ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死んだ」教皇聖ピオ十世|聡明で剛毅の方。教皇の使命は信仰を強めること。

2023年09月28日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼



教皇、聖ピオ十世、聡明で(上智をもった)剛毅の方。
ビルコック神父様(G.Billecocq)
2023年09月4日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて。
親愛なる兄弟の皆様、

聖ピオ十世の祝日にあたり、この偉大な教皇の聖性は、教皇ピオ十二世の下で行われたこの日のミサ典文に要約することができます。この祈祷の中で、まず第一に、教会は教皇の使命を思い起こさせます。集祷文にあるように、教皇の使命は信仰を強めることです。

教皇は、我らの主、イエズス・キリストの目に見える代表者である聖ペトロの後継者であり、イエズスは教会の創立者であるだけでなく、目に見えない頭でもあり、教皇は地上におけるイエズスの代理人にすぎません。つまり、教皇は、イエズス・キリストご自身が使徒たちに伝えたもの、すなわち、私たちの魂を養い、永遠に導くために必要な信仰の預かり物、啓示されたものを伝えているにすぎないのです。

そして、この同じ祈祷の中で、教会は教皇聖ピオ十世がこの信仰の預かり物を与え、それを完全に伝え、つまり真理を伝えるだけでなく、それを守ることにおいて輝いた美徳を強調します。聖トマスが言うように、これは継承における第二の側面であり、誤謬からこの信仰を守ること、すなわち、誤謬を糾弾することによって誤謬を非難することでもあります。

教皇、聖ピオ十世には二つの特質があります。第一は天の上智。二つ目は使徒的な剛毅です。

そして、興味深いのは、今日の祈祷の最後に、聖ピオ十世に倣うようにとありますが、たとえ私たちが教皇でなくても、私たちは皆、この信仰によって救われることができるように、信仰の完全性を守る使命をこの下に持っているのです。

まず第一に、天の上智(智慧)です。上智とは何でしょうか?上智とは、真理を知ることであり、真理を愛することです。
上智は一言で言えば語源的にいうと「味わうこと」です。上智とは、天主のものを味わうことです。賢者とは、聡明な方は教理である神聖な食物、すなわち信仰を味わう人のことです。

だからこそ、すべての天の上智には、この二つの要素が必要なのです。第一に、知識、啓示された教義に関する知識です。司祭は神学校で学ぶ間に啓示された教義について学びます。ルフェーブル大司教様が私たちに与えてくださった6年間、最初の1年間はフラヴィニーで、残りの5年間はエコンで学びました。健全な哲学は健全な神学の正しい土台です。そして、その下に台座のように、堅固で強固な哲学がなければ、長期的に持ちこたえることのできる真の神学は存在しません。

ですから、私たちにとって、この知識は神学です。しかし、親愛なる兄弟の皆様、皆様にとって、この知識とは、それぞれの能力に応じて、それぞれの時代に応じて、聖なる教義を学ぶことです。簡単に言えば、カテキズム(公教要理)を知ることです。すべてのカトリック信者はカテキズムをすでに知っているはずです。そして、同じカテキズムを、おそらく説教を通して、おそらく勉強を通して、おそらく講座を受けることによって深めることです。ここでは、この教会が多くの講座を提供しており、もちろん、信仰のために招待され、お勧めします。

残念なことに、第二バチカン公会議以来語られてきた教会の危機は、公会議ほど残酷にはいきなり到来しませんでしたが、多くの知識人、そして残念ながら聖職者の中の多くの知識人の無知の中に、こういった教会の危機が根を下ろし、無知は教会の危機を養い、準備しました。

無知のせいで盲目となるため、教義上、教会上の問題において、無知はおそらく最悪の事態の一つです。私たちの主はすでにファリサイ人の無知を糾弾し、盲人が盲人を導き、両者が落とし穴に落ちると述べておられます。

だからこそ、親愛なる兄弟の皆様、私たちはこれまで以上にこの無知を克服する必要があるのです。
現代での無知は最大であり、おそらく歴史上のどの時代よりも最大です。今日私が話しているのは、もちろん教義上の無知についてです。なぜなら、今日の正常の聖職者たちでさえ、教義、道徳、秘跡、そして人間に対する助言の問題において、この無知を見出すからです。

このような知識は、真の上智、天主の上智、この集祷文の中で語られている天の上智を確立するには十分ではありません。この知識は、既知の真理を愛することにほかならない志向を伴っています。つまり、カトリック信者は、神学的な推論をつなぎ合わせ、真理を結びつけることのできる純粋な頭脳の持ち主ではありません。

カトリック信者とは、単にカテキズムを知っている人ではなく、カテキズムの真理を味わう人なのです。もちろん、知っていることそれは良いことであり、美しいことですが、それだけでは十分ではありません。この教義に従って生きるには、この教義を愛し、この教義を味わわなければなりません。教義を愛するためには、時間をかける方法を知らなければなりません。ただ勉強するだけでなく、黙想する時間も必要です。


私たちに提供された真理を黙想し、天主の臨在の中に自分の身を置き、天主の内に生きるための時間を取るのです。親愛なる兄弟の皆様、私たちはまだ非常に活動的な時代にいます。というのも、活動主義は霊魂をこの世のものに、時には物質主義に、あるいはとにかく物質的な悩みに陥れるからです。

活動主義は司祭を脅かし、司祭職を脅かし、すべての霊魂を脅かす危険です。そして、このような心配事は、霊魂が持つべきすべてを支配してしまい、最後には、本質的なもの、すなわち、イエズス・キリストの愛に満ちた知識を窒息させてしまうのです。だからこそ、この天の上智において、聖ピオ十世がご聖体の前で過ごした時間、お祈りに費やした時間、天主の御前で過ごした時間の中で輝いていたことを理解しなければならないのです。天の上智とはこのことです。

聖ピオ十世はこの集祷文の中で、その使徒的な剛毅の模範として挙げられています。

実際、どのような指導者であれ、教会的な問題、特に教皇の問題については、決断を下すために強くなければなりません。聖ピオ十世がそうであったように、このような決断は、ときには他の地上の君主や国家元首と対立するものであり、周りの皆の意見と必ずしも一致しない決断であり、時には特定の国家から軽蔑されるような決断であるため、よく痛みを伴います。

聖ピオ十世はこの使徒的な剛毅で輝いていました。このことは、フランスの歴史を見ればよくわかります。しかし、その剛毅とはどのようなものだったのでしょうか?聖トマス・アクィナス曰く、剛毅の対象は恐れであり、危険に対する恐れです。

そして、位階制における地位が高ければ高いほど、権威があればあるほど、自分自身より人々を疎外することへの恐れ、誤解されることへの恐れが大きくなることは確かです。聖ピオ十世はこの恐れを克服しました。どのように克服したのでしょうか?

まず第一に、恐れは現世的な計算の上に成り立つものですが、聖ピオ十世はこのような単純な計算を求めることはありませんでした。聖ピオ十世は教会に権力を求めることもありませんでした。私たちは、彼が教会の位階制の中でどれほど高いところに登ったかを知っていますが、彼が決してそれを求めなかったことも知っています。教皇庁で働くためには、しばしばローマで学び、各省に入らなければなりません。聖ピオ十世の場合はそう単純ではなかったのです。最初はただの助任司祭でした。その後、小教区の主任司祭となり、教会の位階制を一歩一歩登り、司教、ヴェネツィア枢機卿、そして最終的には教皇となったのです。

聖ピオ十世は、この世のものを嗜むことはありませんでしたから、この世のものを失うことも恐れませんでした。彼の墓碑に刻まれた言葉は非常に明確です。「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死にました」と。この世のものは聖ピオ十世の霊魂にとって何の興味もないものであったからこそ、彼はこの世のものを計算の基準にしなかったのです。

この世のものに執着すればするほど、それが物質的な所有物であれ、自分の名声であれ、(私たちがそれらに執着していることは天主もご存じですし、それはごく普通のことですが)そして、私たちが天主の敵を恐れれば恐れるほど、私たちは彼らに服従する羽目となります。聖ピオ十世は決して彼らを恐れませんでした。

フランスに関して、豊富で奴隷的な教会よりも、貧しくとも自由な教会を選ぶという決断を下さなければならなかったとき、彼はテーブルの上に拳を叩きつけ、それによって彼の堅固さ、決断力、意志、そして実際、彼の剛毅を示したと言われています。そして、この使徒的な剛毅は、偉大な堅忍によって育まれるのです。この堅忍さは、一方では徳の実践を通して、他方では改悛と苦行を通して、善を行おうとする意志の中に見出されるのです。

聖ピオ十世は、その列聖の過程が示すように、すべての徳において知られています。聖ピオ十世の列福の文章を読み直すだけでも、彼が実践したすべての善徳を強調した素晴らしい文章を読むことができます。しかし、聖ピオ十世は、私たちが見て賞賛するような善良な教皇であっただけではありません。改悛と苦行の熱心で規則的な実践なしには、真の徳、すなわち、堅忍で、愛徳によって形成された徳さえも存在しないからです。

親愛なる兄弟の皆様、これが聖ピオ十世が私たちの模範であり、今日の集祷文が述べていることなのです。ルフェーブル大司教がこの偉大な教皇、そして歴史上、今日まで最後に列福された教皇を私たちの修道会の守護聖人に選びたかった理由もここにあります。

まず第一に、その天の上智、教義の知識、教義とイエズス・キリストへの愛のゆえでした。また、現世を軽蔑し、善徳と悔悛を実践することに根ざした意志の剛毅にもよることです。親愛なる兄弟の皆様、私たちも聖ピオ十世にこれらの同じ善徳を実践するようお祈りしましょう。この観点からすれば、聖ピオ十世が生きたのは20世紀の初め、今から1世紀以上も前のことですが、彼は今も私たちの美しい模範であり続けているのです。

聖ピオ十世は、その善徳のゆえに、私たちに模範としてふさわしいのです。聖母が、彼に倣い、信仰の完全性を保ち、善徳の堅忍な実践を通してそれを味わい、そうして永遠を得る熱意を与えてくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

March for Life 2023 : July 16th in Tokyo :March starts at 4:00 PM from Hibiya Library & Museum

2023年07月14日 | マーチフォーライフ


Come and join us in the March for Life !

In Tokyo, we will meet you in front of Hibiya Library & Museum, at 4 PM on Sunday, July 16th,2023
Thank you for your generous participation !

March for Life in Tokyo

March from Hibiya Park to Konyabashi Children's Park
Location: 1-4 Hibiyakoen, Chiyoda City, Tokyo 100-0012

Assembly : Hibiya Library & Museum
March starts at 4:00 PM from Hibiya Library & Museum
Place of dismissal: Konyabashi Children's Park

Save the human life before birth!
There is something you can do.
Walk with us and with Our Lady of Fatima!
Thank you!




Ave Maria!
My dearest Brethren,

I want to invite all of you to the March for Life on Saturday, July 1st in Osaka and on Sunday, July 16 in Tokyo.

Human life is a gift from God. Even parents do not have the right to dispose of the life of innocent baby in the mother's womb, because they just received the life from God, to take care of it. We have the duty to protect it. God's law is clear: Thou shalt not kill.

However, in Japan, 145,340 innocent human lives were taken away in their mothers' wombs in 2020 according to the Japanese government statistics. In other words, the number of abortions performed during the year 2020 was 145,340.
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_18838.html

Not only are there surgical interventions, but abortive pills which kill human lives. Life begins at the moment of conception. Not at the moment of implantation. The abortive pills have the effect of making mother's body so sick that fertilized egg cannot be implanted, or even if implanted, the egg would starve to death. Taking these pills is a criminal act against innocent life and against mother's wellbeing.

Official statistics show us that, in 2020, 11,058 abortions were done by mothers who were less than 20 years old. Abortion is not only against life, against the fifth Commandment of God : Thou shalt not kill. But it is also the ultimate sin against the 6th Commandment, which protects the transmission of life. Abortion is the ultimate refusal to transmit life.

This is the reason why it is so important now to remember the importance of Chastity. This angelic virtue of chastity protects the marriage, which is the proper place for transmission of life.

We want to march for life, in the name of these innocent lives and in their stead. They cannot ask for help. Our walk is their S.O.S. While marching, we will pray to God for the innocents whose lives are endangered. We ask Our Lady of Fatima to pray for the babies and for us, poor sinners.

We want to pray for the youth. Our young generations need to recognize the importance of purity and chastity. Hence the need for our prayers to Our Lady, Virgo fidelis, Virgo purissima, “Virgo paritura : the virgin that shall give birth” (by the operation of the Holy Ghost).

Let us beg the Mother of God and Our Mother, Blessed Virgin Mary, to have mercy on us.

Though our prayers during the march will be so little compared with our miseries, let us walk, trusting the powerful intercession of Our Lady.

マーチフォーライフ [2023] 7/16(日)東京:日比谷図書文化館から午後4時出発です

2023年07月14日 | マーチフォーライフ

アヴェ・マリア! 
愛する兄弟の皆様、来る7月16日(日)に東京で「マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)」が開催されます。この大切なイベントに皆さんをお招きします。


マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)に参加しませんか?
東京では、7月16日(日)午後4時、日比谷公園内図書文化館から出発
皆様のご参加をお待ちしております。


いのちのための行進:マーチフォーライフ
[マーチフォーライフ東京]・・・ 午後4時 
7月16日(日)午後4時に日比谷公園内図書文化館から出発 →数寄屋橋交差点を歩くデモ行進 →紺谷橋児童遊園で解散
(毎年、警察の皆様の誘導で安全に行進できます)
【所在地】〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1−4



あなたに、できることがあります。
生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、ファチマの聖母といっしょに歩いてください!


Silent Scream~沈黙の叫び」という短編映画があります。
妊娠11週の胎児が中絶される様子を超音波映像で撮影したドキュメンタリーです。
お腹の赤ちゃんは明らかに逃げまどいます。まるで恐怖の叫び声をあげるかのように・・・。
世界に先駆けて中絶法を制定した日本は「堕胎天国」と揶揄されてきましたが、それは今も変わりません。
実際の中絶件数は、公的報告件数の5倍あると言われています。
天主の創られた生命を、誰も中絶することはできません。
何千万という罪のない子どもたちの母の胎内での虐殺は天に向かって復讐を叫ぶ罪です。
私たちカトリック信者は、堕胎(人工妊娠中絶)に協力することはできません。
人工妊娠中絶を選択できることは、個人の基本的人権では絶対にありません。 堕胎(=中絶)によって、残念ながら、日本は日本のもっとも大切な自分の国民に対して戦争を行っています。
統計によると、日本では67年間の間に3,846万人の赤ちゃんが堕胎(=中絶)されました。
『一九九五年八月十五日に』(朝日新聞社文庫)によると、日本の戦死者は軍人と民間人を合わせて、310万人でした。
日本では、「戦後」、第二次世界大戦の12倍の殺害を、自国民にする戦争を始めてしまいました!
ファチマの聖母マリア様、赤ちゃんに対するこの世界最大の戦争を終わらせて下さい!

マーチフォーライフとは?

1973年に、アメリカは全州にわたってABORTION=人工妊娠中絶が合法になりました。この判決に疑問を抱いた市民が立ち上がり、翌年から「March for Life=マーチフォーライフ」が始まりました。判決のあった日にワシントンDCに集まる参加者の数が年々増えつづけるとともに、すべてのいのちを守る「Pro-Life=プロライフ」の価値観が草の根でアメリカ全土に浸透していきました。ワシントンDCの50万人デモ行進の影響は世界に及び、いまや各国で、中絶法を変えよう、産まれる前のいのちとお母さんを守ろうと訴えるマーチがおこなわれています。今年 2023年にアメリカは50回目

▼マーチフォーライフ アメリカ2023▼
https://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo/preview20?eid=50193f6d1a5dcbe6104994b3748b1c26&t=1684636542814

1948年、アメリカの中絶合法の25年前に、日本は世界に先駆けて中絶を合法化しました。この優生保護法が施行されてわずか4年間で中絶件数は10倍になり、年間の出生数に迫る数の中絶がおこなわれるようになりました。 2014年7月13日。日曜日の午後、国会をめざして日本で初めてのマーチがスタートを切りました。 わずか30名の有志による小さな小さな一歩ですが、とても勇気のある愛にあふれる一歩でした。それから毎年、7月の第二日曜日は、日本のマーチフォーライフ〜いのちのためのデモ行進の日になりました。 2023年に日本では10回目となります。

女性も男性も、大人も子どももいます。“中絶やめよう” プラカード代わりのうちわを掲げますが、声はあげません。産まれる前の赤ちゃんが声をあげられないように、マーチ参加者も静かに、でも、満面の笑顔で歩きます。お腹の赤ちゃんが、声はあげられなくても生きていることそれ自体を喜んでいるように。声なき行進は、祈りの行進でもあります。
さあ、あなたもファチマの聖母と一緒に、歩いてください!

