の起因となった時点と重なる。幕府を揺るがす「萌芽が二つ」芽生えた時期であったのだ。元寇は、「神風」をもって守ったが、我々現代の人間は、その後、元が衰弱することを知っているが、当時の鎌倉幕府にとっては最大の政治課題が、「九州の防備」となった。ところが外敵に対する備えは、内戦と違って勝者はいない。従って、論考行賞(ご褒美・恩賞)がない。御家人たちは疲弊するのみである。さらに、結果的に幕府の西国支配が強くなったおかげで、幕府官僚たちが京の公家との関りを持ったことは大きい。「国難」と言われた当時は一致団結したが、徐々に元の脅威が去り政治闘争の時代となり、それに朝廷内の2流派の争いが微妙に重なって来る。現在思うほど頻繁な交流というほどではないが、東西の御家人の交流も増えたと考える。東国支配の鎌倉幕府、西国支配の朝廷というバランス関係から始まった鎌倉時代は、中盤から大きく変化したのだ。

元寇 - Wikipedia

 元寇からわずか50年後には、後醍醐天皇が登場し倒幕に至るのであるが、幕府支配は、将軍独裁(3代実朝まで)、執権の絶対権力(義時から時宗までか)、そして北条得宗家支配へと変化し、北条得宗家の取り巻きと北条家とは距離のある反北条家の御家人たちに分かれて行く。そして、放蕩執権高時が登場し完全に無力化する。遂には、有力御家人の離反が相次ぎ、「敵の敵は味方」とばかりに朝廷(後醍醐)に期待が集まる。足利高氏と後醍醐の合流はこのような背景の中で、誠に危うい、あやふやなものであった。

 また、源氏である足利家も新田家との確執があり、平氏である北条家も分裂に分裂を繰り返し、藤原氏も皇室もそれぞれ分家を繰り返し収拾がつかない段階に来ていた。それぞれの細分化した名門家を完全に統括する「聖主・賢王」待望の気運が高まっていた。『太平記』序文にあるように、「天の徳を体し、知の道に従う」ものが世を治め太平の世を迎えるのだ、という庶民感情も高まっていた。そこに現れた、後醍醐天皇に一瞬「聖主・賢王」の幻影を見たのかも知れない。延喜・天暦の時代(平安中期、醍醐天皇・村上天皇)の天皇親政を目指す後醍醐が時代の要請と重なった。

 

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