ファチマの聖母の会・プロライフ

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生贄・犠牲という一般的な意味

2021年02月22日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十四講 生贄・犠牲という観念



生贄・犠牲という観念
Gabriel Billecocq神父

ミサ聖祭という秘跡を前回まで見ておきました。思い出しましょう。秘跡を一つずつご紹介する公教要理の第三部となります。ミサ聖祭という秘跡とは、我らの主、イエズス・キリストがこの世に私たちと一緒に留まることになさる秘跡であって、パンと葡萄酒の外観の下にましまし給う秘跡です。

そして、今回から、ミサ聖祭という秘跡の二つ目の側面を見ておきましょう。つまり、生贄・犠牲としてのミサ聖祭です。
以前に申し上げた通り、ミサ聖祭は秘跡であります。つまり、霊的な現実を示す物質的な目に見える印であるということです。そして、ミサ聖祭の物質的な印は双方の形色です。パンと葡萄酒ですね。我らの主のご現存を示す御聖体です。
しかしながら、同時に、ミサ聖祭は生贄でもあります。生贄としてのミサ聖祭という側面をこれから見ておきましょう。
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生贄とは何でしょうか?まず、一般的に生贄あるいは犠牲という観念を説明しておきましょう。
さて、生贄とは何でしょうか?「Sacrificum(生贄)」の語源は「聖別する、あるいは神聖にする」ことを意味します。「Sacrum Facere」という意味で、「聖なる行事を行う」という意味でもあります。

そういえば、フランス語では「聖なる」という言葉は「俗なる」という言葉の対義語となっています。そして「俗なる」ことは「聖なる」ことではないことを指していますが、「俗なる」の語源はラテン語の「Profanum」に由来しています。「神殿の前」という意味です。「神殿の前」という意味は何でしょうか?「神殿の内にはない」ことであって、神殿の外にある物を指しています。このように、「俗なる」物事は神に属さない物事を指します。一方、聖なる物事は神殿内に置かれて、神に属する物事を指しています。

このように、生贄は神殿内に執り行われる儀礼です。聖なる執り行いなのです。生贄という祭祀をもって、「何か」を聖別します、「何か」を神の物にさせます。まさに、犠牲・生贄の本来の意味は、聖なるものではない「何か」を取って、聖なるものにするという執り行いを言う意味です。俗なる「何か」を聖なる存在にさせる「犠牲」です。「Sacrificium」、「Sacrum facere」です。

犠牲には、必ず「移転」があります。どういった移転でしょうか?俗なる物事を取り、聖なる存在にさせるという「移転」です。
言いかえると、人間に属する「何か」を取ります。つまり、人間が所有する、支配する「何か」を取り、つまり「俗なる」何かを取ります。そして、犠牲を通じて、その所有権を神に移転させるのです。つまり、この「何か」を神にささげて、神に「差し上げる」ということで、この「何か」を「聖なる」ものにさせる執り行いを「犠牲」と言います。



要するに、犠牲・生贄という観念には、必ず「移転」、「通過」が伴います。俗なる何かを取り、聖なるものにさせるという意味です。【この意味で、お供えなどは犠牲の一種となります。必ずしも動物の流血とか伴わなくてもです。】

一言で言うと、犠牲とは「神に捧げる行為」です。つまり、私が持っている「何か」を投げ捨てて神に差し上げる行為なのです。ですから、犠牲においては必ず「奉納」があります。または「奉献」があります。犠牲が成り立つためには奉納が必要不可欠です。というのも、犠牲とは人間に属する「何か」を神にささげるために、その何かを投げ捨てて、神に「奉納」するからです。

その上、神にささげる意向も必要です。言いかえると、神に「何か」を奉納するとき、この「何か」は自分のものでは完全になくなって、私はその「何か」の主人では無くなったことを表す必要があります。それは、神の物になったことを表すためです。

ですから、多くの場合、犠牲を完成させるためには、奉納する上で、あるいは奉献する上で、つまり、お供えする上で、「奉納する物の破壊」が伴います。それは、奉納する「物」を破壊することによって、「神こそが新しくその物の主になったぞ」ということを示すための破壊です。つまり、人間は神に奉納する物を本当の意味で神に差し上げた心の真摯さを示すための破壊です。完全に本当に「私に属するこのものを神のために捨てた、その物への支配権、所有権を完全に投げて神に譲った」ということを示すための破壊です。奉献される物は破壊されると、人間はもはやその物を使うこともできないことになっていて、自分の好き勝手にもはやできない、神の物でしかないということを示すための破壊です。

ですから、人類史において、殆どの場合、犠牲にはお供えする物の破壊があります。それは犠牲の本質ではなくて、犠牲の本質は「神にささげる」、「神のために何かを奉納する」ということですが、その奉献、その「神への奉納」を徹底的に本格的に示すために、自然に「供え物の破壊」につながるのが殆どです。いわゆる、奉納するに当たって、お供えする物に対する人々の超然たる態度を示すため、本当に完全に「神に差し上げるよ」ということを示すための破壊となります。

ですから、長い歴史を振り返っても、どこでもいつでも、お供えという要素がありますが、殆どの場合、その上に、何らかの形でのお供え物の破壊もあります(最小限の犠牲としては、お供え物を食べることによる破壊も含む)。
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では、犠牲の目的は何でしょうか?その一つの大事な目的は「拝領する」ということです。言いかえると、「神と一致」するということです。要するに、犠牲によって、人間が所有している何らかの所有権を神に移転させます。俗なる物を聖なる物にさせる犠牲です。目的は神と一体化するためです。神と一致させるためです。神に奉納するということは、奉納する人々が神との一致を望むことを表す執り行いなのです。人間が持っている何かを積極的に投げ捨てて、神に奉納することによって、神との一致を願うということです。

要するに、犠牲という観念は、主に三つの事柄からなっています。奉納・破壊・神との一体(拝領)。神との一体化は奉納と奉納品の破壊の結果です。要するに、犠牲とは目に見える外的な執り行いであって、神に何かを捧げる行為です。それは、この外的な執り行いを通じて、もう一つの内面的な現実を表すためにあります。それは神との一致ですね。

ですから、犠牲とは本質的に外的な行為に留まらないで、内面的な行為をも表すための儀礼です。人間が支配している何かの被創造物を神にささげる、神に奉納することによって、人間は神の優位性を認めて、人間に対して神が持っている権限を認める行為です。

つまり、犠牲を執り行うことによって、人間は神が人間の主人だよということを示します。つまり、神は奉納される「お供え」の御主であるだけではなく、奉納者の御主であることをも示す「犠牲」です。



犠牲をもって、人間は自分が支配している何かを投げ捨てて神に捧げるだけではなく、加えて、そうすることによって、神が「上位にある」ということを人間は認めて、人間の御主であることを人間が認める執り行いなのです。

要するに、犠牲とは物質的な外的な可視的な現実です(その儀礼など)。そして、この現実は目に見えない、内面的な、別の現実を示すための犠牲でもあります。神との一致。神の拝領。あるいは、神に何かを奉納することによって、奉納者をも神にささげる行為となります。

同時に、犠牲とはそれだけではなく、公然なる公けの儀礼です。社会的な儀礼です。いつでもどこでも犠牲とは大事な社会的な儀礼でした。犠牲とは社会上、政治上の儀礼でもあります。

繰り返しますが、犠牲が成り立つために三つのことが必要となります。第一、いわゆる「いけにえ」、「犠牲者」、「お供え物」です。つまり、俗なる「奉納品」を聖なる物にする「いけにえ」、あるいは「犠牲者」あるいは「お供え物」です。

第二、犠牲を執り行う者も必要です。祭祀者あるいは司祭と呼ばれています。供物をささげる司祭ですね。犠牲は神が受け取るために、つまり犠牲が有効になるために、犠牲を執り行う者は神のお気に召す者であるとの条件があります。つまり、司祭となる者は「聖職者・僧侶・神官」でもなんでもいいですが、一般人から引き出されて特有の役割・資格・身分を持っています。



司祭の役割は公けです。そして、司祭は社会上、政治上にも役割を持ちます。歴史に照らしても、社会上の生活における司祭・祭祀者の立場が窺えます。司祭は一般人ではなくて、公の特別の立場と使命と権限を持つのです。これは、犠牲(祭祀、お供え)という儀礼の社会上と政治上の役割から来ます。

そして、第三、「いけにえを執り行う行為(祭礼)」も必要です。要するに、いけにえ、司祭と犠牲の行為(祭礼)からなる「犠牲」です。

また、第四の要素があります。司祭は多くの人々の代わりに犠牲を捧げるということになりますので、祭祀が執り行われるための人々も出席する要素があります。つまり、祭祀などは公けの行為で、人前の行為です。つまり、神に何かを奉納しようとする人々は司祭の下に行って、その執り行いを頼んで、儀礼に臨むということです。

ですから、「犠牲」というのは本当の意味で祭礼の一環です。第一、神のためにある祭礼の一環です。第二、また、外的な儀礼を通じて内面的な行為を表す行為としての祭礼の一環です。そして、第三、個人による祭礼のではなく、公けの祭礼に属する犠牲でとしての政治的な祭礼です。共同体のため、家族のため、国家のため、何でもいいですが、社会単位、社会のために捧げられる犠牲です。

要するに、犠牲とは本当に外的な祭礼であります。この祭礼をもって、人間は物質的な奉納を捧げるという具体的な行為を通じて、自分を神に捧げる行為を表す儀礼です。というのも、目に見える「奉納する」生贄を通じて、神との一体化を実現する「目に見えない現実」を得るための儀礼だからです。つまり、外的な行為を通じて、内面的な宗教上の行為を通じて自分自身を捧げる儀礼なのです。神と一体化するためです。



以上に見た犠牲は複雑な現実だと言えましょう。以上に見た犠牲はすべての犠牲に当てはまります。ミサ聖祭だけではなくて、我らの主、イエズス・キリストによる犠牲だけではなくて、歴史上のすべての犠牲、お供え、奉納などに当てはまる定義です。どこでもいつでも、すべての民族はこのような犠牲を捧げました。単なる供え物から人々を生贄にするまで形はいろいろありますが、この多様な形を越えて、犠牲の本質は一つです。
奉納する「犠牲者」、つまりその奉納品、そして殆どの場合、ある形で奉納品を破壊する、そして、何かの外的な形で「拝領」することによって、神との一体化を示す祭礼。

以上「犠牲・生贄」に関する一般的の意味を紹介しました。

イエズス・キリストご自身が命令された「聖体拝領」―すべては御聖体の聖寵をより完全にうけるために

2021年02月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十三講 ミサ聖祭、聖体拝領



ミサ聖祭、聖体拝領
Gabriel Billecocq神父

ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。ミサ聖祭の秘跡は秘跡中の秘跡であって、一番偉大な秘跡なのです。なぜでしょうか?理由はいくつかあります。

前にも見たように、第一に、ミサ聖祭の秘跡は聖寵を与えるだけではなく、聖寵の御主、言いかえると天主ご自身を与える秘跡であり、その意味で一番の秘跡です。例えば、洗礼や堅振などは確かに聖寵を与えますが、御聖体は天主ご自身そのもの、真の人、真の天主である我らの主、イエズス・キリストを与えるのです。それだから、秘跡中の秘跡です。

また、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡であるのはなぜでしょうか?天主は御聖体にましまし給うということだけではなく、御聖体においてとどまり給うわけです。つまり、一瞬にしてご現存するだけではなく、御聖体は継続的にましまし給うのです。言いかえると、聖変化された形色が存続するかぎり、天主のご現存も存続するということです。従って、御聖体にある天主をご礼拝することができます。

ご現存は一時的でもなく、一瞬でもなく、継続的に安定的に通常にましまし給うのです。つまり、御聖体の秘跡は時間においてとどまり、継続しています。他の秘跡は一時的です。例えば、洗礼は一定の行いなので、秘蹟としては一時的です。もちろん、洗礼の効果はいつまでも続くのですが、聖寵を与える行いは一時的です。「洗礼を受けた」といった時、過去形を使って、一回限りであって、時間においても一時のことです。

他方、御聖体において「現存しておられる」というように、現在形を使って、常に秘蹟は続いているということです。ご現存というのは、秘蹟の効果によるものだけではなく、秘蹟そのものなのです。堅振もほかの秘跡も、秘蹟として一時の行いなのです。御聖体のみ、常に残っています。
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「我らの父なる天主を望み奉る。我らの主なる天主を望み奉る」
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そして、他のすべての秘跡はミサ聖祭の秘跡に収斂するという意味からしても、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡です。ミサ聖祭は諸秘跡の中心にある秘跡です。

聖体拝領できるように洗礼を受けるのです。御聖体の聖寵をより完全にうけるために、堅振を受けるのです。結婚も叙階もそうなのです。要するに、ミサ聖祭は秘跡中の秘跡です。天主は人々と一緒に留まることをお望みになります。素晴らしいでしょう。

我らの主、イエズス・キリストはこの世にいらっしゃいました。天主は御托身をなされ、人々の間で人生を送り給うことになさったことは限りなく素晴らしいことです。考えてみると、何よりも素晴らしいことでしょう。33年間、この世にお住まいでいらっしゃっただけでも人類への愛がどれほどに示されているでしょうか。しかしながら、御托身に留まらないで、その上、更に私たちと一緒に常におられることになさったのです。これが御聖体です。どれほど私たちへの愛を示されているのでしょうか?

ですから、御聖体は、「愛徳の秘跡」あるいは「愛の秘跡」とも呼ばれています。なぜでしょうか?

愛を示すために、本当に愛していることを行為で示す一つの手段は、愛している人々のそばにいつまでもとどまることです。お互いに愛している人々はずっと一緒にいたいわけです。我らの主は人々と一緒におられることになさいました。御聖体という愛の秘跡です。御聖体において天主がご現存しておられて、そして私たちと一緒に常におられる秘蹟です。素晴らしいことでしょう。

しかしながら、これだけではありません。これよりも我らの主は素晴らしいことをなさいました。ご存じのように愛を示すために、愛している人のそばにただ物質的にいるだけでは済まないのですね。いわゆる、傍にいることによって、物質的にいることを越えて、「愛している人と一緒に心理的にいる」という親しく暖かい関係ができて初めて愛は証明されています。

聖トマス・アクイナスの言葉を借りると、「愛している人は愛されている人の心の内にいる。愛されている人は愛している人の心の内にいる」ということになります。つまり、物質的な親しみを越えて、その上、心理的な親しみとなっていきます。この世ではこのような親しみは一番高貴な親しみなのです。つまり、お互いに愛している人々は相手を自分の心の内にいるというような関係になります。友人を愛している人は、友人を常に自分の心の内に持っていて、つまり、常に自分と一緒にいるというようなことです。そして、相手も一緒です。要するに、双方の霊魂は一致します。一体にまします。

聖バジルあるいは、聖ナジアンゾスのグレゴリオスでしたかな、とにかく次のように友好的な関係を説明していました。「二人の友人は二つの身体においての一つの霊魂だ」と言っていました。この文章は美しく友好を語ると思います。つまり、本当の意味で友人になる時、このような心理的な一致、一体ができていることを示している定義です。このような内面的な霊魂の一致ができている時、まさに「愛している」状態を特徴づけています。



そして、我らの主、イエズス・キリストは私たちと一致するために、素晴らしい手段を制定なさいました。それが聖体拝領なのです。そもそも、ラテン語で「Communio」と言っていまして「○○と一致する」という意味です。「ある人の心と結びつく」という意味です。まさに聖体拝領です。

要約すると、御聖体をもって、第一、我らの主は常にとどまる手段を制定なさいました。それだけでも、私たちへの天主の愛は示されています。しかしながら、それにとどまらないで、その上、私たちと一致するための手段をも制定なさいました。我らの主は我らとどうしても一致したいと思っておられるので、その愛を示すために聖体拝領を与え給ったのです。我らの主、イエズス・キリストは我らとの一致がお望みになるのは我らを愛しておられることを示しています。

そして、私たちも主を愛しているのなら、主と一致したいという気持ちになるはずです。愛しているのなら、必ず相手と一致したいからです。天主との一致は、この結びつきは聖体拝領と呼ばれています。聖体拝領という素晴らしい手段を設け給うイエズス・キリストは、常に私たちと一致する手段を与えたもうということです。

そして、食べ物として聖体を拝領するので、物質的な一致にもなりますが、それよりもまず、聖体拝領を通じて我らの主、イエズス・キリストは我らの霊魂を養い給うのです。また、そうすることによって、私たちとの一致を強化したまい、その一致へ激しい欲望を強化し給うのです。どう考えてもこれは、天主の限りない優しさ、善良さを示しているのです。なんと豊かな秘跡でしょう。

ですから、御聖体においての天主のご現存、我らの霊魂にご自分を与える、我らと一緒に常に一致しようとなさっておられるという限りなく素晴らしい豊かさを感じていない人々、嗜んでいない人々はどれほど残念なことでしょうか。そして、我らの霊魂を養うことによって、我らの霊魂の天主のご現存はさらに強くなって深くなって、よりよく天主を愛するように導き給う素晴らしい秘跡です。ミサ聖祭によって天主と一致することをお望みになって、ゆるし給うのです。

これは聖体拝領で給う秘跡の素晴らしい玄義です。御聖体はカトリック信徒にとって本物の食べ物なのです。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉をたべ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者の内に宿る。」(ヨハネ、6、53-56)

我らの主、イエズス・キリストのお言葉は非常に明白なのです。そして、天主から人々への愛に満ちているお言葉です。ですから、よく聖体拝領をする習慣を身につけていきましょう。言いかえると、御聖体において、我らの主、イエズス・キリストご自身を我らの霊魂のための食べ物として頂くようにしましょう。これが聖体拝領なのです。

救霊のために聖体拝領は手段として必要ではないと言われています。つまり、聖体拝領は救霊のために必要不可欠ではないということです。救霊のための条件の一つではないという意味です。一方、洗礼とは救霊のために手段として必要不可欠です。言いかえると、洗礼を受けない者は天国に行けないのです。救われることは不可能です。一方、聖体拝領をしなくても、洗礼を受けたら天国に行けるわけです。この意味で、「救霊のために御聖体は必要不可欠ではない」と言っています。

しかしながら、掟として、御聖体は必要不可欠となっています。言いかえると、「聖体拝領せよ」という命令はあります。
この掟は、あるいは命令は、我らの主、イエズス・キリストご自身が命令したことです。聖ヨハネの第六章においてこの命令が記されています。本当にこの第六章を読むようにお勧めします。本当に素晴らしい場面です。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。」



つまり、「私の肉を食べ、私の血を飲んだら、あなたたちの中に私の命を持ち続けられる」という意味ですね。つまり、聖体拝領をすることによって、いわゆる「聖寵の状態」の内のままにいられるということです。ときどき、信徒からこの質問があります。「善において粘り強く徹底的にやり続けるために、聖寵でいつまでもいられるようにするには、どうすればよいでしょうか」と。

答えは簡単で明白です。聖体拝領することです。我らの主、イエズス・キリストの御体と御血を頂くことです。霊魂を養う聖なる食べ物を頂くことです。イエズス・キリストにおいて霊魂を置く御聖体、そして確実に強くイエズス・キリストにおいていられるようにする秘蹟です。危険においても誘惑においても強くいられるようにする秘蹟です。要するに、我らの主、イエズス・キリストによって「聖体拝領せよ」という掟があります。

その上、カトリック教会はイエズス・キリストの命令をより明確に規定しておきました。カトリック教会は本当に良い母なのです。カトリック教会が命令する、つまり義務化する掟は非常に少ないのです。母なるカトリック教会なので、母らしく自分の子供のことを想っています。ですから、「復活祭の時期、年に一回、聖体拝領するように」とカトリック教会は信徒に義務づけています。要するに、カトリック信徒なら以前に見た通りに、年一回、復活祭の時期に聖体拝領する義務があります。

また、死の危険がある時、カトリック教会は「聖体拝領すること」を義務化づけています。
また後述しますが、聖体拝領は永遠の命を示してもたらす効果がありますから、瀕死になった時、聖体拝領することによって、最期を強く毅然とした態度で迎えるように助けるのです。最期の時は人生における一番大事な戦いとなるからです。その時、悪魔は全力を尽くして、天主から霊魂を外して地獄に引っ張ろうとするのです。ですから、最期を迎えた時、聖体拝領は非常に大事です。霊魂を養い、戦う力を備えることが大事です。

もちろん、義務を越えて、何か人生において大変な誘惑がある時、あるいは試練があるとき、聖体拝領は欠かせない薬となっています。なるべく聖体拝領をしましょう。

それから、聖体拝領の効果は何でしょうか?聖体拝領は成聖の聖寵をいや増す効果があります。つまり、聖体拝領をする者は自分において天主のご実存がいや増します。思い出しましょう。成聖の聖寵とは三位一体が我らの霊魂において居を構えて、我らの霊魂において「おられる」という意味です。ですから、聖体拝領すると、我らの主、イエズス・キリストと一致して、結びついて、密接に一体することになりますので、聖体拝領すればするほどに、天主との絆は強まります。言いかえると、我らの主、イエズス・キリストと一緒にいる絆はどんどん強まるということです。

次に、秘蹟のもう一つの効果は多くの助力の聖成を与えるということです。つまり、ご聖体は日常の私たちの義務において、超自然の次元においてより忠実に完全に使命を果たすように助けてくれる聖寵を与えるのです。また、食べ物は身体の生命の回復のために必要となっているように、御聖体は霊魂の生命を回復するように助ける秘跡です。つまり、成聖の聖寵をいや増し、または多くの助力の聖寵をも与えます。

そして、もう一つの効果があります。以上の効果から生じますが、聖体拝領すればするほど、激情は弱くなっていって、誘惑に対する抵抗力も増えます。そして、当然と言えば当然ですが、天主がおられると、悪魔は恐れて近づくことすらできなくなります。天主は悪魔を支配するのが当然だからです。

また、御聖体は永遠の命を示し、すでに天国をもたらす秘跡ですから、非常に大事な秘跡です。我らの主、イエズス・キリストを頂くということは天国を頂くということですよ。言いかえると、聖体拝領すると、もうすでにちょっと永遠に入りかけたことになるというか、いや厳密にいうと永遠は拝領者においてちょっと入ってきたということになります。聖体拝領すると、天主は我らの霊魂に下り給います。そして、私たちは死んでいくと天主の下へ参ります。聖寵の状態であるのなら。



ですから、瀕死になった時、命の危険があった時、聖体拝領することが大事です。というのも、聖体拝領することによって、天主を頂くのですが、同時に天主が私たちを頂くのですから、その時に死んだら永遠に入っていけます。つまり、死ぬ直前に聖体拝領すると、天国に入れることは殆ど保証されているといってもよいでしょう。かなり救霊は近づくということです。御聖体はまさに我らの主、イエズス・キリストは人々に与え給った素晴らしい愛の証、永遠の命への保証です。

死ぬとき、聖体拝領すると、天国に行くための通行証を貰うようなことです。御聖体は永遠の命をもたらす秘跡ですから。
さらにいうと、この世では頻繁に聖体拝領する者は、そのぶん頻繁に自分の霊魂を天主に向かわせて、よく死ねるように、よく永遠の命の内にいられるための訓練となります。どれほど善き天主が善いかを感じられるでしょう。永遠の命を約束するだけではなく、永遠の命を得るためのすべての手段を与え給うのです。

しかしながら、聖体拝領するためには、条件があります。相応しい状態にあるべきです。霊魂の条件もありながら、身体の条件もあります。聖体拝領するとき、形色の外観の下に、現に天主を頂くことになりますので、物質的な印においてこそご現存しておられますので、拝領するために、霊魂だけではなく、身体も相応しい状態にあるべきであって、条件があります。もちろん、なによりも霊魂の条件が大事です。

原則として、分別のできる状態でなければなりません。そして、適法に聖体拝領するために、十分な教育をも受ける必要があります。つまり、御聖体がなんであるかということを知らなければなりません。

そして、一番大事な条件は「霊魂は聖寵の状態にあるべきだ」ということです。言いかえると、大罪の状態にある霊魂は聖体拝領することができません。なぜでしょうか?大罪を犯した霊魂は「天主の敵」となっています。つまり、大罪を犯したことによって、霊魂から天主を追い出したという意味ですから、御聖体を受けることはできません。「でも、天主を拝領したら、逆に天主を取り戻せるのではないか」と思う人もいるかもしれませんが、違います。天主を取り戻すために、告解がまず必要です。つまり、悔い改めて償う必要があります。罪を改悛して償う前提があります。いわゆる、天主に対して侮辱を犯したままに、天主に対して反目しているなかで、愛の秘跡、友好の証を受けることは無理です。

この意味で、近代主義者の説は非常に悲惨的なのです。悔い改めていないまま、大罪を犯している状態の者に聖体拝領を許す司祭たちは醜いのです。残念ながら、これはよく経験していることですよ。ある信徒は私に「大罪を犯しても聖体拝領できるとある司祭から聞いた」といいます。大変なことです。悲劇的なことです。このような軽い気持ちで、このような軽率なことは、我らの天主の愛への侮辱です。冒涜です。天主のやさしさ、天主の友好さを馬鹿にするようなことです。天主を馬鹿にするようなことです。天主はばかばかしいほどに優しい方ではありません。本当の意味での友人なので、私たちへの忠実と正直さについては徹底したものがあります。友人を本当に愛していたら、だめなことはだめなこととして言って、目をつぶるわけにはいきません。



聖書の多くのところで明記されています。一番象徴的なのは知恵の書でしょう。天主との友好的な関係を傷つける事柄、つまり罪ですね。大罪ですね。大罪は友好的な関係を潰す行為だからこそ忌まわしいのです。当然と言えば当然ですが、天主と仲直りするためには、努力が必要になるわけです。ですから、告解が必要となります。要するに、聖体拝領するためには、「聖寵の状態にいる」条件があります。必要な条件です。

また、当然と言えば当然ですが、聖体拝領するためには、最小限の慎みの心を持たなければなりません。天主ご自身はこの上なく至上の慎みを示すでしょう。ほら、威光あふれる姿でもなんでもなく、単なるパンとワインの外観の下にという質素な形を取り、ご自分を霊魂に与えるという素晴らしい慎み。このぐらい、聖体拝領するために、最小限の慎みの心を持っていきましょう。

また、聖体拝領するためにはまっすぐな心づもりでいるという条件があります。つまり、傲慢、誇示、自慢などの気持ちなしに聖壇に近づくことが大事です。なにか人間的な理由で聖体拝領してはいけません。薬を頂こうとする心が大事です。御聖体はまさに人間の現世欲への薬です。