ファチマの聖母のご出現から、2017年は100年目でした。 ファチマの聖母は、私たちに本当の平和を与えようとしておられます。
まず霊魂たちの天主との平和、そして、世界の平和です。
シスター・ルチアが1957年に言ったとされる、「ロザリオ」と「汚れ無き御心への信心」は、天主が人類に与え給うた、残された最後の2つの治療薬です。もしも私たちが、本当に平和を希求しているのなら、私たちは「聖母の汚れなき御心」に向かわなければなりません。これは絶対に必要な条件です。
【再掲】もし、私が胎児だったら?
『胎児も立派な人間です』 1.生物学的証拠 2.医学的証拠
『胎児も立派な人間です』 3.心理学的証拠


March for Life 2023 : July 1st in Osaka , July 16th in Tokyo

2023年05月21日 | マーチフォーライフ


Come and join us in the March for Life !

In Osaka, we will meet you in front of Osaka City Hall, at 3 PM on Saturday, July 1st.
In Tokyo, on Sunday July 16, Details coming soon
Thank you for your generous participation !



▶▶▶March for Life in Osaka on Saturday July 1st, 2023,

The march is about 4 km from Osaka City Hall up to Namba along Midosuji Avenue

Location: Osaka City Hall, 1-3-20, Nakanoshima, Kita-ku, Osaka City
Assembly : Nakanoshima Park next to Osaka City Hall at 2:30 PM

[Access] Beside Yodoyabashi Station on the Osaka Metro Midosuji Line/Keihan Railway's Keihan Main Line (Exit No.1) or
Beside Oebashi Station on the Nakanoshima Line of the Keihan Railway (Exit 6)

March starts at 3:00 PM from Osaka City Hall
Distance of walk : approximately 4 km
Place of dismissal : Namba (after Takashimaya Department store)


▶▶▶March for Life in Tokyo : on Monday July 16th, 2023, Details coming soon


Save the human life before birth!
There is something you can do.
Walk with us and with Our Lady of Fatima!
Thank you!




Ave Maria!
My dearest Brethren,

I want to invite all of you to the March for Life on Saturday, July 1st in Osaka and on Sunday, July 16 in Tokyo.

Human life is a gift from God. Even parents do not have the right to dispose of the life of innocent baby in the mother's womb, because they just received the life from God, to take care of it. We have the duty to protect it. God's law is clear: Thou shalt not kill.

However, in Japan, 145,340 innocent human lives were taken away in their mothers' wombs in 2020 according to the Japanese government statistics. In other words, the number of abortions performed during the year 2020 was 145,340.
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_18838.html

Not only are there surgical interventions, but abortive pills which kill human lives. Life begins at the moment of conception. Not at the moment of implantation. The abortive pills have the effect of making mother's body so sick that fertilized egg cannot be implanted, or even if implanted, the egg would starve to death. Taking these pills is a criminal act against innocent life and against mother's wellbeing.

Official statistics show us that, in 2020, 11,058 abortions were done by mothers who were less than 20 years old. Abortion is not only against life, against the fifth Commandment of God : Thou shalt not kill. But it is also the ultimate sin against the 6th Commandment, which protects the transmission of life. Abortion is the ultimate refusal to transmit life.

This is the reason why it is so important now to remember the importance of Chastity. This angelic virtue of chastity protects the marriage, which is the proper place for transmission of life.

We want to march for life, in the name of these innocent lives and in their stead. They cannot ask for help. Our walk is their S.O.S. While marching, we will pray to God for the innocents whose lives are endangered. We ask Our Lady of Fatima to pray for the babies and for us, poor sinners.

We want to pray for the youth. Our young generations need to recognize the importance of purity and chastity. Hence the need for our prayers to Our Lady, Virgo fidelis, Virgo purissima, “Virgo paritura : the virgin that shall give birth” (by the operation of the Holy Ghost).

Let us beg the Mother of God and Our Mother, Blessed Virgin Mary, to have mercy on us.

Though our prayers during the march will be so little compared with our miseries, let us walk, trusting the powerful intercession of Our Lady.

命のための行進:マーチフォーライフ [2023] は、7/1(土)大阪と、7/16(日)東京で開催です!

2023年05月21日 | マーチフォーライフ

今年2023年も、東京と大阪でマーチフォーライフが開催されます。

アヴェ・マリア! 
愛する兄弟の皆様、
7月1日(土)には大阪で、7月16日(日)には東京で「マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)」が開催されます。この大切なイベントに皆さんをお招きします。

マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)に参加しませんか?
大阪では、7月1日(土)午後3時、大阪市役所から出発
東京では、7月16日(日)詳細は近日掲載!
皆様のご参加をお待ちしております。


いのちのための行進:マーチフォーライフ
[マーチフォーライフ大阪]・・・7月1日(土) 午後2時半に大阪市役所のとなり、中の島公園女神像まえに集合です。
午後3時に大阪市役所まえを出発 → 難波までの約4㎞、御堂筋を行進します(毎年、警察の皆様の誘導で安全に行進できます)
【所在地】大阪市北区中之島1-3-20
【アクセス】●Osaka Metro 御堂筋線・京阪電車京阪本線「淀屋橋」駅下車すぐ(1番出口)
●京阪電車中之島線「大江橋」駅下車すぐ(6番出口)


[マーチフォーライフ東京]・・・7月16日(日) 詳細は近日掲載!

あなたに、できることがあります。
生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、ファチマの聖母といっしょに歩いてください!


Silent Scream~沈黙の叫び」という短編映画があります。
妊娠11週の胎児が中絶される様子を超音波映像で撮影したドキュメンタリーです。
お腹の赤ちゃんは明らかに逃げまどいます。まるで恐怖の叫び声をあげるかのように・・・。
世界に先駆けて中絶法を制定した日本は「堕胎天国」と揶揄されてきましたが、それは今も変わりません。
実際の中絶件数は、公的報告件数の5倍あると言われています。
天主の創られた生命を、誰も中絶することはできません。
何千万という罪のない子どもたちの母の胎内での虐殺は天に向かって復讐を叫ぶ罪です。
私たちカトリック信者は、堕胎(人工妊娠中絶)に協力することはできません。
人工妊娠中絶を選択できることは、個人の基本的人権では絶対にありません。 堕胎(=中絶)によって、残念ながら、日本は日本のもっとも大切な自分の国民に対して戦争を行っています。
統計によると、日本では67年間の間に3,846万人の赤ちゃんが堕胎(=中絶)されました。
『一九九五年八月十五日に』(朝日新聞社文庫)によると、日本の戦死者は軍人と民間人を合わせて、310万人でした。
日本では、「戦後」、第二次世界大戦の12倍の殺害を、自国民にする戦争を始めてしまいました!
ファチマの聖母マリア様、赤ちゃんに対するこの世界最大の戦争を終わらせて下さい!

マーチフォーライフとは?

1973年に、アメリカは全州にわたってABORTION=人工妊娠中絶が合法になりました。この判決に疑問を抱いた市民が立ち上がり、翌年から「March for Life=マーチフォーライフ」が始まりました。判決のあった日にワシントンDCに集まる参加者の数が年々増えつづけるとともに、すべてのいのちを守る「Pro-Life=プロライフ」の価値観が草の根でアメリカ全土に浸透していきました。ワシントンDCの50万人デモ行進の影響は世界に及び、いまや各国で、中絶法を変えよう、産まれる前のいのちとお母さんを守ろうと訴えるマーチがおこなわれています。今年 2023年にアメリカは50回目
▼マーチフォーライフ アメリカ2023▼
https://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo/preview20?eid=50193f6d1a5dcbe6104994b3748b1c26&t=1684636542814

1948年、アメリカの中絶合法の25年前に、日本は世界に先駆けて中絶を合法化しました。この優生保護法が施行されてわずか4年間で中絶件数は10倍になり、年間の出生数に迫る数の中絶がおこなわれるようになりました。 2014年7月13日。日曜日の午後、国会をめざして日本で初めてのマーチがスタートを切りました。 わずか30名の有志による小さな小さな一歩ですが、とても勇気のある愛にあふれる一歩でした。それから毎年、7月の第二日曜日は、日本のマーチフォーライフ〜いのちのためのデモ行進の日になりました。 2023年に日本では10回目となります。

女性も男性も、大人も子どももいます。“中絶やめよう” プラカード代わりのうちわを掲げますが、声はあげません。産まれる前の赤ちゃんが声をあげられないように、マーチ参加者も静かに、でも、満面の笑顔で歩きます。お腹の赤ちゃんが、声はあげられなくても生きていることそれ自体を喜んでいるように。声なき行進は、祈りの行進でもあります。
さあ、あなたもファチマの聖母と一緒に、歩いてください!

ファチマの聖母のご出現から、2017年は100年目でした。 ファチマの聖母は、私たちに本当の平和を与えようとしておられます。
まず霊魂たちの天主との平和、そして、世界の平和です。
シスター・ルチアが1957年に言ったとされる、「ロザリオ」と「汚れ無き御心への信心」は、天主が人類に与え給うた、残された最後の2つの治療薬です。もしも私たちが、本当に平和を希求しているのなら、私たちは「聖母の汚れなき御心」に向かわなければなりません。これは絶対に必要な条件です。


『胎児も立派な人間です』 1.生物学的証拠 2.医学的証拠
『胎児も立派な人間です』 3.心理学的証拠


隠された十字架や御像

2023年03月30日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


隠された十字架や御像
プーガ神父様(D.Puga)
2023年3月26日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。親愛なる信徒の皆様、今日からご受難節に入ります。四旬節の一部ですが、四旬節中の頂点となります。今までの数週間はご受難節を準備するためにあります。公教会と一緒に、我らの主イエズス・キリストのご受難を再び追体験するのです。そして、その御死去を記念し、その三日後の日曜日の復活祭でご復活を祝うことになります。

公教会は喪を不思議な形で記念することになります。ご受難の節に入ると典礼上に変更が生じます。特に十字架や御像は紫色のヴェールで隠されます。昼間に、本教会を訪問しに来る人々はこの古い慣行の姿を見て驚くことが多いです。
この典礼上の慣行は非常に古くて、聖伝の典礼では厳格に守られています。新しい典礼では任意となってしまいましたが、とにかく古い慣行です。
初期キリスト教時代から引き継がれた改悛の精神を思い起こすための慣行です。



ヴェールの慣行についての質問を受けたら、以上のように答えましょう。

なぜなら、古代の教会では四旬節という期間は洗礼を受けようとする人々のための準備期間として重要な時期だったからです。これらの人々は典礼に与かってはいるもののまだ公教会の一員ではないのですね。
また、四旬節は公けに罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。つまり、重大な罪を犯して、しかも人々にとってあからさまな罪で、公けになる大罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。
四旬節の間、これらの深刻な罪を犯した罪人は改悛するように求められて、告解の秘蹟を通じて天主との仲直りを準備するための期間であり、その暁には復活祭のミサに再びご聖体拝領をできることになります。



四旬節の間にこれらのいわば「公けの罪人」は教会から排除されていたわけです。つまり、教会から追放されて、公教会の交わりから除かれて「破門」されていた状態でした。
時間が経つと、平信徒は自分も改悛して苦行することが相応しいと思いました。なぜなら多くの信徒は公けに罪を犯さなくても天主のみ前で重大な罪を犯すこともあるからですね。もちろん、これら罪人は見えていない罪人なので、罪であるかどうか判断しかねる場合が多いです。

このように、多くの信徒は罪人であることを意識して、公けに改悛する人々とともに、自分自身も改悛したいという気持ちがありました。そういったことから、四旬節の間に教会の内陣を隠す慣行が生まれました。教会の内陣には十字架や諸聖人の御絵、御像などがありました。古代なら、教会の中心にあった十字架の周りには諸聖人の御絵、御像は必ずといってもよいほどありました。

要するに、内陣の前に広い紫色の布を吊って、改悛という四旬節の期間に内陣が見えないようになっていました。つまり、四旬節の間は信徒たちは聖なる生贄、ミサ聖祭を見ることができませんでした。これはつまり、「私は罪人であり、ミサ聖祭にあずかる資格はない、天主の聖性に触れる資格はないことを認める」という想いを表すためでした。

このように、吊るされたヴェールは四旬節の最初から聖金曜日までありました。聖金曜日になったら、諸聖人の御像などは隠されたままでしたが、十字架のヴェールを外しました。つまり、聖金曜日になると、信徒の皆さんは十字架だけは見られるように助ける典礼上の工夫でした。
我らの主イエズス・キリストの十字架によってこそ、我々は改悛できるということを表すためでした。

聖金曜日、聖土曜日の間、教会にあるすべての十字架は見られるようになります。それは、天主の素晴らしい御愛を印す十字架であり、我らの主イエズス・キリストの御死去を思い起こさせる十字架です。イエズスは我々のために犠牲になり給うたほどに我々を愛し給うたことを思い起こさせる十字架です。また、今日もイエズス・キリストはもう一度十字架を担ってまで我々一人ひとりの霊魂を救う覚悟があるほどの御愛だということを思い起こさせる十字架です。

そして復活祭の徹夜祭の最後、我らの主の復活を祝うときに合わせて、残りのヴェールを外します。諸聖人も見られるようになります。
それは、キリスト教徒たちの罪人はイエズス・キリストに従いながら行った改悛の末に、いよいよ天にいる諸聖人の通功に復帰したということを表します。

時代を追うごとに、内陣を隠す広いヴェールは覆われなくなりましたが、四旬節の最初からではなく復活祭になる前の二週間となるご受難節から十字架や諸聖人をヴェールで隠す慣行は現代まで残りました。

聖木曜日、聖金曜日と聖土曜日の典礼にあずかれるのなら、是非与かってくださいね、以上の話が目で見えることになりますので。
聖金曜日の典礼では、十字架を荘厳に礼拝する儀式があります。十字架を礼拝する儀式の前に、助祭と副助祭の補佐をうける司祭が十字架のヴェールを外す儀式があります。そのあと、信徒は十字架を礼拝します。

それから、聖土曜日の徹夜祭にあずかるのなら、その途中ですべての御像のヴェールは外されます。それは、よい改悛の末に、再び諸聖人の通功へ復帰できるということを象徴します。天にある我々の故郷へ再び帰れるということを表すのです。

これらの典礼上のことは細かなことでしょうが、公教会はこのように多くの典礼上に工夫を尽くすことで、我々が典礼をよく体験できるように、またご受難節の間に教えられる真理をよりよく理解させるのです。

こうしてご受難節の間、四旬節の間、特に改悛のために尽くした苦行や、遷善の決心などをさらに頑張って努力して尽くしましょうということを助けるのです。

またそれよりも重要で、この世から一歩距離をおいて、現世から、またこの世の精神から離れるように、ご受難の二週間、現世にある多くの遊楽、忙しさから離れるようにと励ますのです。ご受難の節はちょうど14日間ですが、十字架の道行の14つの留に相当します。

親愛なる信徒の皆様、我々も自分の生活の中に、紫色のヴェールですべて空しい物事を隠しましょう。二週間ぐらい、我らの主、イエズス・キリストのご受難を黙想して、一致するように努力しましょう。
ぜひとも、それを努力するようにお勧めします。

そうするために、聖母マリアとともに、聖母マリアと一致して、祈りましょう。先ほど、お知らせにあったように来週の金曜日は哀れみの聖母マリアの祝日です。また聖マリアの七つの御苦しみとも言います。



十字架のもとに立っておられる聖母の祝日です。復活祭までの残りの時間を聖母マリアと一緒に過ごしましょう。
14日間あるので、例えばですが、十字架の道行の一留を毎日黙想することができます。

御哀れみの聖母と一緒に黙想しましょう。福音書の中に、イエズスの公生活になってから、聖母マリアに関する記述はほぼなくなります。公生活の最初、イエズスが起こす最初の奇跡の時、聖母マリアがいます。召使いに「何でもあの人の言う通りにしなさい」(ヨハネ、2,5)といいます。そして、それ以降、聖母マリアはあらわれなくなります。そして、聖母マリアはふたたび登場します。イエズスがすべての人々から見捨てられたときに、聖母マリアがいます。十字架の下に聖母マリアがいました。



想像してみください。童貞聖マリアの苦しみがどれほど大きかったか。自分の子が苦しめられて軽蔑されて誹謗されて拷問されることを見て、そして十字架上のイエズスの最期の叫び声が聞こえたとき、聖母マリアはどれほど苦しんだでしょうか。聖母マリアはご降誕の日、幼いイエズスを抱いて、赤ちゃんの最初の泣き声が聞こえたときと十字架の時との声、最初と最後にいたのが聖母マリアです。

親愛なる信徒の皆様、ご受難節を聖母マリアとともに過ごしたら、天主のみから来る安泰、平和のうちに我らの主イエズス・キリストのご受難節を過ごすことができることでしょう。

また、我らの霊魂が天主から見てどれほど貴重なものであるかをも理解するでしょう。
天主は、ご自身の御子なる我らの主イエズス・キリストを我らの霊魂の救いのために、我々の罪を償って天国の門を開けるために、送られるほどに我々の霊魂を大切なものとしてくれたのです。



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


カトリックにおいて、子供の教育とは?

