エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

甲斐源氏・武田氏の故郷、谷戸城址

2011年08月31日 | 遺跡
甲斐武田氏の祖、清光の居城である。



典型的な山城である。
いまはもうその雄姿を見ることはできないけれど、土塁が残っていて往時の「よすが」を探せるのである。



城の頂上へと入り込む麓である。



土塁は、まさに曲輪跡である。



谷戸城は吾妻鏡にみえる「逸見山」に比定されており、甲斐源氏の祖とされる逸見清光の居城とされている。
地元ではこの山を城山と呼んでいるのである。



『吾妻鏡』の治承4年(1180年)9月15日条に拠れば、武田信義ら甲斐源氏一党は源頼朝の挙兵に際して「逸見山」に集結し頼朝からの使者を迎えたとある。



源頼朝の挙兵を記憶する場所でもあるのだ。



谷戸城一帯は、国の史跡として保全されている。
林を造成して山を守ろうとしている。



それなりに下草も刈られている。
この城跡の二の曲輪から、八ヶ岳が望める。



立地の良い山城であったことが偲ばれるのである。
吾妻鏡に記された谷戸城である。






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 荒野人

道の上で

2011年08月30日 | ポエム
ぼくの道は、迷路になってしまった。
今の今まで真っ直ぐであったはずなのに・・・。






        道


      途切れることない一本の道
      往古の息吹が色褪せることなく充満して
      ぼくはそれに噎せ返った
      あるいは金属音であったり
      あるいは衣擦れであったり
      あるいは生臭い芽吹きであったりする
      時として
      男と女の肌が触れ合う熱であったりもする

      道は黙して語ることもなく
      ただ
      静謐の中に時間を確実に刻み続ける

      錯覚かと思った
      深い林の道の彼方から
      木霊が響いた
      この道で語られた歴史という実在に
      木霊が共鳴したのだ

      道は語らない
      道は語らなくとも良いのだ
      道は静かな存在である
      と

      道には様々な貌がある
      けもの道
      水の道
      人の道
      うら道
      街道
      新道
      古道
      ぼくはいま堂々廻りしている

      道の上で
      ぼくは彷徨っている
      道はひたすら沈黙しつづけている






水の道の傍に寄り添って人の道がある。
歩いていると、せせらぎの音と水が放つ清冽な気体が人を包むのである。



だから爽やかな道となる。



水の道である。



ぼくの道は、一体いつになったら前に開けるのだろうか。





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 荒野人

甲斐源氏のルーツを訪ねて

2011年08月29日 | 日記
甲斐源氏発祥の地、が寺院として残っている。
清光寺である。
所在地は北杜市・長坂町である。



甲斐源氏・・・戦国末期に武田信玄の後継者・勝頼が天目山で自刃して滅びた一族である。
中央高速道路を走っていると大月の手前に岩殿トンネルがあるけれど、その頂上に武田の悲哀が語られている。



岩殿山の頂上には、岩殿城の遺跡が残っている。
天正10年(1582年)に織田軍が甲斐に侵攻したときに小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を拒否、進退に窮した勝頼は天目山で自害したのである。

天目山に死す。
武運尽き果てた戦国の雄・武田は、かくて滅びたのであった。



清光寺の鐘楼である。
鬼瓦に武田菱がくっきりと刻印されているのである。



境内に入ってすぐ迎えてくれる観音像である。



山門の武田菱である。
誇らしげに金箔が押してある。



寺は深い森に包まれている。
一般道から、一つ奥に入った場所である。



自然の中に佇むといった按配である。



参道から望む景色である。



武田氏の祖は、清和天皇皇孫の流れをくむ鎮守府将軍・八幡太郎義家の弟新羅三郎義光である。
義家、義光兄弟は陸奥国で豪族の阿部一族などと「後三年の役」を戦った。
義光は乱を平定した後、常陸介(ひたちのすけ)、甲斐守(かいのかみ)を歴任し、常陸、甲斐で子孫を扶植し、それぞれ佐竹源氏、甲斐源氏の基となったといわれる。



武田家は名門中の名門なのである。



新羅三郎義光の孫である源清光も甲斐を支配した。北杜市長坂町の清光寺は、清光が菩提寺として創建し、その近くに居城として谷戸城(国指定の城址)を築いたことでも知られる。



この城跡は、北杜市に残されている。
改めてこの城跡は紹介する予定である。

清光の長子光長は逸見筋(北杜市)を領し、逸見太郎と名乗った。その双生児である信義は、甲斐源氏の統領を継ぎ、武田太郎信義を名乗る。これが甲斐武田氏の始祖とされる。

従って、清光の墓は多くの親族の石碑に囲まれているのである。



これが清光の墓である。



武田信義をはじめ甲斐源氏一族は、世に有名な源平合戦のきっかけとなる「以仁王の令旨」に呼応して、谷戸城において平家追討を決議。富士川の合戦での圧倒的な勝利を皮切りとして、源頼朝や義経とともに華々しい戦果をあげ、鎌倉幕府創設の原動力となり、天下に名をとどろかしたのであった。
ついには甲斐源氏は甲斐、駿河、遠江の三国を領有した。
しかし信義らは、権力独占を目指す頼朝の謀略により憤死し、歴史の舞台から消えた。

