私の今世の課題って何だろう・・思い起こせば55年の人生を振り返ると幾つかの気づきがあります。人生の節目は勿論、何度も選択肢が現れ幾つもの道があると思いますが結局は1つのゴールに向かうのではないか?13歳で新聞配達、親は学業よりも働く事の大切さを教えようとしてくれました。どちらかと言えば我儘で自己中心な私、人に何かをするより、人から何をしてもらうか?の方が多かったのです。そんな考え方で生きていると人は離れますよね。学生の頃も社会人になっても多くの人達と知り合うことが出来ましたが・・さてさて何人の人が現在、おつきあいがあるかと言えば・・???です。お金が欲しくて高い給料の消費者金融会社に勤務した私が最初に配属されたのは京阪天満橋駅にある支店でした。新店オープン・・当時、業界は新規オープンラッシュで武富士、プロミス、レイク・・業界大手は競い合うように新規オープンを行い始めた頃です。支店は新規オープンなので顧客は全くいません、なので新規顧客を獲得する行動と既存店の顧客が来店されたときに口座移動して自店の顧客にする作業が主でした。なので督促・・いわゆる取り立て業務も当初はとても少なかったので営業時間が終わると現金を締めて帰宅していましたから結構、疲れも少なく精神的にも軽い状態でした。しいて言えば、早朝7:30に出勤して京阪天満橋・地下鉄谷町線の天満橋駅でのティッシュ配布をするのが嫌?でしたね。天満橋は大阪府庁や近畿電気工事、造幣局、日本経済新聞本社、自衛隊など堅いところに勤める方々が結構、お金を借りにきてましたので、コゲ付など当初半年は無かったですヨ。当時の金利は年率47・45%で10万円借りると月の利息は3900円程でした。今のご時世なら驚くほどの高さですが当時は大手以外の中小零細のサラ金では年率73%~100%を超えるところも?ビックリでしょう?京阪沿線では京橋に行くと多くの消費者金融会社があって中には情報センターに加盟してないところも・・私は金融会社に就職して【お金と労働】について知らず知らず勉強させられたのかも知れません。そして【サラ金】高い給与を得る代わりに失うこと、世間からの偏見という眼を沢山、受けるようにもなりました。しかしながら私が就職した○○ムは社内的には普通でマトモでしたよ。社員同士の繋がりも良くて貸付ノルマも、厳しくない・・と思っていたのも新規オープンの店?だったからかも知れません。約1年8か月、お世話になりましたが・・実は退職理由は今でいう【鬱病】の入口まで来たからでした。
枚方バイパス(国道1号線)の店舗へ異動、ちょっとした事で店長に不満を、ぶちまけたのです。若かったのでしょうね♪異動後、店長の物の言い方が気に入らず些細な事に、いちいち煩く言われていたので鬱憤もたまっていました。その店長は本部の労務マネージャー(課長レベル)から降格され店舗開店と同時に異動してきたのです。今にして思えば店長が煩く注意してきたのは私に原因があったからです。ホンマ、申し訳なく思っています・・でも当時、21歳でしたかね・・自分の事は棚に上げて自分を注意してくる店長に腹ばかりたてて・・閉店後・・原因は忘れましたが叱られた私は逆ギレして感情をぶつけました。私の反撃に一瞬、驚いた店長・・そして『もう!やってられません!!』そう言い帰宅してしまいました。すると、その夜・・高槻で一緒に働いていた先輩から電話が、かかってきたのです。『○君!どしたん?聞いたで・・短気、起こしたらアカンやん。・・』30分くらい話をしたでしょうか・・先輩の言うことは最もで原因は私。でも、なんか、あの店長の下では働きたくない!そんな気持ちでイッパイになり翌日は、ズル休みの電話を職場に入れて就職情報誌を買いにいったのです。ラジカセ訪問販売してた時の支社長の言葉が一瞬、頭に浮かびました。『辞めるのは簡単、続けることが難しい。』確かにそうでした。続けなければ成長しません。転職すれば、また【1からのスタート】です。でも当時の自分は感情が先立ち・・退職を決意していたのです。正直、給料も安いのも理由でしたけど・・この年の源泉徴収の年収は105万円でした。今でも覚えています。