2023年03月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ド・ジョルナ神父様(B. de Jorna)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼
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子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事
ド・ジョルナ神父様 
2023年3月19日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、福音書の中でも一番感動するだろうと思われる場面があります。イエズスが歩きながら使徒たちに何について話し合ったのかと聞きます。使徒たちはちょっと恥じらって答えません。なぜなら、使徒たちは誰が一番偉いのかについて議論していたからです。

聖マルコによると、イエズスはカファルナウムのある家に座って、使徒たちに仰せになりました。「「第一の者になろうと思うのなら、みなのあとになり、みなの召使いにならなければならぬ」といわれ、一人の子どもを彼らの真ん中に立たせ、その子の肩を抱き、「私の名のために、こういう子どもを受け入れる者は私を受け入れる。私を受け入れる者は私を受け入れるのではなく、私を遣わされたお方を受け入れる」といわれた」(マルコ、9,35-37)



教皇ピオ十一世は教育に関する回勅において、以上の福音書の場面はどの言葉よりもこの上なくよく、キリスト教的に子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事であることを表現しているといっています。イエズスご自身がご自分を子どもであるかのようにおっしゃった場面です。

ですから、福音書から明白に読み取れるように、我らの主は子どもの霊魂を非常に大切にしていらっしゃり、また教育はとても重要なことであると思っておられます。ピオ十一世がいうように、キリスト教的な教育は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事です。両親をはじめ、子どもを育てる責任のある者にとって子どもを育てるために全力をつくし、時間を与えて、すべての手段を尽くすことは最も偉大な仕事です。

良く成功する教育を与えるためには多くの状況があります。その内で一番重要なことがあります。学校の問題です。両親と学校との関係の問題です。

現代ならなおさら重要な問題です。なぜなら、学校はだんだん大きな一角を占めるようになっているからです。ご存じだと思いますが、最近、政府が決定した法律で、就学義務は六歳から三歳へ繰り下げられました。そして、ホームスクーリングは実質上禁止されました。

ピオ十一世は同じ回勅において、最も穏当なことを述べます。自然法上にも、カトリック的にも学校をどう見るべきか述べられています。引用します。
「学校は本質的に二次的制度に過ぎなくて家族と教会を補助するために存在する。それがゆえに、学校は家族と教会と反対してはいけないどころか、積極的に家庭と教会に和合する必要がある。このように、家庭と教会とともに、学校はキリスト教的な教育のために一つの聖域をなすべきことである。そうならなければ学校はその存在理由を全うしないで、その目的から外れて、かえって、破壊的な組織になっていく。」

カトリックの教えの中に、ご覧のように学校の存在が認められているものの、学校の立場は二次的にすぎない、次席にすぎない。主役ではなく脇役にすぎません。なぜなら、学校はあくまでも親の仕事を補助するためにあるだけだからです。ですから、道徳的にも理論的にもキリスト教徒の両親には、教育の責任があるので、学校を通わせるなら、カトリック学校に通わせる義務があるというふうに教皇は結論づけます。それは家庭、教会、学校の教育の一貫性を実現するために必要です。

しかしながら、どこにでも本当に徹底的なカトリック学校があるわけではありません。現実は厳しいです。なぜなら、19世紀末からカトリック学校は激しく攻撃され続けてきたからです。

非常に手短に要点だけを思い出しましょう。1880年、修道士の国外への追放令がありました。多くの修道士は教員で、学校施設を運営していました。例えばイエズス会、サレジオ会、ラ・サール会などはそうでした。
またそのちょっと後、フェリーとGoblet諸法は教育内容と教員たちの世俗化(無宗教化)を強いました。そして、1904年7月、Combes法があります。これをもって、フランス国内で、カトリック修道会が学校施設、教えることは厳禁されました。フランス滞在が合法化されている修道士も含めてです。またこれら修道会のすべての財産を没収することを命じる法律です。

これではカトリック系の教育は生き残るために、方便を見つけざるを得ませんでした。世俗者の信徒の助けを求めて、もともと教区から独立した修道会らは教区の加護のもとに自分を置かざるを得なかったのです。
幸いなことに、第一次世界大戦を経てから、これらの法律は適用されなくなり、カトリック学校は黙認されるようになって、第四共和政になったとき、一時的に公認されるときもありました。第五共和制の間、カトリック学校は一応その存在が許されていましたが、国家からは、何の保護も補助もなしでした。
一世紀半から、フランスにおけるカトリック学校の歴史を要約してみましょう。戦闘の歴史です。その存在を認めてもらうための政治上の戦闘の歴史です。国家など、公の助成金に頼らない、金銭上の戦闘の歴史でもあります。

この戦闘の歴史を代表的に象徴しているのは、聖ビンセンシオ・ア・パウロとルイーズ・ド・マリヤックとが創立した聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会があります。角頭巾のシスターたちとかつて親しく呼ばれていましたね。聖ビンセンシオ・ア・パウロによると、シスターたちは修道院は病者の家であり、禁域が町の通りだといいましたが、この修道会は多くの試練を通して現代まで生き残りました。

例えばですが、フランス革命の直後、多くの修道会の内に、愛徳姉妹会が最初に正式の存在を取り戻しました。また19世紀中に、愛徳姉妹会のシスターたちは子どもを治して、教えて、世話しつづけました。特に女性を。現代の誠意のある歴史家は19世紀における女性の識字化教育の発展の歴史は、愛徳姉妹会が重要かつ中心的な役割を担ったと認めています。

同じように、ジャン=バティスト・ド・ラ・サールが創立したラ・サール会またはキリスト教学校修士会があります。どれほど革命の混乱があっても、政治反乱があっても、迫害を押し付ける法律が出ても、戦い続けた修道会です。
二つの修道会とも、時には解体されたり、追放されたりしました。しかし、必ず戻ってきて、改めて組織化して、キリスト教的な教育を与え続けるために戦いました。

愛徳姉妹会の有名なシスターの事例を取り上げましょう。Jeanne Marie Renduですが、修道名はシスター・ロザリーです。19世紀の前半、54年間以上に、パリのムフタール通りの女性に教え、貧乏人の世話をし続けました。



現在はどうなっているでしょうか。
以上のような迫害の歴史があって、現代、本当に徹底的にカトリック的な教育を貫くカトリック学校すなわち国家契約を結ばない学校は少ないのです。このような学校を開校するのもほとんどの場合、利潤目的です。生き残って長生きするのは至難の業です。このように成功する学校を可能にさせるのは、毎年絶えない教員、両親、寄付者の寛大な気前の良さによるものです。

ここの小教区付属の学校、聖ルイ学校(昔は聖ベルナール学校)も一緒です。40年前に開校されましたが、最初は利潤目的でした。生徒の数は少なくて、教員と院長は若かったです。歴代校長ら、教員ら、両親と寄付者のすこぶる貢献によって、徐々に大きくなっていきました。1990年、中学校は郊外のクールブヴォアへ引っ越ししました。そして、小学校は当時と同じ場所にあります。聖ルイ学校は我々のための模範でしょう。よき天主さまは現代、我々に何を求めておられるかを教えてくださる事例でしょう。

我々はみな、よく、大きな「すべき論」を簡単にやるでしょう。キリスト教圏を再建築するためになにをすべきかなど、大きな夢を見ることが多いでしょうが、そのあまり、ときどき、善業は既に存在することが忘れられます。そしてこれらの善業を支えるべきことを忘れることもあるでしょう。この世に広まる悪はよき天主によって許可されているものの、よき天主は我々に戦うように求めておられます。既存の善を守り、増やすように戦闘することを求めておられます。

カトリック学校、とくに聖伝系のカトリック学校は既存の善業の中心なる部分を占めるに違いありません。なぜなら、将来があるからです。子どもの将来につなげるために、我々はこれらの施設を守り、増やしなければなりません。

ですから、毎年の通例のように、我々は皆さまの助けを求めに来ました。もちろん、物質的、金銭的な助けは必要です。我々の学校は両親が払う学費と寄付だけで成り立つわけです。そして、最近、建物などの改善事業を行っているので、必要です。

また、霊的な助けを求めます。なぜなら、我々がやっている教育の仕事は我々の力を超えているからです。キリスト教的にこどもを育てることにしていますが、そのために、超自然なる恩寵が前提です。このようなところは人間の力をはるかに超えています。一人前のカトリック信徒、大人を養成するためには、天主からの恩寵が必要です。それは皆さまの祈りにかかります。皆さまの助けのもとに、我々の学校は使命を尽くし続けます。

この使命は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事である子を育てることという大目的のために、家庭の補助のためにあります。皆さまにお頼りして、天主に信頼して、毎年のように皆さまの助けで足りることを祈っています。
よき天主は皆さまを祝福されますように。
そして施しの代わりに、よき天主からあふれるほどの恩寵を受けらえますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

四旬節には、まず愛徳を

2023年03月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、フラメント神父様(Frament)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


四旬節には、まず愛徳を
フラメント神父様 
2023年3月8日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生の皆さん、親愛なる信徒の皆様、本日、天主の聖ヨハネという聖人を祝います。ポルトガルに1495年ごろ生まれました。ちょうど、クリストファー・コロンブスがアメリカを発見した同じ時期です。天主の聖ヨハネは熱心なキリスト教の家族に生まれましたがとても貧しい家庭でした。

そして、不思議なことに、彼がまだ若かったとき、ある旅人が家を訪れました。そして、愛想のよいこの旅人はヨハネに一緒に行くように誘います。ヨハネの親はその提案を承認して、ヨハネを旅立つことをゆるします。この旅人を信頼したわけです。

そして数か月後、未成年のヨハネはスペインにいますが、独りぼっちとなってしまいます。自分の家を捜そうとしましたが、全然だめで、死ぬまでもう二度と親と会ったことがありません。これは彼にとっての最初の大試練でした。



そして、カール五世の軍隊に志願兵として入りました。そして、多くの兵士もそうであるように、その時、ヨハネは多くの罪を犯しました。兵士という身分なら、多くの誘惑があります。殺人でも略奪でも強姦でも売春の女性との不潔な関係でも多くの誘惑がある中に、きっとヨハネも悪い模範に引っ張られて罪を犯したでしょう。

そしてある日、ヨハネは非常にピンチとなりました。何かの重い違法行為、盗みだったと思いますが、嘘でしたが、だれかに訴えられました。彼の士官が彼を吊って殺すことを決定したとき、ぎりぎり彼を救った証人が出ました。その時、ヨハネは分かりました。どれほど人生は儚いことであるのかを知りました。かれはその時、地獄に落ちる直前までいたっていました。罪を犯しているままに死にそうになったからです。告解も改悛もよくできないままに急に死にそうになったわけです。

しかしながら、幸いなことにそうならないで、救われました。そして、そのあと、ヨハネはスペイン南部のアンダルシアにあるグラナダに行きました。そして、ある日、当時、襲名な説教者として知られているアビラの聖ヨハネ神父のお説教をたまたま聞くことになりました。改悛と天主への愛についてのお説教でした。

この説教を聞いて天主の聖ヨハネは教会を出たら大声で自分の罪を悔い改めて涙を流すほどに感動しました。かれは「私は大罪人です」と叫んでばかりいたので、周りの人々から彼は狂人ではないかという扱いを受けました。
その結果、彼は逮捕されて、精神病棟に押しこまれました。縁のない狂気の沙汰として扱われたので、彼を癒そうとして、相当大変な「治療」をうけました。当時、水を顔に投げたり、殴ったら発作は鎮まるだろうと信じられていた時代でした。

そして少し時間が経ったら、かれは正気であることに気づかれて、保護所から解放されました。
しかし、この経験はヨハネに強い印象を残しました。つまり狂人といわれる人々はこれほどひどい目に合わせられて苦しみを受けるということを知ったからです。

そして、その時から、貧しい人々へ眼を傾けるようになりました。まず、冬に備えて、また一年中パンが焼けるように、貧しい人々のための薪を拾って配ってあるいていました。最初、皆、彼をにらむような視線でみていましたが、少しずつそれも変わって、良い模範がひろまるかのように、他の人々も彼に倣って一緒に貧しい人々を助けることになりました。



そして、グラナダの人々から多くの施しをいただいたおかげで、貧しい人々のために家を購入しました。最も死にかけている貧しい人々のための避難所でした。ヨハネは母親のように貧しい人々の世話をしていました。身体だけではなく、霊魂の世話もしていました。いつもいつも良き天主の話をしていました。そして彼の愛徳と柔和に多くの貧しい人々が感動して回心しました。

本日の集祷分では、天主の聖ヨハネの人生の中の有名な場面を思い起こします。
グラナダである日、ある家が火災となります。火災の家に閉じこめられた数人の霊魂がいます。聖霊につき動かされて、ヨハネは火の家へ入ってゆき、皆を救いました。そして、何の傷もなく、ヨハネは家から出てきました。多くの人々は教会もこれを見て、奇跡的に天主の御助けがあったと見ました。普通ならば、このような大変な火災の家に入り込むと死ぬしかなったからです。
彼の愛徳の報いとして、その時、無傷で家から出られました。やけども一つもなかったのです。まさに奇跡でした。
天主の聖ヨハネは後に、「病院の兄弟たち」という修道会を創立しました。

親愛なる信徒の皆さま、この聖人はとても立派な愛徳の模範をわれらのために遺しました。とくに四旬節の間なら、なお大切な模範です。
四旬節の愛、多くの遷善の決心をして、犠牲など、自分の霊魂の救いを中心に考えることが多いでしょう。しかしながら、隣人をも考えるべきです。もちろん、自分の罪を償い、自分の事情で妥当な犠牲、それから多くの祈りをお捧げするのは最低限です。

しかしながら、使徒的活動をも視野に入れるべきです。ご存じのように、この世で我々は独りぼっちではありません。多くの社会、グループに属します。

隣人とは、まず家族と親戚です。また小教区の教会です。また大学のサークルや職場なのです。隣人への愛徳は近い順で行うことです。四旬節になって、自分を考えてから、隣人をも考えるべきです。愛徳と聖徳における完成、上達は矛盾しないどころか、一緒に発展していくのです。隣人への愛徳を施すことによって、自分の聖化を助けるわけです。

これから四旬節は一か月ぐらいで終わるのであっという間になりますので、全力で頑張りましょう。
すでに犯した罪への償いと祈りの上で、隣人のために何かの遷善の決心をとることを提案します。例えば、毎日、隣人への愛徳の行為を一つ行うとかいろいろあります。隣人への愛徳は具体的にいろいろできます。乞食に施しをあげるか、ちょっと悲しげな人へほほえみを送るか笑顔で接触するか、ちょっと疲れていてつまらない話がされても、相手をよく聞くとか、近所の人の何かの手伝いするとか、小教区の手伝いとか、多くあります。
やりやすいこともいっぱいあります。そうすると、教会全体のためにも自分のためにも多くの恩寵をいただけます。

ですから、天主の聖ヨハネに祈りましょう。思いにおいても言葉においても行動においても愛徳を施せるように。
隣人愛を実践するために、遠く海を渡って旅立つ必要はありません。我々のすぐ近くに惨め、悲しみ、貧しさはいっぱいあります。パリなら大変です。自分の家族でもときにあるでしょう。我々のできる範囲で、愛徳を施しましょう。霊的な手伝い、物質的な手伝い、つまらない人々へ忍耐、天主の聖ヨハネに倣って愛徳をほどこしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


聖パトリックと大鍋

2023年03月21日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


青銅のへび
D.Puga神父  
2023年3月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、いま、四旬節の最中であり、ご覧のように聖人の祝いは次席にとどまっているところがあります。聖人の祝日は四旬節の期間中は、典礼上にその記憶にとどめて、個別のミサを捧げないことになります。

