脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

今世のテーマ・・働いくということ。そして仕事を通じて・・

2015年08月24日 09時50分37秒 | わが半生
枚方バイパス(国道1号線)の店舗へ異動、ちょっとした事で店長に不満を、ぶちまけたのです。若かったのでしょうね♪異動後、店長の物の言い方が気に入らず些細な事に、いちいち煩く言われていたので鬱憤もたまっていました。その店長は本部の労務マネージャー(課長レベル)から降格され店舗開店と同時に異動してきたのです。今にして思えば店長が煩く注意してきたのは私に原因があったからです。ホンマ、申し訳なく思っています・・でも当時、21歳でしたかね・・自分の事は棚に上げて自分を注意してくる店長に腹ばかりたてて・・閉店後・・原因は忘れましたが叱られた私は逆ギレして感情をぶつけました。私の反撃に一瞬、驚いた店長・・そして『もう!やってられません!!』そう言い帰宅してしまいました。すると、その夜・・高槻で一緒に働いていた先輩から電話が、かかってきたのです。『○君!どしたん?聞いたで・・短気、起こしたらアカンやん。・・』30分くらい話をしたでしょうか・・先輩の言うことは最もで原因は私。でも、なんか、あの店長の下では働きたくない!そんな気持ちでイッパイになり翌日は、ズル休みの電話を職場に入れて就職情報誌を買いにいったのです。ラジカセ訪問販売してた時の支社長の言葉が一瞬、頭に浮かびました。『辞めるのは簡単、続けることが難しい。』確かにそうでした。続けなければ成長しません。転職すれば、また【1からのスタート】です。でも当時の自分は感情が先立ち・・退職を決意していたのです。正直、給料も安いのも理由でしたけど・・この年の源泉徴収の年収は105万円でした。今でも覚えています。当然、親からの借金40万も未払い・・給与の大半は彼女とのデート代・・クルマは父親のクルマを乗り回しガソリン代も父親負担・・当時、電化製品(システムコンポのデッキ)のローンもありまして正直、経済的に苦しい時でした。私は給料の高い会社を探しましたが大抵、怪しい営業が多いのです。当時、○○真綿、ジャンボクラブの○○建設、そして社会問題になった金の取引の豊田商事・・その中で選んだのが商品取引会社と消費者金融会社でした。商品取引会社は面接に行きましたが、その場で不採用をつげられ・・撃沈・・梅新交差点の歩道橋をトボトボ歩いたのは今でも鮮明に覚えています。そして消費者金融・・いわゆる【サラ金】と言われ当時は大変、イメージが良くなく両親からも大反対・・横浜の叔母からもわざわざ電話が入り『お母さんから聞いたヨ!とにかく止めときな!!叔母さんは反対だからネ!そんな、ヤクザな会社!!』父からは殴られる寸前まで叱られました。でも人間、アカン!ヤメろ!と言われれば言われえる程、反発するもんです。何より給料が高い!!靴の販売の倍の基本給があり面接で提示された給与条件に思わず顔が緩んだのも事実です。大学も出ていない私がスーツを着て、これだけの給料を貰える道理がありません。歩合もなく内勤です。大手の会社だったので危ないことや犯罪行為はさせないだろうと・・でも「取り立て」には正直、抵抗はありましたが・・結局、昭和56年1月、靴の会社を退職し大手消費者金融・・今も『初めての~○○ム』に入社しました。付き合っていた彼女にも報告すると『大丈夫?大手なん?よく、わからんけど頑張ってネ』彼女とは、付き合っていたものの彼女のご両親からは猛反対されていたのです・・彼女の父は大手都市銀行の行員、母も元同じ銀行の行員、兄も当時の相互銀行に勤務し彼女自身も信託銀行への就職が内定していたのです。自宅は北摂にある閑静な住宅地にあり団地住まいのウチとは格差ありすぎでした・・無理な交際でもあったのですが・・その消費者金融会社に勤務してから・・実は私は他に好きな人が出来てしまったのです。
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