地方の女たち

夜の街で出会った女達と男達

稲刈りの準備

2020-08-16 11:14:35 | 家庭菜園

そろそろ稲刈りの準備をする時期になりました。

 

実った稲を刈り、袋詰めするまでは色々な過程が有ります。

それぞれの過程で使う機械類も結構あり、それらが順調に動くか確認しておく必要が有るんです。

稲刈りから玄米の袋詰めまでは流れ作業となり、どれかが調子悪いと良い状態で仕上げることが出来ません。

 

しかし、どの機械も一年間使っていない物ばかり、単純なバッテリィーあがりから始まり、故障の原因は色々と有ります。

 

コンバイン(稲刈り)→運搬コンテナ→乾燥機→モミ擦り機→選別機と全ての機械を点検です。

運搬用コンテナと言うのは、軽四輪などに乗せてコンバインからモミを受け取り乾燥機に搬入する機械です。ただの箱ではなくて、乾燥機の近くに行きモーターを使って太いホースでモミを送り込みます。

 

まず最初のコンバイン(稲刈り機)の点検です。

倉庫の中にカバーをした状態で保管していました。。。暑い

とりあえずシャッターと窓を全開です。

 

カバーを外してみると、、、、、なんと運転席の隅にネズミの糞が

キレイに掃除したはずだったが、、、、モミが残っていたんでしょうねぇ~

乾燥機やモミ擦り機が心配になってきました。それらの機械にはネズミの侵入を防ぐフタの部品が幾つかあり、ちゃんと対処したつもりですが・・・。

 

まぁ、それは後にして。とりあえずコンバインを始動して見ました。

調子よさそうなエンジン音です

コンバインには色々な仕事が有り、それぞれの機械が連動しています。

稲を刈る→ある程度に束ねて次に→稲からモミを取る→モミを貯める→モミをコンテナに送り出す。

それぞれにそれぞれの機械があり全てが上手く行く必要が有ります。

とにかく稲刈りから始まるコンバインの作業はホコリの多い作業ですから、そのホコリが湿気で固まっていたり、、、そのままだったりします。田んぼの中を刈り取る姿からはホコリとは無縁で、のどかな感じもしますが、現実は違いますね。

それらが「詰まり」の原因になる事も有ります。

 

可能な点検の結果、、、順調な感じでした

モミをコンテナに送り出すのは点検できないので一発勝負です。

汗にホコリがくっついて、余計に暑い。、、、他の機械類は後日に

 


中国での戦争日記

2020-08-14 17:03:05 | 日記

これは親父の写真集に書かれた日付です。

親父の軍歴はこの時期より前から始まり、終戦の昭和20年まで続きます。

昔風に言うなら「職業軍人」なので、戦地での戦いはかなり長い方だと思います。

この種の記録はこれ以外に有りません。

考えればこれより前は歩兵として写真を撮る余裕などなかったし、これ以後は太平洋戦争となり、負け戦の連続でそれこそ写真を撮って保管する事など出来なかったのでしょう。

 

この写真集に限れば、経験している戦いは全て勝ち戦。写真集の至る所に余裕を感じる写真が多くあります。

ここでは掲載しにくい酷い写真も有るのですが、、、、

そっちの写真の方に興味が大きい人が居てるとは思うのですが、余りにも酷いので門外不出です。

数ページは上記のような写真が有ります。

私が夜の街の女の子が大好きなのは親父譲りかもしれません。

この写真集の2年間だけでも北支を何度か移動しています。 ロシアとの国境付近は極寒で-40℃と書かれています。

写真の最初は軍曹でしたが、終わり頃には曹長となっていました。

そこで旧日本陸軍の階級を調べてみると、、、その途中に

 

「桃栗三年柿八年、無能な軍曹12年」と言うのが有りました。

昭和13~14年だと親父の年齢は26~27才。 

親父は学歴の無い人だが、無能な軍曹じゃなかったのが解っただけでも誇らしい感じです。

 

「満人と生活の安定を得る」 この満人は中国人を敵と味方に分けていた感じがします。

敵の中国人は普通に街中に居てて軍服を着ていないくて、突然に日本兵に向かって発砲する事が有ったと。

それで友を失うのですから、その憎しみは大きいのでしょう。 仲間の慰霊碑の写真の横には「必ず弔いはする」と書かれています。報復を墓前で誓っているのです。

中国兵の夜襲を受けて、一時的にその場から逃げた事も有ると。 その時は頭の横をビュ~ンと飛ぶ弾の音を何発も聞いたが、音が聞こえるのは生きていると、それほど恐怖を感じなかったと言うのですから、、、いかに戦いに麻痺していたか想像が付きます。

