エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

台湾の合歓の花

2013年01月31日 | ポエム
台湾の街角で赤い、ブラッシの花が咲いている。
けれども「ブラッシの花」とは違う。
花序の咲き方では無い。



赤く一輪の花が点々と咲いているのである。
何処からともなく「あれ、合歓の花じゃあないの!」

だがしかしぼくは「違うんじゃないの!」と答えた。
ぼくのイメージの合歓の花とは違っているのであった。



でも・・・合歓の花であった。
ぼくのイメージは「緋扇を重ねて床し合歓の花」であって、ポツンポツンと咲く花じゃあない。



この黄色は、キンポウゲ科の花である。
名前は何度確認しても忘れてしまう。



ブーゲンビリアである。
やはり南の国である。



これはホテルのフロントである。
なかなか素敵なホテルであった。



ホテルの通り向こうにはお寺があった。



金ぴかの光り物が好きな民族である。
それはそれで微笑ましくも敬虔な民族の証である。






「八角の匂いの流る初松籟」



「初髪や初老の婦人の言葉美し」







今年の初詣は、この寺院となった。
無宗教を任ずるぼくとしては、それはそれで良い事柄ではある。

一時でも、頭を垂れる心穏やかな祈りの時間過ごせたからである。



寺院では梅の花が満開であった




          荒 野人

台湾でほっこり

2013年01月30日 | ポエム
台湾の健康グッズは実に様々である。
日本の場合も、同様であるけれど台湾の場合は、そのアイテムのランクが高いのである。



そのアイテムを見ているだけで「癒され」るのである。
台湾は癒しの島国かもしれない。
海峡を挟んで一触即発の危機的状況であるとか、いやいやそうではないとか中国政権と主権の帰属問題で揺れている。
国連は大陸側を正式政権として認知している。
日本など国連加盟国はなべて大陸側に立っている。

だがしかし、台湾の親日的な対応は目覚ましいし、際立っている。
最近、尖閣列島を巡って台湾とも軋轢が生じているけれど、話し合う土台が有る分台湾の方が付き合いやすい。



台湾の街中を歩いていて感じることだけれど、刺々しさは無い。
白い目で見られることも余程でない限り無い。
中国では、時として「小日本鬼子(シャォ・リーベン・クィズ)」的な視線に出くわす事がまま有るのである。



とまれ、両国は一衣帯水の隣人であり友人である。



食いものだって、口に合う。
注・・・香菜(シャンツァイ)は苦手だ!!

さて、ぼくはこのたびの台湾旅行でマッサージ用のアイテムを数セット買い求めた。
句会の友人やらからまつの由利主宰に差し上げた。

自分でも1セット確保している。



これが誠に気持ちが良いのである。
輪になっているのは背中を掻く。
柏餅風なのは、フクラハギだとかリンパ腺を刺激する。



これらは全て木製であるから、肌に優しいのである。
とりわけ背中用は、自分では普段出来ないのであるから、ゴリゴリすると(やってもらうのだけれど)天国に上る気分である。
輪っかに着いている3つの突起が絶妙なのである。

こんな風なマッサージをお互いにし合っている台湾の家族は、円満であることを受け合うものである。
夜ともなれば、ほっこりしているのであろう。







「疲れたと背中掻き掻き夜長かな」







豊かな自然と、心優しい人々。
一木一草に敬意を表する。

台湾は美味し島である。
こうしたアイテムや街の風景から伝わってくる気配は、穏やかである。




            荒 野人

城址を歩く・・・2

2013年01月29日 | ポエム
岩槻城である。



その池には、赤い橋が架かっている。
縁起の良い色である。



この池には飛来した鴨が泳ぐ。
いやいや、浮寝鳥もいる。



手前の鴨はすっかり寝てしまった。
首を縮めて、動きを停めている。
厳冬の季語「浮寝鳥」である。



市民の憩いの場所となって久しい。
石のベンチには、すっかり苔が蔓延(はびこ)っていた。



なかなかに雰囲気のある佇まいであって、ベンチが座るとは限らない世界の流れに沿っている。
例えば、ガウディなども座れないベンチをデザインしている。







「苔むせば時間の流れ凍りたる」



「浮寝鳥静謐溜めこみ時停めぬ」







上が裏門。
下の写真が黒門である。

そう、ここは城址公園なのである。


       荒 野人

初富士は赤富士

2013年01月28日 | ポエム
東久留米から望む富士山は誠に美しい。
その地で句会に参加するのは楽しいし、気持ちの良いことである。

西武線沿線の富士見テラスは、正しく東久留米駅に設置してある。
ついこの間は、ダイヤモンド富士で喧しかった。

句会に参加する何人かも、テラスまで見学に出かけたという。
素晴らしく美しかった・・・だと言っている。
羨ましい限りである。



国道17号線沿いの笹目橋上から、あるいは目白通りの埼玉県寄りの路上から富士山の姿は垣間見ていたけれど、昨日はしみじみと富士山を眺めた。
ぼくにとって、今年の初富士である。



しかも、その初富士は「赤富士」であった。
落日の赤味が鮮やかであった。







「稜線の赤く燃えたる初の富士」







富士山を詠うのは難しい。
富士山が偉大だからである。



昨日も鮮やかな雲と空を詠ったけれど、今日の夕景の空と雲も素敵だった。



東久留米の富士は、存在感のある雄姿である。



それは山々を従えているからである。
言い換えれば、聳え立っているからである。



      荒 野人

冬の空の澄み切って

2013年01月27日 | ポエム
冬の空は澄み切って見える。
まさしく「凛冽」の大気の賜物である。

昨日は終日空と雲しか観ていなかった。
くどくてごめんなさい。
雲は天才である!
石川啄木の言葉である。



昨日の空と雲は、あのヴァチカン市国のシスティナ礼拝堂の壁画のような色合いで、敬虔な気分へと誘う。



ミケランジェロの「最後の審判」である。
この絵は、洗われて空の色が蘇った。

残念ながらぼくは洗う前にこの絵と出会った。
それでも素晴らしい色彩感覚とおそるべきデッサン力であった。



上の表現は、アダムが神から指先を通じて力を貰っているところである。
この絵は天井画の一部である。

昨年の夏、ぼくは体調を崩してこの絵と出会う機会を逸してしまった。
今年こそは出かけたいと思っているのである。

さて、昨日の空と雲である。
こんなに空が素敵で良いのだろうか!!
東京の空も綺麗になったものだ。
その感慨に捉われて、不覚にもしばし呆然としてしまった。



多角的、重層的に雲が重なって空に深みを与えている。







「冬空や湧き出る雲行方無く」







このように、雲が湧き出でる冬の一日。
比較的暖かいのだと知れる。

冬日向であり、日なたぼこのお日和である。
陽だまりにある「ふらここ」に揺られ、鼻歌など唱ってみたいものである。



        荒 野人