白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
生贄・犠牲という観念
Gabriel Billecocq神父
ミサ聖祭という秘跡を前回まで見ておきました。思い出しましょう。秘跡を一つずつご紹介する公教要理の第三部となります。ミサ聖祭という秘跡とは、我らの主、イエズス・キリストがこの世に私たちと一緒に留まることになさる秘跡であって、パンと葡萄酒の外観の下にましまし給う秘跡です。
そして、今回から、ミサ聖祭という秘跡の二つ目の側面を見ておきましょう。つまり、生贄・犠牲としてのミサ聖祭です。
以前に申し上げた通り、ミサ聖祭は秘跡であります。つまり、霊的な現実を示す物質的な目に見える印であるということです。そして、ミサ聖祭の物質的な印は双方の形色です。パンと葡萄酒ですね。我らの主のご現存を示す御聖体です。
しかしながら、同時に、ミサ聖祭は生贄でもあります。生贄としてのミサ聖祭という側面をこれから見ておきましょう。
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生贄とは何でしょうか?まず、一般的に生贄あるいは犠牲という観念を説明しておきましょう。
さて、生贄とは何でしょうか?「Sacrificum(生贄)」の語源は「聖別する、あるいは神聖にする」ことを意味します。「Sacrum Facere」という意味で、「聖なる行事を行う」という意味でもあります。
そういえば、フランス語では「聖なる」という言葉は「俗なる」という言葉の対義語となっています。そして「俗なる」ことは「聖なる」ことではないことを指していますが、「俗なる」の語源はラテン語の「Profanum」に由来しています。「神殿の前」という意味です。「神殿の前」という意味は何でしょうか?「神殿の内にはない」ことであって、神殿の外にある物を指しています。このように、「俗なる」物事は神に属さない物事を指します。一方、聖なる物事は神殿内に置かれて、神に属する物事を指しています。
このように、生贄は神殿内に執り行われる儀礼です。聖なる執り行いなのです。生贄という祭祀をもって、「何か」を聖別します、「何か」を神の物にさせます。まさに、犠牲・生贄の本来の意味は、聖なるものではない「何か」を取って、聖なるものにするという執り行いを言う意味です。俗なる「何か」を聖なる存在にさせる「犠牲」です。「Sacrificium」、「Sacrum facere」です。
犠牲には、必ず「移転」があります。どういった移転でしょうか?俗なる物事を取り、聖なる存在にさせるという「移転」です。
言いかえると、人間に属する「何か」を取ります。つまり、人間が所有する、支配する「何か」を取り、つまり「俗なる」何かを取ります。そして、犠牲を通じて、その所有権を神に移転させるのです。つまり、この「何か」を神にささげて、神に「差し上げる」ということで、この「何か」を「聖なる」ものにさせる執り行いを「犠牲」と言います。
要するに、犠牲・生贄という観念には、必ず「移転」、「通過」が伴います。俗なる何かを取り、聖なるものにさせるという意味です。【この意味で、お供えなどは犠牲の一種となります。必ずしも動物の流血とか伴わなくてもです。】
一言で言うと、犠牲とは「神に捧げる行為」です。つまり、私が持っている「何か」を投げ捨てて神に差し上げる行為なのです。ですから、犠牲においては必ず「奉納」があります。または「奉献」があります。犠牲が成り立つためには奉納が必要不可欠です。というのも、犠牲とは人間に属する「何か」を神にささげるために、その何かを投げ捨てて、神に「奉納」するからです。
その上、神にささげる意向も必要です。言いかえると、神に「何か」を奉納するとき、この「何か」は自分のものでは完全になくなって、私はその「何か」の主人では無くなったことを表す必要があります。それは、神の物になったことを表すためです。
ですから、多くの場合、犠牲を完成させるためには、奉納する上で、あるいは奉献する上で、つまり、お供えする上で、「奉納する物の破壊」が伴います。それは、奉納する「物」を破壊することによって、「神こそが新しくその物の主になったぞ」ということを示すための破壊です。つまり、人間は神に奉納する物を本当の意味で神に差し上げた心の真摯さを示すための破壊です。完全に本当に「私に属するこのものを神のために捨てた、その物への支配権、所有権を完全に投げて神に譲った」ということを示すための破壊です。奉献される物は破壊されると、人間はもはやその物を使うこともできないことになっていて、自分の好き勝手にもはやできない、神の物でしかないということを示すための破壊です。