逆に攻め入った時には、鉄の鎖で繋がれた中国兵も居たらしい。

中国の犯罪者とされた人を逃げずに最後まで戦わせる為に、味方が味方を拘束してその場で最後の一発まで撃ち続けさせるのです。。。。残酷な話です。

 

親父は昭和13年の4月に日本に帰るのですが、直ぐに元の地に戻ります。

ところが、、、暫くすると再度帰国命令が・・・その時の親父はまったく帰国命令の理由は解らなかった。

そして一時の休みをもらった後に召集され、目的地も知らされずに博多から南に向かって出航です。

 

親父たちを乗せた船の着いた所は台湾のすぐ近く、そこで上陸作戦の訓練です。。。。

そして、、、再度、船に乗り何処かに・・・

その船中で知ったのが真珠湾攻撃です。

その時、、、親父は「とうとうアメリカと戦争か・・・」と

開戦と共にフィリピン攻撃の始まりです。 そのフィリピンも数か月で攻略して、アメリカ軍は撤退しました。

意気上がる親父たちは、米軍が残していったアメ車を乗り回して歓楽街に遊びに行ってたらしい。

もちろん車は接収品なので勝手に使う事は建前としてダメなんだけど、現実は黙認されていたと。大勝利で少し浮かれていた感じが見受けられます。

※ 親父が亡くなる前にカミングアウト(笑)・・フィリピンで暮らそうと思ったらしい。お袋と結婚していたのに・・

 きっと楽しい毎日だったんだろう。

 

当時の日本軍は勝利・勝利の連続で、国内も盛り上がっていたらしい。

そして親父たちはフィリピンから南方に・・・-40℃の地から赤道直下の地に。。。

ニューギニアとその東地域に点在する島へ進攻です。 時々アメリカの軍機が飛び単発で攻撃が有る程度で、親父たち戦争慣れしている人たちにとっては平和な感じだったと。

 

暫くして親父の人生で最大の転機が訪れた。 それは私にも大いに関係します。

 

それはマラリアです。

中国兵、ロシア兵、アメリカ兵と戦ってきた親父でも、マラリアには勝てなかった。

※マラリア・・マラリア原虫がハマダラ蚊によって感染し高熱の連続となる。血液に入り色々な病気が発生する。

 

高熱に苦しみながら離れ小島で補給船を待ち、その帰りに船に乗って引き上げです。

南方の島から攻撃力の無い船に乗りフィリピン→台湾→日本の予定です。(実際には比に寄らず別の所に寄った・不明)

フィリピンまでも遠く何日もかかります。その船中で、、、、親父が居た所が攻撃を受けて、ほぼ全滅状態になったと知った。 生き残った兵士はジャングルの中を逃げ惑う事に・・・その多くが餓死したと言われています。

なんとか何処かの港に到着したが、そこから台湾に向かう頃には、戦況も悪く制空権は無くなっていた。

ですから主に夜間の航行ですが、それでも軍機からの機銃放火を受け、その時が長い戦いの中で一番死を意識したと。

やはり反撃しているうちは恐怖心も少ないのだろうが、無抵抗の時は恐怖心は大きくなるみたいです。

 

なんとか無事に日本に着き医者にかかってマラリアの高熱からも解放された。そして親しい上官に呼ばれて長崎から岡山の隊に移動になった。 結果的にそこで終戦を迎えるのですが・・・

 

マラリアに罹っていなければ・・・・

長崎に居る時に上官に呼ばれなかったら・・・

 

親父は戦死です。 当然、姉たちや私もこの世には存在しません。

 

子供の時に親父(50才代)から聞いた戦争の話と、親父が90才になった頃に聞いた話では多少違う点も有ります。

話す相手が子供と大人と言うのも有るのでしょうが、後で聞いた方が真実に近いと感じます。

子供の時に聞いた話は勇猛果敢な話が多く、大人になって聞いた話には辛い話が多々ありました。

 

そして、私が感じた「戦争」は・・・・殺し合いです。

地域を占領しただけでは戦争は終わりません。 相手を殺して殺して、相手がもうこれ以上死者を出すのは嫌と思うまで戦争は終わりません。 しかし、残念な事にまだまだ兵器で自国の富を増やそうとする国は存在します。

殺し合いなんて、何処にも大義は無い。

難しい事は私には判断できないのですが、、、、

個人と個人の戦いでも、国と国の戦いでも。

戦う気持ちの無い相手を攻撃するのだけは、、、すくなくとも無くなって欲しい。

 