本日、あさっての3月17日に祝われる聖人について話したいと思います。聖パトリックです。アイルランドの守護聖人です。アイルランドはかつてまでとてもカトリック的な国でした。聖パトリックはケルト族のアイルランドという島へ福音を運んだ宣教師です。

なぜ聖パトリックについて特に今日、話すことにしているかというと、3月17日になると、パリをはじめ世界の多くの場所で、聖パトリックの祝日ということで、ビストロでもバーでもパブでも結構、賑やかにすることが多いです。しかしほとんどの人々は聖パトリックが誰なのかなどよくわかりません。なぜ、聖パトリックになってこのような祝いをするのかもほぼ誰も知らなくなりました。

ですから、聖パトリックはアイリッシュ・コーヒーと緑色の帽子だけではないことを知っていただくために聖パトリックについて話しましょう。

聖パトリック現在のグレート・ブリテンのどこかで生まれました。おそらく現在のスコットランドの境界に近い辺りだったと思われますが、定かではありません。四世紀中葉に生まれました。372年でした。372年だと、ローマ帝国がカトリックを国教化して間もないころです。そして、そのころ、ローマ人は少しずつグレート・ブリテンから撤収しはじめます。大陸における防衛を強化するためでした。大きく言うと、ローマ帝国のいわゆる衰退の最初の最初ですが、このような衰退は先ず遠隔地、周辺地あたりから最初の兆候が確認できます。



聖パトリックはキリスト教の家庭に生まれましたが、彼自身が後世になって、不当に中傷されたため、それに応えるために、回顧録を書きましたが、その中で聖パトリックは明かします。少年時代は、キリスト教の信仰にあまり熱心に生きていなくて、忍耐強く実践しなくて、覚悟を持った信仰生活ではありませんでした。彼の家庭は敬虔なカトリックのようではありましたが、聖パトリックをはじめ、多くの少年は親に倣わなくてあまり熱心ではありませんでした。天主のお言葉をあまり実践していなかったのです。

司祭などはいつも少年たちにハッキリと真理を述べて警告していたのにもかかわらずです。つまり、天主の掟を無視して生きていったらいずれ罰せられるだろうと司祭たちははっきりと教えていたのに、聖パトリックはそれを無視しました。

しかしながら、16歳になると、ローマ人が時々、何かあって大きな島から撤収したり戻ったりしていた時期ですが、アイルランドから来る海賊が結構、はびこるようになっていました。これらの海賊は海岸をよくせめて、人々を拉致してそして奴隷として売買していました。囚われていた人々は特に若い人々でした。

そして、ある日、パトリックはその目に合わせられました。アイルランド人の海賊の一味に拉致されました。アイルランドで売られて主人から任せられた仕事は家畜の群れの番でした。そして夜になると、パトリックは牢屋に入れられて、鎖にも縛られて逃げられないようにされていました。聖パトリックは後で明かしましたが、奴隷になったおかげで、いろいろ考えることが多くなりました。この奴隷生活は六年間ほど続いたのですが、その間に、いろいろ自分の人生の意味について考えました。また、若い時に司祭たちが説教していたことを思い出しました。

「我々は夢の中に生きているかのように自分をごまかす。今日も明日もいつまでも楽しい日々が続くだろうと思い込んでいたが、一瞬で拉致されて、奴隷におちいって、非常に厳しい拘束される生活が強いられた」というようなことを思いおこしました。
ケルト族の性格は火のように燃えて、きつくて、強くて、そこでの主人らは非常に厳格だったとされています。また、アイルランドで一番広まっていた宗教はケルトの民族宗教でしたが、多神教で、非常に残酷な宗教でした。人の生贄などを常にしていて、我々が想像しづらいところがあります。

22歳まで、奴隷生活を送っていた聖パトリックはいろいろ考えました。自分の不幸ではなく、主人をはじめとする周りにいる多くの異教徒の不幸を知り、憐れみました。異教徒はキリストの掟と全く反対の掟の中に生きている結果、格好良くしようとしても、皆、悲しいということを目撃しました。自分よりも、奴隷よりもはるかに不幸なことだとおもい知りました。愛徳も信徳も望徳もない人生は不幸です。

アイルランド人たちは多神教に非常に慣れ親しんでいて徹底的に実行していたので聖パトリックはその現実と遭いました。
そしてある日、聖パトリックは逃亡しました。海岸まで行って、異教徒の船で雇われて、この船はガリアへ犬を運んでいました。アイルランドの訓練された犬は帝国中で攻撃力のある番犬としてとして高く評価されていました。

このようにして聖パトリックは何とかフランスへ着きましたが、船で主人らにかなりいじめられました。そしてまた逃亡して、本当に自由になれました。22歳でしたが、どこへ避難したかというとフランス南部へ行きます。なぜなら、犬の搬送はイタリア半島を目的地にしていましたので、カンヌあたりで、聖パトリックは逃亡したのです。レランス諸島へ避難します。そこには有名な修道院がありました。

そこで、信徳、望徳と愛徳の実践だけではなく、自己犠牲を捧げることを習い、また福音的勧告の実践に従いました。二、三年ぐらい、そこの修道院で修練しました。そして、理由はいまだに不明ですが、ローヌ川の谷を北方へ旅して、オセールまで行きます。そこに有名なる聖ジェルマンという司教がいました。聖パトリックは聖ジェルマンに奉仕することになって、司教から司祭職になるための養成を受けました。司祭となって10年か15年間ほど努めました。そして、聖ジェルマンは聖パトリックに司教聖別式を授けて、聖パトリックは司教となりました。

聖ジェルマンはよくローマにいる教皇と連絡していたものですから、聖パトリックを中心にした数人の聖職者のために、アイルランドへ宣教せよという召命を教皇から得ました。聖パトリックはずっと前からどうしてもアイルランドの異教徒たちのために尽くしたくて宣教しに行きたかったのです。それがいよいよ実現することとなり、司教としてアイルランドへ戻りました。

それからの一生を尽くして、粗暴な人だったと言わざるを得ないアイルランド人のための布教に尽くしました。ドルイド僧とよく論争して戦いました。人々はクランという部族単位で生きていました。

布教様式として、人々の回心を実現させるために、必ず部族長の回心を得なければなりませんでした。そして、部族長が回心したら、大体部族の構成員は回心していきます。近世になって、イエズス会が東洋への布教をしましたときに、同じような様式で宣教していきました。中国でも日本でもそうでした。

聖パトリックは多くの苦行と自己犠牲を果たし続けた暁に、すこしずつ部族長が回心していきました。聖パトリックは80-90歳まで長く生き、長年の使徒的な活動となりました。数人の司教を聖別して、また司祭などからしっかりとした位階制を建てて、また人々がドルイド僧の宗教を捨てる成果をもあげました。もちろん、そのせいで、ドルイド僧から強く嫌悪されました。聖パトリックは特に、ドルイド僧の悪魔的な儀式や魔法などと毅然とした態度で戦い続けました。その結果、いろいろ苦労しましたが、勝利しました。

そして、強固な異教の国からカトリックへの国となっても、アイルランドでの布教の特徴はほとんど流血を伴った迫害が異教から発生しつづけました。もちろん、虐殺とか、あったりしましたが、アイルランドの場合、キリスト教徒を破滅するためというより、いわゆるいつからもあったような単なる暴力沙汰であったという特徴があります。あともちろん、迫害もありましたが、ローマ帝国のような大掛かりな迫害とか、日本での徹底的な迫害とかのような、大体の場合、大掛かりな迫害は、アイルランドの場合はほぼありませんでした。

聖パトリックは非常に柔和でした。しかしながら同時に厳しかったです。どうしても真理を人々に伝えたくて、人々を真理へ導くように全力を尽くしました。
ご存じのようにアイルランドの徽章はクローバーです。なぜでしょうか。
聖パトリックに由来しますが、聖パトリックが公教要理を教えていた時のことから来ます。聖パトリックが信徳がまだない、多神教なる異教徒に向けて三位一体という最も説明しづらい玄義を教えていた時に、クローバーという例えを使っていました。



聖パトリックの御像には必ずクローバーがあります。三つ葉のクローバーですね。三位一体を説明するためにこういっていました。クローバーは一つしかないが、葉っぱ三つあります。三つの葉っぱは完全同じです。聖なる三位一体の三つの位格も完全におなじです。しかしながら、三つの葉っぱともちゃんと区別できます。しかし、花としてのクローバーは一つしかありません。三つの葉っぱからなる唯一なクローバーというたとえで、三位一体を説明していました。また、一つの葉っぱを除いたら、もはやクローバーといいません。
もちろん、このたとえはたとえに過ぎなくて三位一体の現実からは遠いですが、一応すっきりとした説明で、現代まで教会の中で、三位一体を教えるために有名な説明として残っています。

親愛なる信徒の皆さま、我々にとっても非常に重要なことです。三位一体という玄義は我々の信仰の礎です。ところが玄義の中でも一番不思議で、我々の理性を超えている玄義でもあります。

三位一体は間違って理解しやすいです。過剰にとらえてしまうと、神が三つあると思い違ってしまい、多神教となってしまいます。そして、もともと多神教だったケルト人たちには、そうならないように特に注意する必要がありました。

また、三つの位格の絶対的な同一性を強調するあまりに出てくる誤謬もあります。三つの位格の絶対的な同一性は福音書において主が仰せられています。「私と父とは一つである」(ヨハネ、10,30)。それを強調するあまりに、三つの位格の区別を否定してしまい、その挙句に、三つの位格といっても、同一の位格をちょっと違う視点で見たに過ぎないという誤謬になって、三位一体ではない一神教という誤謬になります。自然宗教系の誤った一神教となります。つまり、ユダヤ人とイスラム教徒のように、天主からの天啓を否定するか、無視するかという羽目におちいります。

ですから、求道者や信徒に三位一体という最も重要な玄義を説明するためには、誤解を与えないように、どちらの誤謬にもおちいらないように、工夫して旨く説明する必要がありますね。その中で、聖パトリックは有名な説明を残して、彼の宣教の結果、人々は全員が回心しました。重要なのは三位一体という玄義は、理性で、頭ではいつまでも理解尽くせないものになるということです。我々をはるかに乗り越える天主の現実を示すからです。三位一体はいつまでも玄義です。

また聖パトリックはどういう人であるのかを感じさせるために、彼の人生の中の一つの面白い話を取り上げましょう。
ある日、ある丘で、聖パトリックは聖堂を建てることにしました。そのために、そこの部族長の許可を仰ごうとしたら、部族長から拒まれました。絶対に建てるなと。時間がしばらくたって、この部族長が病気になったと聖パトリックは聞きました。この部族長のために特別に祝別した聖水を彼のもとに届けさせました。部族長は聖水を貰って、掛けたら、大変よく回復しました。

感謝の意を込めて、部族長は礼として大鍋を贈りました。まあ、我々現代人から見たら、大鍋といってもあまり貴重品ではないと思われるかもしれないが、当時は大鍋ということは貴重品でした。また日常生活上も必需品でした。ケルト製の大変華麗な大鍋はこのように聖パトリックへ贈られました。部族長が召使いを送って、大鍋を届けさせますが、召使いは部族長のもとに戻って、部族長はどうだったのかなど報告を求めますね。なにか、私が贈った大鍋にお気入りだったのかなというような質問でした。

召使いは「聖パトリックが「Deo Gratias(天主に感謝!)」と言いました」と報告しました。
それを聞いて部族長は自尊心を傷つけられたというか、なんか「これだけの感謝言葉か、私が苦労してよいプレゼントを用意したのに返礼もないし」と怒って、召使いを再び、聖パトリックのもとに派遣して、大鍋を返してもらえと命じました。ちょっと困った召使いが聖パトリックのもとに行って、返してもらって部族長のところに大鍋をもって帰りました。また報告でしたが、部族長から「さあ、聖パトリックはなんといったのか」と聞いて、召使いは「Deo Gratias(天主に感謝!)と言いました」と報告しました。

以上の聖パトリックのちょっとした話ですが、そこには彼の現世利益に対する無関心が現れています。ヨブの模範したかったことですね。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1,21)
ヨブがこれを行ったときは、生命についてのことでした。大鍋のような品物ではなく、生命のことでした。これはキリスト教徒がとるべき基本的な態度です。キリスト教徒なら、すべては天主から与えられていることを知っているからです。ですから、天主から与えられたものを取り戻されたら、理由があって、より大きな善のためであるとキリスト教徒が知っているからです。

数年前の思い出をはなしましょう。若い夫婦でしたが、すでに二人の子がいましたが、三人目の娘がうまれたばかりでした。彼らはとても喜んでいました。しかし、娘は敗血症という深刻な病気でした。赤ちゃんで、治療しづらいところまで行っていました。そして心臓発作が併発して、蘇生のための救急医療で医者たちは頑張りました。数日だけの生まれたばかりの赤ちゃんでした。
その中で、敬虔だったこの夫婦は一緒にいた司祭に言いました。「我々はうれしいです。天主から授かれてうれしかったです。天主が娘を呼び戻すというみ旨なら、天主のみ名が祝されるようにといいました。」
そして、天主のみ旨はこの時、娘を呼びもどすことではなく、遺し給いました。娘は救われました。いまは、この娘は大人となり、多くの子どもを産みました。

ご覧のように、我々は常に天主のみ摂理への従順を増やす必要があります。でもこの天主のみ旨への従順はいわゆる愛をこめての従順でなければ意味がありません。天主は独裁者ではありません。独裁者だから、従わざるを得ないような暴君ではありません。我々は天主の奴隷ではありません。
我々は天主の子たちです。ですから父を愛して、頼まれることに愛している故に従って、送られる試練などを受け入れます。我々を憐れみ給う天主が用意し給た試練であることをよく思い出しましょう。ですからその試練は我々の善のためにあります。

聖パトリックはこのように愛徳と柔和と福音的な善行を施したおかげで、アイルランドをカトリックへと導きました。そしてアイルランドは大変に長い間にカトリック国のままでした。

そして聖パトリックは隣人に対していつも柔和でしたが、自分自身に対して非常に厳しかったです。例えば、凍ったような水風呂に入るような非常に厳格な苦行をしていました。それは厳しすぎる苦行といえるかもしれません。これに由来して、アイルランド系の修道会の伝統は特に厳しいということで知られています。それはともかく、同じ苦行をしなくてもいいですが、このような精神が重要です。自分自身に対して厳しくて、隣人に対して柔和でなければなりません。

考えてみると、人々は普通、よく、逆のことをします。自分自身に対して言い訳を見つけたり、甘くなりがちですが、隣人の軽い過失でもすぐ厳しくて許せないような態度をとりがちですね。
死の時が近づいたと感じた聖パトリックは自らの修道院へ引退しました。司教の座を譲って数年の間に、死を準備するために、天主との出会いを準備するために、修道院での生活を送りました。

ご覧のように、奴隷になったという大きな試練は、数十万人以上の霊魂の救霊につながりました。現代まで入れたら、数億人ものの救霊といえましょう。後世になっても、さらに、アイルランドから多くの宣教師も輩出しました。このすべては16歳の少年が受けた試練のおかげです。6年間、酷い奴隷の生活を送ってきたことが出発点でした。聖パトリックがこの試練は天主から用意されているということを肯定して受け入れたおかげで、多くの実りがうまれました。

ですから、聖パトリックを祝うことをとおして、何よりも信仰を大切にして、今、復活しつつある新しい異教の闇が天主の光によって照らされますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

誘惑されていない人はだれもいない。なぜ誘惑があるのか?