最後に、聖体拝領するために、身体上の条件もあります。いわゆる断食することです。現在の教会法では、残念ながら、断食の義務はかなり減ったのです。「御聖体の断食」と呼ばれる断食ですが、聖職者に義務化づけられる断食ほど重くないのはいうまでもありません。最近まで、「御聖体のための断食」は、前夜の夜中から聖体拝領まで食べるのも飲むのも控えるということでした。いつも、聖体拝領するのは朝だったのですね。
教皇ピオ十二世は午後中にも聖体拝領を許すとともに、「御聖体の断食」の義務を減らしました。つまり、聖体拝領する前の三時間の間に食べるのも飲むのも控えるということです。つまり、「御聖体の断食」は本当に断食であって、聖体拝領する前の三時間、何も食べないで飲まないことです。ただ、「水」は対象外です。水を飲んでも大丈夫だということです。

残念ながらも現在、さらに教会法は緩くされて、現在法では断食を聖体拝領前一時間にまで減らせられたのです。もう、意味のない断食となっているということです。ここで、近代的なこのような法、つまり近代主義の精神を汲むこのような法律はどれほど悲劇的であって、悲惨であるかよく感じられます。このような法律は天主を馬鹿にしているようにしか見えません。もはや、天主に近づけるために、何の犠牲を払わなくてもよいような不敬。ご現存に対するこのような不敬は本当に悲しいことです。今度の講座においてまたご紹介します。

当然、病者などは「御聖体の断食」の義務から免除されています。例えば、薬を取るべき病者は薬を飲んでも断食の掟に違反していないのです。教会は母らしくて善いですから。ただし、健康である人は、御聖体の断食をすべきです。言いかえると、自分の体を準備するということです。我らの主を拝領するように、自分の体を準備して、断食によって清めるという。いわゆる、聖体拝領によって、我らの身体は聖櫃になっているので、聖なる場所となっているので、聖なる場所を清めることが必要であって、また当然なことです。

最後に、聖体拝領するためには、ある程度の礼儀正しい状態でなければなりません。ですから、聖体拝領するために、跪きますが、その上、服装ももちろん礼儀正しくなければなりません。例えば、水着のような恰好で教会に行くわけには行けません。当然ですが。今の例はちょっと極端ですが、天主様ですから、礼儀正しい服装は最低限です。



最近まで、教会法はこのようなところに関しても厳しかったですが、残念ながらも「近代への妥協」ということで、第二ヴァチカン公会議が決めた「世俗への妥協」の結果、これらの常識的な最小限な規定ですらなくなっています。残念ながらも礼儀正しい心を失うと、悲劇的なことが起きます。我らの主、イエズス・キリストに対して持つべき畏敬、畏怖を忘れて、危うくなっていきます。

最後に、御聖体は両形色をもって拝領することは昔からもはやありません。パンと葡萄酒の双方の形色で拝領することは「教会の当初の時代に回帰することだから」あるいは「よいことだろう」というよう理由で最近取り上げられて、この掟を緩くする動きがあります。しかしながら、それは違います。カトリック教会は賢明です。時間の積み重ねを顧みて、その英知を活かして、パンだけの聖体拝領にするようになりました。もちろん、特別な少数の典礼では、例えばギリシャ系の典礼では、今でも双方の形色で聖体拝領することはあります。

が、実際問題として、双方の形色での聖体拝領になると、多くの問題と困難が生じます。特に、冒涜する恐れがありますので、控えます。いと貴き御血を拝領することになると、液体なので、当然と言ったら当然ですが、こぼし易いし、配りにくいし、いろいろ問題があります。想像してください。皆、同じ杯に拝領するようなことには無理があります。ですから、賢明なる教会は信徒の葡萄酒の拝領を禁止しました。

当然ながら、霊的にいうと何も変わらないのです。聖変化されたパンにおいて完全にイエズス・キリストがましまし給うのですから、聖変化された葡萄酒を拝領しても何も変わりませんし。これは大事です。双方の形色の下に、同じく御体と御血とご霊魂とご神聖が完全にましまし給うから、パンの形色で拝領しても、完全な拝領となります。葡萄酒の形色を拝領する必要がどこにもありません。【後述しますが、なぜ形色が二つあるというと、生贄としてのミサ聖祭が成り立つためです】

それから、聖体拝領するために舌で拝領すべきです。近代主義者たちは舌で拝領しなくともよいという説を根拠づけるためにあまり関係のない教父の文書を引き出します。例えば「拝領しに行くと、右の手を左の手に置くようにしてください。」といった。確かに、当初の時代、手で聖体拝領することもありました。が、教会の長い経験と賢明を尊重すべきです。御聖体への尊敬のために、冒涜行為を避けるために、司祭が直接に舌に御聖体を置くことになっています。

以上聖体拝領という美しい事柄についてご紹介しました。


ミサ聖祭の「ご現存」|だから聖変化の瞬間から司祭はホスチアとカリスに跪く

2021年02月11日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十二講 ミサ聖祭、ご現存



ミサ聖祭、ご現存
Gabriel Billecocq神父

前回にご紹介したように、ミサ聖祭という秘跡は秘跡として物資的な印であります。そして、ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。

ミサ聖祭の秘跡は、我らの主、イエズス・キリストご自身によって制定されました。制定を控えて、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を人々に告げられました。聖ヨハネの第6章においてこの場面は記されています。それから、我らの主、イエズス・キリストは「これは私の体である。」それから「これは私の血である」という言葉を以てミサ聖祭の秘跡を制定なさいました。最後の晩餐のことです。聖マテオ、聖マルコ、聖ルカの三つの福音書において記されている最後の晩餐です。または、聖パウロのコリント人への第一の手紙においても記されているミサ聖祭のご制定です。

要するに、ミサ聖祭は、我らの主、イエズス・キリストによって制定された秘蹟なのです。

秘跡は物質的な(感知可能な)印なのです。これはどういう意味でしょうか?以前、秘跡全般についてご紹介した時、すでにご説明した点ですが、思い出しましょう。

印とは具体的な現実なのですが、この具体的な現実を以て、別にある違う現実を示す、指し示すということです。例えば、「煙は火の印だ」といった時、まさにこのような関係があります。つまり、煙は具体的な目に見える現実ですが、煙を見ると、なにかその煙を産みだしただ火を示すかのように、火を指し示すかのようなことになっています。火は煙と違う現実です。

同じように、ミサ聖祭という秘跡も物質的な印なのです。言いかえると、ミサ聖祭において物質的な印がありますが、この印は別に存在する現実を指し示すことになるという意味です。

秘跡においての物質的な印は質料と形相からなっています。ちなみに、ミサ聖祭と御聖体は同じ意味です。御聖体の秘跡において、物質的な印があります。ですから、質料と形相はあります。では質料はなんでしょうか?遠因の質料は小麦のパンと葡萄酒です。この二つの物は印となっています。本当の意味での印です。何を示す印でしょうか?パンと葡萄酒は食物・糧を示すのです。前にも申し上げたように、ミサ聖祭という秘跡は霊魂を養う秘跡なのです。洗礼は霊魂に生命を与えて、堅振は霊魂の生命を完成化させると同じように、ミサ聖祭は霊魂を養うのです。霊的な生命を養うのです。

ですから、ミサ聖祭の秘跡における印のために、我らの主、イエズス・キリストが体を養う一番普通な食物としてお選びになったものが、つまりパンと葡萄酒なのです。宴、食物、糧を示すには一番普通の印です。

パンと葡萄酒は非常に具体的な食物であるともに、これらの印が何を示すかということも非常に明白です。つまり、霊魂の生命を養うことを示す印です。洗礼において、流される水は霊魂を洗う聖寵を示すのと同じように、パンと葡萄酒という「形色」は霊魂を養いにいらっしゃる天主ご自身を明白に示すのです。

要するに、ミサ聖祭の秘跡の質料はパンと葡萄酒という「形色」からなっています。もうちょっと後に、「形色」という言葉を説明します。難しいというか、哲学用語なので説明が要ります。

それはともかく、ミサ聖祭の秘跡が成り立つためには、パンが必要だということです。ラテン教会においては、種無しパンとなっています。つまり、無酵母のパンです。一方、ギリシャ教会では、発酵させたパンを使うことになっています。

大事なのはミサ聖祭の秘跡が有効になるためには「パン」を使わなければならないということです。パンの種類は問いませんが、パンを使ったミサ聖祭の秘跡が有効となります。しかしながら、ミサ聖祭の秘跡が適法になるためには、言いかえると罪なくミサ聖祭の秘跡を執行するためには、ラテン教会においては種無しパンが必要となっていて、そしてギリシャ教会においては無酵母のパンが必要となっているのです。

それから、葡萄酒は自然の葡萄酒でなければなりません。それは、葡萄という実りから発酵されたワインでなければならないという意味です。「ブドウの木の実り」という言い回しは福音において明記されていて、我らの主、イエズス・キリストもこの表現をなさっています。例えば、いろいろな実から酒を造ることができるわけです。日本酒はコメから、あるいは梅酒など、何でもいいですが、ミサ聖祭の秘跡のためには、葡萄酒でなければなりません。他の酒を使っても、ミサ聖祭は有効になりません。それから、ミサ聖祭の有効性のために必要ではないとしても、適法にミサ聖祭を捧げるためには、酸っぱくなりかけている葡萄酒も甘口の葡萄酒も使ってはいけないことになっています。それは秘跡の有効性とかかわらないから、それほど大事ではありませんが。

それはともかく、ミサ聖祭の時、ミサ用の葡萄酒には数滴の水を司祭が入れることを教会は命じています。一滴ぐらいです。この一滴の水は人類を示すとともに、そして我らの主、イエズス・キリストのご犠牲への私たちの参加を示すのです。
以上は質料の紹介でした。パンと葡萄酒なのです。食物を示す質料なのです。

それでは、形相はどうなっているでしょうか。
ミサ聖祭の秘跡の形相は、聖変化の時、司祭が言う言葉です。これらの言葉は我らの主、イエズス・キリストご自身が聖木曜日の最後の晩餐の際、仰せになったお言葉です。「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」以上の形相はミサ聖祭の聖変化の時に実際に起きていることを示す言葉です。要するに、まさに聖変化を示すのです。パンは御体となります。葡萄酒は御血となります。

「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」



まさに、我らの主、イエズス・キリストは「命のパンはわたしのことだ。」と仰せになりました。または「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」と仰せになりました。

要するに、聖変化の言葉をもって、パンを御体に変えて、葡萄酒を御血に変える効果があります。聖変化によって、パンと葡萄酒の形色は残ったままですが、つまり簡単にいうとその外観はパンと葡萄酒のままです。が、聖変化が行われると、パンと葡萄酒の形色は変わらなくても、その実体はかわります。もはやパンと葡萄酒ではなくなって、我らの主、イエズス・キリストの御体と御血となります。

このように、食物の「印」は残っていることになりますが、私たちは拝領する食物はもはやパンと葡萄酒ではなくなって、我らの主、イエズス・キリストご自身となります。御体と御血なのです。
~~

ミサ聖祭の秘跡は「ご現存」という玄義、「ご現存」という奇跡を実現する秘蹟です。「ご現存」とはなんでしょうか? つまり、パンと葡萄酒の外観の下に、形相を通じて、つまり聖変化の司祭がいうお言葉、「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」を以て、パンと葡萄酒の本質が変わるのです。

ここに至って、哲学用語とその概念をちょっとだけ簡単に説明することが大事だと思われます。物質的な存在は本質と偶然からなっているのです。
簡単にいうと「本質」とはラテン語の「Sub stare(下に立っている実体)」に由来しますが、その存在の本性を決める事柄です。つまり、ある「物」は「何であるか」ということを決めるものです。例えば、「彼は人間だ」といった時、その人の本質を語るのです。あるいは、ある物をみて「これは机だ」、「これ椅子だ」「これはエビだ」「これは花だ」という時、それらの物の本質を表現します。

ただ、私たちは人間なので、物事を知るために、それらの物事の「外観」を通じてだけその本質を把握できるのです。言いかえると、物事の外観、あるいは感知できる要素を受けて、それを見て、私たち人間は「何であるか」ということを言いきれることはできるのです。これは人間の特徴であると言えましょう。物事の本質を言い切れるという。要するに、人間は外観を見て、その中身を認定するというようなやりかたです。

つまり、私たちは「外観」を見ます。哲学用語を使うと、この「外観」は「偶然」と呼ばれています。偶然とは「Ac cidere」というラテン語に由来していて「現に現れている物事」という意味です。また「形色」とも呼ばれています。「現れる物事」という意味です。

要するに、私たち人間は物事の外面、感知できる要素を見受けて、これらの物事は何であるか、つまりその本質を言い切れる能力を持つのです。
例えば、目の前に二つの腕、二つの足、頭などという「物」を見た時、「これは人間だ」と言いきれます。つまり、その外観などを見て、その本質を言い切れます。もちろん、これらの外観はひとびとによって変わります。例えば目の色とか、身長、体重などはみんな違うわけです。つまり、これらの外観は多様性がありますが、それでもこれらの感知できる要素のお陰でいずれにしても「彼は人間だ」と言い切れる現実があります。あるいは「これはエビだ」あるいは「これは植物だ」あるいは「これは木だ」あるいは「これは雲だ」など。

つまり、人間は物事の外観を通じて、その本質を知ることができます。ですから、存在物には「本質」と「偶然(外観)」の区別があるのです。もちろん、本質と偶然は区別されても、現に密接に結ばれているので、私たち人間はある物の本質と偶然を離すことは不可能です。無理です。例えば、体を持たない人といっても、無意味なことです。理不尽です。無理です。人は必ず頭とかあります。

要するに、物事の本質と偶然(外観)は存在することに当たって密接に強く結ばれているのです。離れられないほど。

さて、ミサ聖祭の秘跡の際、現に起きる聖変化は天主によってしかできない奇跡となります。天主のみ、万象の創造主とその主人であるがゆえに聖変化が可能です。どういうことでしょうか?



我らの主、イエズス・キリストは聖木曜日の最後の晩餐の時、あるいは、司祭はミサ聖祭の聖変化の時、「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血である。」という言葉を言ったとたんに、パンと葡萄酒の「形色」、言いかえると「外観、偶然」はそのままに残るのですが、パンと葡萄酒の本質は変わります。このような御業は天主のみができる奇跡です。というのも、天主のみ、万象の存在を支配して、万象を操ることができるからです。なぜでしょうか?天主こそがこの上なく至上の存在であり、天主こそが万象に各々の存在を与える御方であるがゆえです。

つまり、天主のみが聖変化において実現する本質の変化を行えるということです。繰り返しになりますが、我らの主、イエズス・キリストはパンを手に取り「実に、これは私の体である」と仰せになった時、あるいはミサ聖祭の際、司祭がパンを手に取り「実に、これは私の体である」と申し上げたとたんに、もはやパンではなくなってしまい、我らの主、イエズス・キリストご自身に変わります。現存されます。ただ、「パンの外観のもとに」実にましまし給うということです。つまり、聖変化のあとでも、パンのすべての「偶然」、「形色」、つまり「外観」は残っています。例えば、白く、丸くて、パンの味がしているなどの「感知できる偶然」は残っているままです。が、御聖体はその外観の下に隠れている本質が変わって、我らの主、イエズス・キリストご自身となります。

この現実は信仰が私たちに教えることです。そして、我らの主、イエズス・キリストご自身がミサ聖祭を約束なさったことを信仰を通して確証させるのです。また、現在において、御聖体にかかわる多くの奇跡によっても確証されています。

聖書においても、聖伝に(使徒たちによって伝えられて伝統)においても、それからカトリック教会の長い歴史に渡る確認できる多くの「弁証の証拠」においてもご現存の証拠は数多くあります。しかしながら、これらの証拠はともかく、ご啓示された信仰の一つの玄義として、そのままにご現存されるという真理は素直に受け止めなければなりません。

典礼において、聖変化から司祭は御聖体の前に跪くのですが、それはご現存に対して礼拝しているのです。もはやパンではなくなっているのです。これは大事です。もはやパンではないからこそ、イエズス・キリストご自身であるからこそ、ご現存にましまし給う御聖体だからこそ、跪くのです。礼拝の行為を表します。


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同じように、イエズス・キリストがカリスを手に取ったように、ミサの時、司祭がカリスを手に取って「実に、これは私の血である。」といったとたんに、もはや葡萄酒ではなくなります。ただ、葡萄酒の外観など、葡萄酒の偶然は残っていますが、その本質は変わって、もはや葡萄酒ではなく、我らの主、イエズス・キリストの御血です。

まさに聖変化です。つまり、本質が変化されたということです。パンと葡萄酒の本質から我らの主、イエズス・キリストの本質へ変わります。神学用語でいうと「聖変化-transsubstantiatio」と言います。直訳すると「本質を変える」という意味です。本質が変化します。

ちなみに、秘蹟の定義は次のようになっていますね。「ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。」この「本質的に」という部分が重要となります。偶然(外観)は変わらないのですが、本質は変わります。聖変化です。

で、聖変化を通じて、我らの主、イエズス・キリストが御聖体において現存しておられます。本当にましまし給うのです。パンと葡萄酒の形色の下に、それぞれに完全にましまし給うということです。言いかえると、御聖体において、つまり、パンの外観の下に、イエズス・キリストの全部がましまし給うということです。御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに、御聖体において現存しておられます。我らの主が現存しておられるという時、当然といえば当然ですが、我らの主、イエズス・キリストの全体がましまし給うということです。イエズス・キリストの一部を除いてにおられることはありません。御体、御血、ご霊魂、ご神性のすべてをもってましまし給うということです。



同じように、カリスの御血においても、我らの主、イエズス・キリストの全体がましまし給うということです。ですから、御体と御血だからといって、パンには御体だけ、葡萄酒には御血だけというようなことはありません。

コリント人への第一の手紙において、聖パウロの次の言葉があります。「だから、相応しい心なしに主のパンを食べ(あるいは)、この杯を飲む者は。主の御体と御血を犯す。」(コリント人への第一の手紙、11、27)
以上の引用の「あるいは」と「と」はこの意味で大事になっています。つまり相応しい心なしに主のパンを食べる者、あるいは杯を飲む者は、つまりどちらかでもという意味で、主の御体と御血を犯すということは、御血と御体の双方を犯すということになります。
要約すると、聖変化されたパンだけをもっても、御血と御体があるということです(そして、ご霊魂とご神聖、つまりイエズス・キリストのすべて)。同じように聖変化された葡萄酒だけをもっても、御血と御体があるということです。

要するに、パンと葡萄酒のそれぞれの形色の下に、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。さらに言うと、それぞれの形色の一部の下においても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。具体的にいうと、つまり、御聖体は、つまり聖変化された種無しのパンの一部のかけらだけにおいても、我らの主、イエズス・キリストのすべてが完全にましまし給うということです。言いかえると、司祭は御聖体を二つに分けても、我らの主、イエズス・キリストは分かれていないのです。別れた二つのかけらにおいても、完全にすべてましまし給うということです。一部のかけらをとって、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。もう一部のかけらにおいても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。
同じように聖変化された葡萄酒の一滴においても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。



ここに至って、お勧めがあります。皆様の毎日のミサ典書をに参照するのがよいです。御聖体の祝日の典礼に素晴らしい「続誦」があります。御聖体の祝日は聖霊降臨の祝日のあとに来ます。その日の典礼には素晴らしい「続誦」がありまして、「詩」のような「歌」のような美しい祈りです。アレルヤのあとにあって、福音書の前にあります。聖トマス・アクイナスが作成した「続誦」です。御聖体について、カトリック信徒として信じるべきすべての真理がその「続誦」に収まって簡潔に記されています。一部だけ引用しましょう。

「異なる形色、象徴的な表面の下に、すぐれた実在がかくれましまし給う。
御肉は糧、御血は飲み物である、キリストはその双方の形色の下に、完全にこもりまします。
これを受ける者も、切ることなく、割ることなく、分けることなく、全き実体を受け奉る。
一人拝領するも、全員拝領するも、等しきものを完全に受け奉る。いかに多くが受けても、尽きることはない。」

以上の文章は「続誦」の一部ですから、ぜひともご覧ください。多少長いですが本当に素晴らしい文章です。

ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。


ミサ聖祭は秘蹟:イエズス・キリストは本当に、実際に、ご聖体におられる

2021年02月07日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十一講 ミサ聖祭、その制定



ミサ聖祭、その制定
Gabriel Billecocq神父

洗礼と堅振の次に、ミサ聖祭を見ていきましょう。
前にもご紹介したように、秘跡を理解するために、秘跡を「自然の人生の流れ(誕生、成長、養い)」に例えてみることができます。
洗礼とは超自然の命を与えます。つまり、超自然における誕生なのです。堅振とは超自然の生命を成長させて、洗礼者をキリストの戦士にすることによって、完成化させます。

それから、今回からご紹介するミサ聖祭、あるいはご聖体という秘跡は超自然の生命を養うのです。言いかえると、超自然の人生における補給なのです。

ミサ聖祭の秘跡はかなり難しい秘跡であり、複雑でもあります。ミサ聖祭には主に二つの異なる現実が重なっていて、この二つの側面をちゃんと理解すべきですから、これから一つずつじっくりとご紹介していきたいと思います。

第一、秘蹟としてのミサ聖祭です。ミサ聖祭は秘跡中の一番偉大なる秘跡となります。一般的にいうと、「御(ご)聖体」の秘跡といいます。
そして、第二、ミサ聖祭という秘跡は「犠牲」あるいは「生贄」を執行することによって実現する秘蹟だということです。要するに、生贄としてのミサ聖祭も次に説明することになります。一般的に、「ミサ聖祭」といった時、犠牲としての側面を重視します。
とりあえず、秘蹟としてのミサ聖祭を見ていきましょう。
~~

ミサ聖祭は秘跡です。まず、ミサ聖祭を指す別の言い方は、フランス語で「Eucharistie」がありますが、ギリシャ語での意味は「感謝の表明」、または「恩返しを施す」、つまり「感謝する」というような意味です。ですから、ミサ聖祭という秘跡を通じて、天主に感謝して、天主への恩返しを実践するような意味があります。

それはともかく、ミサ聖祭の定義は厳密にいうと次のようになります。「ミサ聖祭は一つの秘跡です。その秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給う【あるいは現存し給う】のです」

以上の定義にあるすべての言葉は大事であって、その意味に注意しましょう。
ミサ聖祭には私たちの主、イエズス・キリストは「実際に」、つまり現に目の前にいらっしゃるという意味です。「真に」、つまり、本当の意味で、イエズス・キリストのままにイエズス様はいらっしゃるという意味です。「本質的に」いらっしゃるという意味は後で詳しく説明します。



それから、「イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性」がましますということは、イエズス・キリストの全体、人としてのイエズス・キリストと天主としてのイエズス・キリスト、その全てが本当にいらっしゃるという意味です。ただし、目に見える形は普通の体ではなく、「葡萄酒とパンの外観の下に」、イエズス・キリストのすべてはいらっしゃるという意味です。

さて、これから、以上の定義を見ていきましょう。すべての秘跡と同じように、ご聖体の秘跡も「物質的な印」、「天主による制定」、「聖寵の施し」という三点からなっています。

思い出しましょう。秘跡の定義は「我らの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、秘跡は聖寵を施すために制定さた」という定義でした。ミサ聖祭も秘跡なので以上の定義に当てはまります。

つまり、ミサ聖祭は「私たちの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、聖寵を施すために制定された」秘跡です。

さてに最初、イエズス・キリストのミサ聖祭のご制定について見ていきましょう。

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ご存じのように、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったのは死に給った前日、聖木曜日です。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書にも明記されているほか、聖パウロの手紙においても記述があります。
「私があなたたちに伝えたことは主から預かったことである。すなわち主イエズスは裏切られた夜、パンを取り、感謝したのちそれを裂き、『これはあなたたちのための体である。』」(コリント人への第一の手紙、11、23-24)

我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったことによって、まず、イエズス・キリストは彼がなさった約束を果たし給ったのです。かなり明白にミサ聖祭を制定することを約束なさったのです。実は、約束なさったとき、聞いていた人々はびっくりしてショックを受けていました。聖ヨハネの第六章に記されている場面です。



その前日、我らの主は大きな奇跡を行ったのです。いわゆる、パンの増加の奇跡です。ちなみに、このパンの増加はミサ聖祭を準備する奇跡でもあり、つまりご聖体の玄義を知らせるための奇跡であって、そうすることによってご聖体への理解を助けるためになされたパンの増加の秘跡です。そして、その翌日は準備された人々へご聖体をはっきり示し、約束されます。

カファルナウムという町にいましたが、前日の奇跡、パンの増加のことを見ていた人々、それからその話を聞いていた人々が多く、我らの主のもとに来ます。パンの増加だけでも、現地の多くの人々はイエズス・キリストの天主性を自覚しました。そして、集まっている大衆はイエズス・キリストに「これからもまたずっとずっと、昨日のようにパンを与えてください」と主に頼みに来るという場面です。
その依頼に応じて、イエズス・キリストは次のように答えます。「命のパンはわたしのことだ。」(ヨハネ、6、35)

ご覧のように、我らの主、イエズス・キリストは奇跡を通じて、つまり普通のパンの増加を通じて、目に見えない別の現実を示し給うたのです。「命のパンはわたしのことだ。」と仰せになって、また「私は天から下ったパンだ」(ヨハネ、6,41)とも仰せになります。ここに、旧約聖書のマナになぞらえるのです。マナとは40年間ずっと、聖地に入る前に砂漠にいたヘブライ民族が食べられるために、毎日、天から下った食べ物です。粉のようなマナで、それでパンを作って、そのおかげでヘブライ民族は長年にわたって砂漠にいてもマナを食べて生き残り、聖地にやっと入れました。

「私は天から下ったパンだ」と仰せになります。
さらに、イエズス・キリストは次のことを付き加えます。その時の目撃者にとって、かなり謎めいたお言葉だったと思いますが、そのあとの経緯を見ると意味がはっきりするのです。
「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
繰り返します、ご自分を指して、「私がパンだ」と仰せになっていますね。「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」そして、つづいて、
「私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」(ヨハネ、6、51-52)と仰せになります。このパンは「生かす」パンだからです。

当時の人々にとってかなり謎めいたお言葉でしたが、そのあとの歴史を知っていると、かなり明白なお言葉です。
ちょっと、当時の人々の反応を想像してください。我らの主、イエズス・キリストは「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」と仰せになります。肉ですよ。当時の人々はこのようなことが言われてもまずピンと来ないことは言うまでもありませんが、非常にショックを受けるのです。なにか、このようにして「私の肉をあなたたちに与えるので、養うパンのようになるので、私を食べてください」というようなことですので、ちょっとこれをはじめて聞いたらびっくりするでしょう。

