「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18新改訳)
私が小学生の頃、家で猫を飼っていた。私になついていたせいか、冬になると、毎晩ふとんの前に来てちょこんと座っている。時間が来て寝床に入ると、それを待っていたかのように胸のところに入っていっしょにふとんから首を出し、寝るのだ。かわいいなと思った。猫の体温が私の胸もとに伝わってあたたかったのでエアコンもない時代ちょうど良かったし、猫も私の体温とふとんのおかげでスヤスヤ寝られ、気持ちよかったにちがいない。毎日時間になると、かならず枕元にやって来たのを思い出す。今考えると、私は湯たんぽ代わりに、猫に利用されていたのだと思い、苦笑する。ちゃっかりした動物である、猫というのは・・▼さて、主イエスは父なる神のふところにお住まいになっておられる神である。そこは御父のご愛といつくしみが直接伝わって来る場所であり、同時に御子の愛が御父の胸に伝わって行く、すなわち、いのちの交流がなされる場所なのだ。これは主がナザレのイエスとして地上に生きられたときも、何のさまたげもなく続けられていたと思う。「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。」(ヨハネ一四11・主がピリポに言われたことば)▼ラファエロという画家があるところを通りかかったとき、おさなごを胸に抱いた母親を見て親子の愛情に感動し、そこにあったタルの円いふたに絵具で描いた。それが聖母子像のはじまりだったといわれる。彼は好んで聖母子像を描いたといわれるが、それをもって何を言おうとしたのだろうか。御子と御父のいのちの交わりを表現したかったのではないか。三位一体の神の御本質は、互いの交わりの深遠さ、崇高さにある。そして私たちが被造物なのに、恵みにより、その交わりに入れられること、それこそが救われることのすばらしさなのだ。