しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <主の霊が下った>

2024-11-13 | 士師記
「このとき、主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。サムソンは自分がしたことを父にも母にも告げなかった。」(士師記14:6新改訳)

本章に「主の霊が激しく彼の上に下った」と二回記されている(6、19)。つまりサムソンの超人的力は主の霊から来ており、彼本来が持っていたものではなかった。理由は、彼が母の胎内にいるときから「神に献げられたナジル人」と定められ、神はその約束のゆえに力を注がれ、用いられたからである。▼もしサムソンがその事実を大切にし、神をあがめつつ敬虔(けいけん)に生きて行けば、すばらしい士師となり、生涯イスラエルの指導者として生きることができたにちがいない。ところが彼は肉欲に勝てず、女性の肉体的魅力(みりょく)の前には子どものように無力であった。今日の世界にも、世界を動かす大指導者でありながら、女性や金銭にだらしなく、失敗して恥(はじ)をさらす者がいることは周知(しゅうち)のとおりである。▼きよく歩むことぐらい大切な生涯はない。そして、そのことは生まれながらの自分自身が「キリスト・イエスと共に十字架につけられて死ぬ」という体験から始まるのである。そして、きよく歩むことは禁欲的なことでも、我慢して忍従の道を歩むことでもない。そこには聖霊によって歩む天の喜びがあり、肉的な満足などはるかにおよばない崇高(すうこう)な満足が存在する。一度その世界を味わった者は、肉的な生き方に非常な嫌悪感(けんおかん)をおぼえ、自然にそれに背を向けつつ歩むようになる。これがホーリネスの道を歩む、ということである。「主と共に歩むその楽しさよ、主の踏みたまいし御跡(みあと)をたどる。ひと足、ひと足、主にすがりて、絶えず、絶えず、われは進まん」(新聖歌355)