2023年02月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランパン神父様(Rampon)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

誘惑されていない人はだれもいないだろう
ランパン神父様(Rampon)のお説教  
2023年2月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生さん、聖パウロは書簡において「あなたには私の恩寵で足りる」(コリント人への第二の手紙、12,9)とイエズスが聖パウロに仰せになられたと記されました。本日の書簡において天主のみ言葉を宣言するために、聖パウロが経験した多くの試練が記されています。また聖パウロが天国で受けた示現のことについても触れています。

聖アウグスティヌスをはじめ、聖トマス・アクイナスによれば、一時的に至福の天主への直観という最高の特権が与えられたと推定しています。いいかえると、この時の示現は一瞬、天主を直接に見られたという前代未聞の特権だっただろうということです。これは、国々を教える博士という召命を聖パウロが完璧に達成させるためでした。

本日の書簡にあるのは、「肉体に一つの刺」即ち一種の謎めいた誘惑を指すのですが、現代の近代主義者の間の通説はこの誘惑が聖徳に対する誘惑だとしますが、この説は最近のことで、近代になってからの意見で、古典的ではありません。
一方、教父たちは殆どそろって、肉体的な苦しみだっただろうと推定します。持病か何か、とにかくコリント人なら皆知っていたほどのことでした。なぜなら、これに関する短い暗示だけでコリント人がなんであるかわかったからです。

これはキリスト教徒の生活における重要な事実を思い起こしてくれます。この世で生きるすべての人々は誘惑を受けます。誘惑は不可避であることを見ていきますが、それよりも誘惑は有益であることを忘れてはいけません。また誘惑と戦う方法と手段は多く存在することを忘れてはいけません。

確かに、誘惑は必ずかかってきて、不可避です。これから数週間後の福音において、我らの主ご自身が誘惑を受けることになります。天主のいと深きご謙遜かな!神殿のてっぺんで、悪魔からの誘惑を受けることをお許しになったわけです。
聖パウロも多くの誘惑を受けたことがよく知られています。


またより最近では、19世紀のアルスの聖神父は一生、絶望に落ちるように誘導する大きいな誘惑を受けたことも知られています。これに勝利して、アルスの神父は最期を確たる安泰の心境で迎えられたことも知られています。


他に、幼きイエズスの聖テレジアなら、信徳に対する大きな誘惑を受け、聖アルフォンソ・デ・リゴリなら、年配になって明かされたように貞潔の徳に対して大きな誘惑をうけました。


はい、これはまぎれのない事実です。皆、聖人をはじめ、かならず誘惑を受けることになります。誘惑は不可避であることがトビア書の次の一句に要約されています。「あなたが天主に愛されているので、あなたの信仰を試すに誘惑が送られてきた」。

しかしながら、誘惑は不可避であるといっても、それぞれの人々はそれぞれに事情とその性格と聖徳によって違う誘惑を受けることを忘れてはいけません。
聖人も多くの誘惑を受けていたのですが、怠惰な生ぬるい信徒に比べたら聖人が誘惑により簡単に勝てたのです。実に、洗礼を受けても、原罪が清められても、貪欲の源は傷であるかのように残っています。これは乱れた感情のことであり、よく秩序づけられていない感情であって、悪い行いや悪い欲望へ狂う馬のように暴れだして走るようなものです。

この激情の源に抵抗しなければ、誘惑を一番生みやすい弱点となります。ですから、聖人なら悪魔から直接に誘惑されることが多いでしょう。つまり、比較的に感情・激情などが良く制御されているので、そこから生まれる誘惑はより少ないでしょう。ですから聖人なら内面から生じる誘惑よりも外から攻めてくる誘惑になりますので、外からくるときのほうが、勝ちやすいのです。
のんびりした緩んだ態度で生活した結果、欲望に通じる誘惑が多くなりますが、内面的なのでより抵抗しづらいのです。

このように、日常の作業についてさぼっている人、あるいは怠惰な人なら、誘惑に対して怠惰となります。好奇心の強過ぎる者、自分の意志の野望を犠牲と日常の節制の行いによってブレーキをかけなければ、誘惑に対しても好奇心によって引っ張られて誘惑へいきやすくなります。
また、いつも他人について小言をいい、あるいはいつも大きな声でお喋りする人なら、誘惑に対しても大きなお喋りするようなものです。このせいで最初の女性が人類史上にはじめて悪魔からの誘いに負けて罪を犯しました。

要するに誘惑は不可避ではありますが、乗り越えられないことは絶対にありません。乗り越えないときとは、我々が生ぬるいときです。

またこれらの誘惑は我々にとって非常に有益なのです。まず、霊的生活のための励みとなります。前進するための助けとなります。
誘惑がなければ、かならず、霊的な無気力に陥っていくでしょう。なんでもかんでもやりやすいと勘違いして、努力なしに天国に行けると勘違いするようになるでしょう。これは間違いです。

我らの主が仰せになるように、「天の国は暴力で競われ暴力の者がそれを奪う」(マテオ、11,12)ですから、聖徳を実践するために努力して、自分に対して暴力を発揮すべきです。誘惑はそのためにあります。
救済への道は既得権ではない、すでに持っていることではない、最期まで罪を犯すことはあり得るのでいつでも警戒すべきであるという事実を誘惑が我々に思い起こさせてくれます。

誘惑はまた、謙遜を身に着けるための道です。安全だと信じ込んでいた者が誘惑によってそうでもないことに気づくのです。心境が安泰で、ロザリオを理想的に祈っていたところ、いきなり誘惑がやってきて、ひどい思いばかりが頭に上がってくるような誘惑があります。この誘惑によって謙遜の徳を養うのです。

良き天主がこの世に我々を置いたのは富や現世的な宝物を得るためではなく、出世するためではなく、有名になるためではなく、天主は我々が永遠の命のための準備をし、功徳を得、聖徳の内に成長していくようにお望みです。
すべての聖徳の礎は謙遜です。そして誘惑のおかげで、我々が何でもない存在であることが思い起こされて、いつでも簡単におちいる惨めな存在であって、天主からの御助けを必要としていることが思い起こされます。これは謙遜徳を養うための助けとなります。

天主のみ前に我々がへりくだり、慎んで、謙遜するときに、天主のみ旨に従っています。そして正直な心で、「天主よ、あなたは居なければ私はろくでもない存在になる」と、よく天主へ祈りを捧げましょう。
また、誘惑のおかげで聖人になるための練習となります。聖人になる助けとなります。
なぜなら、誘惑がやってきたとき、天主の御力に頼るしかないからです。罪を犯しそうになる時、天主の御助けなしに誘惑を乗り越えられないのです。
ですから、誘惑に遭うとき、我々は幼い子のように父なる天主に寄りすがる姿は天主のみ旨に従っています。天主を素直に信じて御助けに素直に頼ったら、多くの恩寵をいただきます。

要するに、誘惑は、多くの聖徳が鍛えられて実践していく機会となります。これは重要な事実です。なぜなら天主のみ摂理の計画において、我々が誘惑に負けるはずがない、誘惑に負けることは計画において予定されていないのです。
誘惑に負けるとき、我々自身のせいだけです。天主から誘惑を乗り越えるためにすべて用意してくださっていたのに、我々はその恩寵を捨てて、誘惑にこたえることにしたせいで誘惑にまけるのです。われわれのせいだけです。

はい、誘惑と戦うために多くの方法と手段があります。大きく言うと二つのやり方があります。「予防」すること、そして「抵抗」することにあります。

第一に、誘惑の機会を事前に防ぎましょう。ヨブ書には次の一句があります。「この世にいる人にとって兵役である」(7,1)
はい、この世での人生は霊的な戦闘です。我々は霊的に武装化すべきです。我々は前線に送られる兵士のようなものです。前線に行く兵士は必ず武器を持って戦いにいくわけです。

霊的に鍛えないのは、たとえてみたら、今のウクライナ紛争の前線に甚平姿で観光客として歩いていくようなものです。非常に無謀なことです。霊的生活においても一緒です。霊的に鍛えなくて、準備しなくても、訓練しないのは無謀すぎます。最終的に誘惑に必ず負けるという状況を作ってしまうことです。

ですから、その訓練、予防のためにいくつかの手段があります。第一に、過信を絶対にさけましょう。何日ぶりも何か月ぶりも誘惑に負けていないからといって、これから負けないことは保証されていないのです。我々は自分自身に対して警戒しましょう。我々の傲慢に警戒しましょう。
聖フィリップ・ネリはよく天主に祈っていたのです。「天主よ、私フィリップについて警戒するようにしてください」


我らも、いつも警戒しつつ、無謀にならず、危険すぎる状況を避けましょう。
そのために罪を犯しやすい場所と機会を極力に避けましょう。

罪を犯す機会というのは、罪を犯す可能の高い事情をさします。そのような事情、機会を避けて、必要がないかぎり、わざわざ自分をそのような機会にさらすわけにはいかないのです。

もちろん、より大きな善のために一定のリスクを置かざるを得ない時はありますが、そのような急な理由がなければ、罪の機会にさらしてはいけないのです。そうすると天主の恩寵をそらす危険があります。

例えば、夕方になってからインターネットを見るようなことは危険です。そうすると、天主の恩寵を招かないようなことになります。また婚約者が二人きりで会うのも不要な危険にさらすことであり、良き天主の恩寵を招かないのです。このようなときは、自分のせいでこのような機会を作ってしまったので、誘惑に抵抗するための恩寵をあまり頂かないので、さらに危険です。ですから、罪を犯す機会を極力に避けましょう。

同時に、無駄な恐怖心を極力にも避けましょう。時には、罪を犯す過剰な恐怖があります。たとえば「いつも罪を犯していて、罪を犯す機会が多すぎて耐えられなくて、だから必ず誘惑に負けるに決まっている」というような思い込みです。それは大間違いです。誘惑を過剰に恐れてはいけません。それは天主の御助けへの信頼が薄すぎることをものがたります。恐怖の問題は無気力さを招き、やる気を麻痺させます。

誘惑に遭って、良き天主は我々にご自分の恩寵を与えることを予定しておられたのに、我々の過剰な恐怖のせいで、我らの意志などの能力を麻痺させて、何もできなくなり、誘惑を余計に増やすことになります。ですから、常に天主からの御助けと御力に大きく信頼しましょう。

また、極力に無為な時を避けましょう。ことわざが言うように「無為は悪のもと」だということです。その通りであり、さらにいうと、「無為は誘惑のもと」でもあります。考えてみると、誘惑を退けるために、単純な素直な作業、仕事を行うのがよいです。この意味でいつも忙しくやっているのはよいことです。誘惑の機会を減らします。

そして、誘惑が現れたときに、誘惑に全力で抵抗すべきです。速やかに抵抗し、剛毅に力強く抵抗し、謙遜のままに抵抗すべきです。シラ書にあるように、「蛇を避けるように罪を避けよ、それに近寄るとあなたはかまれる」(21,1-2)

誘惑がやってきたら、誘惑と一切遊んではいけません。悪魔と話してはいけません。すぐにそれをそらして、速やかに祈りを捧げて、新しい作業、別の仕事を行いましょう。しかしながら、そうしないで誘惑をじっくりと眺めて、こんど遊んだら、必ず誘惑に負けるはめになります。

要約すると、良き天主によって誘惑が許可されるのは、我々の善のためです。我々の霊的成長のためです。また良き天主は永遠で我々が誘惑を乗り越えるための恩寵を用意してくださることを知りましょう。

そして誘惑に対して予防も抵抗も相応しい対策をとっていったら、誘惑は天国のために多くの功徳を得る機会でしかならなくなります。
また天主のみ旨にいつも従っておられた聖母マリアに祈りましょう。

また聖パウロの助けを希いましょう。過信しないように守られるように。そうして、本日の祈祷を我々も祈っていきましょう。
「天主よ、自分の行うどんな行いにも頼りえないわれらのことを、御身は知り給う」。意味は、我々は自分自身について常に警戒しながら、すべてにおいて、天主にしか頼らないという意味です。つづいて、「願わくは、異邦人の博士(聖パウロ)の御保護により、我らの艱難より守り給わんことを」
このように、誘惑がやってくるたびに、天主への愛徳が増し、聖徳に成長し、聖人になる道を進める機会になるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 

マーチフォーライフ2023 [ワシントン]

2023年01月23日 | マーチフォーライフ
アメリカ(ワシントンDC)の マーチフォーライフ2023 をご紹介します。



日本でも、お腹の赤ちゃんの命を守るために多くのかたが参加する「マーチ」となりますように!







あなたに、できることがあります。
生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、ファチマの聖母といっしょに歩いてください!



不思議のメダイ|聖母マリアと悪魔

2023年01月07日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

蛇の頭を踏みにじろう
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年12月08日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
「ああ美しきマリアさま、原罪の汚点はあなたにはない」(晩歌から)

親愛なる兄弟の皆さま、本日の祝日は大祝日です。皆様、平日の夕方なのに来てくださり、これを祝したいと思います。本来ならば、ご降誕、ご復活祭などの大祝日に並べて、本日の大祝日も普遍歴で義務化の祝日です。フランスでは事情あって、この義務はなくなったのですが、皆様、仕事があるのに、遅くなっているのに、わざわざミサにあずかる犠牲を捧げるのは本来ならば当然です。なぜなら、聖母マリアからいただく恩恵は数えきれないほどあるからであり、このぐらいの報恩をするのは当然です。

本日、童貞聖マリアを祝うだけではなく、天主の御子、肉身になり給う我らの主、イエズス・キリストによる贖罪の凱旋を祝うのです。
というのも、童貞聖マリアは御宿りの時にユニークな(唯一無二の)特権が与えられたからです。人類史上に太祖アダムとエヴァの過失以来、絶対にして唯一な特権であり、聖母マリア以外、だれもその特権を与えられたことはありません。

人間はみな天主の御手から直接に造られたのですが、童貞聖マリアの霊魂はほかの人々と違って、聖寵の状態で造られました。
つまり、聖母マリアの霊魂は造られた時点で、すでに天主と良い関係があったわけです。またそれは造られた時点で天主の養子となっていたわけです。また、この上ない、至上の聖寵の状態で造られました。童貞聖マリアの完全たる聖寵の状態と呼ばれる特権です。
要するに、童貞聖マリアの霊魂は聖寵の状態で造られたうえで、完全なる恩寵に満ちていました。十全な恩寵に満ちていた状態はやはり天主の御母となる御方に相応しい特権でした。

聖母マリアはなぜこれほどの特権を与えられたかというと、天主の御母であるからです。無原罪の御宿りによって、童貞聖マリアは一度も、一瞬たりとも、罪の支配の配下に入ったことはありません。原罪に穢れたことなく、原罪から免れただけではなく、一度も大罪を犯したことはもちろんありませんでしたし、小罪でさえ一度も犯したことはありませんでした。

童貞聖マリアはずっとずっと、マリア様の心に常に宿っていた聖霊の相応しい浄配でした。
「ああマ美しきマリアさま、原罪の汚点はあなたにはない」

また、我らの主、イエズス・キリストの凱旋を祝う祝日です。
なぜなら、聖母マリアの無原罪の御宿りの存在理由は我らの主イエズス・キリストのご受難、十字架上の御死による功績から生じた、あらかじめ与えられた聖母マリアの聖化であるからです。ご贖罪の功績によってこそ、聖母マリアは罪の支配から、地獄の支配から、完全に保全されたのです。
まさに、聖母マリアは我らの主、イエズス・キリストの十字架の御力の鏡であります。

イエズスによる十字架上の御生贄のおかげで生まれた恩寵によって得られることを理解したいと思うのなら、聖母マリアを見るのがよいです。
これは天主の不思議なすごい力です。天主の権威の現れです。
いつでも、被創造世界の森羅万象を通じて、天主の威厳は現れています。宇宙は自然の現状の天主の威力を示しています。
一方、天主の御子、我らの主、イエズス・キリストの超自然次元上の威厳はいとも清き童貞聖マリアの美しさと特権において現れています。



全人類の内に選び出された聖母マリアはいとも高き御方の聖櫃になる召命を受けたわけです。
旧約聖書の天主は神殿の建立を非常に大切にしていました。旧約聖書を見ると、神殿にかかわる掟は数多く細かく厳しくて、何らの冒涜からも免れるようにされていました。それは、できるだけ神殿が立派で荘厳であり続けるためでした。
それほど神殿を大切にしておられた我らの主イエズスが制定された公教会に息吹を与える聖霊の導きによって、歴史上に立派な教会、大聖堂、教会を建立されつづけて、これらの建物を大切にするように同じ天主はお望みになります。
これらの教会は欧州を徹底的に覆い、全世界でも多くありますね。
これらの教会の建立のために、これほど立派な、荘厳な教会になるように、信仰を尽くして全力を尽くすことは望ましいことだと天主が見守っておられるのではないでしょうか。

このように、石からではなく、肉身からなる神殿なる聖母マリアのためなら、旧約の神殿、新約の神殿よりも、どれほど立派に荘厳に聖霊が清き聖櫃を造り給い、大切にしたもうたかは想像に難くないのです。

ですから、無原罪の御宿りは天主の凱旋そのものです。ですから、童貞聖マリアを崇敬しすぎることはあり得ません。教会が聖母マリアの崇敬を重視しすぎるという文句が言われても筋違いです。理不尽です。
聖母マリアを見ることは、イエズスを見ることになります。聖母マリアに寄りすがったら、我らの主、御子、イエズスへ天主へ導いてくれます。

これはルルドのご出現の時に特別に現れたことです。聖母マリアが羊飼いのベルナデッタの前に現れましたが、ベルナデッタが「お嬢様、お名前はなんというでしょうか」と素直に聞きました。ベルナデッタの証言によると、すると童貞聖マリアが手を伸ばしてから両手を自分の胸に近づきながら、天へ目をくばり、「私は無原罪の御宿りです」と答えました。それは聖母マリアの最高の栄光なる特権であり、また天主からの賜物であることを知っていたからこそ、聖母マリアがそのように答えられたのです。