面白いことに、聖ヨハネは人々の反応を記していますが、意外と人々は何となくわかっていた様子だったのはわかります。「ユダヤ人は互いに議論し合った」。ということは理解しようしていました。謎だったものの。
そういえば、以上の場面の時、使徒たちは追加の説明をイエズス・キリストに頼んでいないのは特徴的です。謎めいたお言葉ですが、あとになって何となくわかっていたということを表します。福音書において、使徒たちは主の箴言がわからないとき、遠慮なくイエズス・キリストにその追加の説明を聞いてみることが多いので、以上のお言葉に対する使徒の反応は例外です。しかも、上の言葉は箴言ではなく、現実のことについて仰せになります。

その時、福音書の次の場面にはこうあります。「そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった。【多くのユダヤ人たちはイエズスのお言葉を聞いてショックで受け入れなかったことを表す】イエズスは十二人に向かい、『あなたたちも去っていきたいか」といわれた。シモン・ペトロは『主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命の言葉を有しておられます。また私たちは、あなたが神の聖なるお方であることを知っていますし、信じています。』」(ヨハネ、6、66-69)

以上の場面はイエズス・キリストがミサ聖祭を制定することを約束する場面です。同じ場面のイエズス・キリストのお言葉は次の通りにあります。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。」(ヨハネ、6、53-55)

聖ヨハネの福音書の第六章は以上に見た通りに明白です。ミサ聖祭を前もって示す場面です。ここでは、我らの主は霊魂のために霊魂の食べ物としてご自分を与えることを約束なさいます。要するに、ミサ聖祭の約束です。

次に以上の約束を我らの主は果たされます。聖木曜日になってミサ聖祭を制定することによって、御約束を果たされます。最後の晩餐のさい、セナクルで、12人の使徒たちに囲まれて制定なさいます。
制定なさるときも、非常に明白に制定なさいます。周知のように福音においてのミサ聖祭の制定を記す記述には、パンを手にとって「これは私の体である。」と仰せになります。

つまり、私たちの主は「これは私の体に似ている。」あるいは「これは私の体の外観である」あるいは「これは私の体を象徴するものだ」というようなことはおしゃっていません。「これは私の体である。」と仰せになります。



そういえば、私たちの主はいつもいつもはっきりとお言葉を発して、いつも明白でぴったりと現実をそのままに仰せになっています。真理について仰せになっています。「これは私の体である。」と仰せになります。
そして、ご存じのように葡萄酒の杯を手に取って「これは私の血である」と仰せになります。

以上は、我らの主、イエズス・キリストの遺言です。遺言というのは、後世の人々のために遺された宝です。また私たちのために引き継がれた遺産です。私たち、洗礼者が受け取れるこの遺産は何でしょうか?イエズス・キリストの御体です。イエズス・キリストの御血です。言いかえると、イエズス・キリストのおん命です。というのも、前にも紹介したように、おん体とおん血とご霊魂とご神聖はミサ聖祭の秘跡において本当にましますので、イエズス・キリストのすべての生命です。

以上ミサ聖祭の制定を紹介しました。
また、三つの福音書以外にも、聖パウロはコリント人への第一の手紙において、ミサ聖祭の制定を語ります。主な点において福音書と同じ描写となっています。そして、聖パウロもコリント人にはっきりと明白に次のことを言っています。
「だから、相応しい心なしに主のパンを食べ、この杯を飲む者は。主の御体と御血を犯す。」(コリント人への第一の手紙、11、27)

つまり、聖パウロの言葉も明白です。ミサ聖祭では、本当の意味で我らの主、イエズス・キリストの御体と御血が、パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるのです。

また、ミサ聖祭の制定とその現実はすべての教父たちは揃って改めて確認して断言します。パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるということはもちろん玄義であって、理性で理解しようともできないわけです。

そして、このような玄義は本当に現実であることのさらなる根拠は、歴史においての多くのご聖体のお陰での奇跡です。ご聖体による奇跡は数えきれないほど多くあって、いつでもどこでも確認されています。最近でも、いわゆる御血が流されて、その血を検査の結果に、本当に血であることが証明されたりしました。

あるいは、逆に、異端者などがご聖体を冒涜した時にちゃんと実証された奇跡が多く起きたことも確認されています。ここにいう奇跡はカトリック教会によって認定されたものだけであって、つまり確認されてしっかりと実証された奇跡のことを言います。今でも見られる奇跡もあちこちあるので、巡礼の地にもなっていることが少なくありません。



あとは、具体的に有名な奇跡でいうと、いわゆるルルドでの多くの奇跡がありますね。ルルドでは司祭は顕示台に安置されているご聖体を捧げながら、病者たちの前に通行するという儀礼があります。そこで、ご聖体をもって十字架を病者の上に切ります。

ルルドで実証的に確認された奇跡は非常に多いわけです。ご興味あったら、どうぞご確認ください。非常に多いので確認しやすいのです。このような奇跡はご聖体には本当に我らの主、イエズス・キリストが現存しておられることを証明する、さらにご聖体の現実を根拠づける奇跡です。

イエズス・キリストは本当に、実際に、ご聖体におられるのです。

堅振:聖霊の賜物とは?聖香油の象徴する意味とは?

2021年01月31日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十講 堅振について



堅振とは
Gabriel Billecocq神父

前回は洗礼を見ました。今回は第二の秘跡、堅振を見ていきましょう。
堅振とはなんでしょうか?堅振の秘跡によって聖霊を受けます。そして、聖霊の賜物を豊かに有り余るほど受ける秘跡です。また、堅振によって、完成化したキリスト教徒、キリストの戦士となっていきます。

要するに、堅振とはまず、聖霊と有り余るほどに聖霊の賜物を豊かに受ける秘跡です。
聖霊は既に洗礼の際に与えられています。思い出しましょう。洗礼は最初の秘跡であり、霊魂の生命を与える秘跡です。洗礼の時から、洗礼者の霊魂には聖父と聖子と聖霊は居を構えることになります。

堅振の秘跡になると、霊魂における天主の現存をより深く根下ろさせるかのような効果があるということです。そして、洗礼の時に始まった「御業」を強化し、完成化し、確立し、「堅く」し、つまり「堅振」にする秘跡です。言いかえると、洗礼の際、始まった御業を霊魂において仕上げて、強化していきます。

洗礼によって天主の養子となった洗礼者は、堅振の秘跡に与ると、キリストの戦士となります。言いかえると、大人になります。堅振は信仰における通過祭のようなことで、堅振を受けると信仰において大人になります。堅振に与る者は超自然の生命において、大人になります。
以上は堅振の秘跡の粗筋です。「大人になった」という意味は「戦士」になったということです。つまり天主の「闘士」になりました。もちろん、いわゆる武器を持った武士ではないのです。キリストの戦士になったというのは、天主の栄光のために戦っていく者になったという意味です。
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信仰において大人になったおかげで、信仰において堅振者は社会において輝かしくなったという効果があります。それも大事です。大人になるというのは、社会上の使命を果していくということでもあります。

「大人」というのは、本来ならば身体と精神の成長が終わったという意味ではありません。いや、本来ならば「大人」というのは「一人前」になって、道徳を実践できる状態にあって、社会上に使命を果たし、輝かしくなっていくということです。言いかえると、「政治的な営み」をするのは大人です。ここでいうと「政治的な営み」の意味は俗にいう意味ではありません。厳密にいうと、道徳を実践していくという古典的な意味です。

要するに、堅振の秘跡は信仰において子供である洗礼者に刻印を与えて、それによって大人となります。大人として確立されて、信仰において「堅く」なります。以上でお分かり頂いたかと思いますが、天国に入るために堅振の秘跡は必要ではありません。救霊を得るためには、洗礼を受けて、聖寵の状態にあることだけが必要不可欠な条件です。

しかしながら、堅振の秘跡に与っていない信徒は非常に強い援助を受けないことになりますので、そして、もしも意図的に堅振を拒むようなことがあったら、深刻な罪となります。ですから、天国に入るためになるべく堅振を受けるようにしましょう。ただ、天国に入るために必要な条件ではありません。
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他の秘跡と同じように、堅振も質料、形相、執行者、能力者からなっています。それから、教会の意向をもって執行する条件もありますが、それは典礼で確立するのです。

さて、堅振の質料はなんですか?堅振の遠因の質料は「聖香油」です。「聖香油」とは「オリブ油とバルサム(芳香性樹脂)」の混ぜ物です。聖木曜日の時、司教が作る「聖香油」です。バルサムは樹脂であって、非常に芳しい物です。かなり素晴らしい香りで、しいて言えば潤いの香りがします。オリブ油と混ぜて、祈祷を捧げながら司教によって祝別されたら「聖香油」となります。

秘跡を授けるために、司教は「聖香油」を使います。「聖香油」は遠因の質料です。近因の質料は「聖香油」を堅振者の額につける仕草です。「聖香油」の付け方は「塗る」ことによってやります。つまり「塗油」です。具体的に、司教の手によって、十字架の印を切りながら「聖香油」を額に塗るという仕草です。


言いかえると、具体的に司教は堅振を授ける時、堅振を受ける信徒の頭に手を置きます。超自然の人生においてまだ子供である信徒ですね。つまり、司教は按手して、そして同じ手の親指をもって十字架を額に切り塗油します。親指に「聖香油」があるから、額に「聖香油」を塗ります。
以上が堅振の質料です。

では、秘跡の形相はなんでしょうか?以上の仕草をやりながら、つまり、「聖香油」を額に塗りながら司教が唱える言葉が形相です。
司教の言葉は次の通りになります。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、汝に十字架を記し、救霊(たすかり)の聖香油を以て汝を堅固にす」。

この言葉と仕草の象徴性は高いです。「汝に十字架を記し」という部分はもちろん大事です。洗礼によって私たちはイエズス・キリストの弟子となって、つまり、すべてにおいてイエズス・キリストに倣い、教わることになります。そして、イエズス・キリストは救霊の手段を与えました。それは十字架です。十字架によってこそ私たちは救われました。

言いかえると、キリスト教徒だったら、必ず十字架において生きていかなければなりません。十字架によって活かされています。「私のあとに従おうと思うのなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、従え。」(ルカ、9,23)と私たちの主は仰せになりました。キリストの弟子になるとはキリストに従うことです。そして、私たちの主の教えは十字架です。

十字架こそはキリスト教徒の枢軸となります。「汝に十字架を記し、救霊(たすかり)の聖香油を以て汝を堅固にす」というのは、十字架について恥じることはありません。恥じてはなりません。ですから、一番目立つ額に十字架が記されているということです。十字架についてキリスト教徒として恥じてはいけません。十字架こそがキリスト教徒の特徴であり、我らの主への従属を示す十字架なのですから。「汝に十字架を記し」。

で、その十字架を記すには、聖香油を使います。オリブ油とバルサムの混ぜ物です。バルサムはキリストの芳香性を象徴しています。バルサムは芳しいから、非常に良い香りを漂わせる物です。嗅いだことのある方はわかると思います。それは、堅振を受けた信徒はバルサムのようにある種に輝くように、つまり芳しく真理がひろまるように。

そして、本当に天主の内に生きておられる方に近づいた経験があると、聖人のような人々に近づけると、なんかどことなくキリストの芳しさによってつつまれている不思議な空気、これらの方々は輝かしいです。バルサムはそれを象徴しまします。


堅振を受けた信徒は、より徹底的に十字架によって生かされるべく、より徹底的に聖徳において生きていくべく、それによって自然に私たちの主、イエズス・キリストが堅振者から輝くようになります。

オリブ油は戦うための剛毅、強さを象徴します。古代において、オリブ油は戦闘と格闘の時に使われていました。それによって敵は自分を握れないようにしていたのです。これにたとえて、オリブ油は戦うための強み、力を象徴します。

そして、司教は以上のように塗油してから、司教が堅振者の頬を軽く打ちます。塗油されたので、堅振者は信仰において大人となりました。打ちながら、「汝、平安あれ」と司教が言います。

この頬を打つことによって、戦うために、私たちの主、イエズス・キリストの栄光を守るために必要になっていく「勇気」を示します。言いかえると、イエズス・キリストのために来るまで戦う勇気を備えるように。
以上、質料と形相を紹介しました。

次は、堅振の秘跡の通常の執行者は司教です。司教の委任があった場合、非常時の時、限られた場合、司祭も執行者となりえます。例えば、幼児は瀕死になる場合、司祭は堅振を与えることができます。そうすることによって、堅振の刻印を与えて、天国でより多くの聖寵を受けることになります。ちなみに、東洋では、堅振の秘跡は通常ならば、洗礼の秘跡のすぐ後に司祭によって与えられています。

要約すると、通常の執行者は司教です。なぜでしょうか。堅振によって大人になりますので、司祭職において完成である司教が与えるのが適切だからです。しかしながら、司教の委任があった場合、あるいは必要な時に、司祭も堅振の秘跡を授けることはできます。
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次に、堅振の秘跡を受ける能力者は洗礼者です。堅振を授かるため、洗礼を受けたという条件があります。当然と言ったら当然ですが。東洋では洗礼だけの条件で十分です。

ラテン教会では洗礼のすぐあと、必要がない場合、堅振に秘跡を与えてはいけないことになっています。子供は分別がつく年齢になる条件もあります。それだけです。それ以上に待つ必要はありません。厳密にいうと、聖体拝領はまだしていないとしても堅振の秘跡を受けてもよいです。

実は、フランスでは昔からガリカニスムという誤謬の影響もあって、堅振の秘跡を遅くして授かる陋習があります。なにか、12・13歳を待つことが多いです。ちょっと遅いかなあ。
もちろん、堅振の秘跡を受けると大人になるから、その条件として、信仰の基礎をしっかりと知っている上に、よく教育されている条件があります。が、これらの教育は聖体拝領するための前提教育と同じぐらいなので、聖体拝領ができる時、堅振を受けることもできるということです。

ですから、7歳になっても、堅振を受けることは全然あり得ることです。子供次第ですが、準備ができたら待つ必要はありません。信仰において大人になってもよいのです。堅振の秘跡のお陰で、大人として社会において使命を果たしていくための聖寵を受けることができます。
通常ならば、堅振の秘跡は聖体拝領のあとに授かることが多いでしょう。聖体拝領の一年後あるいは二年後あたりに。
もうちょっと教義などを深めて身につけた時、堅振の秘跡に与るとか。特に現在においては、信仰の真理を深めることは昔に比べて妨げが多いかもしれないから、聖体拝領のあと、一年後ぐらいとかが最近は多いです。



堅振の秘跡が効果をもたらすためには「聖寵の状態」にある条件があります。もしも、「聖寵の状態」にないのに、堅振の秘跡を受けても、それに伴う聖寵を受けないことになります。もちろん、それでも、有効に堅振の秘跡を受けて、堅振者となります。ただ、それに伴う聖寵は受けないのです。聖寵に戻った時、つまり告解に行った時、その効果を得られることになります。

最後に、堅振の秘跡の効果を見ていきましょう。堅振の秘跡は聖成の聖寵をいや増していきます。ここでいう「いや増す」というのは、霊魂においてより堅く深く植え込むという意味です。それによって、聖霊はより活発に霊魂において働きかけてくれるようになるということです。以上は堅振の秘跡の第一の効果です。

堅振の秘跡の第二の効果は、洗礼のように、霊魂において取り消せない刻印を刻みます。この刻印は子どもだったキリスト教徒を完成化させます。つまり、キリストの戦士となります。いいかえると、この刻印によって、社会においての使命を果たし行くことを助け、信仰において輝いていき、隣人への良い影響力を及ぼしていく効果があります。

そして、堅振の秘跡の第三の効果は信仰のために、剛毅という、強さという聖寵を受けることです。また、聖霊の賜物に忠実である力を与える秘跡です。つまり、堅くさせるという意味です。まさに信仰において「堅振」の意味であって、確立して、強化して、強くしてという。世では信仰を告白し、実践する強さを与える秘跡です。



また、堅振の秘跡の効果でいうと「聖霊とその賜物を豊かにうける」効果があります。聖霊の賜物とはなんでしょうか?以前にもご紹介したことですから、手短にしましょう。
聖霊の賜物は霊魂に善い性格を与えるような賜物であって、これらの賜物のお陰で、聖霊の教示を従順に素直に受けるようにしてくれる賜物です。
聖霊の賜物を理解するために、通常、次のたとえがされています。つまり、聖霊の賜物は船においての帆のような役割です。聖霊は風にたとえて、帆が風を受けて、より早くよく船が聖霊に従って動いていくという。聖徳はむしろオールにたとえられています。徳のお陰で、つまるところ、オールで漕いでいるかのようなことです。

また、聖霊の賜物は現代風にいうと、聖霊の電波キャッチするアンテナという感じでもあります。
七つあります。上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏

以上は聖霊の7つの賜物です。
洗礼の時、すでに与えられた賜物ですので、堅振の秘跡によって、さらに豊かに受けるようになれて、有り余るほど賜物を受けるようになります。

なぜ洗礼の条件は驚くほど軽いのか?

2021年01月27日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百九講 洗礼について



洗礼とは
Gabriel Billecocq神父

前回は一般的に秘跡とは何であるかを説明しました。今回から、秘蹟を一つずつ見ていきましょう。つまり、各々の秘跡を取り上げて、簡単に神学に照らしてどういった秘跡であるかをご紹介していきたいと思います。

最初に洗礼の秘跡を見ましょう。洗礼はまさにほかの秘跡の門なのです。洗礼を受けずして、ほかの秘跡に与ることはできません。ですから、洗礼の秘跡は時間の順番でいうと最初の秘跡となります。前回も申し上げたように、一番大事な秘跡はミサですが、食べるための条件として、まず、生きているという前提があります。生まれたという前提があります。

従って、洗礼というのは超自然の人生、言いかえると聖寵の生命あるいは聖寵の状態に生まれるための秘跡です。洗礼によって、天主は霊魂に住まいを構えにいらっしゃって、そこに継続的に居を構えておられます。

それでは、洗礼とはなんでしょうか?
洗礼という秘跡は原罪を取り消す上、その人が犯した他の罪をも取り消すのです。そして、洗礼という秘跡は原罪を取り消すことによって、聖寵の生命を与えます。その結果、洗礼という秘跡はイエズス・キリストの弟子となし、天主とカトリック教会の養子となします。

要するに洗礼の秘跡の主な効果は次のとおりです。原罪を取り消す。超自然の聖寵を与える。そうすることによって天主と教会の養子にする。という効果を持つ秘跡です。またイエズス・キリストの弟子になります。イエズス・キリストの弟子という意味は、私たちの主、イエズス・キリストの下に見習っていく者になったという意味です。弟子とは主の下に行って習って従っていく者です。
以上、洗礼の紹介でした。

洗礼の秘跡はわれらの主、イエズス・キリストが制定した秘跡です。洗礼者ヨハネがイエズス・キリストに洗礼を授けた時、イエズス・キリストは洗礼という秘跡を制定したでしょう。周知のように、私たちの主、イエズス・キリストはヨルダン川に入って、洗礼者ヨハネに洗礼を求めて、洗礼を授かりました。

「洗礼」という言葉はギリシャ語に由来しており、「みそぎ」または「潜水」という意味です。
要するに、洗礼の秘跡は霊魂に生命を与えるのです。また、原罪を取り消す秘跡です。
従って、救霊のためには洗礼は必要不可欠となります。洗礼を受けていない人は救われることが不可能です。私たちの主、イエズス・キリストはこれを明白に仰せになっています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マテオ、28、19)。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16,17)。(または、ヨハネ、3,5にも参照。)



ということは、洗礼を受けずして天国に入ることはできません。無理です。裏を返せば、天国に入るためには洗礼は必要不可欠です。
救霊を得るためには、このよう絶対な条件があることから、両親が赤ちゃんを洗礼に与らせる深刻な義務が生じるのは言うまでもありません。しかしながら、これに留まらないで、赤ちゃんを洗礼に与らせた両親はさらにカトリックの信仰の内に育てていく義務をも生じさせます。というのも、「両親として子供を洗礼に与らせたが、そのあとは子どもが好き勝手にすればよい」というわけにはいきませんよ。これでは無意味です。無責任です。

また同じように「洗礼にすぐ与らせないで、子どもが7-8歳になったら決めてもらおう」というわけにもいきませんよ。このような考え方は「君が生きたいか生きたくないか」というようなことを子供に決めてもらうような無意味なことです。なにか、赤ちゃんが生まれたばかりの時、「君、食べることをするかしないか」というようなことを子供に決めてもらうようなことです。これは無意味なことでしょう。母親が赤ちゃんに「母乳を飲みたいか飲みたくないか」ということを聞くわけがないのです。赤ちゃんが食べなければ、当然、赤ちゃんの意見など無視して、食べ物を与えていくわけです。生きていく上には、赤ちゃんにとって必要不可欠なことです。

このようにして、超自然の次元でも、以上と全く同じことになっています。洗礼を遅らせるのは同じように全く理不尽なことです。いや、あえて言えば非常に邪悪な行為です。なにか「天主を選ぶのは君の自由だぞ」という誤った印象を子供に植えつけてしまうからです。しかしながら、天主の外には何もないのです。人間なら、天主を選ぶべきだということです。

また、洗礼を遅らせるのは非常に邪悪なことになりますが、それは正しく善く生きていくために必要となる聖寵と聖寵の生命を子供に与えないことになるからです。言いかえると、洗礼を赤ちゃんに授けないのは、赤ちゃんを「死」の人生に置かせっぱなしにするというか、「霊魂が死んでいる状態のままに」子供をほったらかしにするような行為です。

これは深刻なことです。つまり、子どもが霊魂においてかなり深く長く死んでいる状況のなかで「君は命が欲しいのか」と子供に聞くようなことです。これは無理があります。なぜかというと、子どもは超自然の命は何であるか知らないし、長く罪のなかで生き続けたので、このような選択はそもそもできないわけです。

罪による多くの悪い習慣を身についた子供は一体どうやって洗礼を選べるでしょうか?言いかえると、多くの犠牲をこれからいきなりやっていくことを約束することを選びうる子供はいるものでしょうか?幼児洗礼をした上、さらにそのための躾がないのなら、これは無理なことでしょう。

ですから、赤ちゃんの時に洗礼を授けないで、遅らせてそのあとにするのは本当に邪悪な行為なのです。
しかしながら、赤ちゃんであるうちに洗礼を授けても、信仰の内に育てていかないことも非常に邪悪なことです。

ですから、カトリック的な教育を受けられないだろうと思われる赤ちゃんに対してはカトリック司祭は洗礼を授けないことになっています。なぜでしょうか?洗礼を授けるということは洗礼者の霊魂には刻印を刻むことになります。この刻印は永遠に残るわけです。
つまり、赤ちゃんにせよ、大人にせよ、この刻印をもったまま、地獄に落ちた場合、地獄に必ず落ちる「洗礼を受けていない者」よりも洗礼者の方が幾倍、厳しい苦痛と罰を受けることになります。



はい、比較にならないほど、洗礼を受けた者が地獄に落ちたら未洗礼者よりも苦しんでいます。洗礼者だったがゆえに、天主の養子だったわけです。ですから、天主を否認して、天主の父性を拒んだ洗礼者、つまり地獄に落ちた洗礼者に対する罰は、天主の養子でもない未洗礼者よりも重いのは当然でしょう。というのも、未洗礼者はいったん天主を受け入れてから天主を否認しているわけでもなく、まだ、養子にもなっていないため、その父性を拒んでいるとはいえないことから、その分、洗礼者に比べたら地獄での罰が軽くなるのです。

ですから、両親は赤ちゃんに洗礼を授ける時、これは義務ですが、またカトリック的な教育を与える、つまり、子どもの霊魂を養っていくという深刻な義務も生じます。その責任は大きいです。

では、洗礼の質料は何でしょうか?つまり物質的な印は何でしょうか?またその形相は何でしょうか?
水です。厳密にいうと、聖土曜日の復活徹夜祭の際、神父によって聖別されている洗礼水をもって、洗礼を授けることになります。洗礼水がない場合、普通の水を利用してもよいです。水とは洗礼の秘跡の遠因の質料です。

考えてみると素晴らしいことです。救霊を得るために、絶対に洗礼が必要不可欠です。そして、世界において一番普通にどこでもいつでもある、人間にとって必要不可欠なる水を善き天主が質料として制定なさいました。素晴らしいでしょう。これを見た時、善き天主がどれほど人々を救いたいかがわかってくるでしょう。一番普通である物質、「水」だけで洗礼に授かることができるのです。「洗礼を授かりたいか」「はい、授かりたい」と答えたら、水だけで洗礼を授けることが可能なのです。

もちろん、洗礼を授けるということは軽いことではないのですが、どこでもいつでも、洗礼を授けることは可能だということです。
繰り返しますが、洗礼の秘跡の遠因の質料は水です。近因の質料は「水を額に注ぐ」仕草です。これは「洗う」ことを示す仕草です。つまり、「みそぎ」を示している仕草です。

そして、この質料を完成化する形相は次の言葉です。洗礼を注ぎながら司祭が「我、聖父と聖子と聖霊との名によりて汝を洗う」といいます。「洗礼を授ける」という意味は「汝を洗う」という意味です。

以上の質料と形相は揃ったら、洗礼の秘跡という刻印が霊魂に刻まれます。洗礼者は天主ご自身を自らの霊魂に迎えることになって、聖寵の命を迎えて、聖父と聖子と聖霊なる天主が霊魂に居を構えます。洗礼によって霊魂は聖寵の状態に入ります。
以上、質料と形相についてでした。つまり、目に見える物質的な印です。

次は洗礼の執行者はだれでしょうか?洗礼を授ける通常の執行者は神父あるいは司教です。洗礼を授ける非常時の執行者は助祭です。
そして、必要に迫られてどうしても洗礼を授けざるを得ない場合は洗礼の執行者は誰でもよいです。このような場合は、本当に必要に迫られて、赤ちゃんの死に迫っている時、司祭も助祭もいない場合、間に合わない場合のことです。



善き天主はどうしても人々の全員を天国に迎えたいわけです。ですから、洗礼を授ける条件は非常に軽いです。素晴らしいでしょう。善き天主はどうしても人々の全員を天国に迎えたいわけです。このような真理を理解すると、どんどんいろいろなことが見えてきます。まるで善き天主は「天国に行くのは簡単なことだから、さあ小さな努力すらしてくれたらもう済むよ」という素晴らしい事柄に気づきます。

