エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

リラ冷えの街

2017年04月30日 | ポエム
明日から、五月である。
今年の立夏は、五月五日だ。

ぼくのリュックの歳時記は、春と夏の二冊である。
昨夜は、いきなり雷が鳴り響いたけれど雨は大した事は無かった。
その雷鳴の中で、夏の歳時記を滑り込ませたのである。
自転車のサドルに、雨滴が二三粒。
遠慮がちに濡れていた。



公園の一隅に、いつも早々と咲く「ライラック」が数本ある。



何とはなしに、見に出かけたのであった。
咲いていると、ウキウキしてくる。
ワクワク感が横溢して、叫びたくなる。

リラ・・・そんな花である。







「リラ冷えの街でスキップ踏みにけり」







やはり咲いていた。



ひっそりだけれど、しっかりと存在感を示している。
近頃では、鉢植えではなやさんが売っている。
味気ないけれど、それでも花は可愛らしい。



ピンクの丸い玉になって咲かせる木、もある。
人は、かそけき希望を見いだすのである。

季節は夏隣。
間もなく、夏なのである。



     荒 野人


四月句会が終った

2017年04月29日 | ポエム
今月最後の句会が終わった。
俳句結社「繪硝子」の、ふうの木句会である。
世話人は、俳誌の編集長である。
句会の指導は、和田主宰である。

主宰は、横浜にお住まいだけれどここ練馬まで足を運んで下さる。
助詞の使い方、仮名遣い、切れ字など丁寧にご指導頂ける。
文法、さらには旧仮名の用法など指導頂けるのは有り難い。

今月の句会では、主宰から一句選を頂いた。
少しだけれど、この結社の句風に馴染んできたのかもしれない。
五月号では、会員の繪硝子集で巻頭の次席を頂いた。
巻頭迄あと一息、である。

来月は、繪硝子の一泊吟行会がある。
中旬には、句友の行く句会に顔を出す事にしている。
そこは結社の句会ではなく、超結社の句会である。
これはこれで、楽しみである。

なんだか近況報告になっているけれど、今日「傾聴ボランティア講座」が修了した。
四月いっぱい、毎土曜日には勉強に通った。
修了書を頂いた。
5月・6月の二ヶ月間は、毎金曜日に認知症サポーターの勉強に行く事にしている。
学ぶ事で、社会貢献に足を掛ける。
その準備の学びである。

ベースとなる句会は、第四金曜日である。
5月・6月の句会は、欠席となる。
講義があるからである。



さて、昨日の句会で句座を共にする先輩のご逝去が正式に知らされた。
享年89歳というから、まだお若い。
けれど、繪硝子の同人であってぼくも尊崇の気持ちでお会いしていた方である。
たまさか、句会の前日に俳誌が届いてご逝去の報に触れていたのだけれど・・・。
句会にはご子息も出ておられ、そのご子息からの最後の様子が語られた。
黙祷を捧げ、句会を始めた訳である。



ぼくは、ご子息に前夜に認めた手紙を渡した。
句座を共にする句友への鎮魂の気持ちを、認めたものである。
そこに、追悼句を三句墨書して同封させていただいた。
お渡しする時に「御霊前に捧げて頂ければ嬉しい!」
と一言だけ、添えたのであった。







「すかんぽや従容として旅立てリ」
「結社誌の訃報の囲み春の果」
「三界に別れ告げたり鳥雲に」






酸いも甘いも噛み分けて、温かな俳句をものにされた先輩である。
結社の俳誌の囲み記事に、はっとしたのであった。
時、あたかも春の終わりである。
ただお亡くなりになった時には、花万朶。
通夜、告別式の時には花吹雪であったとご子息が仰った。
女三界に家なし、と云う。
そんな時代も俳句とともに生きてこられた、幸せな生涯であったのだと「三界」のぼくの万感の思いを込めさせて頂いたのであった。

ともに俳句を学んだ仲間が、彼岸にゆくのは寂しい。
なんだか、自分の事のように思えてくるのだ。

季節は、夏隣。
風立つ候、である。
風立ちぬ、いざ生きめやも!



句友に、静かに合掌。



      荒 野人

因に、上の二枚の写真は「母子草」。
ご子息に敬意を現した。
下の三枚の写真は「白花蘇芳」である。
白の花蘇芳は、逝去された先輩への鎮魂である。

久闊を叙す

2017年04月26日 | ポエム
何故かし知らねど、随分と長い間更新を失念してしまった。
身辺の、凄まじいほどの変化に対応している内に失念してしまったのである。

曰く、新しい結社での句作への取組。
曰く、ボランティア活動参加の為の各種講座。
曰く、新しい句友との交歓。
曰く、その為の学ぶ時間。

そういった細々であった。
気がつけば、季節は移ろい「夏隣」となっている。

句が詠めなかった訳では無いのだけれど、新しい結社の句風を考慮しつつ時間が過ぎ去っていったと云う訳でもある。
余りの長きに亘ったからでもあろうか、ここのところブログの訪問者は皆無に近い。
至極当然、である。

来月は、一泊で結社の吟行がある。
信濃行、である、
来月いっぱいと、六月にかけて認知症の講座があって其処にも出席して抗議を受ける。
いまは、それとなく「認知症サポーター」の自覚はあるけれど・・・。
きちんと、学び直そうと思っているのである。
二月間の講義の後、ボランティア活動を始めたいと思っているのである。

俳句の道は、生半可なことでは済まされないけれど・・・。
自分の老後と、家族の幸せを精神世界でも良いから担保したいと思うのである。
生きる事の証左としての俳句であって良いのだ、と思うようになっている。



それにしても、長い間更新を怠ってきた。
句が、哀しいほど乱れた期間があって今に至っている。
ここ二ヶ月ほどは、結社の主宰からお誉めにあずかる句が出来つつある。

ようやく、踏ん切りがついたと云うべきであろう。
句作は、所詮自分の責任であって他者の成せる業ではないのだと知った。
「サイコパス」的人物を、見抜けなかった自分の愚かしさを反省しつつ・・・。
改めてブログを再開したいと思うのである。

明後日は、今月最後の句会である。







「気がつけば何もかも消え夏隣」







そんな心境、である。
夢のように過ぎ去った春である。
しかし、万朶の桜も見た。
花吹雪も浴びた。
花筏も愛でた。
桜蘂の散る様も眺めた。

翁草を賞嘆し、二輪草のいたいけな姿に儚さと希望を見た。
蓮華草は、穏やかにいつものように揺れていた。
花水木が雲を成し、ぼくはやがてその葉に隠れた。
ムスカリは群れをなした。
蒲公英はやがて絮になって飛翔した。
ハナズオウは、知らぬ間に幹に吹き出しやがて葉を成した。
苧環は肢体をくねらせ、万華した。
黄水仙はとうに終った。
犬フグロも片鱗すら無い。
ライラックは、街を冷やしている。

青き踏む感覚は、ペーソスとなって散華した。
リラ冷えの街、である。
しかし、夏隣であるのだから。



     荒 野人