親愛なる兄弟の皆さま、無原罪の御宿りはまた、悪魔への罰をも意味します。悪魔への罰は特別に重くて、天主がお望みになった形で与えられます。我々の太祖が犯した原罪の悪魔の特別な役割に合わせた罰です。というのは、サタンが最初の夫婦を攻撃するために、妻を狙ったわけです。自然上、男性より弱かった女性を狙って、二人を落とそうとしたサタンです。

原罪の後、天主はアダムとエヴァを呼び出されて、何があったかを聞き出されます。その時、もはや天主と太祖の夫婦の間に絶交の状態であることはわかります。原罪のせいで天主からのよい関係を失ったことになります。また人間同士でも人間愛が失われました。
アダムが妻をさして、「あなた(天主)が私のそばにおいてくださった女があの木の実をくれたので、私もたべました」(創世記、3,12)。
アダムは責任を妻になりつけようとします。
そして天主はエヴァに向かって、「どうして、そんなことをしたのか」と聞き、エヴァが「ヘビにだまされて食べました」と答えます。そこで、天主は蛇にむかいます。悪魔は蛇の姿を借りてエヴァをいざなったのです。

天主は蛇に質問をしません。なぜなら、悪魔には言い訳があるわけがない、弁解の余地がないからです。天主は次の非常に重要な仰せを発しました。「おまえは、そのようなことをしたのだから」罰が与えられます。

「おまえは、そのようなことをしたのだから、(…)私はおまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。」
敵意というのは言い換えると、憎しみ、憎悪という意味です。はい、天主は女すなわち聖母マリア、そして女のすえすなわち我らの主、イエズス・キリストと悪魔と悪魔のすえとの間に憎しみを置くという意味です。悪魔のすえとは、悪魔の反逆の精神で動いている人々のことをさすのです。この世の物事を愛着しているから、この世に腹ばいしていく人々のことをさすのです。

「私はおまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。」
そして、聖母マリアは蛇の頭を踏み砕くのです。
「女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう。」(創世記、3、14-15)
女のすえなので、聖母マリアだけが踏み砕くのではなく、イエズス・キリストによってこそ、イエズス・キリストと一緒に、十字架の下にいる聖母マリアが悪魔の頭を踏み砕くということです。童貞なる足で悪魔の頭を踏み砕くのですが、これはよく絵などで描かれました。ある人が思いついた表象ではなく、聖書に由来する有名なモティーフなのです。

また聖母マリアご自身は、パリのバック通り、聖カテリーナ・ラブーレの前にご出現したとき、その表象に近い形で現れておられました。不思議のメダイですね。不思議のメダイに、童貞聖マリアの素足が悪魔の頭を踏み砕く表象となります。悪魔は地面に踏みにじられているのです。これは悪魔に対する完全な大勝利を象徴します。

人間同士の運動競技などで、相手に勝利したら、相手を地面に屈させるようなイメージがあるように、童貞聖マリアが悪魔の頭を踏み砕きます。なぜ頭でしょうか。蛇の頭が捕まったら、もう蛇が無力となり、動けなくなるわけです。

そして、いわゆる、一般的にいうと、女性はこのような虫、蛇、蜘蛛などをあまり好まないのですね。だから、この表象は意味が深いです。
躊躇なく、聖母マリアが素足で蛇の頭を踏み砕くということはなんとも毅然として、何のおそれがないということを表します。乱れた欲望はいっさいないのです。

聖母マリアはすごく力強くて、悪魔が聖母マリアに対して何もできないのです。無力です。悪魔にとって最悪のことであり、一番厳しい罰です。地獄の罰よりも、悪魔にとってひどい罰は聖母マリアの存在です。なぜなら悪魔は聖母マリアに対して無力であるからです。悪魔にとって、聖母マリアこそが悪魔の反逆の完全なる失敗を常に示します。

親愛なる兄弟の皆さま、現代は困難な時代です。悪魔的な時代だといえます。悪魔的な時代とはすなわち、天主に対して反逆を起こしている時代であり、天主を侮辱している時代であり、天主を見捨てる時代なのです。ですから、我々は聖母マリアを必要としています。聖母マリアに寄りすがる必要があります。

キリスト教的な社会と生活を破壊するために戦闘する暗闇の勢力に対して、我々が戦うべき戦争の中にあって、聖母マリアは我々の御旗なのです。

親愛なる兄弟の皆さま、ですから、最後にとくに強調しましょう。不思議のメダイをつねに身に着けてください。聖母マリアが与えられた不思議なメダイなので大切にしましょう。さらに、我々パリに住んでいて、パリで与えられた不思議のメダイなので、その栄光に答えましょう。1830年、ここから近い場所で、聖母マリアがご出現されましたよ。

この不思議なメダイは全世界で広まりました。
「このメダイを身につけなさい。身に着ける人々にとって盾となり、守られるだろう。積極的に信じて身に着ける人々は多くの大きな恩恵を受けるだろう」と聖母マリアがいいましたので、身につけましょう。我々は特にこれらの恩恵を必要としています。
キリスト教徒ならもちろんですが、まだ洗礼を受けていない人々も不思議なメダイを身に着けるべきでしょう。悪魔に対する盾だからです。悪魔の誘惑と策略に対する盾です。

福音書にあるように、悪魔には厳しい時代になるとはいえ、選び出された養子でさえ落ちうるようになるかもしれないが、実際はそうなりません。

はい、不思議のメダイでは聖母マリアがいつも決まって、悪魔を地面に踏み砕く姿で描かれています。たまたまではないのです。
ですから、我々は我らの主、イエズス・キリストと同じように、女のすえにあたるので、我々もこの戦いに参戦すべきであり、この戦闘に踏ん張って加わるべきであり、我々も決定的に悪魔の蛇を踏み砕くことにしましょう。

「ああ美しきマリアさま、原罪の汚点はあなたにはない」(晩歌から)
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 

ヴィガノ大司教「バチカンは『悲惨な』コロナワクチン接種への支持を撤回しなければならない」

2022年12月22日 | 迫り来る危機
英語版
https://www.lifesitenews.com/opinion/abp-vigano-the-vatican-must-withdraw-its-support-of-the-disastrous-covid-shots/

イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/vigano-scrive-alla-congregazione-per-la-fede-cambiate-le-dichiarazioni-sul-siero-mrna


ヴィガノ大司教「バチカンは『悲惨な』コロナワクチン接種への支持を撤回しなければならない」


現在、大規模ワクチンキャンペーンを採用したすべての国で発表されている公式データから明らかになっている結果は、紛れもなく悲惨なものです

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
2022年10月21日 米東部標準夏時間午前10時5分

【編集者注】以下は、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が、新型コロナウイルス感染症用ワクチン接種の道徳的性格と身体への危険性、およびその使用に関する信者への教会の指示について、教理省長官ルイス・ラダリア・フェレール枢機卿に送った書簡のテキストです。

この書簡は、教皇聖下の国務長官であるピエトロ・パロリン枢機卿、教皇庁科学アカデミーおよび教皇庁社会科学アカデミー会長のピーター・タークソン枢機卿、教皇庁生命アカデミー会長のヴィンチェンツォ・パリア大司教ら聖座メンバーにも宛てられています。

(LifeSiteNews)

枢機卿猊下、

昨年、2021年10月23日、私は米国司教協議会会長宛に手紙を書き、猊下にもそれをお送りしました。その中で私は、すでに公にしておりましたように、mRNA技術を使用して製造された実験的遺伝子血清の使用の道徳的正当性に関する、極めて議論の多いさまざまな側面について、非常に強い懸念を表明しました。

その手紙は、著名な科学者やウイルス学者の助けを借りて書いたもので、私は、当時でも表面化していて、さらに製薬会社自身が宣言した科学的証拠により、「何点かの新型コロナウイルス用ワクチン使用の道徳に関するノート」を更新する必要性を強調しました。

猊下、ファイザー社が欧州議会で最近声明を出したことと、世界の保健機関によって公式データが発表されたことを受けて、改めて訴えさせていただきたいと思います。

まず最初に、猊下が主宰されている教理省の文書は、遺伝子血清の性質とその成分に関する完全なデータがなく、また有効性と安全性の試験の結果もない状態で、2020年12月21日に公布されたことを思い起こしていただきたいと思います。「ノート」の主題は、「自然流産ではなかった2人の胎児から得た組織に由来する細胞株から開発された新型コロナウイルス感染症用ワクチンの使用に関する道徳的側面」に限定されていました。

同省は、さらにこう繰り返しました。「これらのワクチンが安全であり有効であることは倫理的に関連があって必要なことですが、それに関する評価は生物医学研究者と医薬品庁の責任ですから、私たちにはワクチンの安全性と有効性を判断する意図はありません」と。したがって、安全性と有効性がこの「ノート」の主題ではなく、「ノート」は、「使用の道徳的側面」についての意見を表明する際に、これらの薬剤の「製造の道徳性」についてコメントすることが適切とは考えなかったのです。

個々のワクチンの安全性と有効性は、通常数年を要する実験期間を経て確立されるべきものでした。しかし、今回の場合、各国の保健当局は、科学界の通常の慣行や国際的な規制、個々の国の法律から逸脱して、国民全員に対して実験を行うことを決定しました。

現在、大規模ワクチンキャンペーンを採用したすべての国で発表されている公式データから明らかになっている結果は、紛れもなく悲惨なものです。実験用血清の接種を受けた人々は、ウイルスの感染や重大な病気から守られないばかりか、mRNA技術によって免疫系が不可逆的に損なわれたことで、新型コロナウイルスやその変異株に対してさらに脆弱になっていることが明らかになりつつあります。

また、不妊症、妊婦の流産誘導、授乳による子どもへのウイルス感染、心筋炎や心膜炎などの深刻な心臓疾患の発症、一度治癒した癌腫瘍の再発、その他一連の衰弱させる病気など、短期・長期にわたる深刻な影響が、データから浮き彫りになっています。最近まで頑なに血清の接種とは無関係とされてきた多くの突然死のケースは、若く健康で体力のある人でも、繰り返し投与された結果であることが明らかになりつつあります。

また、安全上の理由から医療従事者による厳しい管理下にある軍人にも、血清を受けた後に同じような副作用の発生が見られます。この血清がそれを受けた人に一種の後天性免疫不全を引き起こす可能性があることは、現在、数え切れないほど多くの研究で裏付けられつつあります。世界中で、ワクチン接種後の死者や深刻な病態の数は飛躍的に増加しています。これらのワクチンは、過去30年間の他のすべてのワクチンを合わせたよりも多くの死亡を引き起こしています。また、それだけではありません。多くの国で、ワクチン接種後に死亡した人の数は、新型コロナウイルス感染症で死亡した人の数よりも著しく多くなっています。

教理省は、血清の有効性と安全性について意見を表明しませんでしたが、それにもかかわらず、血清を「ワクチン」と定義し、血清が免疫力を与え、能動・受動伝染病から人々を守ることを当然のことと考えていました。しかし、世界の全保健当局や世界保健機関(WHO)が、ワクチンを接種した人は、接種していない人よりも深刻な感染症にかかり、他の人に感染させる可能性があり、また、免疫系が現実に取り消されないまでも劇的に減少していると宣言したことによって、この要素は今や否定されています。

このように、「ワクチン」と呼ばれてきた薬剤は、「ノート」が指すと思われるワクチンの正式な定義には該当しません。「ワクチン」とは、生命体による防御抗体の産生を誘導し、特定の感染症(ウイルス性、細菌性、原虫性のいずれか)に対する特定の抵抗力を付与する製剤と定義されています。この定義は、WHOによって変更されました。なぜなら、そうしなければ、新型コロナウイルス感染症用の薬剤は防御抗体の産生を誘導せず、Sars-CoV-2による感染症に対する特異的な抵抗力を付与しないため、ワクチンの定義に含めることができなかったからです。

酸化グラフェンは、その存在についても、その毒性のために人間への薬品としての使用についても、科学的に正当化できないという事実があるにもかかわらず、「ワクチン」のバッチと接種された人の血液の両方に存在することが、今や合理的な疑いを超えて証明されていることは、指摘しておくべきことです。酸化グラフェンが接種を受けた人々の臓器に与える破壊的な影響は今や明白であり、製薬会社は近いうちに責任を問われることになりそうです。

猊下はすでにご存じのことでしょうが、自己組織化酸化グラフェンナノ構造体を用いたこれらの技術を使用することは特許を取得されており、それは被験者の追跡や遠隔操作を可能にするため、特にそのナノ構造体によって発せられるブルートゥース信号を通じてクラウド接続する方法で、各患者のバイタルパラメーターをモニタリングするためです。この情報が陰謀論者の考え出したものではないという証拠として、猊下はおそらくご存じだと思いますが、欧州連合は技術革新に専念した二つのプロジェクトのコンペの勝者を選びました。「人間の脳とグラフェン」です。この二つのプロジェクトは、今後10年間でそれぞれ10億ユーロの資金を受けることになっています。

新型コロナウイルス感染症用の「ワクチン」は、命にかかわる病気に対する唯一の可能な代替療法として提示されてきました。これはまさに最初から偽りであり、2年後の視点で見ても偽りであることが裏付けられました。代替療法は存在しましたが、製薬会社によって組織的にボイコットされ(安価で自分たちの利益を生まないため)、巨大製薬会社が資金提供する科学出版物によって信用を貶められており、その際使われた論文は、明らかに偽造データに基づいていたために、後になって撤回されたものだったのです。

さらに、新型コロナウイルス感染症は、周知のとおり、また科学的にも明白だったように、治療可能で命にかかわるものではない季節性型のコロナウイルスであり、すでに他の基礎疾患を持つ人々の間で最小数の死者を引き起こすにすぎない一種のインフルエンザであることが明らかになったのです。数年にわたるコロナウイルスのモニタリングにより、この点では疑いの余地はなく、また、ワクチン押しつけの口実として使われた「健康上の緊急事態」という要素も排除されます。

国際的な規範は、他の有効な代替治療がない場合を除き、実験的な薬剤の配布を許可することはできないと明記しています。このため、世界中の医薬品庁は、イベルメクチンや高免疫血漿、その他有効性が実証されている治療薬の使用を妨げてきたのです。猊下が思い起こされる必要はないことですが、WHOと並んで、これらの機関はすべて、製薬会社とそれに連なる財団からほとんどの資金提供を受けており、最高位の人々において重大な利益相反が存在するのです。

ここ数日、欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長は、彼女の夫が勤務するイタリアとギリシャの研究所に提供されたPNRR(再興・回復のための国家計画)資金について議会で答弁しなければなりませんでしたが、同委員長がファイザー社のアルバート・ブーラCEOと交わした供給契約に関するテキストメッセージ(これはまだ明らかにされていません)を欧州監査裁判所に提出するのを拒否したことも忘れてはならないことです。

実験的な血清の投与は、心理学の専門家にはよく知られている大衆操作のテクニックを使って、最近の歴史では前例のない方法による組織的な活動によって行われました。このメディア・テロおよび個人の天賦の権利の侵害、それに耐え難い脅迫と差別を伴う作戦において、カトリックの位階階級はこのシステムの側に立つことを選び、自らを「ワクチン」の推進者とし、ワクチンを「道徳的義務」として推奨するまでに至っています。メディアはローマ教皇の霊的権威とそのメディアへの影響力を巧みに利用して、主流の物語(ナラティブ)を承認しました。これはワクチン接種キャンペーン全体の成功に不可欠な要素であり、多くの信者が、教皇とその世界的役割について持っている信頼により、ワクチン接種を受けることを納得させられたのです。

聖座の職員に課せられたワクチン接種の義務は、他国で課せられたプロトコルの路線に従ったもので、科学的妥当性が全くない極めて不注意で無謀な立場とバチカンが完全に一致していることが裏付けられました。このことは、バチカン市国を、その職員の一部が法的責任を負い、さらにその国庫を圧迫するという可能性にさらしています。また、危険な薬のセールスマンと化した自分たちの牧者に対して、信者が集団訴訟を起こす可能性も排除できません。

2年以上たった今でも、教会は、新しい科学的証拠に照らして、今や時代遅れで、厳しい現実と大きく矛盾するこの「ノート」を訂正するために、声明も出す必要があるとは考えていません。ワクチン使用の道徳性の評価に限定して、教理省は遺伝子血清の利点――それは全くありません――と、今や誰の目にも分かる短期および長期の副作用との間の比率を考慮に入れていません。