要約すると、通常は司祭あるいは司教。非常時の時、上司の許可を貰ったら、助祭。死の危険がある場合、瀕死の人が洗礼を受けたいという時、あるいは赤ちゃんの瀕死の時、司祭などを来てもらえないような必要な場合は、だれでも洗礼を授けます。

つまり、水を取って、教会の典礼に則って、教会の意向を踏んで、水を注ぎながら「我、聖父と聖子と聖霊との名によりて汝を洗う」といったらよいのです。これだけでも、洗礼は有効となります。授ける人はカトリック信徒ではなくても、異教徒が授けろうとも、洗礼は有効です。洗礼の典礼に則って授ける時、カトリック教会がなさろうとしている意向すらあったら、有効です。これで十分です。

なんと簡単なことでしょう。死んでから、天主のみ前に我々は出廷するとき私たちに「簡単だったはずなのに」あるいは「ほら、簡単だっただろう」と善き天主が必ず仰せになります。

次は、洗礼を受けられるのはだれですか?生きている人間ならだれでも洗礼に与ることができます。ただし、身体的な生命でまだ生きているという条件があります。死者に洗礼を授けることは不可能です。

また、洗礼を受けるために、洗礼を一度も受けたことがないという条件もあります。取り消せない刻印を霊魂に刻む洗礼なので、一度、洗礼を受けたら決定的であって永遠であるので、二度と洗礼を受けることは不可能です。

また、先述したように、洗礼に与るためには、生きているという条件がありますので、死んでいる人に対して洗礼を授けることは不可能です。
また、洗礼を授けるためには、水を注ぐ必要があるので、身体の一部に実際に水を注ぐ必要があります。

赤ちゃんの場合はどうなりますか。赤ちゃんの場合は「洗礼を受ける意志」はまだありません。生まれたばかりの赤ちゃんにはその知性と意志が足りないのでできません。ですから、赤ちゃんの代わりに代父と代母が赤ちゃんの名によって宣言します。そして、洗礼を授けることを望むのは両親であって、そしてカトリック的な教育を与えるという意志も必要です。つまり、赤ちゃんは洗礼を受けて、超自然の生命に生まれて、成長していきます。
以上、洗礼を受ける能力者についてでした。



次に洗礼の効果はなんでしょうか?前にすでにちょっと触れた課題ですね。
洗礼は成聖の聖寵を与えます。それに伴って、聖寵に属するすべてを与えます。要するに、超自然の聖徳、つまり信徳、望徳と愛徳です。続いて、天賦の枢要徳や聖霊の賜物をも与えます。それとともに、洗礼は天国の門を開けてくれます。

要するに、洗礼を受けた人は聖寵の状態に入った瞬間に、天国に入ることが可能となります。天国の門は洗礼者のために開いています。あえていえば、洗礼を受けた途端、洗礼者が死んだ場合、必ず天国に行くということです。この真理は非常に慰めになるでしょう。

もちろん、だからといって死を軽視するわけにはいきませんが、洗礼を受けた幼児が死んだ場合、必ず天国にいるということです。つまり永遠に至福であると確信できることは、何と慰めとなることでしょう。

ですから、これはよくあることですが、幼児が早世した時、両親の悲しみはいつも大きいです。でも、幼児に洗礼を授けたカトリック信徒のために善き天主は洗礼をうけて死んだ幼児が必ず天国に入ったという慰めを与えます。さらに言うと、天では聖人がいてくれて、その家族のためにとりなしてくださる聖人がおられるという確信を善き天主はカトリック信徒に与え給うのです。なんと素晴らしいでしょう。これは私の経験に照らしても、本当に計り知れないほどの慰めです。
つまり、洗礼は成聖の聖寵とそれに伴うすべてを与えるのです。

次に、洗礼は霊魂に取り消せない刻印を与えます。この刻印のお陰で、ほかの秘跡に与ることが可能となります。特に堅信と告解と聖体拝領ですね。

次に、洗礼によって、原罪は許されます。原罪を取り消されます。原罪に伴った結果は取り消されていないのですが、原罪自体は赦されます。また、同時に、洗礼を受ける前の全ての罪は赦されます。つまり、大人が洗礼を受けると、生まれてから洗礼までの全ての罪は赦されます。

そして、最後に、洗礼は罪のせいで受けるべき永劫罰と有限罰を取り消します。つまり、原罪を負っている限りにおいて、地獄に落ちる罰を受ける身となるのですが、洗礼によって、原罪は赦されるだけではなく、その上、地獄での永劫罰をも取り消されます。
それから、洗礼を受ける前に多くの罪を犯した大人は洗礼を受けると、それらの罪が赦されるだけではなく、それらの罪に伴う更なる罰も取り消されます。

以上、洗礼の効果でした。

秘蹟を制定されたのはイエズス・キリストです。秘蹟に必要な条件がなくなって有効性を疑うほどになっています。

2021年01月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理 第百八講 秘蹟について



秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

公教要理の第三部の続きです。「私は命である」。イエズス・キリストは私たちに命を与えてくださいました。聖寵の命を与えてくださいました。聖寵の命を得るための主な手段は二つあります。第一、祈りによってです。前回の講座の課題でした。そして、第二に、秘蹟によって聖寵の命を得ます。今日は秘蹟の全般を見ていきしょう。つまり、諸秘蹟が共通する部分を見ていきましょう。秘蹟は何であるかという質問にも答えてみましょう。
~~

秘蹟とは何でしょうか?それを理解するために、トレント公会議を参照にすると早いです。トレント公会議は詳しく緻密に立派に秘蹟の定義を示したからです。

簡単にいうと、秘蹟とは「聖寵を施し、あるいは聖寵をいや増すために私たちの主によって制定された物質的な印(印号)」です。

この定義を細かく見ていきましょう。まず、秘蹟とは物質的なしるしです。しるし(印号)とは何でしょうか?しるし(印号)とは一定の現実を指しますが、別の現実を参照させるための現実だということです。たとえてみると、指差しのようなものです。指という現実がありますが、指差しすると、別の現実を指ししめすことになることに似ています。

要するに、物質的なしるし(印号)とは一定の現実である上に、物質的なしるしなのです。これは大事です。どれほど善き天主が善い御方であるか見てとれます。天主は私たちの本質をよく知っておられ、また、物質的な物事を必要としている人間の心理をよく知っておられ、また人間の不足をもよく知っておられますので、このように秘跡を制定なさいました。

つまり、「もう物質的な物事から離れよ、体がないかのようにするのがよい」とは天主は一切命令なさってはいないのです。いや、その逆です。「きみ、人間は物質的な存在で、感性のある存在だが、それは心配しなくとも普通のことである。私がこのようにきみを創ってあげたのだから何も問題はない。ただ、聖寵を与えるために物質的な手段、感知できる手段を与えよう。これらの印を通じて、感性と物質を超越する現実を知ることができるように。」と天主がおっしゃったかのように。

確かに、善き天主は秘蹟という手段を設け給うたのは素晴らしいことです。
秘跡とは目に見える、物質的な現実ですが、目に見えない、物質を超える現実を表すための目に見える現実です。言いかえると、各秘蹟において、感知できる現実があります。物質的なものあるいは発される言葉などがあります。聴覚できる、ときに嗅覚できる現実があります。例えば、聖香油ですね。ようするに、これらの物質から、感知できる現実を通して、目に見えない、非物質的な感知できない現実を知ることができるということはまさに秘蹟です。

それから、秘蹟は「私たちの主、イエズス・キリストによって制定」されました。カトリック教会によって制定されたわけではありません。これは当然と言ったら当然です。というのも、天主こそは聖寵の持ち主のゆえに、天主しか聖寵を与えられないからです。カトリック教会は聖寵を与えることに際してはイエズス・キリストの仲介者あるいは継承者にすぎません。私たちの主、イエズス・キリストしか聖寵を与えることはできません。ですから、イエズス・キリストによって制定された秘蹟なのです。

イエズス・キリストはいくつかの秘蹟を制定なさいました。そして、秘蹟を制定することによって、実践される印号を通して、必ず非物質的な聖寵が与えられるという保証を与え給うたのです。これは強調しておきましょう。大事ですから。トレント公会議も改めて断言しているところですが、重要です。つまり、秘蹟とは必ず自動的にその結果を伴うということです。ラテン語でいうと秘蹟の作用は「ex opere operato」だと言っています。つまり、条件通りに印号が行われるということのみによって、天主は必ず聖寵を与えることを、つまり目に見えない現実を与えることを約束なさいました。

私たち信徒の霊魂にとって、なんて穏やかに確信し、暖かい安心感と慰めになることでしょう。
例を挙げましょう。例えば、洗礼を見ましょう。詳しくは後述しますが、司祭が水をとって額に水を注ぎながら「我、聖父と聖子と聖霊のみ名によりて汝を洗う」という言葉を発します。神父は本人の額に水を注ぎます。額に注がれる水は印号です。「身体を洗う水」という物質的な印号です。従って、この物質的な印号を通じて、目に見えない現実を表すのです。洗礼での目に見えない現実は「聖寵によって霊魂において原罪を洗う」という現実です。

要するに、制定されたとおりに、額に水を注ぎながら決まった言葉が発されるという印号が実現する瞬間に、同時に霊魂を清めて、霊魂を聖寵の状態にさせるという目に見えない事実も実現します。そして、天主はこの印号が実現されるたびに、かならず霊魂を清める施しをも実現するという約束をなさったわけです。

このように、洗礼式に臨み、以上の印号をこの目で見た瞬間、本人の霊魂は聖寵の状態となった、言いかえると天主の子になったという事実を確信できるわけです。なんて素晴らしいことであるか、理解して頂けたでしょうか?善き天主は秘蹟を制定なさったということはどれほど善き御方であるか理解いただけたでしょうか?

要約すると、秘蹟とは「聖寵を施し、あるいは聖寵を増加するために私たちの主によって制定された物質的な印(印号)」です。
言い方を変えると、これらの印号は聖寵を施す効果のある手立てであると言います。つまり、秘蹟という制定された印号を実践すると、自動的に聖寵の施しが伴うという意味です。
たとえば、神父が聖変化の言葉を発する瞬間、イエズス・キリストは聖壇に現存することになります。必ず。これは想像を絶するほど、理解を絶するほど素晴らしいことです。天主が道具にすぎない司祭たちに与えたこの能力は何て素晴らしいでしょうか。
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私たちの主、イエズス・キリストは七つの秘蹟を制定なさいました。
七つの秘蹟は私たち人々の本性に沿った、人間の現実に沿った、また人間の心理に沿った形で制定されたと言えましょう。
人間なら必ず生まれます。そして大人になるために成長していきます。成長するために、食べなければなりません。また体の力を回復するために、休まなければなりません。また、病気になった時、治すために医者に相談します。これは人生において必ず生じる要素ですね。

霊魂の命においても、このような要素に類似して構成されています。
つまり、まず、聖寵の命に生まれます。これは洗礼です。
そして、聖寵の命においての成長もあります。これは堅信です。堅信によって、聖寵の命において大人となります。
それから、霊魂を養う秘蹟もあります。これは聖体です。
罪によって霊魂の力を失った時、その霊魂の生命を回復する秘蹟もあります。これは改悛の秘蹟です。
それから、死んでいく人々を和らげ、善き死を遂げられて、つまり聖寵を維持して永遠に生きていけるための秘蹟もあります。これは終油の秘跡です。
以上の五つの秘跡は一人一人の聖化のために与えられた秘跡なのです。

その上、もう二つの秘蹟は人間に与えられました。この二つは社会の聖化のために与えられました。
自然の次元では生きていくために人々は成長していきますね。つまり生まれて成長して死んでいきます。しかしながら、社会の一員としてのみ、生きていけます。人間なら社会の共通善に従っている前提があります。人間は必ず政治的な営みを行う存在です。そのため、同じように、社会においての命、政治的な命を聖化するための秘蹟を私たちの主が制定なさいました。品級の秘蹟があります。品級の秘蹟によって神父はその地位を与えられます。それから、結婚の秘蹟もあります。結婚の秘蹟は全社会を聖化する秘蹟です。

ところが、現代においては、なによりもこの品級の秘蹟と結婚の秘蹟が攻撃されています。そして、両方において現在、多くの堕落があちこちに残念ながら確認できます。
七つの秘蹟を繰り返しましょう。洗礼、堅信、聖体、改悛、終油、品級と結婚。

その内の三つは一人一人に一回しか授かることはできません。霊魂に取り消せない霊印を刻印する秘蹟なので、二度と受けることはできません。洗礼、堅信と品級です。

洗礼を受ける時、永遠に洗礼を受けることになります。死んでから、あの世で「(霊魂の)目に見える」ようになりますが、洗礼によって、霊魂において取り消せない刻印が刻まれることになります。天主の子になる洗礼です。たとえてみると、血統と似ています。血統ゆえに、父母がわかります。いわゆる遺伝子をもっていて、これを変えられないわけです。それと洗礼は霊的な次元で似ています。

それから、堅信も霊魂において刻印を刻みます。信仰において大人をなして、完成したキリスト教徒をなす秘蹟です。
最後に、品級の秘蹟も霊魂において刻印を刻みます。「あなたはメルキゼデクの位に等しい永遠の司祭である」(ヘブライ人への手紙、7、17)のとおりです。

要約しましょう。七つの秘蹟の内に、一人一人のための秘蹟は五つあります。社会のために二つあります。
三つは一回のみ授かることはできます。つまり刻印を刻む三つの秘蹟です。

そして、七つの内の二つは「死者の秘跡」とよばれています。死をもたらすからではもちろんありませんね。逆に、聖寵の命をもたらして死んでいる者を活かして、聖寵の命をほ与えて、死者を復活させる秘蹟です。もちろん洗礼はその一つですね。洗礼を受けていない者は聖寵の命の内に生きていないからです。そして、改悛の秘蹟もその一つです。大罪を犯したことによって聖寵の命を失った者、つまり霊的に死んでいる者に聖寵の命を取り戻す秘蹟であって、聖寵の命に復活させる秘蹟なのです。

その上、七つの秘跡の内に一番重要かつ重大な秘跡は聖体なのです。ミサ聖祭です。
なぜでしょうか?ミサ聖祭、あるいは聖体という秘蹟は聖寵を施すだけではないからです。洗礼は聖寵を施します。堅信は聖寵を施し強化し完成化したキリスト教徒として生きるように助ける秘蹟です。改悛は聖寵をとりもどします。終油は身体と霊魂の苦痛を和らげる聖寵を施し、善き死を遂げるための聖寵を施します。結婚は家族においてよく生きていく聖寵を施します。品級は教会の臣下を天国に連れていくための聖寵を施します。

ミサ聖祭とは聖寵を施すだけではなく、イエズス・キリストご自身を与える秘跡です。言いかえると、聖寵の持ち主を与える秘跡です。従ってミサ聖祭は秘蹟中の秘蹟です。聖体は秘蹟中の秘蹟です。聖寵の持ち主であるイエズス・キリストを与えることになるからです。それから、ほかの全ての秘蹟もそれがミサ聖祭のために制定されたことのゆえに秘蹟中の秘蹟でした。



洗礼を受けるのも、堅信を受けるのも、聖体拝領するためですし、また聖体拝領を最大に活かすためです。終油を受けることも、聖体拝領するためです。そして死んだら、天国で永遠に天主の現存の内に生きていくためです。つまり永遠の聖体拝領のためです。品級も言うまでもありません。聖体の秘蹟を行うために制定された品級なのですから。すべての秘蹟は聖体を中枢に据えています。聖体こそは霊的な命の本物の太陽なのです。
以上、七つの秘蹟を紹介しました。
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秘蹟とは物質的な印号なので、秘蹟には四つの特徴があります。この四つの要件は揃ったら秘蹟となります。物質的な印号ですから、秘蹟になるために何が必要でしょうか。ちょっと哲学用語が出るので、少し難しいかしれません。簡単に説明してみましょう。

つまり、物質的な「質料」だけでは物質にすぎないから、まだ秘蹟になりません。簡単にいうと、質料を「息吹く」形相も必要となります。要約すると、印号は「質料」と「形相」からなっています。

大体の場合、質料は具体的な物と事柄ですね。洗礼では水の注ぎとか、堅信では聖香油を十字架の形で付けるとか。あるいは、ミサ聖祭なら、パンと葡萄酒です。
それから、「形相」とは「質料」に息吹きを入れるようなことであります。殆どの場合、「発される言葉」が形相となります。洗礼なら、水を注ぎながら「我、聖父と聖子と聖霊のみ名によりて汝を洗う」という言葉です。堅信なら、聖香油を十字架の形で額に記しながら司教が発する言葉です。ミサ聖祭の際、パンと葡萄酒にかける聖変化の言葉です。

つまり、すべての秘蹟はまず質料と形相といった感覚できる要素からなっています。このようにして、聖寵が施される印となります。

ただ、質料と形相はあっても、秘蹟を実践するための執行者も必要となります。つまり秘跡を執り行う者が必要です。殆どの場合は神父ですが、各秘蹟を見ていくときに詳しく説明しましょう。時々司教でもあります。

それから、執行者の上、執行者が「公教会が行っている使命を執り行う意向」を持つ必要もあります。つまり、積極的にカトリック教会に従おうとする意志、そうすることによって、そのためにカトリック教会を制定なさった私たちの主、イエズス・キリストに従おうとする意志なのです。言いかえると、秘蹟を制定なさったときにイエズス・キリストが示された意向に従おうとする意志が必要だということです。聖体は何か、さりげなく執り行う秘蹟などではありません。

「でも、このような意志、意向は主観的でしょう。どうやってあるかどうかを知れるでしょうか」とよく聞かれます。カトリック教会の意向は「典礼」においてこそあるということです。つまり、それぞれの秘蹟のために賢明なる公教会はそれぞれの儀礼を制定しました。そして、各々の儀礼において、公教会の意向、ひいてイエズス・キリストの意向は織り込まれているわけです。典礼に従う神父は教会の意向で秘跡を執り行うことになります。

だからこそ、第二ヴァチカン公会議の典礼改革は非常に深刻なことでした。あまりにも儀礼を改革した挙句、時には秘蹟の有効性を疑うほどになっています。すべての儀礼は変えられましたよ。長い数世紀を通じて変わらなかったのに、洗礼式、堅信式、ミサ聖祭の典礼、品級の秘跡などなど変えられました。

そうすることによって、本来、カトリック教会が儀礼において織り込んでいた意向という宝を薄くして、場合によってなくしている状態となっています。そして、このような「新しい儀礼」を執り行うあまりに、神父の意向がそもそも正しかったとしても、少しずつその意向も変質してしまう状態を生みかねない状態になりつつあります。

そのせいで、現在の「新しい儀礼」なる新典礼のせいで、秘蹟の第四の要件となる執行者の意向を疑うことが可能となりました。それ以前の儀礼だと、疑えないわけです。ですから、儀礼を改革したのは非常に深刻なことです。初期のころから現代に至るまで、第二ヴァチカン公会議をのぞいて、一度もこのような改革はありませんでした。

それほど全般的に、そして根本的に儀礼を変えられることは一度もなかったのに。一度も。典礼には宝と叡智が織り込まれているから、恐れ多くて軽々しく変えられるものではないはずなのに。典礼は信徒の好感を引くための手段などでは決してないのです。私たちの主、イエズス・キリストの叡智とそのみ教えは典礼において織り込まれているからこそ、刻印されているからこそ、大切にしなければなりません。

秘蹟の要件を要約しましょう。質料、形相、執行者、典礼によって示される意向。
そして、最後に、当然と言えば当然ですが、秘蹟は効果をもたらすため、秘蹟を受ける能力者も必要です。たとえば、動物に洗礼を授けることはできません。無意味なことです。秘蹟を受けることができる者も必要です。今から、秘蹟を一つずつに説明していきますので、だれが受けられるか受けられないかを詳しく見ていきましょう。

天主からの無償の恩恵 | 聖寵の種類とその違い

2021年01月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百六講 聖寵について



公教要理を紹介するに当たって、三部に分けました。この分け方は我らの主、イエズス・キリストの次のみ言葉に由来しています。
「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ、14、6)
公教要理の第一部において、真理なるイエズス・キリストを概観しました。救われるために信ずべき諸真理についてです。一般的にいうと「信経」、つまり信仰の諸信条です。
第二部において、道なるイエズス・キリストを概観しました。言い換えると天に入るために、イエズス・キリストに従って具体的にどう行為していけばよいかについての部分です。一般的には「道徳」と呼ばれているものです。ラテン語の言語「Mos(道徳)」は「実践」という意味です。具体的には、前回まで見てきた天主の十戒や教会の掟などを含んでいます。

そして、本日から第三部を始めていきたいと思っております。
「私は命である」というときのイエズス・キリストを中心にする部分です。要するに、第三部においては私たちに霊魂の命を与えてくださるすべての物事について見ていくことになります。言い換えると、聖寵の命を与える物事。一般的に「聖寵」あるいは「秘跡」と呼ばれる部分です。要するに、私たちにおいて働きかけてくださり、天主の内に生きていけるすべての物事などについての部分になります。
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最初に「聖寵」と呼ばれることについて見ていきましょう。カトリックになると聖寵という言葉は非常に頻繁に現れます。神父様たちは説教の時、殆ど必ずと言ってよいほど、聖寵という言葉を口にします。告解の時にも、司祭たちは信徒に聖寵のことをよく説きます。例えば、「天主の聖寵をよりどころにするように」あるいは「天主の聖寵を実りあるようにするように」といったような助言があろうかと思います。

要するに、「聖寵」という言葉は頻繁に現れていますが、実際問題として信徒はどういった意味になっているかについて曖昧なまま、あるいはよくわからないままであるということは少なくないのです。いわゆる、聖寵の定義を聞かれた時、どう答えたらよいか迷うような。ですから、本日の講座で聖寵の定義を示してみましょう。

まず、「聖寵」には「寵」という言葉の通り、ラテン語の語源を探ると「無償」なことであり「無料」なことであり、対価がいらないという意味です。また、フランス語などの西洋語で、権威者が「特赦する」あるいは「恩赦」するといった時、つまり死刑から救い出す特赦という言葉は「gracier」という動詞で、聖寵(grâce)と同じ言葉です。

これは恩恵を施すという意味でもあり、つまり、この恩恵を施す人は相手に施す義務はないということです。何の恩返しの必要もない「心ばかりのものである」としての意味です。また、その恩恵を受ける側、その恩恵に値しなくても恩寵を受けられるという意味です。



これはもともと自然次元の恩恵・恩寵としての意味ですが、超自然次元においての聖寵も全く同じです。天主の聖寵は超自然なる賜物であり、また無償なる賜物であります。そして、超自然というのは、人間の本性を越えた賜物であるという意味です。自然=本性という意味は、聖寵が人間の本性に比肩しうる点はないという意味です。人間の本性との共通点のない人間性よりは遥かに高次なる賜物なのです。そして、天主は私たちの永遠の救済のために私たちにこの聖寵を無償で施してくださいます。

言いかえると、聖寵とは天主よりの私たち人々へのプレゼントです。このプレゼントは私たちの能力をはるかに超えており、私たち人々が望むこともできなかったプレゼントです。また、人間の本性を越えているがゆえに、私たちの力では取得できないプレゼントです。要するに聖寵とは私たちを遥かに超えている天主からの私たちへの超自然のプレゼントです。そして、天主はなぜこの賜物を私たちに与えてくださるかというと、私たちが天に入れるために、永遠の救済を得られるためなのです。

要するに、私たち人間を天主の域にまで引き上げるために、天主は私たちまで御身を落とされたのです。
実際とは違いますが、たとえてみると、ある人が自分のペットに言葉を与えてペットが話せるようにするようなことと似ています。想像してみましょう。犬あるいは猫を飼っている飼い主が自分のペットに人間の言葉が話せるようにしておいて、人間とペットは会話ができるようにするようなことです。これは、いわば、飼い主からペットへの恩寵です。飼い主は「人間の言葉が話せる」という恩恵をペットに施すのです。

超自然の次元では天主が人間に対して以上と似たようなことをなさっています。ただし、大きな違いがあります。天主と人間との差は、人間と動物との差に比べたらはるかに大きくて無限であるということです。言いかえると、万が一、人間は話ができるという賜物をペットに施すことが可能だったとしても、天主が人間の霊魂への聖寵の施しに比べたら無限に小さい恩恵にすぎず、比較にならないほどその次元を異にしています。

以上、聖寵の一般的な定義を見ました。繰り返しますが、聖寵とは、人々を遥かに超越する超自然の賜物であって、そして、私たちを天国に入れるために施されるのです。というのも、天国は超自然の次元に属する現実だからです。言いかえると、聖寵の働きのお陰で、私たち人間は天国に値する立場まで引き上げられていくのです。つまり、聖寵が人間の究極の目的である永遠の命の次元に私たちを引き上げてくださっているのです。

天主は人間に対して人間を越えている超自然の目的を与えてくださっています。これが天国です。しかしながら、人間の力だけで天国に到達することは不可能です。私たちは自然次元に属していますが、次元を異にしていることから、超自然な次元のことに対しては自分の力だけでは手を出せないわけです。しかしながら、天主の賜物である聖寵は、本来、自然次元だけに属している私たちの本性を超自然の次元まで引き上げ給うのです。その時にはじめて、人間の究極的な目的地にたどり着くことが可能となります。以上、聖寵の一般的な説明でした。

従って、聖寵に頼らずして救済は不可能ということになります。聖寵のない人、聖寵を拒否する人は天国に入ることは不可能です。というのも、天国とは異質のままの人間になっているから、天国に入れないのです。人間の本性は本来超自然の次元に適っていないからです。ですから、人間の本性だけで、聖寵の助けなしに、目的地に辿り着くことは不可能となります。

「不公平だ」という人もいるかもしれません。(しかし)そうではありません。なぜかというと、天主は人間に天国という目的を与えてくれただけではなくて、常に、その目的地にたどり着くための手段、つまり聖寵を与え給うからです。俗にいうと天主は、無理なことを私たちに頼んでいませんので、限りなく気前の良い御方です。言いかえると、天主は私たちに目的を与え給う限り、その目的を達成するための手段をも与え給うのです。