当然、親からの借金40万も未払い・・給与の大半は彼女とのデート代・・クルマは父親のクルマを乗り回しガソリン代も父親負担・・当時、電化製品(システムコンポのデッキ)のローンもありまして正直、経済的に苦しい時でした。私は給料の高い会社を探しましたが大抵、怪しい営業が多いのです。当時、○○真綿、ジャンボクラブの○○建設、そして社会問題になった金の取引の豊田商事・・その中で選んだのが商品取引会社と消費者金融会社でした。商品取引会社は面接に行きましたが、その場で不採用をつげられ・・撃沈・・梅新交差点の歩道橋をトボトボ歩いたのは今でも鮮明に覚えています。そして消費者金融・・いわゆる【サラ金】と言われ当時は大変、イメージが良くなく両親からも大反対・・横浜の叔母からもわざわざ電話が入り『お母さんから聞いたヨ!とにかく止めときな!!叔母さんは反対だからネ!そんな、ヤクザな会社!!』父からは殴られる寸前まで叱られました。でも人間、アカン!ヤメろ!と言われれば言われえる程、反発するもんです。何より給料が高い!!靴の販売の倍の基本給があり面接で提示された給与条件に思わず顔が緩んだのも事実です。大学も出ていない私がスーツを着て、これだけの給料を貰える道理がありません。歩合もなく内勤です。大手の会社だったので危ないことや犯罪行為はさせないだろうと・・でも「取り立て」には正直、抵抗はありましたが・・結局、昭和56年1月、靴の会社を退職し大手消費者金融・・今も『初めての~○○ム』に入社しました。付き合っていた彼女にも報告すると『大丈夫?大手なん?よく、わからんけど頑張ってネ』彼女とは、付き合っていたものの彼女のご両親からは猛反対されていたのです・・彼女の父は大手都市銀行の行員、母も元同じ銀行の行員、兄も当時の相互銀行に勤務し彼女自身も信託銀行への就職が内定していたのです。自宅は北摂にある閑静な住宅地にあり団地住まいのウチとは格差ありすぎでした・・無理な交際でもあったのですが・・その消費者金融会社に勤務してから・・実は私は他に好きな人が出来てしまったのです。
大手の靴を販売する会社に勤めて1年、彼女も出来て公私共に充実したころ高槻の店舗から枚方の国道1号線沿いの店舗へ異動となりました。そこも新規オープンで開店準備からの配属となりましたが、とにかく主要道路で交通量も半端なく多いせいか超多忙(O_O)売上も半端ございません。私は婦人靴担当でしたが、とにかく流行もありデザインも多種多様な女性物。バイヤーへ商品発注も何かと神経を使います。梅田や心斎橋などと違い、安くて実用的なものも必要かと思えば飾りものとして、多少、高くてもデザインの良いものやブランド物も置いてました。そして年末に棚卸し作業、これが大変、オープン直後でもあるせいか品数も種類もあって閉店後。深夜までかかった、その日、店長とチョットした行き違いで腹が立ったわたしは、その他のことで店長に不満をぶつけてしまったのです。
ラジカセの飛び込み訪問は本当に辛く経済的に窮地に陥り親から40万円近い借金をしましたが何となく・・【こころの声】が聞こえていたのです。【辞めるのは簡単、継続し自分なりの区切りとして達成感を得ること。それまでは辞めてはアカン】友人からは『なんで?そんな会社に居るねん?普通、辞めるやろ?』親からは「お前、アホちゃうか?世の中、まともな会社、ゴマンとあるのに、辞めてしまえ!!」と。でも自分なりに納得するまでは辞めないでおこう・・と。普通、訪問営業はノルマも厳しく私のように売れないセールスマンは上司から大声で叱られる・・そんなイメージでしょうが、なぜか、この会社はそれがありませんでした。ま、今にして思うと??福利厚生もなく交通費もなく挙句に営業用に使うラジカセも自己負担ですから何ら人件費はかからないから?かなと。30名近い支社の社員のうち20%は驚異的な売り上げをし月間500万以上・・どうしたら、そんなに売れるのか不思議でした。でも自分なりに納得できたし心の声に応える結果も出せたので退職。そして次に就職は安定した会社でコミッション(歩合)とは無関係な会社を探そうと活動したのです。そして採用された会社は全国にチェーン展開する靴の販売会社でした。