ですから、人類史において、殆どの場合、犠牲にはお供えする物の破壊があります。それは犠牲の本質ではなくて、犠牲の本質は「神にささげる」、「神のために何かを奉納する」ということですが、その奉献、その「神への奉納」を徹底的に本格的に示すために、自然に「供え物の破壊」につながるのが殆どです。いわゆる、奉納するに当たって、お供えする物に対する人々の超然たる態度を示すため、本当に完全に「神に差し上げるよ」ということを示すための破壊となります。
ですから、長い歴史を振り返っても、どこでもいつでも、お供えという要素がありますが、殆どの場合、その上に、何らかの形でのお供え物の破壊もあります(最小限の犠牲としては、お供え物を食べることによる破壊も含む)。
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では、犠牲の目的は何でしょうか?その一つの大事な目的は「拝領する」ということです。言いかえると、「神と一致」するということです。要するに、犠牲によって、人間が所有している何らかの所有権を神に移転させます。俗なる物を聖なる物にさせる犠牲です。目的は神と一体化するためです。神と一致させるためです。神に奉納するということは、奉納する人々が神との一致を望むことを表す執り行いなのです。人間が持っている何かを積極的に投げ捨てて、神に奉納することによって、神との一致を願うということです。
要するに、犠牲という観念は、主に三つの事柄からなっています。奉納・破壊・神との一体(拝領)。神との一体化は奉納と奉納品の破壊の結果です。要するに、犠牲とは目に見える外的な執り行いであって、神に何かを捧げる行為です。それは、この外的な執り行いを通じて、もう一つの内面的な現実を表すためにあります。それは神との一致ですね。
ですから、犠牲とは本質的に外的な行為に留まらないで、内面的な行為をも表すための儀礼です。人間が支配している何かの被創造物を神にささげる、神に奉納することによって、人間は神の優位性を認めて、人間に対して神が持っている権限を認める行為です。
つまり、犠牲を執り行うことによって、人間は神が人間の主人だよということを示します。つまり、神は奉納される「お供え」の御主であるだけではなく、奉納者の御主であることをも示す「犠牲」です。
犠牲をもって、人間は自分が支配している何かを投げ捨てて神に捧げるだけではなく、加えて、そうすることによって、神が「上位にある」ということを人間は認めて、人間の御主であることを人間が認める執り行いなのです。
要するに、犠牲とは物質的な外的な可視的な現実です(その儀礼など)。そして、この現実は目に見えない、内面的な、別の現実を示すための犠牲でもあります。神との一致。神の拝領。あるいは、神に何かを奉納することによって、奉納者をも神にささげる行為となります。
同時に、犠牲とはそれだけではなく、公然なる公けの儀礼です。社会的な儀礼です。いつでもどこでも犠牲とは大事な社会的な儀礼でした。犠牲とは社会上、政治上の儀礼でもあります。
繰り返しますが、犠牲が成り立つために三つのことが必要となります。第一、いわゆる「いけにえ」、「犠牲者」、「お供え物」です。つまり、俗なる「奉納品」を聖なる物にする「いけにえ」、あるいは「犠牲者」あるいは「お供え物」です。
第二、犠牲を執り行う者も必要です。祭祀者あるいは司祭と呼ばれています。供物をささげる司祭ですね。犠牲は神が受け取るために、つまり犠牲が有効になるために、犠牲を執り行う者は神のお気に召す者であるとの条件があります。つまり、司祭となる者は「聖職者・僧侶・神官」でもなんでもいいですが、一般人から引き出されて特有の役割・資格・身分を持っています。
司祭の役割は公けです。そして、司祭は社会上、政治上にも役割を持ちます。歴史に照らしても、社会上の生活における司祭・祭祀者の立場が窺えます。司祭は一般人ではなくて、公の特別の立場と使命と権限を持つのです。これは、犠牲(祭祀、お供え)という儀礼の社会上と政治上の役割から来ます。
