今日がいよいよ、最後になる。
實俳句の海へ、たびたびお尋ね頂いた皆さんに感謝申し上げるものである。
ご夫妻で高尾山に出かけられた時のショットである。
2008年11月26日とある。
實さんは、謹厳実直を地でいっている。
往年の歌手のように、両手を両サイドに下し、直立する風情である。
夫人は一寸離れて、斜に構えつつ寄り添っている気配がある。
實さんは、少し口を開けようとしているかのようにも見える。
カメラを構えた人に「もう少し、リラックスして!」とでも言われたのだろうか?
あるいは「もう少し奥さんに寄って!」とでも言われたのだろうか?
微笑ましい一枚である。
實俳句
「墨絵その色彩との会話」
Ⅳ 冬 冬銀河
寒月の光の刃音澄めり 實
寒月は鋭くも寒い。
その鋭い寒月の光を刃と見、音は冴え返っていると詠んでいる。
冬の季語を巧みに内包させつつ詠まれたのである。
その重なりが、より一層大気の冴えを体感させる。
音澄めり、で極まる月の光は煌々と読み手の内部で発色する。
云いたいことが多すぎるけれど、巧みな俳句で読み手を納得させる。
はなやぎも侘しさもあり寒椿 實
そもそも寒椿とはそうしたものだ。
侘びしさもあり、華やぎもある。
しかしながらその当たり前の事柄を、赤い椿の花弁で表わした實さん。
この句の周辺をもう少し歩かないとぼくには読み切ることが出来ない。
ただ、言えることがある。
侘びも華も、赤く発色してこそのものであるということだ。
冬桜光離さぬ二三輪 實
冬桜は何種類かあるけれど、いずれも楚として咲く。
咲き初めは、正に二三輪が、あえかな桃色に咲くのである。
小さな小さな花である。
そう、あたかも太陽に光を抱き抱えるように咲き染めるのだ。
その「いたいけな姿」にぼくたちは感動する。
一度捉えた光は決して離さない。
その花の意思が感じられる、暖かい視線の俳句である。
半月の透き通りたる寒さかな 實
中空にかかった半月。
それは下弦の月であったに違いない。
一度下弦の月に留まった大気の流れが、まるで透き通るように落ちてきた。
それが冬の寒さの本質だと言っているのだ。
月の金色の灯りと、寒さの透徹された灰色。
半月は人をその峻烈な世界へと誘うのだ。
Ⅴ 新年 日記買う
どんどの火風起こるたび輪のゆがむ 實
どんど焼き。
どこの農村でも見られた風習である。
今でも新年に田園を歩くと、準備に余念のない子供が田んぼを行き交っている場面に出会う。
子供の鋭く響く声が向こうの山に谺して、農村が生き生きと蘇って来る。
藁が高く積まれるのだけれど、その積み方は地方地方でみな違う。
實さんの生きた街でも、どんど焼きがあるのだろう。
薄暮の中で、どんどの陽が揺らぐ。
赤くちろちろと舌を出したように燃え上がる。
命の炎である。
去年今年ゆれはじめたる父の椅子 實
年を越える。
嗚呼、また齢を重ねた。
私はこうして生きているのだよ。
父の椅子が、どんと座っている。
父の意思でもあるかにように。
でも、その父の椅子が揺らいで見える。
どうかしかし、まだ生かしてくれよ。
まだまだ詠みたらないのだ。
そう實さんは父の椅子に向かって一人ごちている。
稀有なほどモノローグの俳句である。
年酒受け素直にいのち惜しみけり 實
年の酒は、ほどほどが礼儀。
下戸の實さんにとって、年酒は心地良いたしなみであったに違いない。
年の初めだけ、少しだけ嗜む。
それも心地良い。
現在生きていることの証。
これからも、まだまだと言う決意の一献だったに違いない。
素直に嗜まれた年酒の思い出は尽きない。
おわりに
大先輩の實さん。敬意と親しみをこめて、安らかならんことを祈るものである。
また、この遺句集を「読むように!」といって、手渡し頂いた主宰に感謝申し上げるものである。
實さん!
そう呼びかけさせて頂きたい。
素敵な俳句を遺されましたね。
できることなら、ぼくもまた後輩に「先輩!素敵な俳句を遺されましたね」と言われてみたい。
切実にそう思っています。
ぼくの俳句修行は始まったばかりであります。
ぼくの机の窓からは、お隣の屋根と、少しの空が見えるだけです。
この小さな窓から、遊弋する雲を眺めつつ筆を置くこととしたい。
謹んで哀悼の誠を捧げます。
なめらかな和紙に向かえり猫柳 野人
緑さす墨絵の世界の色ひとつ 野人
最後に由利主宰の色紙
を紹介して終わりにしたい。
合 掌
荒 野人