エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

枝の先

2018年02月09日 | ポエム
枝の先が赤らんで、春の兆しを見せるのだ。
冬の空から、春の空への移ろいを強く感じる刹那である。



雲の汚れ無き白さが際立たせる、木の芽である。
もわもわとしながら、命を感じさせる靭さがあるのだ。

命が萌え出す、のだ。



命の連環。
そこに、人は共感するのである。







「もわもわの命の靭さ木の芽かな」







しばらく見入った。
木のベンチの座り心地は、頗る良かった。
寒波と雪害で苦しむ北陸の方たちと、この暖かさを分かち合いたいのである。

今週末は雨だと云う。
暖かい雨であると云う。

だがしかし、雪の上に降る雨は辛い。


      荒 野人

梅一輪

2018年02月08日 | ポエム
我家の鉢植の梅が咲いた。
実は、もう大分前から咲いている。

我家に来てから、この鉢植はそろそろ五年。
毎年咲いてくれる。
いとおしい梅である。



四年ほど前に、一輪づつ咲くのが作法!
と、詠んだ事がある。
いま思うと、そんな風に作法を決めてしまっては梅が可哀想だと思う。



一輪だけれど、楚として匂う。
匂いおこせよ梅の花・・・。
主のいない茅屋でも、梅の花は咲く。

しかも、季節を違えることもない。
自然の摂理を踏まえた梅の花である。







「梅の花熾してならぬ匂ひかな」







梅は、当分詠み込むことが出来る。
そうこうしている内に、桜が咲き初む。

だからこそ・・・。
梅が香は、間違いなく春の到来である。
風呂上がりの匂い、である。


      荒 野人

寒椿

2018年02月07日 | ポエム
寒椿は、誠に楚々としている。
その印象は、花の小ささによるものかもしれない。
一昔前・・・トランジスタ・グラマーなんて云う言葉があった。



寒椿の花は、小さいけれどメリハリがあってキレが良い。
過日の雪の中でも、咲いていた。
耐えると云うより、雪を愉しむ気配であった。

山茶花との違いは、花ごと落ちると云う事。
山茶花は、花びらを散らす。



寒椿は、花を落とすのである。
だから、武家では家中に植えない。
縁起が悪いからである。
例えば、無花果を植えない事と同じ意味合いである。







「寒椿画布は選ばず落ちてゆく」







あの大雪の日、寒椿は白い画布に向かって落ち続けた。
なんと云う愛おしき花、なのであろうか。



ぼくの近在の公園には「薮寒椿」も数本ある。
佇まい、或いは居住いがくっきりとしている。

そこに、哀れとか儚さを強く感じるのは至極当然なのである。



寒波は、まだまだ日本列島に居座っている。
春が立った、と云うのにである。

人は、身体中の先端の冷たさに閉口している。
日向ぼこの恋しい日々が、まだ続く。


      荒 野人

マンサク

2018年02月06日 | ポエム
まんず咲く!
だからマンサク、と云うのだとか・・・。
冬枯れの林の一隅で、密やかに目立たぬように咲いている。



マンサクは、山の中でも先ず最初に咲く。
春の到来を告げるのである。



木によっては、葉を落としきってから咲く。
このマンサクは、葉をたっぷりと残している。
シナマンサク、である。



秩父の蠟梅園の西園が満開だそうである。
東園は、3〜4分先と云う。
その蠟梅園の入口にあるマンサクは、満開であるらしい。

日本列島は大寒波に見舞われているけれど、植物たちは春を感じている。
彼らは敏感、であるのだ。







「マンサクの葉の落ち残る日向かな」







季節が大きく変わる候、である。
健康に留意しなければなるまい。


      荒 野人

スノードロップ

2018年02月05日 | ポエム
スノードロップは「スプリング・エフェメラル」である。
春の妖精、といった印象が確かにある。
何より、他の花に魁て咲いてくれる。



可憐にして純情な色。
白、である。
白と云ってしまえば、それだけで終わりだけれど・・・。
「生白き牝鹿」の花である。



この花は歳時記にも載っているのだけれど、例句は少ない。
厄介な語数、意味合、更には在来種にない洋装で存在する事であろうか。







「生白きスノードロップ生きる事」







ぼくは、この花を見ると昭和記念公園に出かけたくなる。
砂川口から入って、池に出る。
その池への突き当たりを右折して、暫く進む。



木陰に、この花がしっかりと咲いているのである。
その場所の右側には梅林があって、梅の木の下には福寿草が微笑んでいる。

春。
生きる事を謳歌する季節の到来、である。


     荒 野人