そして、第三、「いけにえを執り行う行為(祭礼)」も必要です。要するに、いけにえ、司祭と犠牲の行為(祭礼)からなる「犠牲」です。
また、第四の要素があります。司祭は多くの人々の代わりに犠牲を捧げるということになりますので、祭祀が執り行われるための人々も出席する要素があります。つまり、祭祀などは公けの行為で、人前の行為です。つまり、神に何かを奉納しようとする人々は司祭の下に行って、その執り行いを頼んで、儀礼に臨むということです。
ですから、「犠牲」というのは本当の意味で祭礼の一環です。第一、神のためにある祭礼の一環です。第二、また、外的な儀礼を通じて内面的な行為を表す行為としての祭礼の一環です。そして、第三、個人による祭礼のではなく、公けの祭礼に属する犠牲でとしての政治的な祭礼です。共同体のため、家族のため、国家のため、何でもいいですが、社会単位、社会のために捧げられる犠牲です。
要するに、犠牲とは本当に外的な祭礼であります。この祭礼をもって、人間は物質的な奉納を捧げるという具体的な行為を通じて、自分を神に捧げる行為を表す儀礼です。というのも、目に見える「奉納する」生贄を通じて、神との一体化を実現する「目に見えない現実」を得るための儀礼だからです。つまり、外的な行為を通じて、内面的な宗教上の行為を通じて自分自身を捧げる儀礼なのです。神と一体化するためです。
以上に見た犠牲は複雑な現実だと言えましょう。以上に見た犠牲はすべての犠牲に当てはまります。ミサ聖祭だけではなくて、我らの主、イエズス・キリストによる犠牲だけではなくて、歴史上のすべての犠牲、お供え、奉納などに当てはまる定義です。どこでもいつでも、すべての民族はこのような犠牲を捧げました。単なる供え物から人々を生贄にするまで形はいろいろありますが、この多様な形を越えて、犠牲の本質は一つです。
奉納する「犠牲者」、つまりその奉納品、そして殆どの場合、ある形で奉納品を破壊する、そして、何かの外的な形で「拝領」することによって、神との一体化を示す祭礼。
以上「犠牲・生贄」に関する一般的の意味を紹介しました。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百十四講 生贄・犠牲という観念
生贄・犠牲という観念
Gabriel Billecocq神父
ミサ聖祭という秘跡を前回まで見ておきました。思い出しましょう。秘跡を一つずつご紹介する公教要理の第三部となります。ミサ聖祭という秘跡とは、我らの主、イエズス・キリストがこの世に私たちと一緒に留まることになさる秘跡であって、パンと葡萄酒の外観の下にましまし給う秘跡です。
そして、今回から、ミサ聖祭という秘跡の二つ目の側面を見ておきましょう。つまり、生贄・犠牲としてのミサ聖祭です。
以前に申し上げた通り、ミサ聖祭は秘跡であります。つまり、霊的な現実を示す物質的な目に見える印であるということです。そして、ミサ聖祭の物質的な印は双方の形色です。パンと葡萄酒ですね。我らの主のご現存を示す御聖体です。
しかしながら、同時に、ミサ聖祭は生贄でもあります。生贄としてのミサ聖祭という側面をこれから見ておきましょう。
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生贄とは何でしょうか?まず、一般的に生贄あるいは犠牲という観念を説明しておきましょう。
さて、生贄とは何でしょうか?「Sacrificum(生贄)」の語源は「聖別する、あるいは神聖にする」ことを意味します。「Sacrum Facere」という意味で、「聖なる行事を行う」という意味でもあります。
そういえば、フランス語では「聖なる」という言葉は「俗なる」という言葉の対義語となっています。そして「俗なる」ことは「聖なる」ことではないことを指していますが、「俗なる」の語源はラテン語の「Profanum」に由来しています。「神殿の前」という意味です。「神殿の前」という意味は何でしょうか?「神殿の内にはない」ことであって、神殿の外にある物を指しています。このように、「俗なる」物事は神に属さない物事を指します。一方、聖なる物事は神殿内に置かれて、神に属する物事を指しています。
