「ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして言った。『私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎(たい)にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃(そ)り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。』」(士師記16:17新改訳)
このときはサムソンが一千人のペリシテ人を倒して士師になってから二十年が経(た)っていた。いつのまにか彼の心に隙(すき)が生じていたと思われる。ペリシテの女性デリラにすっかり夢中になり、その見せかけの愛情におぼれる毎日を送っていた超人。こうして毎日言い寄る彼女にサムソンはとうとう負け、誰にも明かさなかった秘密を教えた。その結果、みじめな囚人となりはてたのである。▼おなじように、悪魔も主イエスを日々誘惑し続けたであろう。御父に従うことをやめ、十字架を避けなさいと。だが主はそれに負けることはなかった。私たちはだれひとり、闇(やみ)の王の誘(さそ)いに勝つことはできない。ただ主を内にお迎えし、主とともに歩むことによってのみ、それが可能である。▼さて、サムソンの最後が教えるもうひとつのことは、「隙を見せることの怖さ」であろう。来る日も来る日も、デリラの肉的愛情に言い寄られたサムソンは「死ぬほどつらかった」(16)とある。超人サムソンもデリラからみれば、ひとりの弱くおろかな男性にすぎない。待ち続ければかならず弱点をさらけ出すはずだ、そうふんでいた彼女の「読み」はサムソンの怪力以上であった。キリスト者が相手にしているのは、闇の王から発している、この悪の深さなのである。▼かくてデリラは勝ち、サムソンは目をつぶされ、無残にも牛馬とおなじ奴隷囚人になった。しかし今度は、勝ち誇ったペリシテ人たちは勝利に酔いしれ、まことの神の前に自分たちの隙を作った。それは、いつのまにかサムソンの頭髪が伸び、怪力が回復していたことに気がつかなかったことである。こうして彼らが設けた盛大な偶像の酒宴が、かつてないほど悲惨な墓場になった。なにしろ数千以上のペリシテ人が圧死したのだから。もちろんサムソンも死んだのだが・・・。▼神の愚かさは人よりもかしこく、神の弱さは人よりも強い。