⑥ お二人の晩年 京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社は数多い。
修学院離宮
後水尾上皇は、譲位した後は健康も回復したのか、魅せられたように自由に活動している。一番目立つのは修学院への行幸である。岩倉、幡枝御所を中心に離宮建設場所を求めてしばしば訪ねている。平安の昔、嵯峨天皇が、嵯峨野に隠棲の地を定め、後に門跡寺院である大覚寺という官寺を建設したのと同じ構想をもっていた。慶安4年(1652年)、徳川家光が没すると独断で「落飾」し法皇となった後水尾は、この地を仏道の拠点と考えていたのかも知れない。寺院の建設は実現しなかったが、現在も見学希望者の絶えない「閑放の地」を立派につくりあげた。
修学院御幸の時は、必ず東福門院を伴っていた。この徳川和子について、前出の熊倉功夫氏『後水尾天皇』には、「むしろ庶民にこそ受け入れられた。」と書いている。莫大な財力をバックに、派手好みとして巷にも噂の和子は、尾形光琳の実家である呉服屋「雁金屋」から膨大な衣装を注文していた。それは「御所染め」と言われ、中宮和子は京都に於けるファッションリーダーとなっていた。武家出身だがむしろ庶民の憧れの的とされ、和子に最初の皇子が誕生した時には、町の人々のお祝いの踊りが市中から中宮御所にまで繰り広げられたという。戦乱の世が治まり、公武合体が庶民にも好ましく思われたのだろう。
また、36名にも及ぶ後水尾のお子達の良き母親でもあった。特に、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と他の女房からの所生とは言え、3人の天皇をすべて自らの子として即位させている。幕府に遠慮したり、経済的に不自由することの無いようにとの深い配慮である。最も象徴的なのは、先にも書いたが、およつ御寮人の子である梅宮(文智女王)との交流である。梅宮が居た門跡寺院円照寺を、修学院離宮造営にあたり大和に移転するにあたっては、誠に手厚く配慮している。一方、梅宮の方もその好意に深く感謝の気持ちを伝えている。そして、その梅宮は東福門院の臨終に際して寝所近くに侍り見送った。延宝6年(1678年)東福門院和子72歳の大往生であった。
そしてそのあとを追いかけるように、同8年(1680年)後水尾法皇も臨終を迎えている。長く生きることが、幕府への最後の戦いだった。暑気あたりからの衰弱と伝えられるが、中宮和子同様老衰による大往生というべきだろう。85歳の長寿は、昭和天皇がそれを超えるまで最長寿天皇であった。昭和天皇のおっしゃった通り「(寿命や医学の発展など)時代が違う。」ことを考えると、別格の長寿と言わざるを得ない。これで、幕府と正面から戦う天皇はしばらく出て来なくなる。清和天皇の追号を希望して「後水尾」としたのはご本人の「御素意」である。京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社は数多い。
幡枝御所 圓通寺 比叡山を背景にした借景
和子が徳川の財力を背景に後水尾に協力して整備した。