脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

今世・・働くということ。

2015年08月22日 09時02分37秒 | わが半生
ラジカセの飛び込み訪問は本当に辛く経済的に窮地に陥り親から40万円近い借金をしましたが何となく・・【こころの声】が聞こえていたのです。【辞めるのは簡単、継続し自分なりの区切りとして達成感を得ること。それまでは辞めてはアカン】友人からは『なんで?そんな会社に居るねん?普通、辞めるやろ?』親からは「お前、アホちゃうか?世の中、まともな会社、ゴマンとあるのに、辞めてしまえ!!」と。でも自分なりに納得するまでは辞めないでおこう・・と。普通、訪問営業はノルマも厳しく私のように売れないセールスマンは上司から大声で叱られる・・そんなイメージでしょうが、なぜか、この会社はそれがありませんでした。ま、今にして思うと??福利厚生もなく交通費もなく挙句に営業用に使うラジカセも自己負担ですから何ら人件費はかからないから?かなと。30名近い支社の社員のうち20%は驚異的な売り上げをし月間500万以上・・どうしたら、そんなに売れるのか不思議でした。でも自分なりに納得できたし心の声に応える結果も出せたので退職。そして次に就職は安定した会社でコミッション(歩合)とは無関係な会社を探そうと活動したのです。そして採用された会社は全国にチェーン展開する靴の販売会社でした。スーパーの専門店街、今でいうイオンモールのような場所に店舗を出していたのですが、この頃よりロードサイドに店舗を出す戦略で業務拡張のための人材募集だったのです。初めて配属された店舗は阪急水無瀬駅からスグの国道沿いの店舗で、まもなく高槻市内にオープンするまでの研修期間として配属されたのです。私の自宅は京阪の香里園、通勤はバスで駅まで行き京阪の枚方市駅で下車、枚方から京阪バスで阪急高槻に向い阪急電車で水無瀬へ・・結構、遠いンです。まず枚方や寝屋川の住民は枚方大橋を渡って高槻や茨木市へ行くことは少ないンです。1週間通勤しましたが、通勤だけで疲れます。親父に頼んで親父の車で何とか通勤するようになりました。当時の給料が月の手取り9万円でしたが毎月、決まったお金がもらえ福利厚生もあるし交通費も全額支給。電車とバスの定期代をガソリン代として父に渡していました。雨の日も風の日も暑い日も寒い日も外へ出て営業することもなく『こりゃ、天国みたいや~♪』飛び込み訪問の頃と比べると、本当に楽でした。そして、その後、高槻の深沢町の新規オープンと同時に異動となりオープン準備に大忙し、アルバイトも4名入り社員を含め8名体制となりました。この店舗で私はアルバイトの短大生と・・むふふ♪おつきあいをすることに。公私ともに充実し始めたのです。
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