ワクチンとして販売されている薬剤は、大きな利益をもたらさず、それどころか、新型コロナウイルス感染症が深刻な脅威ではない人々でさえ、非常に高い割合で死亡や深刻な病気を引き起こすことが明らかになったため、リスクと利益の間の比率を実証する試みは、もはや有効とはみなされず、したがって、「ノート」が基づいていた前提条件の一つ、「ワクチン接種の道徳性は、自らの健康を守る義務だけでなく、公益を追求する義務に依存する。流行を止める、あるいは防ぐための他の手段がない場合、共通善は、特に最も弱く、最もさらされている人々を守るために、ワクチン接種を推奨することがある」(5番)は排除されました。

私たちは、「他の手段がない」のではないこと、また、血清は流行を止めることも防ぐこともできないことをよく知っています。このことは、中絶された細胞株で作られたmRNA「ワクチン」を道徳的に受け入れられないものにするだけでなく、人の健康にとって、そして妊婦の場合には子どもの健康にとっても絶対的に危険なものにしているのです。

教会は、ワクチンの道徳的評価を表明する際に、全体的な判断を形成するのに貢献する多くの要素を考慮しないわけにはいきません。教理省は、薬物それ自体の道徳的合法性の一般論に自らを限定することはできません――その合法性は、その効果のなさ、遺伝毒性および発癌性のテストの不在、そして副作用の証拠を考えると完全に疑わしいものです。むしろ、教理省は、次の事実についてできるだけ早く発言しなければなりません。血清が「流行を止める、あるいは予防するために」完全に役に立たないことが証明された今、もはやそれを投与することはできず、実際、保健当局や製薬会社は危険で有害なものとしてそれを回収し、個々の信者には、予防接種を拒否する道徳的義務が存在します。

猊下、さらに私は、カトリック教会の権威を利用して、国連の「アジェンダ2030」と世界経済フォーラムの「グレート・リセット」の新マルサス主義的プロジェクトを支持できると信じてきた民間団体や多国籍企業から、聖座が決定的に距離を置く時が来たと信じています。キリストの教会の声が、人類を慢性的な病気にすることや、不妊症を誘発させることに基づく世界人口の削減計画に加担し続けることは容認されません。そして、これらの犯罪計画の立案者から後援と資金提供を受けることによって、聖座がさらされているスキャンダラスな利益相反に直面すれば、なおさらその必要性が高まります。

猊下は、「サイコ・パンデミック」の物語(ナラティブ)への無謀な支持の結果として、聖なる教会に非常に深刻な影響があることを見逃すことはなさらないでしょう。フランシスコの言葉や演説を利用して、役に立たないことが証明されているだけでなく、実際には重大な有害性を持つ血清に身をさらすように信者を導くことは、バチカンの権威を著しく損ない、不完全かつ偽造であることが証明されているデータに基づく治療を広めるよう促しています。

厳密に科学的な懸念の分野において、この無謀で透明性の低い行動に最高位の教会の権威による干渉が関わっていたのですが、この分野は本来、「生物医学研究者と医薬品庁の責任」です。このような裏切りの後、忠実なカトリック信者や教会を確かな道しるべとする人々は、どのようにして教会の立場を信頼でき、信用できると、平静さと確信を持って考えることができるでしょうか? 

また、ワクチンを受けなければ教会に行くこともミサに出ることも聖歌隊で歌うこともできないと語った教皇や司教や教区司祭によって勧められたという理由だけで、医学的な訓練も能力もなくワクチン治療を受けて、実際に健康を害したり早死にしたりした人々が受けた被害を、どのようにして償うのでしょうか?

カトリックの位階階級は近年、グローバリズムのイデオロギーへの支持に正比例する衰退を経験しています。気候イニシアチブ――これも科学的根拠のない誤った仮定に基づいています――や、トランスヒューマニズムの企てに聖座が参加していることから判断すれば、ワクチンキャンペーンを支持するという関与は孤立したケースではないでしょう。

しかし、これは私たちの主が教会を地上に置かれた目的ではありません。教会は、何よりもまず真理を宣べ伝えなければならず、地上の権力者たち、さらにはその中でもキリストの教えとカトリック道徳に悪名高く敵対する人々との危険な関わりから遠ざかっておかなければなりません。もしこの卑屈な隷属状態を振り払わなければ、もしこの世の精神に立ち向かう勇気と尊厳を再発見しなければ、位階階級は圧倒されて、つまずきの石や逆らいのしるしでなくなるというところまで犠牲となるでしょう。

猊下、私は、猊下が、これらのテーマの特別な重大性についてのみならず、福音の教え、および、今もこれからも教会の至高の法(suprema lex)である霊魂の救い(salus animarum)に忠実である緊急の賢明な介入についても考慮したいと思われることを確信しております。

In Christo Rege,
王たるキリストにおいて

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

前駐米教皇大使
2022年10月18日



ヴィガノ大司教:現代社会における『天主の国』と 『悪魔の国』について

2022年12月13日 | 迫り来る危機
ヴィガノ大司教、「現代社会における『天主の国』と『悪魔の国』について」

英語版
https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/6241-archbishop-vigano-on-civitas-dei-and-civitas-diaboli-in-contemporary-society

イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/mons-vigano-a-liberi-in-veritate-civitas-dei-e-civitas-diaboli-nella-societa-odierna


カルロ・マリア・ヴィガノ

Beatus populus, cujus Dominus Deus ejus. 天主が主である国は幸いである(詩篇143篇15節)

〈民主主義〉を基礎的な価値とし〈革命〉を最高の思想的原理とする世界において、フリーメーソンが、リソルジメント【イタリア統一運動】の蜂起によって、また、カルボナリ党と秘密結社が組織した様々な反乱によって、イタリアの諸王国の転覆を決意する以前、私たちの先祖がどのように生活していたのかを理解するのは困難なことです。

そして、さらに困難なのは、宗教さえもその役務者たちによって冒涜される世俗化した世界に住む私たちが、たとえ2世紀前であっても、公式行事から家庭内の小さな出来事まで、日常生活のあらゆる側面に信仰が影響を及ぼすという、深くキリスト教化した社会に住むことがいかに普通であったかを理解することです。

私たちとその世界の間では2世紀半近くが過ぎ、その間、フランスやオーストリアによる占領、独立戦争、1848年の革命、教皇領侵略、イタリア統一戦争、第一次世界大戦、ファシズム、第二次世界大戦、内戦、共和国宣言、1968年の革命、第二バチカン公会議、テロ、マーニ・プリーテ(Mani Pulite、清廉な手)【1990年代初頭のイタリアの検察による汚職捜査】、欧州連合、NATO戦争、サイコパンデミックの茶番劇、ウクライナ危機が次々と発生しました。

わずか2世紀余りの間に、イタリア人は、ブルボン家の、教皇の、あるいは、モデナ公爵の臣民であった曽祖父母が目にし、認識することができたであろう以上の出来事を目撃してきたのです。体制やイデオロギーや暴力の混沌とした連続、また、自由や自治やアイデンティティーの段階的な喪失は、それらの作者たちが意味ありげに革命と呼ぶものによって、段階的な特徴があります。

フランス革命―“la Révolution”―から、第一次、第二次、第三次、そしてクラウス・シュワブによって理論化された第四次産業革命までの段階です。そのどれもが、技術、テクノロジー、科学の分野での成果を特徴としていますが、畑を離れた後、工場で働くという夢を追い求めるために北へ移住せざるを得なくなったり、家族や伝統を捨てて郊外の匿名性のあるマンションに住み、コールセンターでの電話オペレーターや、「ジャストイート」【フードデリバリー業者】の配達員として仕事をせざるを得なくなったりするなど、人々の生活に非常に大きな影響を与えました。

自然のリズムに合わせ、宗教的な祭事や家族や地域の行事に彩られ、親族や友人や仕事の絆で結ばれて安定した何世紀もの生活が、組み立てラインのシフト、オフィスの勤務時間、通勤と外での昼食、狭いアパート、宅配弁当、核家族、老人ホームに入れられた高齢者、エラスムス計画【EU加盟国における学生の交流促進計画】で分散した子どもたちに取って代わられています。

不思議なのは、〈持続可能性〉に非常にこだわるその人々こそが、人間的な規模に立つ〈古代世界〉―本来、身体は自然、精神は宗教によって、つまり伝統によって、規定されていた世界―を破壊したのと同じ人々であることです。その破壊は、安い労働力を利用(搾取)し、それまで単なる維持管理の論理で運営されていた大規模農地を最大限に利用し、未成年者や女性の労働力を搾取し、蒸気機関のエネルギーを利用して大量生産を行い、電気を利用し、原子のエネルギーを利用し、利用、利用、利用…するためでした。
そして、さらにお金を稼ぎ、自分たちの富を増やし、人件費を削減し、従業員の保証や保護を奪っていくのです。何という商人根性でしょうか。何という搾取者たちでしょうか。すべてが利益の源泉に、稼ぎの機会に、利益の機会に貶められているのです。

19世紀から20世紀にかけては、イタリア人の心を動かした偉大な理想があったと言えるでしょう。多くのイデオロギーが崩壊した後、人々は「進歩」が廃墟となったのを見て幻滅しました。ですから「ロンバルディアの少年斥候兵」(La Piccola Vedetta Lombarda)【19世紀イタリアの作家エドモンド・デ・アミーチス(1846-1908)の小説「クオーレ」に収録されている短編】のレトリックや革命家であり愛国者だったチーロ・メノッティの輝かしい行動は、今日のレトリックとは異なりますが、それは、私たちに押し付けられた変化を正当化しなければならない口実が変わったにすぎないからだ、と答えることができます。

最初は、祖国という理想と暴君(実は暴君ではなかった)の抑圧からの解放という理想を口実とし、次に階級闘争という理想と資本主義の抑圧からの解放(実は消費主義の理想を取り入れるため)という理想を口実にし、さらに、誠実さという理想と腐敗した政治家の抑圧からの解放という口実となり、ついには、環境という理想の口実、地球上の人間の数を減らす義務―誰かが勝手に(motu proprio)伝染病、飢饉、戦争によって成し遂げようと決めたもの―という口実に変わっただけです。

リソルジメント【イタリア統一運動】と第一次世界大戦は口実でした。なぜなら、カトリックの君主制を抹殺し、カトリック教会を弱体化させ、両者の財物を没収するというフリーメーソンの真の意図を隠していたからです。民主主義と共和国の構想は口実でした。なぜなら、大衆を操作して、自分たちで運命を決められると欺く計画を隠していたからです。

そして、1968年【フランスでの学生による文化的革命運動】の思想もまた口実でした。超越的な原理からの自由というその理想は、離婚、中絶、同棲関係の合法化と、若者の堕落と家族の解体を招いたからです。ちょうど、第二バチカン公会議の理想を口実に、誰も求めていなかった新しいミサが、誰も変えたくなかった新しいカテキズムが、誰も必要としなかった世俗化しただらしない司祭が、カトリック信者に押しつけられたのと同じです。

パンデミックの茶番劇も、私たちが2年間注意を向けることなく繰り返してきた結果、今日、主流メディアにも現れているように、口実だったのです。ウクライナ危機も口実だったのであり、ロシアへの制裁、エネルギー緊急事態、グリーンへの移行、電子マネーも同じです。

ですから、伝統的な世界と革命的な世界という二つの世界があるのです。しかし、自分を欺かないようにしましょう! この二つの世界は、時代遅れのモデルから現代のニーズに対応したモデルへの単なる転換ではありません。この二つの世界は、互いに現代のものであり、互いに反する文脈上の現実であり、善と悪、光の子と闇の子、天主の国(Civitas Dei)と悪魔の国(civitas diaboli)の間の区別(discrimen)を常に示してきた現実です。


二つの現実は、必ずしも境界線や特定の統治形態によって特定されるのではなく、この世についての神学的な考え方を共有することによって特定されます。私たちが聖イグナチオの霊操で、二つの旗の黙想に見るような二つの陣営、「一つは最高のかしらにして私たちの主であるキリストの陣営、もう一つは人類の不倶戴天の敵であるルチフェルの陣営」(136:第2週)です。

天主の国(Civitas Dei)において、この【神学的な考え方の】共有は、キリスト教の秩序(ordo christianus)に適合した生活のあらゆる側面に関わるものです。キリスト教の秩序においては、霊的な権力とこの世の権力は、調和のとれた位階的な構造を持つ協力関係の中で、キリストが教え、教会が守る信仰告白および道徳と一致します。

この秩序においては、世俗の権威は王たるキリストの力を表し、教会の権威は最高司祭たるキリストの力を表し、すべてのものを、始まりと終わりであり、アルファとオメガであるキリストにおいて再現します。この意味で、天主の国(Civitas Dei)はキリスト教社会に関する霊感を与えるモデルであり、そのため、国家の世俗主義【国家をキリスト教と切り離そうとする主張】の概念そのものを冒涜的であるとして排除し、教会が“国家権威の世俗化や誤謬に権利があると承認することを望む”という考えも排除します。

天主の国(Civitas Dei)においては秩序(cosmos)が支配し、主が主祷文【キリストが教えた祈り】の中で見事に要約された天主の秩序があります。「御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」(adveniat regnum tuum; fiat voluntas tua, sicut in cœlo et in terra.)。したがって、天は地上のモデルであり、天のエルザレムはキリスト教社会のモデルです。キリスト教社会は、キリストが支配すること、「御国の来らんこと」によって達成されます。それは、自己を軽蔑するほどまで天主を愛する人々の社会なのです。

悪魔の国(civitas diaboli)の市民は、その代わりに革命によって団結します。この革命においては、すべての権力は力づくに基づいて行使され、あらゆる権威はいかなる制限もなく、いかなる道徳的戒律にも従う必要はなく、天主の御名においてではなく、敵対者【悪魔】の名において行使されます。いわば、混沌、無秩序、地獄の混乱が支配するのであり、それはルチフェルの叫びである〈私は従わない〉(Non serviam)と悪魔の教訓である〈汝の欲するところを為せ〉(Do what thou wilt)に集約されるのです。

この専制的で無秩序な社会では、同時に、不正な法律による正義の破壊、人々を抑圧する規範による共通善の破壊、悪徳、罪、冒涜の奨励による天主への反逆が行われています。すべては個人的な利益のために行われ、他者を踏みにじる代償を払っています。すべてが権力、金銭、快楽への渇望によって動かされています。そして、混沌が支配するところには、卓越した反逆者であり、エデンの園以来、革命の原則を鼓吹してきた者であり、嘘つきであり、人殺しであるサタンが君臨しているのです。

悪魔の国(civitas diaboli)に突き動かされた国家は世俗的ではなく、非宗教的、反宗教的、不敬、反キリスト教的です。それは、恐れと恐怖、強制と力づくに基づく権力、善良な個人を犯罪者にし、欺瞞と嘘によって悪を行う者を称揚するという能力に基づく権力によって人々を抑圧します。悪魔の国(civitas diaboli)においては、教会と世俗の権威は、その意図された目的に反してその権威を行使する破壊者たち、つまり教会ではディープ・チャーチ、公共の領域ではディープ・ステートによって覆い隠されています。それは、天主を侮蔑するというところまで自分自身を愛する者たちの社会なのです。

私たち、そして〈真実における自由人たち〉(Liberi in Veritate)の国民の日にお集まりの皆さんは全員、自分たちが理想的には天主の国(Civitas Dei)に属していることを分かっておられますが、この市民たちは、カトリック信者として教会と国家の両方で促進したいと思う共通善(bonum commune)のためにどのように行動し、貢献するべきかという具体的現実を見つけていません。

まるで、地球上のどこにあるのか分からない国のパスポートを持っているかのようですが、その痕跡は今ハンガリーにも、ポーランドにも、ブラジルにも、ロシアにも、そして思いがけず、私たちのような多くの〈追放者〉の中にも見られます。この市民たちは、私たちが何を言っているのかよく分かっていますが、私たちと同じように、どこかよそ者のように感じています。

米民主党のジェイミー・ラスキン下院議員が、「ロシアは伝統的な価値を持つ正統的な国である。だから、米国がどんな代償を払っても、ロシアは破壊されなければならない」(こちら)と宣言するのを聞くと、私たちは、天主の敵から受ける迫害という共通点から、その国民と霊的につながっていると感じるのです。

教会―今日、腐敗して悪魔の国(civitas diaboli)に従属している位階階級に覆い隠された教会―のよそ者になっているという同じ感覚は、私たちに、カトリック信者としても〈硬直した者、快適を求める者、後戻り主義者〉(rigidi, comodisti, indietristi)として追い出され、どこか〈追放者〉のように感じさせるのです。

