エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

侘助

2016年12月31日 | ポエム
仄と侘助。
侘び寂びを体現したかのような、秘めやかな咲き方である。

茶室などに、好んで活けられる。



この赤くささやかな明るみが、好まれるのである。
この侘助が、一輪挿しに生けられている風情を想起してみれば良い。



実に淡いではないか・・・。







「侘助やすまじきことの多すぎて」







ぼくは飽きること無く、この「一子侘助」と一体化している。



深紅の侘助。
淡淡とピンクの侘助も良いものである。



侘助もまた、やはり真青な冬空が似合う。
そうだ、この時期の花は真青な青空が良く似合うのだ。

梅もそうだ。
梅と云えば、長女が引っ越しの時に残していった白梅が開き始めた。

我が家も新たな年が来そうな予感が・・・する。
明日は『大晦日」だ。
穏やかな三ヶ日であると、予報されている。

初詣に、出かけてみようか。
除夜の鐘が鳴る頃に。



     荒 野人

蠟梅

2016年12月30日 | ポエム
そうなんですよ・・・。
もう蠟梅が咲いているのです。



しかも、甘い香りを放ちつつ。
実に、けしからぬ佇まい。
あまりにも、人の気を引くのです。



思わず、匂いに誘われてしまい我を忘れそうになってしまうのです。
蠟梅は、咲くと同時に朽ちてゆく。
まず最初に、花弁が茶色になって饐えてゆくのである。

花の盛りは、あまりにも短い。
その短さの中に﨟長けた美しさを秘めているのである。







「蠟梅や目尻の端の素とにほふ」







ソシンロウバイである。

ぼくは思わず、引き寄せ口づけた。
手に触れる刹那、蠟梅は震えた。



それが風によるものなのかどうか、分からない。
或いは、人の邪な気配に震えたのかもしれない。



そうであったとしても、限りなく嬉しい。



     荒 野人

霜柱

2016年12月29日 | ポエム
まことに寒い。
今年も、後三日で暮れゆく。
何かの名残を・・・。
引き摺っては、ならない。
そう思うのだ。

だが、人の煩悩は尽きる事は無い。
108の煩悩を祓う、除夜の鐘。
教義とは、実に巧みである。



朝、いつもの散歩道をゆけば霜柱が煌めく。
寒いのだ。







「そぞろゆけばあるかなしかの霜柱」







ひたすら歩く事で、ぼくは健康を維持しようとしている。
とりわけ食後の運動がひつようなのだけれど・・・。
なかなか、そうはいかない。



霜柱を踏みつける、そんな喜びを見つけなければなるまい。
まだやり残した事が・・・ある。



     荒 野人

チャイコフスキーを聴く

2016年12月28日 | ポエム
フォイヤーベルグ交響楽団の定期演奏会があった。
プログラムは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調。
それに、交響曲第六番ロ短調「悲愴」である。

スラブの「重い快活」と「悲しみ」がぐっと詰まった二曲。
堪能した。

この楽団は、東京大学と一橋大学などの在学生と卒業生とが渾然一体となっている。
実力は、職業交響楽団に劣らない。
少し難を云えば「木管楽器」の音色に破綻が・・・。
だがしかし、金管楽器は見事である。

もっとも、木管楽器の音色の破綻は楽器としての特色であるのかもしれない。



ぼくは、マエストロが登壇する前の『チューニング」の雰囲気が大好きである。
その音色も大好きである。
このチューニングの音色で、その楽団の力を推し量ることも出来る。
オーボエから始まり、コンマスに会わせる弦。
その絶妙な兼ね合いが、大好きである。







「クリスマス舞台の裏からコルネット」







来年も、この楽団を応援しようと思う。
賛助会員として年会費を納める。
当然の行為である。

この楽団は、浄財とコンサート当日のカンパで成り立っている。
けれど、応援のしがいのある楽団である、

年末の、しかもクリスマス・イブのコンサートであった。
まだ温かさの残る夜道を、心豊かに帰宅したものであった。



     荒 野人

時ならぬ

2016年12月27日 | ポエム
昨日あたりから、寒さが戻ってきた。
冬なのだから、当然の寒さである。

このところ、南風が吹いて日本海側はフェーン現象によって温かかった。
南風が、不幸を運んできたのであった。

「冬至なのに春一番」が吹いた。
そう隣の未亡人が・・・仰った。

ぼくの敬愛して止まない詩人・・・西脇順三郎の詩を紹介しよう。


『Ambarvalia』から
   ギリシャ的叙情詩


    天 気
   (覆された宝石)のやうな朝
   何人か戸口にて誰かとさゝやく
   それは神の生誕の日。


    カプリの牧人
   春の朝でも
   我がシゝリアのパイプは秋の音がする。
   幾千年の思ひをたどり。


    雨
   南風は柔い女神をもたらした。
   青銅をぬらした、噴水をぬらした、
   ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
   潮を濡らし、砂をぬらし、魚をぬらした。
   静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
   この静かな女神の行列が
   私の舌をぬらした。


まだ続くのだけれど、岩波文庫に詩集としてリリースされているから読んでほしい。
西脇順三郎は、柔らかな女神の行進として南風が齎して雨を表現した。

けれど、糸魚川火災を始めとする多くの火災は南風によってもたらされたのだ。
西脇先生、南風は柔らかい雨を齎してはくれなかった・・・。
大災害を惹起してしまった。

西脇先生、南風は少しも柔らかく無かったよ!

昨日あたりから、寒さが舞い戻ってきた。
ぼくは、ネッグ・ウオーマーを着用して外出している。
手術痕が痛むのである。







「階梯や冬の陽射しの落ちている」







詩を紹介するブログとなった。
会わせて、近頃のぼくの心境を詩人の力をお借りして表現したい。


「秋の瞳」から
    八木 重吉


  つかれたる 心
 あかき 霜月の葉を
 窓よりみる日 旅を おもう
 かくのごときは じつに心おごれるに似たれど
 まことは
 こころあまりにも つかれたるゆえなり


  かなしみ
 このかなしみを
 ひとつに 統ぶる 力はないか


  死と珠
 死と 珠と
 また おもうべきか 今日が きた


流石、珠玉の言葉である。



ぼくは、感動するしか方法が無い。

因に、八木重吉の平易な言葉の選択には驚嘆する。
家族を紡ぎつつ、自然を透明な感覚で描ききった。
こんな詩がある。


  花
 花はなぜうつくしいか
 ひとすじの気持ちで咲いているからだ


  春
 桃子
 お父ちゃんはね
 早く良くなってお前と遊びたいよ


桃子は、八木重吉の子どもである。
病と闘う八木重吉らしい、ピュアな詩である。
感性が、研ぎ澄まされていったのだろうと思うのだ。

西脇順三郎は、初めは英語で詩を紡いでいた。
その英語から日本語へと変貌する刹那、西脇順三郎は閃めき煌めいた。
だがしかし、西脇順三郎は孤高の詩人であった。


  「旅人かへらず」から
       西脇 順三郎

  八
 あのささやき
 蜜の巣の暗さ
 あの世の
 なげかはしき

  一二九
 むらさき水晶
 恋情の化石か


学生時代、西脇順三郎の自宅に電話をした事があった。
会いたくて会いたくてならなかったし・・・。
西脇順三郎が纏っているであろう景色を、見たかったのであった。

彼は、村野四郎を紹介してくれた。
だがしかし、ぼくは村野四郎を訪ねる事は無かった。
勿論、西脇順三郎に会う事も無かった。



    荒 野人