阿波踊り・昭和

2020-08-13 23:21:14 | 日記

去年、一昨年じゃなくて、、、、とおぉぉぉぉぉい昔の阿波踊り風景です。

昭和30年代の後半です。

この頃は町内会に子供連が有りました。(踊り子の集団を連【れん】と言います)

町内と言っても〇〇町じゃなくて、〇〇丁の小さな区域です。それだけ子供が多かったんですねぇ~。

子供の少ない所は一丁目と二丁目の合同の連だったりします。

写真は大人の人からアドバイスを受けたり、今日の踊るコースを説明されたりしている所です。

鳴り物は父兄が担当します。

チョット難しい三味線なんかも、阿波踊りの曲だけは弾けると言う人が居てるんです。

 

阿波踊りの期間は四日間。

一日は子供連で、、、、

二日目・三日目は企業連で、、、

四日目は町内会とか、今で言う有名連とかで踊るんです。

 

子供にとって一番楽しいのは企業連。

私は高知相互銀行(当時)と朝日生命の連で踊りました。

こう言う所の連だと差し入れが豪華なんです。

大きな樽に氷と水、その中に飲み物が入っているんですが。企業の連だとチョット高いジュースが入ってるんです。

当時だと、、、、バャリースとか三ツ矢サイダーが最高でしたね

この時代の地方には飲料水の会社が結構有り、全国区の会社の飲み物より安いので、小遣いで買うのはそっちなんです。

なんか貧しい感じですが、当時の子供たちにとっては重要です。

バャリースや三ツ矢サイダーは病気にでもならないと親も買ってくれません(笑)

 


倒れた稲

2020-08-13 11:15:21 | 家庭菜園

ラッキーな事に私がやってる田んぼは何処も倒れず元気に育ち、近所の住民でもあるスズメたちも元気に育っています。

早い田んぼでは稲刈りが終わった所も有り、これからはアッチコッチで稲刈りをする光景が見られます。

 

私の田んぼの隣で写真の様に倒れた稲が・・・

 こんな感じは別の所でも見られます。

左に巻くように倒れています。

初めてこんな光景を見た時は近くの山から何か動物が、、、、と思ったのですが、、、違いますね。

倒れた稲を見ると、その殆どが左にねじれるように倒れているのです。

何んと言えばいいのか・・・竜巻の弱いモノ、、、つむじ風みたいなのがいくつも発生して、稲を倒していくのです。

 

私も去年は台風で収穫直前に倒されました

写真の田んぼも稲穂が実り重くなっているので倒れやすいんです。

 

でも、被害は予想外に小さいんです。確かに多少は質も落ちるし量も減りますが・・・。

稲は途中からポキッと折れている訳じゃなくて、根元から倒れている場合が多く、根の大半は切れずに地中に残っています。ガチッと土に絡んでいる畑と違って、水田ですから柔軟性が有るんです。

 

問題は稲刈りです。

倒れている反対側の横方向からコンバインを入れて行かなくちゃ上手く行かないんです。

通常は田んぼを外側から回転するように刈り取ります。(角は手で先に刈り取ります)

倒れていると、、、ある一辺を手か機械で刈り取り、そこから直線で刈り、元に戻って刈る。これの繰り返しです。

倒れている量が少なければ、ある程度の犠牲は覚悟して行くのですが。

台風だと全面倒れる事も有り、かなり丁寧な稲刈りとなります。 

機会が拾いやすいように、人が機械の前で稲を起こしてやらなければならない時も有ります。

人も時間も燃料も倍くらいは必要になりますね。(百姓モドキの少ない経験から)

 

ですから、、、、稲刈りを手伝ってくれる仲間のいない、遠征組の百姓モドキは結構困った状態になります。

小さな面積の稲作で、余分な人件費は出てきません。

農家の人達は「労働」は「労働」で支払いが出来るのですが・・・その手が使えない。

収穫まで半月あまり、、、、台風が来ない事を祈っています


しきび

2020-08-12 18:28:43 | 日記

連日の畑作業で疲れ果て、お墓に行くのを止める事にしていました。

 

しかし、、、

 

両親のお墓を想像すると・・・

周りのお墓はたぶん青々とした「しきび」が飾られて、我が家のお墓は枯れて茶色になった葉っぱが・・・その光景が目に浮かび、なんだか両親が可哀想な感じになり、、、、やっぱり行こう

幸い、、、畑にしきびの木が数本あり、一年中OKです。

 

売っている物の様にキレイではありませんが、そこは量でカバーです。

 

こう言う慣習とか宗教行事は深く考えてはいけません。 理屈で考えると変な事ばかり。

ただ、それに沿って行って、自分がスッキリしたら、、、それが一番良いと、、、私は思っています。