エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

河津桜の見事さよ

2015年02月28日 | ポエム
誠に見事である。
豊かである。



ここまで撓(たわ)わだと、納得の満開である。
河津桜は、厚木小田原道路を経て相州に入ると既に満開の様相である。
とりわけ、河津町のメイン会場は散りもせず丁度8~9割と云ったところであった。

因みに、原木は満開である。



川沿いに満開の桜。
川面は、ピンク色で彩られる。







「桜咲き托鉢僧のたたずめる」







土手の上から垂れ下がってくる様は、春ショールの見事さであった。



かてて加えて、相州の山々は笑い始めており春も半ばと云った様相である。
山が笑う・・・古人の感覚的捉え方は当意即妙であって見事だ。



菜の花の手前には、桜。
そのただ中に、托鉢の僧侶がいた。



喜捨をする人々は少なかった。
桜が、托鉢の邪魔をする。
なんだか、寂しい風景であった。
日本人の死生観に「善行を積む」諦観は無いのだ、と思い知らされる風景である。

だがしかし、これもまた修行とひたすら合掌する僧侶。
桜、菜の花・・・そして托鉢の僧侶。

三大季題とも云うべき心象風景があった。



        荒 野人


春は海から

2015年02月27日 | ポエム
相州と豆州の春は、海の彼方からやってくるのである。
海こそ、春霞の柔らかな湿度を満たす揺りかごである。



初春の海は、曇天の中でたゆたっている。
そのたゆたいが、眠気を誘うほどの穏やかさである。



漁船が、波間にたゆたう。
漁果があるのだろうか?
と思わせるほど、波間で遊んでいる。







「相州や海から来る春霞」







夕焼も朝焼も、同じ春である。



この映像は、あたかも夕焼のようであるけれど・・・実は朝焼だ。
宙が染まりゆく時間は、ゆったりとしている。

赤味は、朝夕同じ速さで変わってゆく。
そのテンポが、深く深く沁みてくる。



      荒 野人

蒼天の梅

2015年02月26日 | ポエム
梅花は、蒼空が良く似合う。
それは本当だ。



梅の赤、梅の白、それぞれに個性が光る。
個性をときめかせるのは、あくまでも一輪の梅である。



いまは、チラホラと咲いているけれど・・・。
後、一週間もすれば満開となるだろう。
それでも、一輪の美しさを愛でてあげたい。

それが、梅の観賞の作法である。







「蒼天の広さは梅と人に合う」







今日お見せしている梅は、神代植物公園の梅である。
正門から入ると、一番奥に位置する。
深大寺口からだと、右側に歩くと直ぐの位置となる。



梅園の道を隔てた場所に、椿園もある。
今頃は、まだ咲き始めたばかりである。



とまれ、今日は梅と青空のマッチの素晴らしさをお見せしたところである。
梅が咲き始める作法も「チラホラ」である。

だがしかし、じっと見つめてあげて欲しい。
白の微妙な色合いが、より感性に訴えてくるのである。



       荒 野人

河津桜を見る

2015年02月25日 | ポエム
昨日、河津に出かけてきた。
昨夜は、熱川に宿を取ったのである。

相州の春は前倒し、である。

海鳴りが、耳に当たる。
海鳴りは遠くに聞くのが良い。
けれど、昨夜はとりわけ満潮時の海鳴りが大きく聞こえた。

浜が徐々に狭くなっているのが夜目にも・・・分かる。
満潮である。



さて、このところの暖かさの成せる業。
河津桜は、満開前の見頃であった。
桜は、散り始める風情も良いけれど満開の直前が見頃である。







「相州の至宝と云える桜かな」







河津桜は、赤味が強くて嫌いだ!
と、云う方が結構多い。

けれども、見頃の河津桜はほんのりとした赤味であって優れて好感が持てる。
とりわけ、ここ河津では菜の花と相まって色合いが可憐である。

相州に入り、厚木小田原道路を熱海方向に進む。
既にして、小田原辺りから桜が咲き初めている。



河津に至り、川沿いに延々と続く桜と菜の花は圧巻である。
赤いから厭だ!
などと云わず、可憐な色合いを愛してやって欲しい。



ぼくは少なくとも、愛していたい。
河津桜は、初恋の色なのかもしれない。

あなたに撮っても、初恋の色かもしれない・・・。
東京から、ほんの2~3時間で出会える早咲きの桜。
あなたを、待っているのだよ!

帰京後、もう少し河津桜をお見せしようと思っている。



      荒 野人

綿雲

2015年02月24日 | ポエム
綿雲、春隣の雲である。
一年中雲は遊弋(ゆうよく)するし、形も千変万化する。
どれと云って、季節を限定出来ないとする論もある。



だがしかし、綿雲は春隣であることは論を俟たない。

この日の夕焼けは見事であった。
春夕焼と云って良かろう。

赤さが際立っていた。
空の粉塵が赤く照らされるからであろう。
粉塵は、花粉であったりするのだけれど・・・。
大陸からの砂塵、春の霞もそうである。



言い換えれば、春隣の夕焼けの特徴である。







「色深み痛点ゆるむ春夕焼」







ぼくはいつまでも、そこを立ち去り難く佇んだ。



夕焼けの気配から、やがて日が暮れて薄暮に包まれぼくは帰宅した。



夕食が遅くなったのは・・・論を俟(ま)たない。



      荒 野人