「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰(たいだ)な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。」(Ⅱテサロニケ3:6新改訳)
パウロが再臨信仰を強調したのは、テサロニケの信徒たちが迫害に耐え、希望と忍耐に生きるためであった。ところが「世の終りと主のお出でが近い」ことを肉的にとらえ、日々の堅実(けんじつ)な生き方をやめて自堕落(じだらく)な生活に走る人々も出て来たので、ここできびしく注意したのである。▼どうせ終末が近いのだから、仕事などどうでもいい、毎日何もしないで適当に暮らそう、と考えるのは大きなまちがいである。それはこの世の人たちが生きる張り合いをなくし、閉じこもって何もしないでいるのとたいして変わらない生き方だ。▼J・ウェスレーに、ある人が、「先生、もし明日主イエスが再臨されるとしたら、どうなさいますか?」とたずねたとき、畑仕事をしていたウェスレーは「明日も今日と変わらず、リンゴの木を植えに行くよ」と答えたそうである。ある意味でこの返事は大切だと思う。キリストの再臨という歴史上最大の事件が起きることは、正しいキリスト者生活を送っている人の生き方を混乱させるものではない。むしろ、その瞬間を落ち着いて迎えることのできる信仰生活こそ、主が真に喜ばれるものではないだろうか。▼主が教会を迎えるため再臨されるのは、新郎が新婦を迎えに来ることと同じように喜びと希望に満ちたできごとである。しかもその時には私たちが地上でどのように働き、御霊の実を結んだかが評価される、と聖書はおごそかに告げる。落ち着いた喜び、希望に裏打ちされた再臨待望に生きようではないか。