スーパーの専門店街、今でいうイオンモールのような場所に店舗を出していたのですが、この頃よりロードサイドに店舗を出す戦略で業務拡張のための人材募集だったのです。初めて配属された店舗は阪急水無瀬駅からスグの国道沿いの店舗で、まもなく高槻市内にオープンするまでの研修期間として配属されたのです。私の自宅は京阪の香里園、通勤はバスで駅まで行き京阪の枚方市駅で下車、枚方から京阪バスで阪急高槻に向い阪急電車で水無瀬へ・・結構、遠いンです。まず枚方や寝屋川の住民は枚方大橋を渡って高槻や茨木市へ行くことは少ないンです。1週間通勤しましたが、通勤だけで疲れます。親父に頼んで親父の車で何とか通勤するようになりました。当時の給料が月の手取り9万円でしたが毎月、決まったお金がもらえ福利厚生もあるし交通費も全額支給。電車とバスの定期代をガソリン代として父に渡していました。雨の日も風の日も暑い日も寒い日も外へ出て営業することもなく『こりゃ、天国みたいや~♪』飛び込み訪問の頃と比べると、本当に楽でした。そして、その後、高槻の深沢町の新規オープンと同時に異動となりオープン準備に大忙し、アルバイトも4名入り社員を含め8名体制となりました。この店舗で私はアルバイトの短大生と・・むふふ♪おつきあいをすることに。公私ともに充実し始めたのです。
ラジカセ訪問販売会社に行き自分のテリトリを担当した尼崎駅裏側の堅苦しいイメージのあった事務所・・そこへ飛び込み訪問すると二人の可愛らしい事務員さんに話を聞いてもらって『また明日、おいでーや!』その一言が嬉しく、その日の夜は眠れませんでした。そして翌日・・事務所へ行くと『あ!来た来た(^^♪』笑顔で迎えてくれた事務員さん。『私ら二人で買うから少しでも安くして~(^^♪』なんと2台いっぺんに!!でも・・値引きが出来ない・・のですと伝えると『え~ッ!ホンマ?キョウービ、どこでも安くしてくれるし定価で買う人なんて、おれへんよ!』こんな、やりとりを1時間も続けたでしょうか・・『わかったワ。買ってあげる!』私は天にも登る気持ちになりました。『ありがとうございます!!』これが飛び込み訪問で初めて売れた日のことで今でも、その人達の顔は忘れません。でも・・そのあとの販売実績は泣かず飛ばず・・どこの事業所も相手にされずテリトリも大物~杭瀬へと変更もしてもらい中小零細の工場や事務所、大手保険会社・・約3か月尼崎を回りました。大物公園のベンチに座り何時間もボーーッと過ごしたこともあります。何の用事もなく杭瀬商店街を何往復したことでしょう・・靴はボロボロ・・交通費だけがドンドン・・親から借金して定期代た昼食代を補っていました。親からも『そんな会社辞めろ!』と何度も言われましたが、ただ何となく、今、ここでやめたら俺・・ダメになるんちゃうかな?そんな気持ちもあったし1週間の目標額50万円の売り上げくらいはやり遂げたい!そんな気持ちもありました。給料は基本給6万円に商品代金1万円を引かれると・・悲しくなりますよね?雨の日も風の日も同じスーツ・・そして4か月目テリトリ変更になりチームとして尼崎から梅田駅北側を担当するようになったのです。私は茶屋町・芝田町周辺を担当でした。現在の茶屋町は若者で賑わい河童横丁や阪急ホテル、ロフト・・お店もたくさんですが当時は三番街にカッパ横丁くらい。。ロフトもなく結構、民家も建っていた頃です。茶屋町より芝田町の雑居ビルを重点に廻ると・・結構、反応も良くラジカセにテレビ、当時、発売し爆発的な人気のウオークマンが売れに売れました。定価でしたが不思議と・・売れて1週間の目標50万も超え月間200万目標が300万円まで売れたのです。やっぱり梅田やなぁ~・・私は退職を決意ししました。何度も支社長から引き止められましたが自分自身の区切りもつけたかったので退職となり残る半月ほどは引き継ぎとお客様へのあいさつ回りをしました。そんなおり・・ある日の朝礼で・・『今日から入社する2人です!』支社長が紹介した2人は・・1人はナント!小学校時代の同級生のU君、そして、もう一人の男性は20代後半でKさんでした。このKさん・・実は、その後、再会するご縁のある人だったのです。