「また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた―イスラエルの子らは言った。『私はまた出て行って、私の同胞ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。』主は言われた。『攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたがたの手に渡す。』」(士師記20:28新改訳)
本来あってはならないイスラエルの内戦が、とうとう起こってしまった。しかも、かつてない大規模なもので、一つの部族(ベニヤミン)が消滅するかもしれないという事態にまで至ったのである。▼神はどうしてこのような状況になることを、おゆるしになったのであろう。たぶんそれはただ一つ、シナイ山で結んだ聖なる契約・律法を守って生きるということを破り、無視すれば、たとえ神の民であっても混乱と堕落のうちに消滅するしかない、という事実を実物教育のかたちで教えるためだったと思われる。▼とはいえ、神のあわれみにより、間一髪(かんいっぱつ)ベニヤミンは生き残り、サムエルの時代に入って行く。かくてベニヤミン族はユダ族とともに、バビロン捕囚まで存続することになったのである。こうした歴史を見ると、イスラエル全部族が存在できたのは彼らが優れているとか、選ばれた特別の民だとかいうことによるのではなく、ただ、一方的な神の憐れみだということを私たちは知るのである。たしかにエレミヤの哀歌にうたわれたとおりだ。「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です。」(哀歌22~24同)▼私たちキリスト者も、自分に栄光を帰するのではなく、どこまでもキリストの愛と神のいつくしみをほめたたえて過ごすべきは当然なのである。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(マタイ3:8,9同)