エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

グアムのチャモロ遺跡~1

2011年12月24日 | 遺跡
グアムの文化はチャモロ文化である。



グアムの先住民は、チャモロ人と呼ばれる人々である。
歴史は謎に包まれているけれど、紀元前2000年~3000年にフィリピン、インドネシアを経由して渡来した東南アジア系の人種と考えられている。

その起源については、考古学、人類学、歴史学のいずれも、いまだ納得のいく解答を得られずにいる。
ただし、紀元前1500年頃に遡る考古学的資料からは、古代チャモロ人は東南アジアの諸島から移住してきたインドマラヤ系民族であると推測され、チャモロ語と言語上の類似点がインドネシアやマレーシアの方言の中にみられるのである。

「チャモロ」とは、"高貴"を意味する言葉で、グアムの先住民「チャモロ人」、伝統料理「チャモロ料理」、マリアナ諸島の土の言語「チャモロ語」など、歴史と文化を伝えるさまざまなものに使われている。



チャモロ遺跡のハイライトは何と言っても、ラッテストーンである。
宗教的な意味合いを持つとも、高床式建物の土台とも言われているけれど、その実体についてはまだ解明されていないのである。

ぼくは二か所の遺跡を訪ねる機会に恵まれた。



今日はリバー・クルーズで訪ねた遺跡を紹介しよう。

船着き場に着くまで、休憩が一回ある。
グアムの中心部からは1時間近く車に乗るのである。



そのトイレ休憩の店には、何故か横井正一さんのコーナーがあった。
この近くにも潜んでいたのだろうか?

とにかく、英雄扱いである。



トイレはこんな風である。
PEE PEE HERE
と書いてある。

氷が大量に積んである。
清潔感の演出には大成功である。



船着き場は河口の傍である。
橋の向こうは、もう海である。



ここを遡るのである。
途中にチャモロの遺跡がある。



狭くなっていくけれど、舟は進む。



椰子の木が川に覆いかぶってくる。
途中、舟は停まって川辺を見せてくれる。



椰子蟹である。
ココナッツ・クラブだ。



チャボである。



陸に上がって遺跡を歩く。



これらはラッテ・ストーンである。



保全状態は良い。
この「ラッテ・ストーン」宗教的な意味合いを持つとも、高床式建物の土台とも言われているけれど、その実体についてはまだ解明されていないのである。



ジャングルの中でも、ここは川沿いにある遺跡である。



川沿いから山側へと遺跡が残されている。



中には、臼の割れたものが残されている。
タイだとか、そうそうお隣の韓国で今でも良く使われる臼である。
タイでは、サラダ作りで使われる台所の必需品である。

日本だって、胡麻を擂ったり、トロイモを擂ったり、良く使われるのである。

その意味では共通した食文化があったと想像できるのである。



臼の用途に岩壁を使っているケースもあったらしく遺跡として残されている。
この穿たれた穴がそうである。



ここではラッテ・ストーンを土台として建てられた家よりも、岩穴が住まいであったらしい。

こうした穴場がグアム島内には数多くあるのである。
島の遺跡は面白い。
病みつきになりそうである。




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 荒野人

鹿島古墳群その2

2011年12月10日 | 遺跡
鹿島古墳群は、今を遡ること千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げてその内部に遺骸を埋葬する場所が設らえられているのである。



従って、この地域一帯は豪族が割拠していたと思惟されるのである。



この墳墓群は円墳で構成されている。



鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれている。



この石室の内部には、遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬された。
鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土している。

従って、武装集団として割拠していたと想像できるのである。



墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったと思われる。
武威を示すためにも、石で葺き輝かせる必要があったのであろう。



レイアウトはこうなっている。
荒川に沿って墳墓が築かれている。

現在保存されているのは、緑色の部分だけである。
しかし、一帯に拡がっていた事実に驚愕する。



畑と墳墓群の境目は単純だけれど、しっかりと結界になっているのである。



一目瞭然、円墳である。
だがしかし、古墳時代の人々の情熱は伝わってくるではないか。



夕方、空が茜色に染まり始めた。
雨こそ降らなかったけれど、肌寒い一日であった。



中空に鮮やかな月が架かった。
間もなく満月である。

古墳時代の人々も眺めた月である。




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 荒野人

鹿島古墳群

2011年12月09日 | 遺跡
久しぶりに、遺跡に関する記事である。
鹿島古墳群は、古墳時代晩期の遺跡である。
同時に、昨日報告した荒川河畔に位置する古墳群だ。



この古墳群は7世紀から8世紀にかけて・・というのが定説だったけれど、最近では6世紀にさかのぼるとされた。
2000(平成12)年新しく古墳が発見され、30年ぶりに発掘調査が行われ、年代が6世紀中頃まで遡ることが分かったのである。



この地域の豪族の墳墓である。





    語らうは古代の遺跡寒の声       野 人





荒川沿いの河岸段丘に 1 kmにわたり古墳が分布している。
今から約1400年前頃に造られた県内有数の大規模な古墳群であって、雑木林の中に56基の円墳が分布している。



地域の人たちが破壊せず、保存していた円墳が居並ぶさまは壮観であって、空想は古代へと雄飛する。
地域の人々の遺伝子が保存を働きかけたとしか思えないのである。
実に不思議である。



墳墓群の横は、深谷ネギの畑が広がっている。



陽だまりで、ホトケノザのピンクのはなが咲いていた。
不思議な季節感である。

この墳墓群は殆ど意思で葺かれていたと言う。
その石は、河原から一つひとつ運ばれたものである事は想像に難くない。



いまでも畑の周囲には玉石がゴロゴロとしているのである。
耕せば出てくるのであろう。



とまれロマンを掻きたてる遺跡である。




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 荒野人

デジブック 『金生遺跡の環状列石』

2011年09月05日 | 遺跡
縄文後期の環状列石である。
秋田の「大湯環状列石」は、やはり縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡である。



金生遺跡周辺は縄文後期遺跡の宝庫である。





デジブック 『金生遺跡の環状列石』







この金生遺跡から八ヶ岳周辺では、遺跡だらけであると言っても過言ではないのである。
例えば、近在の農家の方の話を聞けば、畑に土器の欠片がゴロゴロしているというのである。



なんのために、この石は立っているのか?
考え、推理し、探求する事は楽しいのである。





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 荒野人

甲斐源氏・武田氏の故郷、谷戸城址

2011年08月31日 | 遺跡
甲斐武田氏の祖、清光の居城である。



典型的な山城である。
いまはもうその雄姿を見ることはできないけれど、土塁が残っていて往時の「よすが」を探せるのである。



城の頂上へと入り込む麓である。



土塁は、まさに曲輪跡である。



谷戸城は吾妻鏡にみえる「逸見山」に比定されており、甲斐源氏の祖とされる逸見清光の居城とされている。
地元ではこの山を城山と呼んでいるのである。



『吾妻鏡』の治承4年(1180年)9月15日条に拠れば、武田信義ら甲斐源氏一党は源頼朝の挙兵に際して「逸見山」に集結し頼朝からの使者を迎えたとある。



源頼朝の挙兵を記憶する場所でもあるのだ。



谷戸城一帯は、国の史跡として保全されている。
林を造成して山を守ろうとしている。



それなりに下草も刈られている。
この城跡の二の曲輪から、八ヶ岳が望める。



立地の良い山城であったことが偲ばれるのである。
吾妻鏡に記された谷戸城である。






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 荒野人