このように、生贄は神殿内に執り行われる儀礼です。聖なる執り行いなのです。生贄という祭祀をもって、「何か」を聖別します、「何か」を神の物にさせます。まさに、犠牲・生贄の本来の意味は、聖なるものではない「何か」を取って、聖なるものにするという執り行いを言う意味です。俗なる「何か」を聖なる存在にさせる「犠牲」です。「Sacrificium」、「Sacrum facere」です。
犠牲には、必ず「移転」があります。どういった移転でしょうか?俗なる物事を取り、聖なる存在にさせるという「移転」です。
言いかえると、人間に属する「何か」を取ります。つまり、人間が所有する、支配する「何か」を取り、つまり「俗なる」何かを取ります。そして、犠牲を通じて、その所有権を神に移転させるのです。つまり、この「何か」を神にささげて、神に「差し上げる」ということで、この「何か」を「聖なる」ものにさせる執り行いを「犠牲」と言います。
要するに、犠牲・生贄という観念には、必ず「移転」、「通過」が伴います。俗なる何かを取り、聖なるものにさせるという意味です。【この意味で、お供えなどは犠牲の一種となります。必ずしも動物の流血とか伴わなくてもです。】
一言で言うと、犠牲とは「神に捧げる行為」です。つまり、私が持っている「何か」を投げ捨てて神に差し上げる行為なのです。ですから、犠牲においては必ず「奉納」があります。または「奉献」があります。犠牲が成り立つためには奉納が必要不可欠です。というのも、犠牲とは人間に属する「何か」を神にささげるために、その何かを投げ捨てて、神に「奉納」するからです。
その上、神にささげる意向も必要です。言いかえると、神に「何か」を奉納するとき、この「何か」は自分のものでは完全になくなって、私はその「何か」の主人では無くなったことを表す必要があります。それは、神の物になったことを表すためです。
ですから、多くの場合、犠牲を完成させるためには、奉納する上で、あるいは奉献する上で、つまり、お供えする上で、「奉納する物の破壊」が伴います。それは、奉納する「物」を破壊することによって、「神こそが新しくその物の主になったぞ」ということを示すための破壊です。つまり、人間は神に奉納する物を本当の意味で神に差し上げた心の真摯さを示すための破壊です。完全に本当に「私に属するこのものを神のために捨てた、その物への支配権、所有権を完全に投げて神に譲った」ということを示すための破壊です。奉献される物は破壊されると、人間はもはやその物を使うこともできないことになっていて、自分の好き勝手にもはやできない、神の物でしかないということを示すための破壊です。
ですから、人類史において、殆どの場合、犠牲にはお供えする物の破壊があります。それは犠牲の本質ではなくて、犠牲の本質は「神にささげる」、「神のために何かを奉納する」ということですが、その奉献、その「神への奉納」を徹底的に本格的に示すために、自然に「供え物の破壊」につながるのが殆どです。いわゆる、奉納するに当たって、お供えする物に対する人々の超然たる態度を示すため、本当に完全に「神に差し上げるよ」ということを示すための破壊となります。
ですから、長い歴史を振り返っても、どこでもいつでも、お供えという要素がありますが、殆どの場合、その上に、何らかの形でのお供え物の破壊もあります(最小限の犠牲としては、お供え物を食べることによる破壊も含む)。
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では、犠牲の目的は何でしょうか?その一つの大事な目的は「拝領する」ということです。言いかえると、「神と一致」するということです。要するに、犠牲によって、人間が所有している何らかの所有権を神に移転させます。俗なる物を聖なる物にさせる犠牲です。目的は神と一体化するためです。神と一致させるためです。神に奉納するということは、奉納する人々が神との一致を望むことを表す執り行いなのです。人間が持っている何かを積極的に投げ捨てて、神に奉納することによって、神との一致を願うということです。
要するに、犠牲という観念は、主に三つの事柄からなっています。奉納・破壊・神との一体(拝領)。神との一体化は奉納と奉納品の破壊の結果です。要するに、犠牲とは目に見える外的な執り行いであって、神に何かを捧げる行為です。それは、この外的な執り行いを通じて、もう一つの内面的な現実を表すためにあります。それは神との一致ですね。