源平の時代から武田の軍団は関東平野を疾駆していたのである。



甲斐は京都から遠く、宿命のライバルである上杉謙信との12年間、5度に及ぶ信濃・川中島合戦は、信玄絶頂期の貴重な時間を奪ってしまった。
川中島合戦に区切りをつけ、1572年京都に向けて進軍し、織田信長の包囲網を構築しつつ三方ヶ原合戦において織田・川家康連合軍を完膚無きまでに撃破するが、まもなく病魔に倒れ、翌年4月12日に死去。甲斐源氏の天下取りは見果てぬ夢となった。



武田信義をはじめ甲斐源氏一族は、世に有名な源平合戦のきっかけとなる「以仁王の令旨」に呼応して、谷戸城において平家追討を決議。富士川の合戦での圧倒的な勝利を皮切りとして、源頼朝や義経とともに華々しい戦果をあげ、鎌倉幕府創設の原動力となり、天下に名をとどろかした。ついには甲斐源氏は甲斐、駿河、遠江の三国を領有した。しかし信義らは、権力独占を目指す頼朝の謀略により憤死し、歴史の舞台から消えた。



苔むした石塔が、昔を今に語っているであるのである。

勝頼の妻の辞世の句である。

  「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」

女性の美しい黒髪が乱れるように、世も乱れきっていて、いま主人を思う私の心も、露のように流れ落ちて消えようとしています。



ぼくもまた甲斐源氏の末裔の一人である。



戦国の習いの虚しさが伝わってくるではないか。




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 荒野人

信州・原村の自然

2011年08月28日 | 旅行
原村はペンション発生の地である。
いわばペンションの聖地であって、豊かな自然が人の生活と共生している。



グーグル・アースで行ってみると、ペンションが点在している。



ここでは、野生の鹿やキツネ、てふてふや甲虫などの昆虫が生息する。
垣間会えるところが良いのである。



ペンション村の奥に「まるやち湖」がある。
人造湖であるけれど明鏡止水と言って良い佇まいである。



湖畔の白樺林や、八ヶ岳を湖面に映すと際立った静かさが満ちてくる。



また一見の価値ある「八ヶ岳美術館」が深い林の中に静かな時間を刻んでいる。
エリア内には「信玄の棒道」も通っている。



美術館の入り口である。



ありのままの植生が目を楽しませてくれる。
受付を済ませ一歩足を踏み入れると、日常生活から解き放たれ熟成された空気と豊かな彫刻群が出迎えてくれる。



窓から差し込む光がうまく調整され、穏やかな光に満ちているのである。
美術館のぐるりには彫刻が配置され、自然へのプロローグが奏でられるのである。

一度訪ねてはいかがだろうか。



点在する彫刻群が楽しいのである。



散策に疲れたら「もみの湯」でリラックスできる。
かけ流しの露天風呂が良い。

何よりも職員が、楽しい。
無駄話もできる雰囲気が良いのである。



ぼくは、八ヶ岳の麓に出かけると毎晩この温泉にドライブがてら出かけるのを常としている。
グーグル・アースに表記されている場所である。



原村では、空と雲がその季節を演出してくれる。
空の広さが良いのである。



安曇野近在にある道祖神が可愛い。
これは湖の湖畔に立っていた。

盛り沢山の原村である。





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 荒野人

みどり湖・・・ひっそりと

2011年08月27日 | 日記
どこにでもありそうな、みどり湖が八ヶ岳の麓にもある。
それもなかなかに湖面のきれいな湖である。



小さな小さな人造湖である。
湖畔を映す水面は静謐である。
そこに八ヶ岳も反映されている。

看板の下に「信玄原」と書いてある。
そこかしこに武田信玄が生きている甲州である。



水草のゆらぎ。
睡蓮の咲き終わった緑も爽やかである。



光を反射する湖面はモネの描く湖のようでもある。
乙女たちが水遊びしていても可笑しくはない気配を湛えている。



終生「印象主義」の技法を追求し続けたモネらしい作品である。



彼がモネである。
クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)印象派を代表するフランスの画家である。

別名「光の画家」とも呼ばれた。



みどり湖の光と影である。



湖畔に咲く夏水仙である。
ヒガンバナ科である。

時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であったモネが、この湖を見たら創作意欲が湧くだろうか?



「みどり湖」である。
この近辺では長野県の諏訪湖の先、塩尻の手前にやはり「みどり湖」がある。

因みに、印象派の画家としては「ルノワール」「セザンヌ」「ゴーギャン」「マネ」「ドガ」がいるけれど、一家をなして以降、印象派を離れるのである。




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 荒野人