ですから、最後の審判が来た時、私たちは天主のみ前に出廷したら、「私の場合、できないことだったので、私のせいではない」と文句をいっても済まないことになるわけです。確かに、人間の本性の力だけなら、無理ですが、天主は「聖寵をあげたのになぜ受け入れてくれなかったか。君の一生の間、多くの賜物と聖寵を絶えず贈ったはずであり、天国に行くのは容易だったはずなのに、君が聖寵を拒絶しただろう」とお答えになります。
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以上、聖寵に関する一般的な説明でした。
次に、聖寵には二種類を区別します。この区別は大事です。いつも「聖寵」と言われても、違う二つの種類を指しているから要注意です。
第一に、成聖の聖寵です。第二に、助力の聖寵です。以上の二種類の聖寵を混同しないように気を付けましょう。もちろん両方とも聖寵であるから、両方とも天主よりの超自然なる無償なる御恵みなのです。

成聖の聖寵は一番重要な聖寵です。何でしょうか?
成聖の聖寵とは、天主の三つの位格が私たちの霊魂において住み給うことによって、超自然の賜物が私たちに施されているというものです。言いかえると、成聖の聖寵とは「一度だけ助けるために送られる一度のみのプレゼント」ではなく、聖父と聖子と聖霊なる天主ご自身が私たちの霊魂において現存される聖寵なのです。要するに、成聖の聖寵とは三位一体の天主、全体としての天主は私たちの霊魂にお住まいを構えられることによって、天主ご自身の生命を私たちに施し給い、天主の生命によって私たちの霊魂を活かし給うというものなのです。

言い換えると、成聖の聖寵とは私たちの霊魂における天主の御命なのです。ですから、成聖の聖寵を享受している人は、天主ご自身を自分の内に持っているということを意味します。幼きイエズス・キリストの聖テレサは次のことをいっていました。「天は地を訪れた(Le ciel a visité la terre)」。この言葉は詩あるいは歌としても作曲されました。この言葉は聖成の聖寵の現実を美しく語ってくれます。

また、別の言い方をすると、天主は人間としてご降誕なさって、御托身をなさったように、天主は本質的に人間の霊魂において住まわれることになっています。聖父と聖子と聖霊なる天主として霊魂に住み込み給うのです。これが成聖の聖寵なのです。「成聖」とは、私たちを聖化するという意味で、本当の意味で天主との同居を意味しています。

たとえてみれば、飼い主がペットに人間らしい命をペットに与えて、ペットが人間として生きるようにして、飼い主と一緒に人間らしい生活を可能にすることと似ています。天主は実際にこれをなさっておられますが、これが成聖の聖寵なのです。成聖の聖寵の別の呼び方は「平常の聖寵」とも呼ばれています。状態を指しているからです。成聖の聖寵とは聖寵の状態に常にあるという意味です。聖寵の状態にあるという時、それはどういう意味でしょうか。これは、常に、つまり一時的ではなくて時間において継続的に維持している状態という意味で、天主は霊魂においてお住いで、またこの霊魂は天主の内に生きているという意味です。

以上、「平常の聖寵」の説明でした。繰り返しますが、これは、常に聖寵の状態の内に生きている状態を指しています。言いかえると、霊魂は天主のご現存と一緒に生きているということで、天主は霊魂において実質的に現存なさっている状態なのです。これが聖寵の状態です。

そして、ご理解いただけたかと思いますが、天国に入るために聖寵の状態は必要です。なぜでしょうか?天国とは「永遠に天主の生命を分かち合う状態」だからです。超自然の次元と自然の次元という区別を常に念頭に置きましょう。地上において、天主の生命が人間に既に分有されていないのなら、死んだとき、天主の生命を持たない人は天主の内にあの世で生きていけないことになります。つまり、死んだ人は大罪の状態と呼ばれる状態にあるのなら、天国に入れないことになります。ですから、以上に見たように何も不公平なことはなくて、いわば当然な結果なのです。

一方、天主はいつも聖寵を人々に与え給うているので、天主は聖寵を与えないから不公平だという文句は成り立ちません。問題は天主が聖寵を与え給うているので、その聖寵を大切にして、その聖寵にしたがい、聖寵を維持するのは人間次第だからです。
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以上、聖寵の状態でした。聖寵は天主のご生命まで私たちの霊魂が引き上げられていることを意味します。聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊なる天主と同居しているような状態です。立派なことでいとも素晴らしい事柄です。素敵です。言葉を絶するほどに、言葉で表現できないほどに素晴らしい事柄です。

以上、聖寵の状態でした。あるいは成聖の聖寵でした。そういえば、成聖の聖寵は霊魂を治療しているといえます。つまり、原罪によって私たちの霊魂に痕跡している罪への傾向に対して私たちが戦っていることを助けるということであり、これが成聖の聖寵です。特に、現世欲と意志の弱みに対して私たちが戦うために成聖の聖寵は助けてくださいます。

成聖の聖寵がどうやって与えられていますか。二つのやり方で与えられています。第一に洗礼を通じてです。また後述しますが洗礼は超自然の命に生まれることです。そして、第二には大罪を犯した結果、成聖の聖寵を失った場合、改悛の秘跡に与ることによって、つまり告解を通じて成聖の聖寵は与えられています。

成聖の聖寵あるいは「平常の聖寵」の次に、助力の聖寵あるいは「時事的な聖寵」という聖寵があります。助力の聖寵は「聖寵の状態」ではないから、成聖の聖寵とは違います。では、助力の聖寵とは何でしょうか?善き行為、そして超自然なる行為を実践するために、天主が私たちに施したもうた一時的な助けなのです。

助力の聖寵を理解するために、プールの近くにいる水泳指導員が、泳いでいる人に溺死させないように時々竿を差し出すのと例えてみると似ています。また、母親が倒れないように自分の子の手を繋いだり、自分で歩けるように手を放ったりすることと似ています。つまり、まだ覚束ない子の歩きなので、倒れそうになったら、手を出してくださる母と似ています。善き天主は私たちが天主により忠実になることを助けるため、聖成の聖寵に加えて、助力の聖寵を施し給うのです。



このような「一時的な聖寵」は、善き行為、また超自然なる行為を実践するための天主の一助なのです。そしてそれは聖寵の生命の内に成長していけるように助けるのです。例えば、単純に信徒が自宅で跪いて天主に祈っていることができるということは助力の聖寵のお陰です。そして、この助力の聖寵を受け入れた信徒の姿です。また、例えば、告解に行く信徒は善き告解ができるように天主が助力の聖寵を施し給うのです。

このように、天主は常に多くの助力の聖寵を施してくださいます。聖寵なので、無償の賜物です。つまり、毎回毎回、聖寵を拒む人は、ある時、その挙句無償な賜物なので施す義務もないということで、天主が施さなくなるでしょう。これは聖寵を拒んだ人の責任になります。

聖寵の状態の内に生きていない人、また、日常、天主のみ旨に奉仕するように導く助力の聖寵という小さな導きを常に拒んでいく人は天主に対して「あなたのプレゼントはいらない」といったようなことを言っているに同然です。で、ある日、天主が「そうか。なら、もう施さない」と決めても文句はいえないのです。残念ながら、このように天主の聖寵を拒むことによって、永劫へ落ちていく人々は少なくないでしょう。

要するに、助力の聖寵は一時的な助けであるのです。ですから、私たちはこのような一助けに気づくように用心して、これらの聖寵になるべくよく受け入れて従っていきましょう。

次に、どうやって成聖の聖寵を失うでしょうか?大罪を犯すことによって、成聖の聖寵を失うのです。前に罪に関する講座を思い出してみましょう。要するに、大罪あるいは「死に至らしめる罪」とは、霊魂の生命を奪う罪なのです。だからこそ、大罪は深刻な事柄なのです。大罪によって、霊魂の生命、つまり天主の生命を霊魂から追い出すようなことになるのです。

また、天主との親交状態を破壊する大罪でもあるのです。聖寵の状態はまさに天主との友好状態なのです。ラテン語で、「友好関係」あるいは「友情」とは「同居する」「一緒に生きている」という意味に由来しています。このように、アリストテレスによれば、二人の友人が「共同生活を求めている」と説明しています。

このようにして、天主は私たちの友人になる時、私たちの霊魂において寄せてくださってお住まいになり、私たちの霊魂と共同生活している状態となります。そして、私たちは天主を霊魂において歓迎することによって天主の友人となっています。大罪を犯す人は、この友情に背く行為を犯すのです。言いかえると、天主の愛徳に背く行為を犯します。天主の友情を裏切ることによって、天主との友好関係を拒むことになり、天主を自分の霊魂から追い出す行為となります。その結果、天主の親友を失い、霊魂において天主の不在の結果、聖寵を失う結果を招きます。

裏を返せば、告解によって成聖の聖寵をなぜ取り戻されるかもわかってきます。また後述しますが、罪を悔い改めて、誠実に罪を後悔する痛悔と行為を改めることによって、天主の友好関係を取り戻し、成聖の聖寵を取り戻せます。

助力の聖寵は拒まれることがあります。状態ではないので、ある状態でなくなるとしても助力の聖寵を失うことはないかもしれませんが、助力の聖寵を給うための主な手段がお祈りと秘跡であり、これらを通じて助力の聖寵を受けることができます。
この二つの重要な手段である祈りと秘跡については、次回から詳しく見ていきたいと思っております。

「私は命である」ということは、秘跡と祈りによって、私たちにおいての天主の生命を維持することです。

最後に一つだけ聖寵に関して触れておきましょう。ちょっと難しいかもしれませんが、功徳についてです。聖寵の状態にある人は功徳を施すことが可能となります。功徳というのは、つまり、手柄を行ったおかげで、それに値する報酬を貰う特権であるとでも定義できます。そして、善き天主は想像を絶するほど善い天主です。というのも、聖寵の状態を無償で賜物として私たちに施し給うだけではなく、その上、その個別の功績・手柄次第に応じて報い給うのです。

信じられない善でしょう。聖寵の状態を通して、私たちが善く実践していけるように天主は恩恵を施し給う上、「無償なる聖寵を活かし、実践していく善き行為に応じて、功徳を与える」とおっしゃっているのです。

功徳ですが、聖寵の状態のなかでこの世で善き行いの実践によって積み重ねられた功績に対しての報いという意味です。
ですから、なるべく多くの善き行いを実践していくことが大事です。天国で多くの功徳をいただくためにも。

悪口も中傷も嘘をつくことです:第八戒 なんじ嘘をつくなかれ

2021年01月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百四講 第八戒について 「なんじ、嘘をつくなかれ」。



第五、第六、第七の次、第八戒を見ておきましょう。

第八 なんじ、嘘をつくなかれ。
あるいは
第八 なんじ、偽証するなかれ。 ともあります。

前の数戒の次に来る流れは自然なのです。どちらかというと、十戒の順番はたまたまであるではなく、その順番に意味があります。
第五戒は人の命を守るための掟です。
第六戒は人類の命を守るための掟です。いわゆる人類の存続のための掟です。
第七戒は人の命を助ける物質的な物を守るための掟です。「なんじ、盗むなかれ。」

そして、第八戒は精神上の命を守るための掟です。第五戒の時に見たスキャンダルとしての精神上の命を守るのではなくて、第八戒の場合、評判・名声としての精神上の命を守るための掟です。思い出しましょう。第七戒は隣人の主に物質的な持ち物への侵害を禁じる掟です。

一方、第八戒は隣人の霊的な持ち物への侵害を禁じる掟です。霊的な持ち物とは主に隣人の名声なのです。人間ならばだれでもどうしても名声を大切にしています。これは面白いことに、人間が霊的な存在でもあることを裏付ける現象なのです。時には、物質的な財産よりも、名声を優先していることも少なくありません。大きな費用を払って裁判に行ってまで自分の名声を守ることは珍しくありません。いわゆる、名誉毀損を晴らして名声を取り戻したいという気持ちは自然です。人々は自分の名声を大切にしているのです。そしてこれは正当なことであって人間の本性に沿っています。

そして、第八戒は隣人の名声への侵害を禁じています。要するに、隣人の名声を毀損するということは、真理あるいは真実に背く行為なのです。
従って、第八戒は、第一、真理に背く行為を禁じています。第二、名声を侵害することを禁じています。第三、名誉を毀損することを禁じています。

真理に背くというのは、広義の真理に対する行為を禁じるということです。名声を侵害するということは、個別の真理となる隣人の名声という意味になります。そして、名誉というのは、隣人に対して払うべき敬意を表すための行為(礼儀作法)であり、第八戒は広義にいう真理を守るための掟なのです。

第八誡に反対する、つまり真理を守るための掟に反対する第一の罪は嘘なのです。嘘とは周知のことですね。嘘は全く自然なことではありません。例えば、幼い子供が嘘をついたら、すぐ自然に赤面してしまいます。あるいは、大人でも、嘘をつく悪徳を持たない人が嘘をついた時、見え見えになることが多いです。なんか、つい、目を伏せるようなことがありますね。いわゆる、良心が嘘はだめだということを強く訴えるような時です。やはり、嘘は自然なことではありません。人間の本性に背くものなのです。

では、嘘とは何でしょうか?まず、しるしなのです。必ずしも言葉ではないということです。つまり、意図的に相手を騙すために自分が思っていることとの反対のことを表す仕草あるいは言葉といったようなしるしを行うということを「嘘」と言います。しるしですから、言葉の他に、頭の合図、あるいは体の仕草、何でもいいですが、このしるしを以て思っていることとの反対のことを示すのです。つまり、外的に表現していることと内面的に思っていることとの不一致があるということです。そして、相手を騙す意図も嘘の条件なのです。これが嘘を特徴づける三つの条件です。
思っていることと違うことを外的に表す上、相手を騙す意図がある時、嘘となります。

そして、「嘘をつくなかれ」というのは、例外なく、すべての嘘は禁じられているということです。これは理解しづらいかもしれません。時に、やむを得ず、嘘をつかざるを得ない場合があると思いがちですが、実際にはそんなことはありません。嘘をついてもよい場合は一切ありません。

脱出の書には「いつわりのある訴訟を避けよ。」(23,7)「(主、あなたは)うそをつく者を滅ぼし」(詩編、5、7)。
それから、聖ヨハネの福音にも嘘に関する場面があります。私たちの主、イエズス・キリストは悪魔を指して「彼は嘘つきで、嘘の父だからである」(ヨハネ、8、44)。

悪魔はエワに嘘をつきました。そして、その嘘のせいで、罪は初めてこの世に登場しました。ですから、嘘をついてもよい場合は一切ありません。繰り返しますが、一切ありません。

嘘をつくことにあたって、いくつかのありようがあります。
第一、「善意の嘘」ということがあります。この場合、自分の利益あるいは善、あるいは隣人の利益あるいは善のために嘘をつくといって、嘘を正当化しようとする場合です。この「善意の嘘」ですら禁止されています。

聖アウグスティヌスはこのように説明しています。
「隣人の命を守るために人々は最善を尽くすべきです。しかしながら、隣人の命を守るために天主を侮辱する選択肢しか残らない時、何もやってはいけません。というのも、このような場合、残っている選択肢は悪い行為なので、これを行うわけにはいかないからです。」
つまり、隣人を救うためだったとしても嘘をつくよりも黙った方がよいということです。

それから、「有害の嘘」もあります。この場合、嘘をつくによって隣人を害することになります。

それから、「浮かれた嘘」もあります。「浮かれた嘘」とはいわゆる楽しむため、おかしく楽しくするため、お洒落するための嘘です。もちろん、冗談は禁止されるわけではありません。つまり、当然ながら言っている事は真実ではないことがはっきりとしていたら、だれもわかっていたら嘘になりません。相手を騙す意図はないからです。例えば、ある事情で、あるいは明らかなことに言っていることが真実ではないことが当然で当たり前な場合、嘘になりません。相手を騙す意図はない時、嘘になりません。いわゆる気晴らしというのはもちろん禁止されているわけではありません。繰り返しますが、騙す意図はない時、嘘になりません。

それから、嘘に続いて、偽証あるいは偽りの宣誓があります。言いかえると、天主の前に、天主を証人にしているのに嘘をつく時です。天主に関する掟を紹介した時に説明した偽証です。これは、必ず大罪となります。

あと、偽りの証言もあります。これは裁判あるいは訴訟の際、真実に反する発言をした時の嘘です。これも大罪となります。真実に対する深刻な罪である上、宗教に対する深刻な罪でもあります。それに、隣人への愛徳と隣人への正義に反する罪でもあります。

それから、嘘をつくもう一つの種類があります。「自分のありのままを偽って自分のありのままと違うようにみせることにする」時です。「偽善」ですね。偽悪もいえますが。有名な話は、いわゆるモリエールが描いた「偽りの敬虔な信徒」は典型でしょう。まさにタルチュフです。偽善者ですね。人々の尊敬を引くために、道徳的であるふりをしている偽善者です。まあ、かなり普遍的な現象でしょう。昔も今も何かの地位あるいは職などを貰いたい時、軽い形でもよく自分をより善く見せかけて、ある種の偽善は結構ありますね。

また、偽善の次に、「へつらい」もあります。「へつらい」とは嘘の称賛です。あるいは、大げさな讃辞です。要するに、真理に反する「お世辞」です。真実を傷つくへつらいです。そして、相手の傲慢を刺激してしまうというへつらいでもあります。これは、つまり、へつらいは相手にとって罪の切っ掛けになることもあります。ですから、隣人の善に反する罪であり、また隣人の名声に反する罪でもあります。

それから、偽善と似た種類ですが、「うぬぼれ」あるいは「高慢」もあります。つまり、持っていないのに、持っているふりをするという嘘の類いです。偽善に近いですが、偽善はより外面的な仕業であったら、うぬぼれはより言葉を通じての罪です。あるいは持っていることを大げさにすることも高慢となります。

また、真理に対するもう一つの種類の罪があります。失言です。つまり、真実を語るあまり、秘密だった真実を漏らすという罪です。つまり、秘密を守らないということです。いわゆる、自然次元の秘密ですが、言われたことを誰にも言わないことを約束したのにばらしてしまったというような時です。また、守秘を誓われた秘密もあります。いわゆる、仕事においての秘密を守る義務がある時です。医者あるいは弁護士、あるいは聴罪司祭などです。いわゆる、職業で義務となる秘密があります。あるいは、だれにも言わないと約束した時の秘密でもあります。このような秘密を隣人にばらすことは罪です。

以上は、真理に反する罪の幾つかの例でした。意外と多くあります。

そして、より個別的な意味で、隣人に関する真実に反する嘘をつくことによって罪を犯す時です。言いかえると、隣人の名声に対する罪の時です。名声とは「ある人に関して人々がもっている善い印象」となります。そして、自然に、人々は自分に関する周辺の良い印象を大切にしています。ですから、隣人に対する善い印象を傷つけるのは罪となります。自分に対してそういう目に合わせられたらいやであると同じように、隣人の良い名声を害するのは罪であり、殆どの場合、大罪となります。



隣人の良い名声に対する罪には、「誹謗」あるいは「中傷」があります。まず、言葉を通じての中傷ですが、中傷というのは深刻な罪です。なぜでしょうか?中傷とはなんでしょうか?「欠点、あるいは悪徳、あるいは過失」を不正に隣人に負わせることです。つまり、これらに関する現実がないのに、隣人に勝手に負わせるということで、つまり嘘です。そして、この罪は不正に根拠なしに隣人の名声を破壊しているということです。深刻な罪です。要するに、隣人の欠点について嘘をつくということです。たとえば、「この人は(性格上?)、どうしても物を盗んでしまうやつだ」といったような。つまり、泥棒ではないのに、隣人を害するためにあえて泥棒であるという嘘をつくといったようなことです。たとえば、隣人が昇進しないようにさせるためとか原因は何でもいいですけど。中傷は大罪です。

そして、このような罪を犯した場合、真理を傷つけた人にはこの不正な言葉を糺す義務があります。中傷はまさに不正な行為なのです。盗んだ物をその持ち主に返す義務があると同じように、奪った名声をその持ち主に嘘を糺すことによって返す義務があります。

中傷ではないのですが、悪口については、聖フィリッポ・ネリに関する有名な話があります。告解の際、悪口を頻繁に明かしている女性の信徒に聖フィリッポ・ネリが次の償いを提案します。「羽の枕をとって、これを裂いて外ですべての羽を散らかす」という償いを提案します。女性は喜んで「よかった!軽い償いですむ」と思ったら、次にまた告解にきて、また悪口を明かしてしまいます。そして「今回、前回に散らかした羽を拾いにいってきて、枕にもどす」という償いを提案します。信徒は「これは無理だわ」といいます。そして、聖フィリッポ・ネリは答えます。「悪口するとき、羽を外で散らかす時と同じように悪口は広まります」。ということは、悪口を償うことは簡単なことではありません。大変難しいことです。場合によって無理になる時もあります。ですから、言葉を非常に慎しみましょう。



中傷の次に悪口があります。いわゆる、悪いことを言うということです。フランス語で悪口は「呪い」と同じ語源の言葉です。悪口の厳密な定義は「隠されている隣人の罪、あるいは欠点をばらす」ということです。つまり、厳密にいうと嘘ではありません。ばらす罪あるいは欠点が隣人に本当にある場合ですがばらされています。悪口はこのような隠された罪と欠点をばらすことを意味します。こうすることによって、隣人を害する行為なので罪です。例えば、人前で、大きな声で、ばれていない何かの罪、時にはいわゆる家の秘密とかを公にするような悪口という罪です。

悪口の罪を犯した場合、悪口を償う、糺す義務があります。困難ですが義務です。悪口の場合、中傷と違って、撤回することはありません。ばらしたこと自体は嘘ではないから、撤回したら今度は嘘になります。いや、そうではなくて、悪口のせいで与えた損害を償う形で悪口を償う義務があります。いわゆる、精神的な損害だけではなく、具体的な社会上と政治上の損害も結構あるのです。悪口を償う義務があります。簡単ではなくて、デリケートですが、舌による罪は大変です。聖ヤコブがいうように、舌は人間が持つ一番小さな器官であるかもしれませんが、なかなか多くの損害をもたらす舌なのです。

それから、隣人の名声を害するもう一つの種類があります。「軽率な判断」です。軽率な判断とは根拠が足りないのに隣人を断罪するときです。なんか、何かについて疑いがあって、多少の根拠もあるかもしれませんが、確実な結論を出すには足りないのに判断するときです。これは確実になっていないから、嘘でも悪口でもなくて、中傷と悪口の間にある「軽率な判断」です。根拠は足りないものの、隣人に関する悪いことを言う時です。隣人の良い名声を害する行為なのです。「軽率な判断」です。

最後に、第八戒は隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。つまり、隣人の名声を損なう行為だけではなく、隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。隣人に対して払うべき敬意です。ののしりなどもあります。言葉を以て、あるいは行為をもってののしることもありえます(つまり、失礼あるいは無礼なことをやるとき)。隣人をののしり、あるいは無礼なことをするというのは、隣人に表すべき敬意に対する罪です。敬意の種類はいろいろありますが、このような失礼、無礼、ののしりの行為を償う義務もあります。

以上は、第八戒に関する紹介でした。
第七戒は物質的な物に関する掟なので、かなり具体的だった分、精神上の「財産」としての名声に関する掟である第八戒は多少、抽象的だったかもしれません。とまれ、第八戒は名声と真実を損なう行為を禁じている掟です。

公教会の6つの掟:なぜ復活節に聖体拝領をしなければならないのか?