ですから、犠牲とは本質的に外的な行為に留まらないで、内面的な行為をも表すための儀礼です。人間が支配している何かの被創造物を神にささげる、神に奉納することによって、人間は神の優位性を認めて、人間に対して神が持っている権限を認める行為です。
つまり、犠牲を執り行うことによって、人間は神が人間の主人だよということを示します。つまり、神は奉納される「お供え」の御主であるだけではなく、奉納者の御主であることをも示す「犠牲」です。
犠牲をもって、人間は自分が支配している何かを投げ捨てて神に捧げるだけではなく、加えて、そうすることによって、神が「上位にある」ということを人間は認めて、人間の御主であることを人間が認める執り行いなのです。
要するに、犠牲とは物質的な外的な可視的な現実です(その儀礼など)。そして、この現実は目に見えない、内面的な、別の現実を示すための犠牲でもあります。神との一致。神の拝領。あるいは、神に何かを奉納することによって、奉納者をも神にささげる行為となります。
同時に、犠牲とはそれだけではなく、公然なる公けの儀礼です。社会的な儀礼です。いつでもどこでも犠牲とは大事な社会的な儀礼でした。犠牲とは社会上、政治上の儀礼でもあります。
繰り返しますが、犠牲が成り立つために三つのことが必要となります。第一、いわゆる「いけにえ」、「犠牲者」、「お供え物」です。つまり、俗なる「奉納品」を聖なる物にする「いけにえ」、あるいは「犠牲者」あるいは「お供え物」です。
第二、犠牲を執り行う者も必要です。祭祀者あるいは司祭と呼ばれています。供物をささげる司祭ですね。犠牲は神が受け取るために、つまり犠牲が有効になるために、犠牲を執り行う者は神のお気に召す者であるとの条件があります。つまり、司祭となる者は「聖職者・僧侶・神官」でもなんでもいいですが、一般人から引き出されて特有の役割・資格・身分を持っています。
司祭の役割は公けです。そして、司祭は社会上、政治上にも役割を持ちます。歴史に照らしても、社会上の生活における司祭・祭祀者の立場が窺えます。司祭は一般人ではなくて、公の特別の立場と使命と権限を持つのです。これは、犠牲(祭祀、お供え)という儀礼の社会上と政治上の役割から来ます。
そして、第三、「いけにえを執り行う行為(祭礼)」も必要です。要するに、いけにえ、司祭と犠牲の行為(祭礼)からなる「犠牲」です。
また、第四の要素があります。司祭は多くの人々の代わりに犠牲を捧げるということになりますので、祭祀が執り行われるための人々も出席する要素があります。つまり、祭祀などは公けの行為で、人前の行為です。つまり、神に何かを奉納しようとする人々は司祭の下に行って、その執り行いを頼んで、儀礼に臨むということです。
ですから、「犠牲」というのは本当の意味で祭礼の一環です。第一、神のためにある祭礼の一環です。第二、また、外的な儀礼を通じて内面的な行為を表す行為としての祭礼の一環です。そして、第三、個人による祭礼のではなく、公けの祭礼に属する犠牲でとしての政治的な祭礼です。共同体のため、家族のため、国家のため、何でもいいですが、社会単位、社会のために捧げられる犠牲です。
要するに、犠牲とは本当に外的な祭礼であります。この祭礼をもって、人間は物質的な奉納を捧げるという具体的な行為を通じて、自分を神に捧げる行為を表す儀礼です。というのも、目に見える「奉納する」生贄を通じて、神との一体化を実現する「目に見えない現実」を得るための儀礼だからです。つまり、外的な行為を通じて、内面的な宗教上の行為を通じて自分自身を捧げる儀礼なのです。神と一体化するためです。
以上に見た犠牲は複雑な現実だと言えましょう。以上に見た犠牲はすべての犠牲に当てはまります。ミサ聖祭だけではなくて、我らの主、イエズス・キリストによる犠牲だけではなくて、歴史上のすべての犠牲、お供え、奉納などに当てはまる定義です。どこでもいつでも、すべての民族はこのような犠牲を捧げました。単なる供え物から人々を生贄にするまで形はいろいろありますが、この多様な形を越えて、犠牲の本質は一つです。
奉納する「犠牲者」、つまりその奉納品、そして殆どの場合、ある形で奉納品を破壊する、そして、何かの外的な形で「拝領」することによって、神との一体化を示す祭礼。
以上「犠牲・生贄」に関する一般的の意味を紹介しました。