エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

デジブック 『縄文のヴィーナス』

2011年08月24日 | 遺跡
国宝「縄文のヴィーナス」は、人の本能を表現しているのである。
女性こそが太陽であって、次の世代を生み育てる力の根源なのである。



妊娠した女性である。
夢と希望に満ちた姿となっている。




デジブック 『縄文のヴィーナス』







後ろ姿のフォルムも簡潔で美しい。
この曲線こそが「女」の究極の美であると主張しているのである。




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 荒野人

信玄の棒道・・・その2

2011年08月20日 | 遺跡
信玄の棒道をさらに歩いた。
今度は、山を貫く棒道である。



改めて言う。
北信濃攻略を進めるため、軍団を速やかに送る軍用道路として信玄が造った道である。

山中の棒道は、石がごろごろしているのである。



八ヶ岳の西麓をほぼ真っ直ぐに通っている。

「甲斐国史」「甲斐叢史」によると、棒道は上中下と三本が造営されていた。
現在残っているのは、上の棒道である。
穴山から若神子新町、渋沢、小荒間を経て、富士見町を通り、大門峠に出て長野盆地へと至るのである。

この道が実際に侵攻のため使われたかは定かではないのである。
だがしかし、武田の最強軍団がここを行軍したことに異議を差し挟まない。



いまこうして棒道を歩くことは楽しい。
歴史を横に置いても愉快である。

甲冑の触れ合う音。
激しい息遣い。
兵たちの熱情。
旗差し物が立てる風の音。
叱咤激励する馬上の武将。
夜ともなれば煌々と燃える松明。



山道では、雨が降れば水が流れ落ち、行軍する兵達の足を掬ったであろう。
そんな時代を思い起こされる棒道である。

江戸時代末期、1丁(109m)おきに30数基の観音像(石仏)が置かれたため、この棒道が現在に残されているのである。






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 荒野人

信玄の棒道

2011年08月19日 | 遺跡
信玄は山梨の英雄である。
「戦国最後の武将」と称される。

この冠が、評価されてのものか、あるいは揶揄されているのか定かではないけれど・・・ぼくは美しいものと捉えている。



信玄の棒道は、武田信玄が北信濃攻略のために作った古道、軍用道路である。
上中下と三本の棒道があったとされている。



現在確認されるのは、一本だけである。



棒道は、基本的にまっすぐに造営されている。
山道である小淵沢から富士見市あたりでは微妙にカーブしている場所もあり、結構細い。



だがしかし、山を縫って通る道はロマンに溢れている。



現在では、その道を物見遊山の人々が踏み固めている。
かつては馬や雑兵が犇(ひし)めいて北信濃を目指した道である。



いまぼくは往時の馬の嘶(いなな)く声や、甲冑の金属音、さらには号令の大音声を聞きながら古道を歩いている。



この道には、武田騎馬軍団の息吹が満ちている。
後顧の憂いを無くし、京を目指しながらも上洛を果たせなかった武田の怨念も垣間見えるのである。

ぼくもまた、武田軍団の末裔である。
甲斐源氏の誇りを胸に畳みこんでいる。



棒道の看板にトンボが停まっていた。
とまれ戦国の時代に回帰できる道は、この信玄の棒道くらいのものである。



棒道の通っている道は、静謐の中にある。







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 荒野人

尖り石遺跡と与助尾根遺跡

2011年07月31日 | 遺跡
尖り石遺跡と与助尾根遺跡は、浅い沢を挟んで位置する。
どちらも縄文中期の遺跡である。

ここの遺跡からは土器が多数出土しているのである。
石器は少ないと、昨日紹介した。

土器の上部を注意深く観察すると、面白い造作が施されている。
その時代の人物観が現れているのである。



例えばこれ!



例えばこれ!



顔である。
とりわけ、目と口がデフォルメされている。

目力(めぢから)が求められていた時代なのであろう。
眼力で獲物を射すくめる力こそ勇者の印(しるし)なのであろう。
そう考えると、縄文とは楽しい時代である。



ムンクの「さけび」の様である。
顔を斜めにして叫んでいる。

両の眼は、夫々違う表現である。
あるいは義眼という発想があったのであろうか?



面白い表現方法である。
サルのような動物と水鳥のクチバシが記されている。

隠し絵のような、あるいはまた騙し絵のような表現である。
なんという表現力の確かさであろうか。

火炎土器も動的で面白いけれど、こうした土器も興味深いし、観察・洞察力の確かさが感じられる。
縄文人に敬服である。



沢を渡ると与助尾根遺跡である。
ここは住居が再現されている。

住居の周辺は、一面深い林である。
木の実をたっぷりと拾う事が出来る環境である。



緑豊かで、憩う事のできる木陰がふんだんにある。
それでいて住まいには十分な陽光を浴びせかけている。

住環境としては快適である。

尖り石遺跡は戦前から発掘されてきた。
集落遺跡は、東西170m・南北90mの範囲をU字形に巡り中央に広場が存在していたことが判明したのである。
これによって日本で最初の縄文時代の集落の存在が確認された遺跡となった。

歴史的な遺跡なのである。





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 荒野人

国宝・縄文のヴィーナスと重文・仮面の女神

2011年07月30日 | 遺跡
尖り石遺跡にある、土偶・縄文のヴィーナスは国宝であってほぼ完全な形で出土したのである。
土偶が破壊されずに出土するのは稀有である。

縄文人たちは、土偶に願いを込めて破壊して埋めたのである。
しかも何里も離れた場所にすら埋めているのである。



縄文のヴィーナスである。
間違いなく妊娠した女性である。

種の繁栄と健全な発展を祈ったのであろう。
膨らんだお腹、どっしりとした腰部、足。
全てが健康な女を表現している。



この展示館では、縄文のヴィーナスのストラップを安産のお守りとして配布した事があったそうである。
残念ながらいまその残りは無い。

ここ尖り石には、もう一つ重要文化財となっている「仮面の女神」がある。



仮面の女神である。
これもまた、基本的には完全な形で出土しているのである。



後ろ姿である。

こちらの土偶の方が重厚感はあるけれど、ぼくはやはりヴィーナスの方が好きである。
清楚にして簡潔なのである。



仮面の女神の出土状態のレプリカがある。
埋まっている間の土の重さで下半身が欠けているけれど、学芸員さんの話によると完全な形での出土状態であったという。

尖石では竪穴式住居跡33ヶ所をはじめ、53ヶ所の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘されたが、土器に比べ石器の出土が極端に少ないとされている。



これらは数少ない土器の一部である。
ここは縄文中期の遺跡であるけれど、焼畑農業が生業されていたのではないかと推測されているのである。



さて尖り石遺跡の謂れであるけれど・・・。



この石が「尖り石」である。
遺跡の南方向の斜面下にある。

何時の頃からか「尖り石様」と信仰の対象になっている。
注連縄が張られ、横には石の堂が安置されている。

不思議な一画である。

因みに、縄文のヴィーナスは「棚畑遺跡(縄文中期)」から、仮面の女神は「中ツ原遺跡(縄文後期)」からの出土である。
二つの遺跡とも、尖り石遺跡の近くである。
大事なことなので付記しておく。





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 荒野人