2020年12月30日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百五講  教会の掟



天主の十戒の紹介は終わりました。いわゆる自然法なのです。人々の霊魂に刻印されている自然法なのです。
一方、法に関する講座をした時、教会は法を制定することができるということを見てきました。いわゆる実定法あるいは制定法であり、自然法を前提にして、追加される法なのです。
天主の十戒は人間の本性の一環になっていますので、これらを変えることもできないし、変わることもありません。天主の十戒を変えることがあり得るのなら、人間の本質を変えることができることを意味するようなことになり、人間が人間でなくなるというような意味を持つのです。

一方、追加される法、つまり教会が制定する法律は時代時代でかわることはあります。そして実際に教会が制定してきた法律(教会法)は変わってきました。
現代でも「教会の掟」はありまして、これらの掟が命じることは深刻な義務となっています。つまり、違反したら大罪となるほど、強く義務づけられています。

現代の教会の掟を要約するには、六つにまとめることができます。
第一と第二は守るべき祝日とこれらの祝日の聖化に関する掟となります。
第三と第四は聖体拝領と改悛の秘跡に関する掟となります。
第五と第六は教会内における償いに関する掟についてです。

まず、第一と第二の掟は守るべき祝日に関する掟です。
カトリック教会は特別に祝い、聖化し、守るべき祝日を指定することを是としました。なぜでしょうか?カトリック教会のそれぞれの祝日には、それぞれ特別の恩寵が与えられているからです。例えば、私たちの主、イエズス・キリストの人生の場面を記念する祝日になると、各々の出来事に固有の恩寵が与えられています。同じように、聖人を祝う時、天主は称えられて、聖人が崇敬される上、各々の聖人の個別の天主へのとりなしによって、特別な恩寵が私たちに与えられています。

要するにカトリック教会においては最初から守るべき祝日が存在してきました。時代が下り現代に至ると、厳密にいう「守るべき祝日」は十にまで制限されるようになりました。1917年の教会法において、普遍教会には十の守るべき祝日が指定されています。一通り取り上げてみましょう。

12日25日、ご降誕の祝日。いわゆる、クリスマスです。イエズス・キリストのご降誕です。
クリスマスの8日後、割礼の祝日があります。一月一日なのです。
主のご公現の祝日。1月6日です。私たちの主、イエズス・キリストのはじめての公けの現れを記念する祝日です。三人の東方の博士(国王)は主のみもとに来て、主に贈り物を捧げます。
御昇天の祝日。私たちの主、イエズス・キリストはこの世を去り、父なる天主の御右に座るために、天にお昇りになられた日です。
聖体の祝日。『Corpus Christo』と呼ばれる祝日です。この日に、聖体においてこの世にましまして実存される私たちの主、イエズス・キリストを荘厳に礼拝する祝日なのです。



以上は5つの祝日であり、私たちの主、イエズス・キリストについての祝日です。
そして、この5つの祝日の他にさらに5つあります。
二つは聖母マリアの祝日です。聖母無原罪の御宿りの祝日です。これは聖母の特権であり、つまり原罪を負ったことがない聖母の特権です。12月8日です。
それから、聖母の被昇天の祝日、聖母の多くの特権中の特権です。つまり、身体と霊魂を一緒に、地上を去り、天に昇られる聖母になりましたが、それを記念するのが8月15日の祝日です。

それから、もう一つの祝日は聖ヨゼフの祝日です。聖母マリアの主人である上、私たちの主、イエズス・キリストの養父です。3月19日の祝日です。普遍教会においてこれも守るべき祝日です。
それから、カトリック教会の二柱である聖ペトロと聖パウロの祝日です。6月29日の祝日です。
そして、最後に諸聖人の祝日です。つまり、すべての聖人を祝う日です。11月1日です。

以上は普遍教会の十の守るべき祝日です。フランスではピオ7世とナポレオン一世の間に結ばれた条約によって、4つにまでさらに制限されてしまいました。フランスにおいては、守るべき祝日は四つにまで制限されました。要するに、国ごとに、多少、守るべき祝日は違ったりします。フランスの場合、ご降誕の日、昇天の日、被昇天の日と諸聖人の祝日なります。【日本においても同じように、この四つの祝日は守るべき祝日となります。】
以上、教会の第一の掟についてでした。

教会の第二の掟は主の日を聖化するためにどうすべきかについての掟です。
天主の第三戒については、すでに触れましたから、手短にします。ただ、強調したいのは、天主に相応しい礼拝、創造主なる天主に恩返しとして捧げるべき礼拝を実践するのは自然なことであるということです。天主は私たちの創造主であり、私たちのあるじであり、子供は親に対して孝行を実践すべきであることと同じように、あらゆる被創造物は各々の分に応じて、創造主に対して礼拝すべきです。これは自然法です。

教会の第二の掟とはこの自然法的な規定を明確化するということです。つまり、具体的にどうやって天主を礼拝すればよいかということを明らかにします。
方法は前述したように二つあります。主日にミサに与ること。それから、主日に肉体労働をやらないこと。これが第二の掟です。
つまり、分別がついた信徒には、日曜日、それから、先ほどの守るべき祝日、ミサに与ることは重要な義務であって、違反すると大罪になるということです。もちろん、この間に見たように、やむを得ない正当な理由があってミサに与ることはできない場合、免除されることもあります。

以上、教会の第一と第二の掟でした。祝日と主日の聖化を助ける掟です。

第三と第四の掟は二つの秘跡に関する掟です。聖体拝領と告解です。
教会の第三の掟は改悛の秘跡について規定します。カトリック教会は信徒が最低、年一回に告解に行くことを義務づけしています。年一回という少なさから、カトリック教会がどれほど寛大であるかお分かりかと思います。この掟の趣旨は分かりやすいと思います。つまり、分別がついた洗礼者、つまり善悪を区別できる信徒は最低年一回、大罪を犯した場合、告解へ行くようにという掟です。

カトリックは信徒たちのために人間の本来の目的地である至福を常に求めています。つまりカトリック教会は信徒たちの永遠の命の取得を渇望しています。そのためには、天国に入るために成聖の恩寵にある必要があります。そして、成聖の状態を得るには告解が必要です。この掟はカトリック教会がどれほど善き母であるかを示しています。

一方、年一回の改悛の秘跡に与るよう命じながら、それ以上に義務化していません。つまり、かなりの自由を信徒に与えているのです。要するに、この掟のお陰で、救済を得るための告解の秘跡の必要性を教会は強調していながら、同時にこの少ない一回の告解を求める以外、カトリック信徒に対しては告解に行くことに関して広い自由を与えています。

つまり、カトリック教会は「救済を得るために告解は必要ですよ」と想起してくれると同時に、信徒の意志をも尊重しています。この第三の掟は均衡をとった掟であり、かなり中庸をとった掟なのです。繰り返しますが、最低、年一回の告解に行くことだけを洗礼者に義務づけているのです。

当然ながら、復活節の間に告解にいくことに越したことはありません。とういのも、第四の掟は年一回、復活節の間、聖体拝領をすることを洗礼者に義務づけているのです。告解に関する掟は年間通してのいつの時期か規定されていないのですが、一方、聖体拝領の掟については、復活節の間という時期が規定されています。

なぜ、聖体拝領をするようにカトリック教会は勧めるでしょうか?聖体拝領をする信徒は私たちの主、イエズス・キリストの聖なる生贄と一致するからです。そして、イエズス・キリストの十字架上の聖なる生贄こそは天国を開けてくださった犠牲であって、悪魔の影響から私たちを引き出し、罪から解放し、天主に戻してくださる贖罪のみ業だった生贄だったからです。

従って、聖体拝領をするということは、聖体において実際に現存されている天主を信徒が受け入れるということになります。そうすることによって、自分は聖化されて、霊魂を養うのです。聖体拝領というのは霊魂の糧なのです。ですから、カトリック教会が信徒に向けて「霊魂を養うように」命じている理由もわかるでしょう。

第四の掟もかなりの均衡をとった掟で、年一回だけの義務となります。その上、信徒の自由に任せられています。では復活節とはいつからいつまででしょうか?基本的には復活祭の二週間前から復活祭の二週間後までの期間です。言いかえると、ご受難の主日からよき牧者の主日までの期間です。場合によって、カトリック教会はその期間を長くすることが多いです。一般的にいうと、灰の水曜日から、つまり復活祭の40日間前から復活祭後の50日間以上の三位一体の主日までの期間に拡大されることが多いです。
以上、聖体拝領に関する掟でした。

もちろん、聖体拝領するためには、成聖の恩寵にある必要があります。そうではないと、冒涜的な拝領になります。そして、冒涜的な拝領をしても第四の掟を満たすことにはなりません。そして、もしもの場合、復活節の間に聖体拝領をしなかった信徒はその期間外にでも聖体拝領をする義務が生じます。大罪になることは言うまでもありませんが、それでも掟を破ったことを償うために、なるべく早く聖体拝領をしなければなりません。

最後に、第五と第六の教会の掟は改悛についての掟です。悔い改めるというのは、キリスト教徒の義務です。洗礼者聖ヨハネは悔い改めるように説教してきました。また私たちの主、イエズス・キリストも悔い改めるように私たちに要請していて、そして、イエズス・キリストご自身は具体的に償いの行為をなさって、模範を示してくださいました。また、「自分を捨て、自分の十字架を担って従え」とイエズス・キリストは命令しました。十字架こそが私たちのために天国を開けてくださるのです。従って、カトリック信徒は必ず償わなければなりません。

この二つの掟においてもカトリック教会はカトリックの叡智を活かして、カトリックの寛大さを示している掟を制定しました。償いを義務化しながら、同時に人々にとって重くならないように、負担にならないように教会は制定しました。過剰な苦行などを要求するのではありません。この掟は評価すべきもので、本当の意味でカトリック教会の叡智を表す掟です。まさに均衡を持った掟です。大切な償いの義務をなくさないでそれを維持しながら、信徒に無理な負担をかけないようにしているのです。あえていえば、掟のお陰で、償い、苦行は穏やかなことになるために、しいていえば快適な苦行になるかのようです。

償いに関して、第五と第六の掟があります。
第五の掟は大斎です。第六の掟は小斎です。第一に、大斎です。現代では大斎という義務は非常に少なくなりました。年に二日間だけ大斎を義務化しているにすぎません。ただ、この二日間に大斎を行わなければ大罪となります。灰の水曜日と聖金曜日です。信徒にたいして無理な苦行を要請している教会だということは全く言えないほどに軽い掟でしょう。年に二日間だけなのですから。

では大斎とは何でしょうか。一日の内、普通の食事を一回だけ取るということです。ただ、その普通の食事の上、小さなおやつをを二回まで取ることは可能です。大斎の本質は一日に一回だけの普通の食事をとるということです。

それから、小斎の掟もあります。小斎とはなんでしょうか?動物の肉体をたべることを遠慮するということです。つまり、簡単にいうと肉と肉類の汁です。ただ、小斎の日に乳牛類や魚や卵などは食べてもよいことになっています。つまり、川あるいは海に生まれて生きている動物を食べてもよいのです。

小斎の義務は基本的に毎週金曜日と大斎の日です。聖金曜日は金曜日なのでいうまでもありませんが、灰の水曜日も小斎の義務があります。つまり、大斎の日は必ず小斎にもなりますが、小斎の日は必ずしも大斎になるわけではないということです。

それはともかく、小斎の意味は軽い形での償いへの招きであります。また、毎金曜日に小斎する理由はイエズス・キリストが十字架上に死に給うた日だからです。つまり、小斎には本当の根拠、理由があって、しかもご受難をより善く黙想するために霊的にも心理的にも助けとなる掟です。これもカトリック教会の叡智を表しているのです。つまり、金曜日になると、イエズス・キリストのご受難を黙想して、肉を食べないことにより犠牲を捧げましょうということです。小斎とはかなり軽いでしょう。魚はおいしいし、量的に普通に食べてもいいですし。

以上、教会の掟でした。
これで、道徳の部は終了します。次回から秘跡の部に入ります。

それは正しくない所持となっていないか?外面的にも内面的にも盗んではならない:第七戒と第十戒

2020年12月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百三講 第七戒と第十戒について



第五戒と第六戒の次に第七戒を見ていきましょう。
第七 なんじ、盗むなかれ。

そして、第六戒の場合、第九戒と一緒に見てきたように、ここ第七戒と第十戒と一緒に見ていきましょう。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

第六と第九の戒の相互関係と同じように、第七戒は盗むことに関して外面的な行為を禁じ、そして、第十戒は盗むことについての欲望と思いを禁じるのです。すなわち、外面的な罪と内面的な罪という関係。

内面的な罪も存在します。外観からすると外面的な行為は何もないものの、意志において既に悪を望む時、あるいは悪を追究する時、内面的な罪になりえます。つまり、霊魂において乱れた欲望、乱れた何かがあると、罪になりえます。

第七戒は第五と第六戒の次にきます。第五と第六戒は生命の保護と生命の伝承のために設けられています。それは、生命は天主のものであって、天主のみが生命の御主であるからです。「生命」という時には広い意味で理解しなければなりません。いわゆる、「新しい生命を伝える」としてだけではなく、生まれた新しい命の成長とその完成化をも意味します。

そして、人間の命の完成化は一先ず徳の実践にあります。徳とは自分の動きで善を選んで善の内に生きていくことを常にするということです。そして、道徳的な人生を送るために、つまり、善徳を身につけるために社会が必要であって前提となります。

つまり、人間は本性的に「政治的な動物」なのです。なぜかというと、人々はこの世に生まれてきても必ずしもまだ完成性は何もありません。あるのは、「人間の本性」を持つということだけであり、部分的な完成性を持っているのにすぎません。つまり、生まれた時点では人間はまだ人間の尊厳というものは全くありません。

人間に尊厳を持てるのは、成長してある程度完成化した時であって、つまり、自ら徳において行動していくことが可能となった暁に尊厳であると初めていえるようになります。つまり、本物の「人間らしい」人として行為するようになった時、つまり、ある程度に完成化された意志と知性をもって、善と真の内に行為していける時、人間としての尊厳を得られるということです。

そして、人生というものが発展あるいは成長していくためには、また、社会において善徳の内に、かつ調和の内に成長していくためには、人間の本性に基づく自然法が「所有権」を含むことでもあります。私有の所有権のおかげで、人々は私物を持ててその使用を享受できます。そして、これらの財産を活かして徳において成長しくことができるのです。

というのも、徳において成長するためには、ある程度の物質的な物、財産が必要です。聖トマス・アクイナスはこれを教えています。つまり、善を選び、善へ行くことにするためには最低限の財産、現代風に言うと最低限の生活水準が必要だという意味です。残念ながら、極端に貧窮な状態は徳の実践を困難にさせます。

従って、所有権というのは自然法の一部であって、人間の生まれながらの所有権です。ですから、隣人の物を盗むとか、盗むことを望むとかは、端的にいうと、隣人が善徳を実践することに対する障害となるということです。端的に申しあげましたが、結局、盗むのがなぜ悪いかというと、隣人の善の実践を妨げるからです。これが第七戒の趣旨なのです。

では所有権とは何でしょうか。「所有権とは第三者をさしおいてある物とその効用性を享受する自由(特権)」なのです。そして、皆一人一人は必ず、最低限の「私物」を必要としています。人はいわゆる安定的な「領分(Dominion)」を取得する権利があります。

なぜでしょうか?人にはある程度の安定さを必要としているからです。ですから、所有権という権利は自然法を越えて、天主の法に由来しています。天主は「ぬすむなかれ」というのですが、盗むことを禁じているということは、裏を返せば、当然ながら「私有権」をお望みであるということを示しています。

ですから、所有権を否定しようとしている人々として、特に浮かぶのは「社会主義者」という一般的な呼称で呼ばれる共産主義者などであり、彼らの多くのイデオロギーは、カトリック教会によって否認されたイデオロギーです。教皇ピオ9世とピオ11世の幾つかの回勅は明確にこれらのイデオロギーを否認しました。

これらの思想家は結局、理想主義者にすぎません。なぜ理想主義者なのでしょうか?この思想は所有権を否定して、平和を確立する思想なのです。つまり、簡単にいうと、財産の共産化を実現することによって、ある種の平等、それから平和を実現できると彼らが確信していますが、実際にはその逆の結果を伴います。所有権を否定すると、善徳の実践を困難にさせるから、社会はどんどん乱れていくしかありません。このことは、それについて長く話す必要はなくて、歴史を見れば、また現実を見れば、残念ながら、すぐ確認できることです。

ですから、人間には私物を持つこと、それから所有権を活かすことは必要なことなのです。したがって、所有権を犯すことの深刻な罪になるのです。これは「不正」と呼ばれています。不正に隣人の物を持っているということで、つまり、所有されている誰かの物を奪うということは罪になります。これは「盗む」ということです。誰かの物を奪うということであり、隣人の自由あるいは権利を侵害する行為なのです。

そして、隣人の自由を侵害するというのは、隣人を侮辱することになります。そして、転じて、天主を侮辱することにもなります。これは大変なことです。現代では、隣人に対する罪は必ずしも天主に対する罪ではないと考えられがちですが、それは違います。隣人に対する罪は必ず天主に対する罪となるのです。というのも、所有権をお望みになり、また善をお望みになり、また徳をお望みになる天主に対する罪なのです。ですから、所有権を妨げることは、善を妨げること、徳を妨げることであり、天主に対する罪なのです。盗む行為は、もちろん、第一に隣人に対する罪に端を発するのですが。

窃盗、横領、掠奪、詐欺などは現代で誰もよく見うけられる行為ですが、これらは罪であり、殆どの場合、大罪なのです。

正しくない所持とはこっそりと保持しているということですが、つまり、隣人の物を自分の手元において保持しているという意味です。そして、これによる不正な侵害は、悪意をもって、あるいは軽率によって失われ奪われたせいで隣人が損を負わざるを得ないということです。いわゆる、奪われたことによって自分が利益を得なかったとしても、隣人はその物を失ったことによって負う損は不正な侵害だと言えます。



これらの罪は隣人の善を妨げる行為なのです。また、深刻な罪です。そして、これらの罪は具体的な償いを必要とします。この点を特に強調しましょう。犯された不正を具体的に償う必要があります。つまり、盗む類の行為は「不正な行為をやってしまった!告解に行こう。それで済むから。」ということだけでは足りません。例えば借りた本をいつまでも返さないというようなことも盗む行為の一種となります。

告解の際、罪の赦しを得るために、盗んだ物を具体的に返す義務がありますので、本気で返す意志がない限り、秘跡の効果を得られません。つまり、盗んだ者に盗んだ物を返すべきです。なぜでしょうか?盗まれた物には所有者があります。つまり、その物には主人があるということです。これが大事です。物には主(あるじ)があります。



ですから、何かを盗んだ時、例えばある生徒は同級生のペンを盗んだ時、このペンの占有者を変えてしまいました。ペンは元の同級生の占有物だったのですが、盗んだ生徒の占有物となってしまいます。しかしながら、所有者は依然として元の同級生のままです。これこそは不正の状態なのです。で、ペンを盗んだ生徒は悔い改めて、告解に来てちゃんと罪を明かした時、盗んだペンを返す本気の意志があって初めて悔い改めたと言えます。なぜでしょうか。盗まれたペンは同級生の物ですから。つまり、ペンを盗んだ生徒はペンを占有しているものの、彼の所有物ではありません。占有しているから所有になるわけではありません。

何かを所有するためには、正当に取得する前提があります。不正に占有された物は所有物にはならないで、いわゆる所有権の移転がないまま、不正な占有でありながら元の者の所有のままになっています。

また、不正に取得するということは、狭義の盗みだけではなく、形はいろいろあります。例えば、意図的に悪い契約を結んで相手を騙した結果、何かを取得した場合それは不正な取得となります。ここにも「盗む」行為が発生します。

従って、第七戒はかなり広い掟であって、適用される場合も広いです。動産や不動産について掟でもあるし、いろいろあります。
この掟の目的は隣人の所有物を守ることにあります。そして、社会上、ある程度の平和を維持するための掟でもあります。そして、このような平和のお陰で、善徳が奨励されるのです。要するに、善において行為していくように奨励するための掟です。本物の社会のそもそもの様子は和、調和、平和なのです。つまり、和は社会の共通善そのものであり、それを取り戻すためには不正な行為を償う必要があるということです。
そして、第六戒の場合と同じように、実際に外面的な窃盗はなかったとしても、罪になることはあります。これが第十戒です。

第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。



つまり、隣人の物を積極的に奪うことを望むことはすでに罪です。場合によっては深刻な罪となります。なぜかというと、思いだけでも、隣人の正当なる所有権を否定していることになるからです。もちろん、実際に行為をしなかった限りにおいて、具体的に物を返す必要はありません。具体的に物を返す前提にはもちろん実際に盗んだということがありますね。

つまり、究極的に、この世のあらゆる物事は天主のものなのです。天主は万物の創造者である故、万物の所有者なのです。支配者なのです。ですから、天主こそはご自分の万物を人々に与えて、その二次的な所有者になさいます。

従って、所有権は天主より直接に与えられた特権なのです。繰り返しますが、最終的に万物は天主の物です。ですから、天主は万物を自由に与えたり奪ったりすることができます。ですから、天主は万物の主であるがゆえに、いつでもどこでも私たちから物を奪うこともでき、また与えることもできます。そしてそれは不正でも何でもありません。善き天主こそは(私たちを含めて)万物の正当なる所有者ですから、何かを私から取り上げる時、盗むことではなく、占有権を取り戻して、つまりそれに対する所有権を実行したにすぎません。

たとえば、ヨブの話は有名ですね。たった一日で、ヨブが持っていたすべて(親戚を含めて)を失うことになることを天主は許可されました。ヨブは言っていました。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1、29)天主は万物の御主なのです。



旧約聖書には善き天主が隷属状態にあったヘブライ人をエジプトから解放なさった場面がありますね。その時、天主はヘブライ人に「エジプト人の貴重な物すべてをとれ」と命じました。現代的な感覚でいうと、ヘブライ人はエジプト人から盗んだと言われるかもしれません。しかしながら、そうではありません。ヘブライ人は盗んでいません。天主の命令に従っただけです。万物は天主の物だから、天主はエジプト人の物がヘブライ人の物にすることを決められたわけです。ただ、もちろん、自分を正当化するために「天主の命令だから」といって何かを盗むことは当然ながら誰一人も許されていませんね。

しかしながら、大事なのはすべて、万物は天主の物だということなのです。ですから、この意味で、生きていくためにどうしても必要な物、例えば飢え死にならないため例外的に盗みが許される場合があります。つまり、本当に絶対的に必要としている物だけをとる場合です。もちろん、現代ではこのような場合を想定するのはかなり難しいですが、時代によってかなり日常的な状態でもあったりしました。

例えば、食うものを何も持たない人、つまり非常に貧困に陥っているその人、つまり飢え死にする人は自分が生き残っていくために、つまり、自分の生命が途絶えないためにだけ(これこそが大事です。生命を守るためということです。転じて、善へ行くため、徳の道を歩むために生命を守るという)、必要としている食べ物のみを「とっても」許される場合があります。もちろん、そうすることによって、隣人を飢え死にさせないという前提条件もありますが。

要するに、すべての戒は生命のためにあり、つまり命を守るためにあり、それは、善と徳、またいわゆる「立派に生きる」という意味での「善く生きていく」ためにある掟なのです。

なぜ貞潔を守らなければならないのか?―第六戒と、第九戒:行いと思いで貞潔に背く罪

2020年12月01日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二講 第六戒と第九戒



第六戒と第九戒について

第五戒の次は第六戒があります。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。

以上の第六戒は第九戒と一緒に見ることになります。第九戒は外的な行為についてではなく、思いに関する掟となります。第六と第九はその意味で補完的な関係にあってセットとなります。第六戒は純潔に背く外面的な行為に関する掟である一方、第九戒は純潔に背く欲望と思いといった内面的な行為に関する掟であります。

これから以降、第六戒という時、第九戒も含まれているということにしていきます。そして第六戒が第五戒の次に来るということには意味があるということ指摘しておきましょう。
前回、第五戒について申し上げたように、善き天主は気まぐれに掟を決定したことはありません。好き勝手に人間をいじめるために掟を決定したということもありません。いや、そうではなく、(ここでいいたいのは)被創造世界、つまり宇宙には秩序があるということです。そして、この秩序を理解することが大事です。掟は人間がその秩序にしたがうために与えられたわけです。

で、第六戒は第五戒の次にきます。なぜこの位置づけは大事でしょうか?これを理解すると第六戒を実践するための徳をよりよく理解できるということになりますので注意しましょう。

思い出しましょう。第五戒は「人を殺すなかれ」という掟ですね。命は大切だから生命を犯してはいけないということです。そして、第五戒は人々の命についての掟です。そして、一人の人の生命に背く罪である殺人を禁じる掟です。

第六戒は第五戒と同じように生命に関する掟ですが、第六戒は人類の生命に関する掟です。つまり、個人は人類の一員にすぎないということです。そして、それぞれの時代において人々が人類の生命を伸ばしていくことに貢献することは非常に良いことです。ですから、第六戒は第五戒と違って個人の生命の維持を助けるための掟ではなく、人類の生命の延長と継続を助けるための掟です。第六戒を理解するために、人類の生命を守るためにこの掟が制定されたということをよく覚えておきましょう。

第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
に加えて
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。

とあります。これは不倫を禁じる掟です。つまり、人類の存続のために行われていない性的行為は、そして人類の生命の延長という目的の枠外に行われている性的行為は罪になるということです。なぜでしょうか?このような行為をしてしまうと、わがままに自分の欲望を満たすせいで、「人類の存続」という共通善に損害を与えるからです。

そして、一般的な原理原則ですが、「全体の善は一部の善より好ましい」ということです。ですから、全体より一部を優先するという行為は過失であり、偏った行為となります。たとえてみると、絵画にある細部がどれほど立派であるとしても、全体としての絵画を見ない限りにおいてこの細部は無意味ですし理解できません。また同じように身体の四肢の存在理由は身体全体を見て初めて成り立つのです。ですから、身体を自ら害することは罪になりますが、それは全体から大切な一部を奪うから罪となるということです。逆に、身体全体の生命を救うため、腐っているがゆえにやむを得ずして全体の命を脅かす一部の切断は罪ではないのです。

敷衍(ふえん)すると「姦淫」という罪は人類全体の生命を損じる行為であり、罪となります。善き天主は人類の存続のためにある種の器官を与えた上に、人類の存続のために生殖行為にある種の快楽をも与えました。それは人類の生命の延長のためです。

残念ながら、人間は与えられたこの(器官と)快楽を悪用して、わがままのために利用したりします。つまり、本来ならば、全体としての人類に自分を捧げた暁に得られる快楽であるはずが、人類の生命の存続のためという目的から外れてしまう結果、つまり全体のためにあるはずの行為を歪曲した挙句、わがままにして自分自身だけの快楽に歪曲したという大罪になります。

善き天主はアダムとエワに命令しました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世、1,28)
善き天主はこのように命令なさったのですが、この命令を満たすことは徳のある行為であるということです。なぜかというと、善のための行為、善に従っている行為は必ず徳の高い行為だということになるからです。

で、人類という全体の善のために人を向かわせる徳というのは何かというとそれは「貞節」の徳です。貞節の徳とは何でしょうか?ラテン語の由来は「Castigare」にありますが「罰する」あるいは「懲らしめる」という意味です。ここにいう「罰する」というのは罰するために罰するのではなくて、「本来の居場所に物事を戻す」という意味で「罰する」という意味です。

原罪以前には、人間において正しい秩序がありました。恩寵の下に意志と知性は従っていました。そして、意志と知性の下に感情は従っていました。そして、感情の下に身体は従っていました。

しかしながら、原罪によってこの本来の秩序と調和は乱れてしまいました。その結果、本来、下は上に従っていた調和的な一致が砕かれてしまいました。で、下の方は上を無視して自分の方向に勝手に行ってしまうようになってしましました。社会にたとえてみていえば、子供は親に従わない、とか村は祖国に従わず、祖国を無視して勝手に動きだして社会を混乱させるといったような乱れと似ています。



貞節の徳は本来の秩序を取り戻すために働く徳であり、たとえば霊魂は身体への支配権を取り戻すための徳になぞらえます。つまり、貞節の徳とは、霊魂の赴くままに身体が従順させるための徳です。言い換えると、貞節の徳の場合、本来の目的である人類の生命の延長のために身体を使うということにむすびつきます。

このように、貞節の徳は第六戒の中心なる徳です。
貞節の徳は「禁じられた肉体の快楽を控える」ために助ける徳です。ですから、結婚においても貞節の徳はあります。つまり、結婚においての交際を律する貞節があります。

そして、童貞という貞節の徳もあります。つまり、一生、肉体による快楽を控えるという徳です。
貞節の徳は必要不可欠なのです。姦淫の罪に対峙する徳です。また、自然の次元で言っても、超自然の次元で言っても貞節の徳は当然の徳であり、避けられない徳でとても大事です。

というのも、貞節の徳のお陰で、理性に従って、理に適って振舞うことが可能となるからです。一方、姦淫は乱れた行為を推し進める結果、理にかなわなくなって、理性と知性に背く行為になっていくのです。あえていえば、意志にも背く行為になります。なぜかというと、意志とはそもそも善のためにあるなので、悪いことのために意志を用いると、意志を侮辱することになります。

そして、超自然の次元においても、忘れてはいけないことがあります。私たちは聖霊の神殿であることを忘れていけません。聖パウロが記す通り、「あなたたち神の聖所であり、神の霊はその中に住みたもうことを知らないのか。神の聖所を壊す者があれば、神は彼を壊される。神の聖所は聖なるものである。あなたたちはその聖所である。」(コリントへの第一の手紙、3、16-17)。この文章はコリントへの第一の手紙の第三章の他に、第六章にもあります(6、19)。