何故なら、私たちには、教皇が異端、偶像崇拝的行為、挑発、過激な行為や嘘でつまずきを与え、キリストの教会を辱めることを、また、教皇にたいして反対意見をびくびくしながら表明する保守的な枢機卿や司教を教皇が馬鹿にすることを普通に受け入れることができないからです。広い道に従うことを私たちが素直に受け入れずに拒否するからです。

父親に見捨てられた子どもの感覚を持っているからです。私たちにパンと魚をくれるべき人から石とサソリを手渡されるのを見る苦痛からです。私たちが司祭を探しても、代わりに灰色の党員がいるだけです。慰めの言葉を求めても、彼らは、私たちを完全に無視するのではない場合には、侮蔑的に対応します。教会がかつてどうであったかに目を向けましょう。私たちの沈黙や、誤った従順の概念のせいで、教会がどうなったのかを甘んじて受け入れたりしないようにしましょう。

しかし、地上の戦闘の教会は天主の国(Civitas Dei)ではありません。なぜなら、時の流れの中に浸されたすべての霊的現実と同じく、善人と悪人という罪の刻印を受けた弱い人々を受け入れているからです。麦と毒麦は永遠においてのみ分けられ、一方は穀倉に集められ、他方は火に投げ込まれるのです。

天主の国(Civitas Dei)をカトリック国家(confessional State)と混同してはなりません。カトリック国家には、善き市民と悪しき市民も、正直者も犯罪者も含まれているのですから。また、地上の教会を悪魔の国(civitas diaboli)と平気で混同しないようにしましょう。私たちは、自分は選ばれた清い者だと考えて、悪魔の国から離れるべきです。もし国家の権威が政府の聖徳のモデルに従って行使されるなら、国家でさえも悪魔の国(civitas diaboli)ではありません。私たちは教会の子であり、聖なるエルザレムの市民であり、御摂理がその国に生まれることをお望みになった国の市民なのです。

では、私たちは、天主の国(Civitas Dei)を認識することができるでしょうか。また、どのようにして悪魔の国(civitas diaboli)を認識することができるでしょうか。

私たちは天主の国(Civitas Dei)を建設しなければならない者です。いやむしろ、私たちは、その天主の国から霊感を受けて、知恵と謙虚さをもって、2世紀にわたる革命によって奪われた、私たちの主のものである王冠と笏を主のもとに戻す社会を再建しなければなりません。政府の形態がどうであれ、市民としてのすべてのカトリック信者の任務は、世俗社会のすべての領域が信仰とキリスト教道徳に貫かれ、共通善、天主の栄光、霊魂の救いに向けられるようにすることです。洗礼を受けた者も同様の義務を負っています。

修道生活のすべての分野(祈り、ミサ、秘跡、カテキズム、慈善活動、子どものキリスト教教育)が流行や〈新奇なものへの欲望〉(rerum novarum cupiditas)を追うのではなく、主が使徒たちに教えられたこと、聖なる教会が数世紀にわたって守ってきたことをそのまま守るようにすることです。新しさの風は、実際、世俗の領域と教会の領域の両方において、革命の特徴的な徴候です。
ですから、キリストが私たちの国の王となられるためには、私たち一人一人が、告白する信仰の一貫した証人となり、特に家庭、子どもの教育、自分の生活を処することに関して、宗教の原則を守ることを実際に裏付けることが、まず必要です。

悪魔の国(civitas diaboli)は簡単に見分けがつきますから、一度認識すれば、勇敢に戦わなければなりません。なぜなら、それは天主の国(Civitas Dei)と戦争状態にあり、私たちを弱め、腐敗させ、屈服させるために、どんな手段もためらわないからです。

世界経済フォーラム、国連、メーソン系のさまざまな慈善財団、そしてそれらを支援する政府や国際組織、さらに中央と周辺のすべての教皇庁の部署に潜入しているベルゴリオの教会などは、悪魔の国(civitas diaboli)が地上で実現したものであり、その市民は、非人間的生活様式を押しつけることによって、キリスト教文明の残滓を消去し破壊する意志、つまり死のイデオロギーを秘密にしていません、社会行動のみならず人々の思考からもあらゆる善の痕跡が消失するようにするのです。

心からキリストを引き離した後、心からキリストを取り除かなければならないのです。そして、心を人工知能と結びつけて、天主の像と似姿が怪物のようにゆがんだ存在を作り出さなければならないのです。そして、よく覚えておいていただきたいのは、二つの〈国〉の間に休戦はあり得ないということです。なぜなら、彼らは私たちの主とサタンのように、不倶戴天の敵であり、今後もそうあり続けるからです。

しかし同時に、私たちが戦っている全面戦争は、キリストが十字架の木の上ですでにサタンを決定的に征服しておられるため、私たちの勝利は避けられない運命にあるのです。私たちを待っているのは、この衝突の最終段階に過ぎず、その結果は、救い主の約束〈地獄の門も勝てぬ〉(portæ inferi non prævalebunt.)に基づいているため、非常に確実なものなのです。

そうすると、皆さんには、目標があります。平信徒である皆さんには、その目標を社会的、政治的な行動に移すという重責と名誉があるのです。それは、天主の国(Civitas Dei)のモデルに従って、また、主が望まれた秩序に合わせて、キリストの社会的王権を促進すること、そして、悪魔の国(civitas diaboli)の最後の巨大な密集軍(phalanx)であるグローバリスト革命と、養成行動、非難、ボイコットの行動によって戦うことです。

なぜなら、もし祈りの助けを借りて、私たちが天主の御稜威(みいつ)に多くの恩寵を懇願できることが事実であるならば、私たちカトリック信者は、企業を選ぶ顧客のおかげで生きている金融グループ、情報管理センター、企業に、明確で強いシグナルを与えることができるほど十分な数を持っていることも事実であるからです。

もし私たちが、私たちの宗教を尊重しないグローバリストの多国籍企業や、体制と連携している企業、テレビ番組、ソーシャルプラットフォームから製品を買わないようにし始めるならば、私たちは、多くの人に、自分の歩みを振り返らざるを得なくさせ、新世界秩序のプロパガンダ、主流派の嘘、ウクライナ危機に関する捏造を困難なものにせざるを得なくさせるのです。

したがって、私たちは、LGBTQイデオロギー、包括性、ジェンダー論、地球温暖化、エネルギー危機、トランスヒューマニズム優生学などの偽りの教義に、公然と反対するのです。そして、私たちは何よりも、悪魔の国(civitas diaboli)の破壊転覆的な行動についての全体像を与えて、個々のイニシアチブが、世界的な計画や、その計画が採用しようとしている手段、その計画が自らに課している口に出せない真の目的と、一貫性を持っていることを示そうと努めているのです。

最後に、このイベントの主催者の方々にご挨拶を申し上げるとともに、皆さんにこのメッセージをお話しする機会を与えてくださったことに感謝いたします。この結成の日に数多くの支持者がおられることは、軍隊の配備がなされつつあること、そして天主を求めて渇いている多くの霊魂が、子どもたちの平和な未来を確かなものとするために、また、この滅びに向かう狂気のレースを止めるために戦い、身を捧げることを実感させてくれます。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
「真理における自由人たち」(Liberi in Veritate)委員会[1]の国民の日に。
2022年11月5日、パラッツォーロ・スーロリオ(イタリア)

[1] https://www.liberiinveritate.it/


人類史のなかで、唯一無二の出来事

2022年12月09日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

人類史、ユニークな歴史
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年12月04日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、待降節は贖罪者と救い主を得さしめ給うた聖母マリアをよく思い起こさせます。今、ちょうど正午になりましたが、伝統に従って、アンジェルス(お告げの祈り)を歌います。昔からのキリスト教の伝統ですが、毎日、夜明け、正午、日没に三回、アンジェルスという祈祷をささげるものです。

アンジェルスの祈りを通じて、聖ガブリエル大天使から童貞聖マリアへの御告げという素晴らしい出来事が思い起こされます。
童貞聖マリアは童貞です。聖マリアは若いうちに終身、童貞のままになることを誓願しました。つまり、心身ともに天主へ奉献することを童貞聖マリアが約束されました。そもそも罪のなかった聖母マリアがさらに、合法的であったにもかかわらず、結婚して肉体上の関係を断念し、また子を産む喜びを童貞聖マリアは断念しました。


聖トマス・アクイナスが解説しているように、童貞聖マリアの貞節の誓願は条件付きの約束でした。なぜなら、当時のイスラエルの女性なら、頼まれたのなら子孫を設けることを受け入れる義務がありました。それはメシアを産むために義務化されていました。また、メシアはもうすぐ生まれるだろうということも知られていたからです。
ですから、童貞聖マリアは貞節を誓願しましたが、天主のみ旨に適っていることを条件にしました。そしてこの天主のみ旨が何らかの形で(適っていないと)知らせたら、この誓願を廃止することは可能でした。

そしてある日、ナザレにいた童貞聖マリアが、聖伝によると15、16歳ごろの娘でしたが、大天使聖ガブリエルが彼女の前に現れます。聖母マリアは大天使を見て非常に驚かれました。ですから、聖母マリアはそれ以前、天使の訪問あるいは超自然の現れなどはなかっただろうということを示します。聖母マリアはその時まで、特に天からの訪問或いは出現はなかったと思われます。でなければ、大天使が自分の前に現れても驚くはずがありません。

そして、聖母マリアが大天使を見て心乱れますが、大天使が「恐れるな、マリア、あなたは天主のみ前に恩寵を得た」と答えます。
これを聞いて、聖母マリアがさらに驚きます。いとも謙遜だった聖母マリアでしたので、このように賛美されてもわからないというか、想像もつかなかったでしょう。

そして、大天使は聖母マリアに、彼女に関する天主のご計画を告げます。つまり、救い主の御母になるようにということを告げます。
童貞聖マリアがなおさらに驚かれます。まず救い主の母なることに値しないと童貞聖マリアが思っていたからです。そして、同時に童貞聖マリアが驚いているからといっても、冷静のままです。よく考慮して引き続き考えています。感情にまけません。

聖母マリアは「私は男を知りませんが、どうしそうなるのですか」と冷静に大天使に聞きました。
童貞聖マリアはヨセフと婚約していましたが、聖伝によると、マリアよりも年配だった聖ヨセフもかなり敬虔であり、貞節の誓願をたてていました。
もしかたら、聖ヨセフも聖マリアも同じ貞節の誓願をたてていたので、お互いにこの誓願を守るために婚約して、このように、貞節を一生守れるというところがあったのでしょう。
繰り返しますが、このような一生の童貞、貞節の誓願で終身童貞になる生活というようなことは、イスラエルではかなりまれで、全然普通なことではありませんでした。どうしてもメシアを産むために子孫を設けなければならないというところがあったからです。

要するに、童貞聖マリアは以上のように大天使にした質問というのは、「私がした貞節の誓願は天主のためのものであるので、天主ご自身のみ旨ではないかぎり、私で決められない」といわんばかりですね。
そして、大天使はどうしてそうなるのかを説明します。「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」と言います。

言い換えると、童貞聖マリアが生む子は男女の関係から生まれることではないということです。童貞聖マリアが童貞のままとなるのです。
そして、これはまた信条であり、ご存じのように、我らの主のご降誕の前、ご降誕の間とそののち、ずっと童貞のままでした。ですから、いつも童貞なる聖マリアと言います。ずっとずっと聖母マリアが童貞でありました。それは生まれるこの子が真に天主であるという真実、教義を守るために天主によって用意されたかのようです。


「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです。ですから、生まれる子は聖なるお方で、天主の子と言われます。」

そして、マリアは「はい」とも「いいえ」とも言わないで、美しいお答えをします。「私は主のはしためです。あなたのみことばのとおりになりますように」と答えます。
聖母マリアは天主のみ旨に自分自身のすべてを任せて捧げます。
聖母マリアの自己意思を完全に捨てて、天主のみ旨に捧げます。

そして、その瞬間、童貞聖マリアのご体内に、子が宿られました。この子は我らの主、我らの救い主です。

待降節に特に思い起こされるご托身の玄義をよく理解しましょう。ご托身の玄義は 童貞聖マリアのご体内に宿られたかたを祝うことです。しかしながら、このかたには人間の父はいません。彼の父は天主であり、聖なる三位一体の第一の位格だからです。
イエズスは天主の御独子なのです。そしてイエズスは聖なる三位一体の第二位格でもあります。
そして、聖なる三位一体の第三位格に当たる聖霊こそが、聖母マリアの体内にイエズスを宿らせました。
ご存じのように、本来ならば、人間なら、子が生まれるために、父からくる部分と母からくる部分の両方が必要です。男女のかかわりによってしか生まれえないのです。

童貞聖マリアの場合、母からくるものは聖母マリアがもたらしたわけですが、それだけではありません。聖霊の御働きによって奇跡が起きましたが、我らの主の御体が全体として成り立つためのすべては聖母マリアから来ています。このように我らの主、イエズス・キリストの御体は完全に聖母マリアから来たということです。この奇跡はご体内の聖霊の御働きのおかげです。
イエズスには人間の父はいません。
神学者たちによると、以上の教義を受けて、聖母マリアとイエズスは身体上に非常に似ていただろうと結論します。驚くほどに似ていたでしょう。

このように、真の人である我らの主、イエズス・キリストは聖母マリアのご体内に、ご降誕まで、人類の自然法に従って、普通の人と全く同じように成長していきます。
しかしながら、ご降誕の時に、御母の童貞を犯さないで生まれたということです。これは御子から御母への特別なプレゼントでした。
そして、ご降誕の後、最後まで童貞のままであって、イエズス以外に子をもうけなかったのです。我らの主がいたら、すでにすべて持っているということになるからです。

親愛なる兄弟の皆さま、以上は我らの信仰における大玄義です。
マリアの「フィアット」とは我らにとって非常に重要で決定的です。すべての神学者らが同意しあいますが、聖母マリアは大天使からの御告げを受け入れる義務はなかったということです。聖母マリアがこれを拒んだのなら、誰がそのほかにそれを受け入れられるでしょうか。ある方が「もう一人の女性が受け入れたのでは」と言われますが、それはありえません。イエズスをご体内に宿れることに値する女性は無原罪の聖母マリア以外、存在しません。


さらにいうと、聖母マリアが罪は全くなかったのに、大天使からの御告げを受け入れる勇気がなかったとすれば、一体だれがその勇気を持てるでしょうか。聖母マリアこそが、ご托身のために最高にも一番相応しいお方でした。無原罪の御宿りは我らにとってどれほど賜物であるかそれで認識できます。

聖母マリアが大天使の御告げを受けいれられるように、我らの名において自由意志をもって自発的に素直に受けいれられるように、聖母マリアが一番相応しい方であり、相応しく創造されました。

ですから、我らは聖母マリアに感謝しましょう。
ご降誕の諸玄義の一つには、三人の博士の訪問がありますが、「こどもが母のマリアと一緒におられることをみた(マテオ、2,11)」とあります。
はい、我々は救われるために、我らの主イエズス・キリストを通じなければなりません。我らの主イエズス・キリストこそが我々を救います。しかしながら、イエズスを見つけるために、御母を通じなければなりません。マリア様を抜きにイエズスにたどり着くことはできません。それは天主のみ旨であり、最初から福音書においてそれは示されています。

ですから、恩恵を受けるたびにご聖体拝領をするたびに、秘蹟にあずかるたびに、マリア様の「フィアット」を思い出して、我々も「フィアット」といって、聖母マリアに感謝しましょう。マリア様は「フィアット」と言わなかったのなら、救い主を我々が得られなかったことになり、大絶望となったでしょう。

ですから、カトリック教会が聖母マリアへの信心を大切にしている理由はわかりやすいでしょう。また、プロテスタントからの聖母に対する異議、すなわち「カトリック信徒らが聖母マリアに対してやりすぎだ」というような文句もカトリック教会が拒んで否認する理由もわかりやすいでしょう。
御母の名誉を讃えることによって、御子の名誉が傷つけられることはありません。逆です。

親愛なる兄弟の皆さま、もうすぐ無原罪の御宿りの祝日がやってきます。
聖母マリアのために皆様、頑張って何かをささげましょう。祈りましょう。犠牲をしましょう。感謝の意を込めて。
ミサにあずかり、行列に参加し、できることをやりましょう。12月8日を大切にして、聖母マリアのほかの大祝日を見逃さないでおきましょう。
童貞聖マリアは聖母の祝日を準備して、頑張っている人々のために、特別に見守って祝福してくれますので、見逃さないようにしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン