しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の歌 <安息に入った喜び>

2024-11-14 | 聖書エッセイ
①人の知らぬ喜びを 我は味わいぬ 
        川の此方(こなた)カナンの地は ああげに天のごとし
②いま御霊に満たされて 我はまどいなく 
        常に歌い喜べり ああげに天のごとし 
③はるか遠き御国より 奇しき歌声の 
        妙(たえ)にひびき来たるなり ああげに天のごとし 
④やがて主イエスみ使いを ひきいて来まさば
        そのみ前にわれもあらん ああそこは御国ぞ
<折> ああげに天のごとし  ああげに天のごとし 
        入りしカナンは われにとり ああげに天のごとし 

                                <インマヌエル讃美歌328 人の知らぬ喜びを 詞:J・E・French,1903>
         *世界中の全キリスト者が、この喜びに入りますように!


朝の露 <主を呼び求めて>

2024-11-14 | 士師記
「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主を呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えてくださいました。しかし今、私は喉が渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』」(士師記15:18新改訳)

サムソンの超人的力は主の霊から出ていたため、ろばのあご骨で一千人を打ち倒すという信じられないような結果がもたらされたのである。だがその直後、ふつうの人にもどった彼ははげしい喉(のど)の渇きをおぼえ、主に祈り求めたため、主は泉を湧き出させ、それを飲んだ彼は助かった。▼私たちは、聖霊に満たされたとき、人が驚くような実を結ぶことがある。だが、それは神がなされるもので、栄光を主に帰し、自分はどこまでも弱い普通の人間であることを告白すべきだ。一千のペリシテ人を殺しまくったサムソンを、イスラエル人たちは驚嘆(きょうたん)してながめ、士師として認めただろう。しかし渇いて息もたえだえになり、憐れみを求めて神に祈っている姿も、まちがいなくサムソンであった。信仰者は、自分の姿を見て、どちらをも受け入れなければならない。▼「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5同)