貞節の徳は立派です。まあ現代人はそう思わないことは多いかもしれませんが、貞節の徳は非常に優れている徳です。確かに、貞節の徳を実践するためには身体を霊魂の下に取り戻すためにある程度の苦行を必要とします。しかしながら、貞節の徳を実践していくと、霊魂において静謐(せいひつ)は生まれてきます。また、裏を返せば、姦淫の内に生きている者は静謐ではなくて、いつもいつも安心できないのです。残念ながら、現代では時に、顔にまでこのような不安定さが現れることもあります。

また、貞節の徳を実践していくと、霊魂において大きな喜びが生まれて、善においての実りも多くなっていきます。つまり、貞節を守る者は善においてより多くの実りを出していきます。
諸聖人の人生を見ると明らかです。福音書においてはなおさらに明らかです。
そして、当然ながら貞節の徳を実践したら、天国においての大きな報いに値します。

第六戒は貞節の徳の実践を要求しています。第六戒は単なる「禁止」だけではありません。それよりもまず「秩序」あるいは「和」なのです。つまり、「和」を得るために必要な徳なのです。または安心、静謐。乱れた時、このような和を得られないわけです。

しかしながら、身体が霊魂に従い、霊魂が天主に従う時、本当の秩序があって、本当の安心と静謐と和の境地に入れます。ですから、第六戒はこのような秩序、和、静謐、安心に達するための戒です。逆に、姦淫はこの和を壊すものです。

ですから、
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。

要するに姦淫とは卑猥な快楽への愛着なのです。「卑猥」という時、乱れた快楽という意味であって、つまり結婚以外に求められている快楽であります。そして、結婚とは生殖のために制定された制度です。結婚とは子供を産むために制定された制度です。このようにして、結婚の枠外に求められて得た快楽は卑猥になるということで、罪です。大罪なのです。姦淫は七つの罪源の一つなのです。

また、姦淫というのは外面的な行為を伴わないとしても、内面的にこのような卑猥な快楽を味わうこともあって、これもすでに罪となります。つまり、姦淫による快楽を思って味わうことは罪です。実際に外面的な行為をもって満たされないとしても、意図的に姦淫の行為を望み、欲するのは大罪です。なぜでしょうか?すでに悪を意図的に望む行為だからです。思い出しましょう。罪というのは意志においてこそ成立します。そして、当然ながら、外面的な行為を伴ったら、更にこの行為も大罪となります。

従って、第六戒はすべての卑猥な行為、姦淫の行為、いわゆる孤独の快楽をも厳格に禁止します。つまり、結婚の枠外に犯される行為、あるいは自然に反する行為を厳しく禁じています。残念ながら、最近の社会では自然に反する行為は多くて、いわゆる「同性愛」と呼ばれているところのものです。

また、結婚においても生殖という目的から意図的に逸らされている行為も罪です。たとえば、避妊、ピル、避妊リングなど、避妊を利用するのは大罪となります。避妊あっての行為はその行為の目的から外れる行為となり、乱れた行為となるからです。これは深刻な罪です。なぜでしょうか?物事の本来の目的は物事の完成を意味しますから、その完成化を拒み、物事の目的を拒否することは大変な罪です。

たとえてみましょう。それは、あたかも技術者が機械を作るとして、その作った機械の使途を無視して、関係のないことのためにその機械を使うのと似ています。例えば、洗濯機なのに皿を入れたらどうなるでしょうか?洗濯機も壊れるし、皿も壊れることになります。洗濯機の目的から外れた使用になったので、乱れた使用となったから、弊害をもたらすのです。

同じように、人間の目的は人間の目的地であって、また人間の完成化でもあります。これらは一致します。このように、姦淫の罪は生殖の行為を本来の目的(人類の生命の延長)から外す行為であり、ひいては人間の目的を拒否することとなるので、大罪となるのです。

残念ながら、現代の社会は非常に堕落しています。ソドムとゴモラの時代ほどの乱れた社会になっているかのようです。そして、ソドムとゴモラの二つの都市に対する天罰がどうなったかは、周知のとおりです。ソドムとゴモラは考古学によると、非常に豊かな自然のなかにありましたが、現在、そこでは、何も残っていないのです。不毛の地となっています。いつまでも何も植えられない地となりました。残念ながら、現代社会にいる我々もこのような天罰を覚悟した方がいいでしょう。



続いて、外面的な罪は禁じられるのはもちろん、内面的な罪も禁じられています。例えば、意図的に、あるいは控えようとしない卑猥な不潔な視線という罪があります。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」(マテオ、5、28)と私たちの主、イエズス・キリストは仰せになりました。またヨブ書にはこのように書いてあります。「私は自分の目と契約を結んだ、どんな娘にも目をとめないと。」ヨブの31章にあります。素晴らしいでしょう。

また、このような罪を引き起こしうる状態に意図的に自分を誘惑に晒すことも罪なのです。というのも、罪の機会を意図的に自分に与えるということは、すでに罪を望むようなことです。

次に、姦淫の結果を見ましょう。姦淫はかなり悲惨な結果を伴うことを忘れてはいけません。姦淫によって身体上の快楽が強いあまりに、身体こそが知性と意志を従えることになってしまいます。知性と意志はまさに堕落していきます。つまり、上の者は下の者に従っているという逆さまになるという意味です。従って、殆どの場合、姦淫の結果は、知性が暗んでいきます。

姦淫におぼれている者は例えば、「姦淫な行為がなぜだめなのか」ですらわからなくなっていくのです。そして本当に深刻な姦淫にはまってしまったら、ある意味でもはや姦淫の人は残念ながら、なぜだめなのかをも理解できなくなります。貞節の徳を実践することによって、霊魂は高められてはじめて上から俯瞰できるようになりますが、姦淫の人の霊魂は暗闇に落ちています。

そして、このような霊魂の蒙昧の状態だと、姦淫の人は反省することを非常に嫌がることになります。本当に悪循環です。そういえば、近代の社会はまさに不安定、移り気、そして何よりも浅薄な人々を生んでいきます。現代人の典型的な人々の性格は真理の前に過剰に小心になり、臆病になる傾向にあると言えましょう。そして、裏を返せば、現代人は死の前にビビって、この上なく絶対的な恐怖を感じるようになっていきます。というのも、死というのは好むと好まざるとを問わず、真理へと目を向かわせてくれるからです。

それから、姦淫の結果、他に注意散漫、放心、無節操、意志の弱体化をもたらします。もはや意志は戦えなくなって、戦おうともしなくなるのです。残念ながら、現代はまさに弱体化された意志の時代となっています。弱体されたということは移り気の意志になり、虚弱なもろい意志になっているということです。

それから、姦淫の他の結果として、天主の忘却、それから現世への愛着をもたらします。そして、転じて霊的な生活の忘却と来世の命に対する嫌悪感をもたらします。
それから、社会全体にも悪い結果があって、堕落がはびこります。現代を見たら自明でしょう。衰退と侮辱をもたらすのです。

貞節の徳を実践していくためには、戦う必要があります。そうするために、中心となる徳は羞恥心なのです。羞恥心の徳というのは、霊魂を守るある種の障壁なのです。羞恥心という徳は純潔を犯しうる遠因を常に警戒しているようなもので、純潔さを守っている徳なのです。例えば、服装があります。つまり貞節に適った服装が必要です。いわゆる慎みに適った服装のことです。私たちは天主の神殿ですから。それから、貞節に適った会話。また、貞節に適ったことを見て聞いて、あるいは知り合いなど。

転じて、広告、CM、流行り物なども、貞節に適うか適わないか、この第六戒に関係しています。つまり、これらの物事は貞節の徳の実践を励むか、逆に姦淫を刺激するか、どちらかです。

貞節の徳を守るために、主に三つの超自然の方法があります。祈りと犠牲と秘跡なのです。そして自然な方法として、無為の状態の回避と、善い休息をとる方法があります。これは残念ながら、現代の社会は提供できなくなった善い休息です。

昔は休息するため、くつろぐためには本当に良い形でやっていました。例えば、大自然を眺めるだけでは大きな助けとなっていました。現代、人造的な環境においてばかり住んで、その挙句に、自然なことに関する感覚を失ってしまっている弊害があります。本来ならば、貞節の徳はこのような自然に育まれている徳でもあります。

以上は第六と第九の戒でしたが、現代ではデリケートであるかもしれません。しかしながら、不潔な人に対する善き天主の罰があることを忘れないでおきましょう。そのためには、特に、ソドムとゴモラのことを思うのがよいでしょう。永遠に地上から取り消された都市。

汝、殺すなかれ:なぜアシジの会議は第五戒にあたるのか?

2020年11月22日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百一講 第五戒について



前回、第四戒を見ましたので、今回、次の第五戒を見ていきましょう。
第五戒の題目はどうなっているでしょうか。次のとおりです。

第五 なんじ、殺すなかれ。

分かりやすい題目なのです。第五戒は隣人それから自分自身の命を奪うことを禁じています。隣人だけではなく、自分自身の生命をも奪ってはいけないという誡でもあります。

第五 なんじ、殺すなかれ。

「命」あるいは「生命」という表現には二つの意味があります。当然ながら、身体上の生命を指します。そして、その上、霊魂上の生命をも意味するのです。したがって、第五戒はこの二つの意味で理解することができます。

第一に、いわゆる身体上の生命に関する戒であって、一般的にいうと「殺人行為」に関係する戒となります。つまり、簡単にいうと、殺人することは禁じられているのです。
しかしながら、第五戒は霊魂の生命を奪うことをも禁じています。「霊魂上の命を殺す」ということは何でしょうか?スキャンダル(不祥事)を起こすということです。聖ヨハネ・ボスコの喩えによると、スキャンダルとは足掛けのようなことです。言いかえると、スキャンダルというのは人の行為ですが、この行為によって、隣人に悪影響を及ぼして、隣人に悪い行為、つまり罪を引き起こすように促進するスキャンダルです。

ですから、聖ヨハネ・ボスコは足掛けの話をします。というのも、足掛けする人は意図的に足を出して悪い行為となります。そして、足掛けという悪い行為のせいで、もう一人が転倒して、地面に転びます。そして転んだ人は痛いです。霊的の意味でのスキャンダルは例えば、正当な権威をもって悪い模範を示すことによって、ほかの人々を同じ悪い行動をするように、つまり罪を犯すように招く行為を言います。

典型的な一例として、残念ながらも、いわゆるエキュメニズム的な宗教会議があります。特に1986年のアッシジ会議では、教皇が諸宗教の指導者を迎えた時、大スキャンダルを犯しました。ルフェーブル大司教はこれを知って苦しかったあまりに、放送された映像を見るに堪えられなかったほどのスキャンダルでした。



アッシジ会議ではそれぞれの宗教の指導者は並んで一緒に祈っているという光景でしたが、これは本物のスキャンダルでした。なぜでしょうか?そうすることによって、すべての宗教は同じく真理を持っているという誤った印象を与えるからです。裏を返せば、カトリック以外にも諸宗教は良い宗教であり得るという印象を与えて、ほかの宗教はもはや否定すべきではないという誤った印象を与えるからです。

その結果、第一に、異教徒は回心への道が困難となってきます。異教徒に対してのスキャンダルです。それはそうでしょう。「私の宗教が良かったのなら、カトリックにわざわざ改宗しなくてもよい」と思わせるので、その結果、多くの人々に対して天国の門を閉めることにつながるからです。そして、カトリック信徒に対しても本物のスキャンダルです。というのも、このような会議は、カトリック信徒も自分の信仰を相対化する招きとなり、そして信仰を弱めるよう招きとなり、場合によって信仰を否認するような招きにもなりかねません。まさにこれはスキャンダルに当てはまります。つまり、教皇という一人の人の行為が、多くの人々の罪を犯す引き金となってしまったのです。

また、例えば、家長(父)によるスキャンダルもわかりやすいでしょう。つまり、悪い模範を示す父のせいで、子供たちには悪い慣習、つまり罪を身につけさせるような結果を招くスキャンダルがあります。以上、スキャンダルについてでした。つまり、霊魂の生命を奪うという意味における第五誡に関しては、このぐらいにしておきましょう。

次に、身体上の生命を奪うと意味における第五戒についてみていきましょう。この意味における第五戒に背くやり方はいくつかあります。
まず、天主より生命を頂いているということをよく理解すべきです。つまり、命の持ち主は天主なのです。唯一天主が生命の創造主であり、生命の持ち主であるということです。天主は私たちみなを創造してくださったし、命を司る存在なのです。ですから、天主こそは生命のあるじ(主)なので、自分自身の命あるいは隣人の命を犯すということは私たちへの支配権(Dominionあるいは権威)を否定することにつながります。

言いかえると、自分自身の命あるいは隣人の命を犯す人は「天主が命の持ち主である事実」を否定し、その現実を拒絶する行為を犯すことになるのです。これはまさに、自分が天主の代わりに自分自身の命あるいは隣人の命の主(あるじ)になるかのようにする行為なのです。従って、また後述しますが、殺人行為と自殺の根本にはある種の傲慢があります。つまり、「私の人生・生命・命の主(あるじ)は私自身だ!やりたいことをやってよいぞ!」あるいは「隣人の命の主(あるじ)は私自身だ!」というような傲慢です。

要するに、第五戒をよく理解するためには、天主ご自身こそがあらゆる命の(唯一の)持ち主であることを知るがよいでしょう。
これは、ほかの十戒を理解するためにも大事なことです。つまり、天主は勝手に理由や、根拠なくして、掟や禁止令を出すようなことはありません。

つまり、いわゆる純粋な道徳主義でもなければ、純粋な意志主義でもありません。また律法至上主義でもありません。カトリックの道徳は教義を基盤にして、また本物の意味での哲学【人間の本性を現実に沿って明らかにする理性の働き】を基盤にしています。カトリックの道徳は道理に従っています。つまり、人間の行動は、ことに恩寵によって完全化された人間としてのキリスト教徒の行為は、理性に従っています。要するに、知っているから、物事をわかっているから、理解しているからこそ、カトリック信徒が理性的な行動をとっているのです。

このようなことは、十戒に至って当てはまります。もちろん、十戒の内に理解しづらいこともあるし、ぱっとみたら不明に見えている部分もあるでしょう。しかしながら、善き天主は何かの掟を命じる時に「命じたから従え」ということに尽きるわけではありません。つまりこのような好き勝手な命令だったら暗に「違う掟を命じたかもしれない」というようなことになりますが、そんなことはありません。たとえば、このような理屈によると、「なんじ、殺すなかれ。」という掟が、天主が違う気になったとしたら、「なんじ、殺してよかろう」と命じた可能性があるということになります。それはありませんよ。完全に違います。どうあったとしても、「なんじ、殺すなかれ。」という掟になっています。殺すのはいつでもどこでも悪いことだということです。変わりうる掟ではありません。

なぜでしょうか。殺すという行為は自分自身を命のあるじにするという行為であって、即ち、天主の代わりに自分自身を置くという行為なので、いつでもどこでも悪い行為ということになるのです。以上のようなことを理解すると、第五戒に関する説明もより明らかになるでしょう。

殺人行為が禁止されている理由も明らかになります。殺人行為とは何でしょうか?殺人行為の定義を厳密に示しましょう。言葉には大事な意味なありますので、注意しましょう。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。繰り返します。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。

一つ一つの言葉は重いです。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」これは大犯罪です。

皆、よく知っている堕胎は、まさにこの殺人行為であり、堕胎は大犯罪なのです。なぜでしょうか?堕胎は不正な殺人だからです。また堕胎は意識的に行う殺人だからです。また、無罪の人(この場合、赤ちゃん)に対する殺人だからです。ぴったりと定義に当てはまるのです。同じように、「安楽死」も大犯罪なのです。不正な殺人である上、意識的に行う殺人であり、無罪の人に対する殺人となります。



安楽死を支持する論調としてよく聞かれているのは「病者は苦しんでいるあまりに病者自身が苦しまないように何とかしてくれと言っている」から、つまり「とどめを刺してほしい」ということを要求する病者がいるという主張があります。しかしながら、死にかけている状態をそのままにほったらかして死んでいくことと、積極的にとどめを刺すこととはかなり違う行為なのです。

つまり、死をもたらす行為を犯す人、あるいは、死の時を早める行為を犯す人は、天主に対する罪を犯すことになります。なぜでしょうか?前述したように第一に、病者であろうとも、自分自身を殺すことを決めることは「自分自身の生命のあるじが自分自身である」と宣言するような行為だからです。「しかしながら、苦しみに耐えられない場合なら許されないのか?」と言われるかもしれません。いや、むしろ、このようなことをいうのはカトリック信仰を否定するようなことです。というのも、十字架上に私たちの主、イエズス・キリストがなぜ苦しみを受けられたでしょうか?なぜ、苦しみと悔い改めを私たちに示されたのでしょうか?なぜでしょうか?苦しみは私たちの罪の償いであるからです。

ですから、苦しみと悔い改めを拒絶するカトリック信徒は間接的に、私たちの主、イエズス・キリストの十字架を拒絶することを意味します。そして、このようにして、罪の贖罪を拒絶することにもなります。あるいは、罪の贖罪を可能にしている苦しみを拒絶することにもなります。これは、苦しみを拒絶する信徒はイエズス・キリストに倣うことを拒絶するということを意味します。もちろん、言うのは簡単ですし、実際に困難な状況に遭う時、実践するのは難しいです。

しかしながら、実践することが難しいということを正当化するような社会はキリスト教を否定しているのであり、その邪悪さと責任は重いです。【つまり、苦しみを受けるべきだと言ってくれる社会でなくなったとき、もはや苦しみを素直に受け入れることが困難となり、結果としては、救済を危うくすることになってしまうのであり、これはむしろひどい話です】。

これは、いかに社会のなかで生きていくことが必要であるかということもよりよく理解されることになると思います。つまり、家族に見捨てられて病院で一人ぼっちになって孤独となった人よりも、温かい家庭の中で苦しんでいる人の方が与えられた苦しみを受け入れやすいのは理解しやすいでしょう。つまり、何も人間的な要素が残されていない「病院」に見捨てられて孤独となった人が、苦しみを受け入れることは温かい家族のなかにいる人よりも至難の業となります。

しかしながら、だからといって、これをもって安楽死を正当化するよう話にはなりません。その問題を解決することになりません。その逆です。このような場合が生じる原因は社会が堕落して、悪くなったからです。つまり、本来、言うべき真理を言わなくなった弊害は限りなく大きいのです。ですから、これを解決するためには社会の悪い傾向に抵抗すべきであって、状況を悪化させるような安楽死を支持できるわけがありません。

以上、殺人行為の幾つかの事例を取り上げました。
次に、第五戒における殺人行為の定義をよく理解した時、第五戒には例外も含まれていることがわかってきます。つまり、例外的に「殺してもよい」場合があるということです。現代フランスではデリケートな課題になって、おそらく腹を立てる人もいるでしょうけど、「死刑」という例外があります。

「でも、死刑は人権に反するだろう」という人がいます。しかしながら、問題は人権ではありません。関係ありません。天主の権利こそが問題になっているのです。人権より前に天主の権利がきます。これを理解することは大事です。

では、「死刑」とは何でしょうか?第一に死刑とは人の社会上の処刑なのです。それを忘れてはなりません。人間は社会あっての動物なのです。確かに、現代にはやっている近代的な個人主義や「一人の人が全体である」と決めつけて、「個人としてのためにだけ社会が存在するに過ぎない」というようなある種の人格主義のせいで、「死刑」に関するまともな話はもはや理解されなくなっています。

しかしながら、人々は必ず社会の一員なのです。つまり、ある全体の一部なのです。そして、全体の存命を脅かすほどに社会の一部が堕落したら、この一部を社会から除かざるを得ない場合が生じます。つまり、残りの社会を毒しないために、堕落した一部を「隔離」すべきなのです。具体的にいうと、社会から悪い一部分を切り離すというやり方にはいろいろありますが、深刻な堕落の場合、死刑に処することが正当化されることもあります。

死刑を理解するために人の身体の一部にたとえてみましょう。糖尿病の患者がいるとしましょう。その患者は足に傷口があるとしましょう。そしてその傷口は壊疽(えそ)にかかり始ったとしましょう。糖尿病の患者に聞いてみたらすぐわかりますが、残念ながらやむを得ない判断が必要となってきます。壊疽が体全体に拡大してきて、患者の死亡につながることを待つよりも、患者は自壊疽にかかる足一本の切断を間違いなく決定するのです。なぜでしょうか?一部を切断することによって、全体を救えるからです。このように一部分よりも全体の方が大事なのです。つまり、足を守って死ぬよりも、足を捨ててでも生き残る方がよいに決まっています。当然といったら当然でしょうが。

このように社会においてもこのようなことがあるということを理解することは必要です社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合には死刑が正当化されることもあるのです。当然、社会という全体を深刻に脅かすというには一定の条件がありますので、軽々に死刑の判決を出すことは当然ながら認められませんし、また、フランスの歴史を見ても容易に処された刑罰でもありません。ですから、社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合は死刑が正当化されることもあるのです。「人権に反する」あるいは「不正だ」と反駁される人もでてくるかもしれません。

しかしながら、昔のフランス、非常にキリスト教的な社会だったフランスにおいては実際に死刑についてどうしていたでしょうか?多くもなかった死刑の判決の受刑者の元に、必ず神父を送り込んでいました。つまり、受刑者の回心を助けるために神父の訪問がありました。そして、実際に歴史を見ると素晴らしい回心の事例は数え切れないほどに確認できます。記念すべき数多くの死刑受刑者の回心があります。禁固によって得られた回心です。あえていえば、死刑によって得られた回心です。

なぜでしょうか?「死」の前にいる人は自分の運命を考えざるを得なくなるからです。また、死は永遠を想起して、考えるきっかけとなるからです。そして、死刑の判決が渡された信徒、その天主よりの恩寵を受け入れて回心してゆき、自分の死を受け入れて善き死を遂げる死刑受刑者は歴史上に多いのです。歴史を見るのがよいです。回心してゆく死刑の受刑者は自分の死を受け入れるべきだということを理解していたし、立派に死んでいったのです。このように、正当なる「死刑」は「殺人行為」の一つの例外なのです。

次は、正当な戦争という例外もあります。正当な戦争が成り立つためには、不正な侵略者が存在するという前提があります。具体的には、自分の保全を守るべきある国が不正に侵略されたら、侵略した国に対して戦争をすることは正当な行為です。現代では、(経済を中心に)国境がなくなりつつある中で、「ヒト・モノ・カネ」の国際移動も増えた結果、正当な戦争という概念は理解しづらいことであるかもしれません。しかしながら、正しい戦争はやはり正当なのです。

例えば、父は正体不明の人を家にだれでも入れることはそもそもしないように父は子供を守るべきであることと同じようなことが国あるいは祖国においても同じようなことがいえます。これはまさに正当な戦争なのです。つまり、外国から来た侵略者、明らかに弊害をもたらしに来る侵略者を何もせずに侵略されて元首がそのままほったらかすわけにはいかないようなことです。このような場合に限っては正当防衛のようなこととして、正しい戦争となります。

そして、正当防衛は第五戒の例外となります。つまり、自分の命を奪おうとしている襲い掛かる人を被害者が殺した場合、殺人行為となりません。なぜでしょうか。愛徳の義務には順番があって、第一に自分自身に対する愛徳の義務があるからです。いわゆる正当防衛なのです。自分の生命を奪おうとする不正の攻撃に対する正当防衛なのです。以上、殺人行為の例外を紹介しました。

つぎに、殺人行為の一環として自殺があります。ラテン語では「sui・occidere」で「自分を殺す」という意味です。自殺は禁じられています。なぜでしょうか。自殺する人は自分自身の命のあるじであるかのようにふるまって、天主よりの私たちの生命への「Dominion(支配権・家長権)」を否定する行為だからです。

「苦しんでいる人もいるからそれはひどくない?」と言われるかもしれません。しかしながら、苦しみを受け入れることを拒否することははっきり言って卑怯です。卑怯な行為です。自殺は卑怯な行為なのです。残念ながら、現代社会で蔓延しつつある自殺は我々の社会の霊的かつ文化的な堕落、また大悲哀の結果なのです。自殺がこのような堕落の結果であることは間違いなく自明でしょう。
加えて、自殺は根本的に人間の本性に反する、反自然的な行為なのです。

自然に皆、自分の命を守る本能をもっています。例えば、転倒した時、反射的に手を出して自分の身を体が勝手に守ろうとしています。だれでも自然に命を愛しています。考えないで、頭で否定しようとも、身体は反射的に自分を守ろうとしています。瀕死の人にあった人はすぐわかると思いますが、瀕死の人の身体はどうしても死に対して最期まで戦い続けるのです。頭があきらめたとしても。どうしても、(身体は)自分の生命を守ろうとします。ですから、自殺は、つまり自分の生命を奪うことは反自然的な行為なのです。

また、自殺は社会に反する行為でもあります。これはより理解しづらいかもしれません。人間は社会の一部であるがゆえに、一人の人は自分自身のためのではなく、社会全体のために行為しなければならない本性を持っています。そして、自殺する人は自分を社会から削るようなものであって、非常に非人間的な行為であって、自殺者はもはや社会による完成化を享受できなくなって政治的な存在としてはなくなります。
そして、自殺することは天主に反する行為でもあります。

公教会は自殺に対して非常に厳しいです。自殺者の埋葬を禁止するほどです。もちろん、ここに言う自殺者は認識しながら自殺した者を指します。例えば、精神薬のような重い薬を飲んだ挙句に、何をやっていることでさえ自分が分からなくなって、認識も意図することもなく自殺してしまった場合、埋葬禁止にはもちろんなりません。

しかしながら、何をやっているかを知っているうえに自殺を犯した者に対しては、公教会は埋葬を禁止しています。同じように、深刻な理由がない限り、自分の命を軽々しく危険に晒してはいけません。いわゆる、自分の命を危険にさらすことは、死ぬことにはならないとしても、深刻な罪となります。これらは大罪なのです。

また、身体の保全を壊すような行為も大罪となります。たとえば、自分自身の体を楽しみに苦しめることは禁じられています。まあ、自分を苦しめて快楽を覚えることはそもそもないでしょうけど、いわゆる例えば、勝手にどうなるかを知るために自分の腕を傷つけたりするような行為はだめです。天主に対する罪でもあります。

以上、殺人行為に関する説明でした。注意しましょう。第五戒の殺人行為はほかの罪とも関係しています。というのも殺人行為自体はそれほど日常な犯罪でもないと言われるかもしれません。しかしながら、第五戒には殺人行為に導く行為も含まれています。憎悪感、復讐の欲望、怒り、不和などなどという罪は第五戒にも含まれています。当然ながら、殺人行為とは深刻度が違うのですが、これらの罪は定着してくると、殺人行為につながることもあるということです。
第五戒は「生命を奪わないこと」を要求しています。繰り返しますが、その理由は「天主は命のあるじである」からです。

善き天主は、被造物を通じて、私たちに多くの善を与えることになさいました 「第四戒」

2020年10月26日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百講 第四戒について



前回まで一枚目の石板の戒を見てきました。つまり、第一と第二と第三の戒のことです。これらは、天主に関する戒であって、天主に対する義務を記す三つの掟です。今回から、二枚目の石板に刻まれた戒を見ていきましょう。第四から第十までの戒です。隣人と自分自身に対する義務に関する掟です。
天主への義務に続いて隣人への義務を見ていきましょう。
最初に第四の戒から紹介しましょう。一番一般的な題目は次のようになっています。

第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。

私たちは天主よりすべてを賜ることは言うまでもありません。存在も生命も天主より賜っています。しかしながら、善き天主はこれらの多くの善を私たちに与えるために二次的な原因を使うことになさいました。言いかえると、善き天主は創造し給た被創造物を通じて、生命を与えたり、恩恵を与えたり、存在し続けられるように、また我々が統治できるように、善い物事を与えたりすることになさいました。

これらを踏まえたうえで、私たちの創造主に対する義務の次に、私たちの創造に協力してくれた人々に対する義務を見ていきましょう。私たちに生命を与えるために、創造主の道具となった人々、創造主の御業に協力した親・先祖に対する義務です。
実は、第四戒は我々の親のみを対象とするのではなく、その範囲はより広いです。

第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。

といいますが父母という表現は親を指すだけではなくて、私たちの命を成り立たせるすべての人々も含まれています。
要するに、第四戒の「父母」には次の人々が含まれています。まず、自分の父母、即ち親があります。つまり、生命を頂いた親と先祖です。

それから、生物的な側面からの生命ではありませんが、、知識や秩序という側面からの生命を与えてくれる師匠・先生・上司などの人々も含まれています。
それから、国家も含まれています。国家は社会的側面からの生命と政治的側面からの生命を与えてくれる存在として、私たちの完成化を助けてくれます。
それから、宗教上の長上も含まれています。霊的な生命、聖なる生命、内面的な生命を与えてくれる宗教的側面からの長上たちも含まれています。

ですから、この第四戒はかなり広い範囲に及びます。要約すると、第四戒の内に次の義務が規定されています。
■親と先祖に対する義務。
■世俗界のもろもろの(広義の意味での)上司に対する義務。
■そして、霊的な長上に対する義務。

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このようにして、第四戒の「父」とは私たちに対して権威を持つすべての人々が含まれています。では下の者から上の者への義務とは何ですか?
一般的にいうと、これに属する義務は「孝行」という徳の一環となります。



孝行というのは、社会的な政治的な存在である人間であるがゆえに、下の人が上の人に返すべき恩を返すことを意味する徳なのです。
では、第一に、親に対する子供の義務とは何でしょうか?親に対する子供の第一の義務とは親を愛することです。当然といえば当然ですが、そもそも生まれてきたのも愛による行為の結果であり、また親しく世話もされたことに対する恩返しということで、親を深く誠実に愛すべきです。
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ですから、親への愛を拒絶するような行為は罪となります。例えば、親に対して悪意をもった行為、あるいは親に対して怒りの念を抱く時、最悪の場合、憎しみの念を抱くのは罪となります。また、例えば、親の弱点と欠点を他人に明かしたり、あるいは人前で親を誹謗したりすることは罪となります。誹謗するというのは、嘘あるいは誤っていることをあえて誰かについていうということです。また、親に何か悪いことが起きるように望むようなものも罪です。まとめると、親に対する子供の第一の義務は親を愛するということです。

第二の義務は親を敬うことです。言いかえると、親を尊敬して、また親を崇敬するということです。
具体的にいうと、このような崇敬は親に話す時の口調における丁寧さを通じて表されています。つまり、親に話す時、友達に話す時と違うわけです。つまり砕けた口調あるいは不作法に厚かましく親に話すのではありません。言葉は内面的な態度と意図を外に表すものとして、親に話す時、出来る限り丁寧に敬意をこめて話すべきです。

このように、外面的に親に返すべき恩を表さなかったら孝行に背くことになります。例えば、極端な例ですが、親を打つとかは孝行にもとるのです。荒っぽくあるいは侮蔑的に親に話すことは孝行に背く行為です。砕けた口調で親に話すことでさえ、親に払うべき尊敬に背く行為です。そういえば、尊敬という義務は愛という義務から来ます。誰かを愛している時、必ず敬うようになるからです。



そして、愛と尊敬に加えたさらにもうひとつの義務は従順です。当然といえば当然ですが、子供は親に従うべきです。従順という徳は何ですか?親は子供が善へ歩むように子供の意志に命じる時、自分の善のために子供が積極的に従うことを意味します。つまり、従順には、まず権威からの命令という行為があります。ここでは親から子供への命令ですね。このように命じるという行為は子供の意志を対象にしています。そして、子供の場合、善悪の区別もまだよく把握していないし経験も少なく、具体的に何をすべきか決められないことが多いので、親は子供に命じざるを得ません。

ここでの「命じる」というのは善い意味での命令です。いわゆる、秩序づける命令、善に向かわせるとしての意味の命令です。ですから、親は子供に命じます。そして、親は子供に命じることによって、子供を善へ動かすのです。そして、当たり前ですが、子供はそれに従う義務があります。要するに、子供の従順というのは、親からの正当なる誠実なる命令に従うということです。

そして、親に対する子供の義務はもう一つあります。親への援助の義務です。言いかえると、子供は親のために必要となる身体上と霊魂上の援助を施すべきです。

当然ながら、親は子供に生命を与えました。また住食衣を子供に与えます。また教育をも与えます。これらの多くの恩を頂いた分、子供は恩返しすることですね。つまり、親は年を取って、病気になる時、晩年になって死後の裁き、臨終が迫っている時、子供は親を援助する義務があります。必要に応じて物質的な援助はもちろんのことです。病気あるいは事故などがあったら、子供は親への援助義務があります。それには、精神上の援助も含まれています。霊的な援助のことです。親は死に近づく時、子供はできる限りあらゆる手段を尽くして、親が臨終に近づいてよく備われるように援助すべきです。いわゆる敬虔の内に、聖の内に臨終を迎えるための準備。具体的には勇気をもって親に臨終のことを話したり、告解と聖体拝領に与れるように神父様を呼んだりするのがよいでしょう。
以上は親に対する子供の義務でした。

つづいて、親に対する子供の義務をなぞった、同じく生徒対先生、臣下対君主(市民対正当なる権威者)、そしてカトリック信徒対教会の正当なる権威者。ここでの「正当」というのは、「善に導く限りにおいての権威者」という意味です。

このようにして、生徒は先生に対して従順になること。フランス語では「Docilité」といって、ラテン語の「教わる」という意味ですが、これはよく教えられる状態に自発的に心境を整えるという意味があります。また先生には親しみをもって接するべきです。先生を愛するときこそ、教えられる側の生徒がよく学び得るという現象は興味深いです。そして、先生に対して感謝するという義務もあります。先生といった時、師匠、上司、上の権威者なども含まれています。教わったことによって承った多くの知識と賜物への感謝の表明。あるいは上司から鍛えられた徳に対する賜物への感謝の表明。



感謝することは最近では忘れがちであるかもしれませんが、必要であり、義務です。

次には大きくいって「国家」に対して以上の義務を類推して適用することができます。感謝することも必要です。正当なる権威者に対しての義務ですが、残念ながらも、現代ではこのような正当なる権威者はめちゃくちゃです。具体的な例を挙げませんが、本来ならば、政治上の権威者は、例えば元首が共通善のために働くべきですが、現代、共通善のためにあまり働かないのですから、服従の徳、あるいは「忠」を果たすのも難しくなります。

また以上と同じように、正当なる聖職者には信徒は従うべきです。ここでの正当は今回、政治上の共通善に沿う権威者というのではなく、信仰に沿っての聖職者を言います。つまり、信仰を教えて伝えて、また秘跡を預ける聖職者に対して信徒はこれらの霊的な次元において正当なる権威者として従うべきです。秘跡とは霊魂の救いのために与えられた手段であり、必要な手段です。

駆け足で紹介しましたが、親に対するほかの義務もこのようにしてそれぞれの場合(国家、教会など)に援用できます。たとえば、忠と孝のような区別を細かくできることができますし、それぞれの場合、徳の名前などはちょっと違ったりしますが、大きく言ってその基礎、その根本は共通しています。まとめると、子供、市民、カトリック信徒としての上の者への従順の義務。社会と教会において下の者としての立場のゆえに生じる義務です。

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さて、第四戒について一つ大事なことを指摘しておきましょう。前述したように、第四戒の中心は「上」の者に対する「下」の者の義務なのです。つまり下の者は上の者に対してどうすべきかを規定する掟です。

しかしながら、第四戒にはもう一つの大事な側面があります。この側面は現代で忘れがちですから強調しておきましょう。実は現代ではこの側面を無視することが殆どです。現代人は本来の政治的な感覚を失ったからでしょう。政治的な感覚という時、本来の政治の意味で使っていますので、家、社会、教会ににわたり妥当します。



「下」の者は「上」の者に従うべきだというのは簡単ですが、大事なことを忘れないでおきましょう。つまり、従うことというのは二人の間の関係を前提にしているということです。つまり、「従順」あるいは「服従」の義務があるという時、暗に上下の間に一定の関係性が想定されているのです。それはある命令に従うために共通善に沿う命令が想定されているということであり、つまり、下の者が上の者に従うべきだという前提には、まず、必ず、上の者が共通善に従っているという前提があるのです。順番でいうと、下の者は上の者に従う義務以前に、まず、上の者は共通善に従う義務があるということです。この前提を忘れてはいけません。

ですから、第四戒は下の者(子供、臣下、生徒、信徒)に対する上の者、即ち権威者たち(父、君主、師匠、神父などなど)の義務をも含まれています。この中に、部下に対する上司の義務もあるし、つまり、指揮を執っている人々の義務も含まれています。もちろん、司教と教皇との義務も含まれています。

このようにして、上下関係は関係なのですから、あえていえば、相手は尊敬に値する時にこそ、本当の意味で相手を尊敬することはできるという前提があります。つまり、だれかを客観的に尊敬するためには(これはいわゆる気持ちとしての主観的な尊敬ではなく)、その人が客観的に尊敬に値する必要があるということです。つまり具体的な物事があって、尊敬に値するから実際に相手を尊敬するということです。つまり、権威者が形式的に任命されて権威がある場合では、まだ十分ではなくて、完全な尊敬の対象になれません。いや、正当な権威を善く振るってこそ初めて、より高度な尊敬の対象になれます。

ですから、下の者として、上の者は上の者だから、つまり権威があるから、下の者が機械的に跪いて崇敬することはだめです。上の者はは、善く権威を振るうべきです。つまり何もしない、あるいは共通善にために権威を使っていない権威者は尊敬に値しません。

ですから、上の者は重い責任のゆえ、重い義務を負います。上の者に対する下の者の義務よりも、下の者に対する上の者の義務はより重く重大です。つまり、上に立つ人々は下に立つ人々に「命じたから従え。理由を聞くな。私が上の者だから黙れ。私が好き勝手に決めたから従え」というような態度はだめです。全くその逆です。共通善のためにだけ、共通善にそってだけ、命じることは許されています。つまり、共通善に従ってだけ、命令が正当となります。

このように上下関係を考えると、現代は困難な時代であることを感じてもらえるかと思います。現代は政治上の上下関係だけではなく、あらゆる社会上の関係において、ある種の全体主義的な、ある種の独裁主義的な、ある種の権威主義、ある種の人格主義的な空気になっています。つまり、上の者は共通善を下の者に課するよりも、「自分自身」の人格を下の者に押し付けるような時代になっています。いわゆる「私が言ったから、不正であっても従え」そして「従わなかったら強制的に押し付けるぞ」というような時代になっています。

そして、上の者は下の者が従わない場合、本来ならば悲しむのですが、なぜか悲しむかというと、共通善に反するからです。しかしながら、現代の空気では、上の者は下の者が従わないと上の者が怒るが、共通善が傷つくからではなく、自分自身に対する侮辱であるとか思うからです。これはまさに、共通善が殆どの場合、忘れられているという意味です。

たとえば、親は子供を愛する義務があります。そして、子供は愛の行為から生まれますが、そのあとでも生きている間に、ずっと親からの愛情の対象であるべきです。これは自然だと言ったら自然です。母はどうしても産んだ子を愛して、最後まで産んだ子を愛し続けるように、人間の本性に織り込まれた自然な愛情だと言えます。しかしながら、それは単なる自然な愛情だけではなく、実践的な愛にならなければなりません。
実践的な愛というのは、例えば親の場合、教育の実践において現れます。真にそっての教育、善にそっての教育、美に沿っての教育。いわゆる真善美を嗜むように育っていくこと。また学問を通じた、知性の教育、意志の教育、いわゆる徳を実践するための教育ですね。

ですから、親の立場は子供の教育のために、教師と学校を選ぶときには非常に慎重に子供を想い、任せる必要があります。親が教育の責任を負っていますから。つまり、深い考えもなく、自分の子供を悪い先生あるいは邪悪な先生に任せたら深刻な罪を犯します。

現代の殆どの学校は残念ながら、悪いことを子供に教え込むのですから気を付けましょう。特に最近、学校に登場した「性的な教育」を見ると明瞭でしょう。これは文字通りにスキャンダルなのです。不祥事なのです。厳密にいうとスキャンダルは「他人を罪に落とさせる行為」だから、まさに「性的な教育」はスキャンダルです。

また親のもう一つの大事な義務があります。子供を罰する義務があります。この義務は現代で否定されがちです。いわゆる「児童の権利」とかを取り上げて、罰してはいけないという空気になります。しかしながら、善悪をよく分別していない子供の「権利」とはどういうことでしょうか?つまり、子供は自分で本当の意味で基本的に選べないから、子供にとっての「選択の自由」は意味をなさないでしょう。



そこで親は子供に対して罰する義務があるということになります。どういう意味でしょうか?そもそも「罰する」という言葉はフランス語で「糺す」ということでもあって、また「直す」という意味があります。まさに罰するということは、誤った行為を糺すために、つまりより良い子になるように子供を助けるということです。つまり、徳を身につけるために子供を罰するのです。徳というのは善の内に常に行為していく習慣を身につけるということです。ですから、「罰する」ことは大事で、親の義務です。

また前述したとおりに、子供の義務になぞらえて、部下・生徒・信徒・臣下などの義務も考えられます。同じように、子供に対する親の義務も、上司・教師・神父・君主の義務になぞらえます。例えば、先生は生徒を愛すべきです。そして、先生は真善美を教える義務もあります。また、生徒の誤りを正す義務があります。同じように、社会における社長、元首なども下の者を善へ導く義務があります。

そして、同じくして、教会の指導者たちも同じような義務があります。つまり、司教たちと教皇は信徒たちを善へ導く義務があります。
「私の羊を牧せよ」「私の子羊を牧せよ」 という聖書の句があります。私たちの主、イエズス・キリストは聖ペトロに「私の羊を牧せよ」「私の子羊を牧せよ」と仰せになりました。

それは文字通り、羊と子羊を牧場につれていって、おいしい草が食べられるようにしてくださいという命令ですね。それになぞらえて、牧者たちの信徒に対する義務はよくわかるでしょう。ですから、牧者が不誠実になる時、指導者たちがその使命に不誠実になるとき、信徒も部下も不正な命令に従わなくてもよいのです。この場合、従う義務はありません。

なぜかというと、このような場合に限っては、元首あるいは牧者は、その使命から外れて、その範囲外に動くことになりますので、牧者あるいは元首の権威を振るえないのです。つまり、牧者はその使命に従わないで命令するとき、牧者として行動しないので、従わなくてもよいのです。つまり、このような場合は、その地位の分を越えて、ある種の権威主義になるというか、権威を濫用した、まさにいわゆる横暴あるいは僭主政治なのです。

以上から、どれほど下の者の義務は上の者の義務と密接につながっているかがわかるでしょう。その逆ではありません。ですから、現代では上の者は下の者を強いる前に、自分自身を顧みて反省するのがよいはずなのですが。

以上第四戒をご紹介しました。この誡は幅広い誡なのですから、すべてを紹介できなかったですが、多くの義務が含まれています。
下の者の義務もあれば上の者の義務もあります。まあ、下の者の義務のみを見がちですが、これはいわゆる歴史に照らして上の者の義務よりも下の者の義務を取りざたすることが多いからでしょう。しかしながら、同時に上の者も下の者に対する義務もあることを忘れてはいけません。

日曜日はミサに与る義務がありますが、ただ与るだけではありません_第三戒

2020年10月16日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十九講 第三戒について



第一と第二の戒めに続いて、第三の戒めについてみていきましょう。

第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。

天主を奉仕するよう、この戒めは命じます。第一と第二の誡めでは、天主を知るよう、それから、天主を愛するよう、天主を畏怖するよう、という掟でした。そして、この第三の掟は、行為をもって実際に天主を奉仕しなければならないというものことです。つまり、内面的に天主を讃えるだけでは足りないということでありのです。前述したように、具体的な行動において、また習慣化した形で、つまり徳になって、天主への崇拝が実践されなければならないということ第三の掟です。

天主への崇拝を具体的に表すために、天主ご自身はどうすればよいか十戒においてお示しになり、そして、公教会はそれを踏襲しました。

第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。

この掟はそれほど単純ではないのです。なぜかというと、この掟の一部はが自然法に属しているものの、自然法に属していない部分もあるからです。言いかえると、この掟には自然法的な部分の他、制定法的な部分もあるということです。こういった二重性がは第三の戒の難しいところです。

第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。

旧約聖書の出エジプト記脱出の書出エジプト記において、天主は次のように仰せになりました。

「六日の間、働いて、自分の仕事をせよ。七日めは、天主なる主の、安息日である。どんな仕事もするな。おまえも、息子も、娘も、しもべも、はしためも、家畜も、家にいる他国人も同じことである。」

このように天主は命じました。この第三の戒には自然法に属する部分があります。つまり、人間なら皆、天主への崇拝を捧げるべきだということに関して、自然法の一つの掟です。そして、さらにその上、制定法に属する部分もあります。天主はが特定の日を制定するという意味において掟こととして、制定法であり、。追加法でもあるのです。厳密にいうと、自然法を明示する追加法といえます。
そして、旧約聖書にはよると、天主はこの特定の日を明示なさいました。「七日め」という日です。
「六日の間、働いて、自分の仕事をせよ。七日めは、天主なる主の、安息日である。」
あるいまたは、「六日の間は仕事をする日であるが、七日めは、主のために全てく休みとする日である。」



要するに、週の最初の六日はあえて言えば、人間のための日だと言えます。そして、最後の日、七日めの日は天主のための日であるということです。聖なる七日めだからです。本当に「聖なる」日なのです。天主ご自身が「聖なる日」だと仰せになったからです。また、天主は安息日を祝福し給うたのです。つまりこのように、天主は週の七日めを天主への礼拝のために特別に割り当てられた一日なのです。旧約聖書では、ヘブライ語民では、「サバト」と呼ばれており、それは安息日という意味です。休む日を意味する「サバト」です。
~~
では、天主はなぜ安息日を制定したのでしょうか?

まず、天主を礼拝することは必須要不可欠だからです。人間の一つの義務です。そして、当然ながら、毎日のように人々が働いているのなら、いずれすぐ、その挙句のはてに天主への礼拝を捧げることを忘れて、礼拝を怠る羽目に必ず陥ることになります。現代社会を見るとこの現象は著しいです。そして、天主を礼拝しなくなると、人間の霊魂は堕落していきます。残念ながら、現代において、これも深刻に確認できる現象なのです。

第二の理由は、天主はこの上なく善い天主だからです。つまり、天主は自然をお創りになって、自然の巡りを決定なさったので、自然の巡りにそって安息日を制定されしました。つまり、我々の身体を休むませる必要があると同じように、我々の霊魂をも休ませるむ必要があるので、善き天主は霊魂の休みのため、安息日を制定なさいました。

第三の理由は、安息日を活かすことによりして、我々は天主のことを深く勉強するように天主がお望みになられたからでした。要するに、我々は、善き天主からの恵みをどれほど頂いているかを、定期的に改めて認識し、天主への報恩の念を深めるために安息日は与えられたのでもあります。

旧約聖書の時代、ヘブライの民はエジプトからの脱出を成就なさった天主の多くの恵みを黙想していましたが、それは安息日があればこそでした。天主を讃えるため、天主からの多くの恵みと恩恵を思い出すための日でもあります。

新法では、新約では、つまり、新約聖書では、天主への崇拝の義務の実態は変わりませんが、安息日はもはや土曜日ではなく、日曜日となりました。日曜日は週のはじめの日となります。旧法では安息日は週の最後の日でしたが、新約聖書によって週のはじめの日となりました。つまり、安息日の日にちが変えられました。

なぜでしょうか?思い出しましょう。サバトという安息日は天主の制定法によって命じられたのです。というのは、制定法、あるいは実定法なのですから、追加法という性格を持っていますので、自然法ではないということです。従って、制定法であるがゆえに、その制定法を改定する権限、権威をもった者によって、改定可能の掟となっているのです。

そして、実際には、使徒たちは安息日の日程を改定しました。なぜできたかというと、使徒たちは天主より与えられた権限があったからです。その権限を使って改定しました。使徒行録には次のとおりに記されています。

「週のはじめの日、私たちはパンを裂くために集まった。翌日出発するはずだったパウロは、彼らと語り合い夜半まで語り続けた。」
そして、使徒たちは安息日の日にちを変えました。なぜでしょうか?法自体が変わったからです。つまり、旧法でなくなり、新法の時代になりました。もはや旧約はなくなり、新約が結ばれました。そして、新法において、旧法に比べて特に何が変わったでしょうか?

私たちの主、イエズス・キリストはこの世にいらっしゃって、人類の贖罪を全うなさったのです。ですから、十字架上の私たちの主の生贄を境に、決定的にいろいろ変わりました。そして、旧法と違って、聖なる日はもはや週の最後の日、創造した後の休みの日、七日めの日ではなくなりました。新法では、安息日は週のはじめの日であり、創造の最初の日であります。要するに、ご復活に合わせて私たちの主が私たちを再創造したもうた日が聖なる日となりました。



このように理解しましょう。
公教会は週のはじめの日を聖なる日にすることによって、まず、万物の創造主と万物の維持者(保全者)として、全能なる御父なる天主を讃えるのです。また、ご復活をもって悪魔と罪への隷属から我々を解放し給うた我々の救い主として、天主の御一人子、イエズス・キリストを讃えるのです。

私たちの主は日曜日に蘇りました。それから、公教会は週のはじめの日を主の日にすることによって、我々の霊魂において成された新しい創造、つまり、恩寵において創り直された霊魂を産みたもう聖霊をも讃えるのです。そういえば、神父がミサを捧げる際、ミサの奉献文の一つの祈祷にはこの新創造が「最初の創造よりもいとも素晴らしい」と唱えます。聖霊によって、罪という「無」から引っ張り出された霊魂たちは、聖霊降臨の際、新しい生命の息吹を賜り給いました。そして聖霊降臨も日曜日にあった出来事です。

ですから、使徒たちは新しい主の日を週のはじめの日にすることを決定しました。サバトと違って週の最後の日ではなく、週のはじめの日です。強調しますが、現代人はつい、日曜日は週の最後の日だと思いがちですが、週のはじめの日であることを忘れてはなりません。とはいえ、使徒が形式的に決定したものの、イエズス・キリストご自身がはそうするようにすべてを明示なさいました。復活という出来事も、聖霊降臨と出来事も日曜日に行われたのですし、そして御父なる天主を讃えることによってもお示しになりました。

ですから、週のはじめの日を聖なる日にする根拠は非常に強くて重いのです。繰り返しますが、週の最後の日である土曜日ではなく、週のはじめの日こそがは新しい聖なる日となりました。旧約聖書と違って、日曜日での礼拝のお陰によってこそ、明確に三位一体を讃えられるのです。日曜日という日は、創造という御業において、父なる天主を讃えて、復活によって我々にもたらされ齎した救いにおいて、子なる天主を讃えて、そして、人々の霊魂の再創造において、聖霊を讃えるのです。



繰り返しますが要するに、日曜日は週のはじめの日です。つまり、日曜日とはまさに、このお陰で、この新しい週のために新しい生命を流すように、週のはじめの日にあたる安息日ということになります。それはいわゆる、単なる「安息日」にとどまらずだけではなく、使徒の霊魂に聖霊が降臨したように、聖霊による新しい息吹をも毎週、私たちに降臨することとなるのです。
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第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。

以上の掟をみると、またかなり一般原則であるというか、まだそれほど明確なものとはいえ特定化されていません。

第三 なんじ、安息日(主の日)を聖とすべきことをおぼゆべし。

前述したように、主の日は日曜日です。つぎは、日曜日には具体的に何をすべきでしょうか?
言いかえると、「主の日を聖とすべきこと」とは一体何を意味しているのでしょうか?

これについても公教会はその中身を明示しました。旧約聖書にある掟などを踏襲しました。つまり「仕事をするな」という掟を踏襲した上に、追加である掟を制定しました。これは「ミサに与ること」という掟です。

つまり、日曜日を聖とするために、二点があるということでります。ひとつはいわゆる主に肉体労働をしないことです。もうひとつはそれから、ミサに与ることです。肉体労働あるいは現代風にいうと金儲けするための仕事をしてはいけないこと。これは旧約聖書から引き継がれました。

思い出しましょう。旧約聖書には、ある人はサバトの日に、家の炉のために薪を拾いに行ってきたという話があります。そして、以上の事件をモーゼに報告されて、どう対応すべきかをモーゼに尋ねられています。そして、モーセは天主にどうすべきかをお伺いした聞いた結果、天主から峻烈な答えを頂きました。「投石に処せよ」と天主が仰せになりました。そして、犯罪者は投石の死刑に処されました。このようにわかるように、天主を軽んじて馬鹿にしてはいけません。

そういえば、ラ・サレットで聖母がご出現された際、日曜日に対する尊重の重大性を改めて想起されて、その重要性について特にいろいろ仰せになりました。

現代、日曜日に対する一般となってきた侮辱を見て、どれほど現代社会が堕落しているか、また、「日曜日に労働するように勧められている政策」を行う我々の指導者と為政者をみると、かれらの責任はどれほど重いか、どれほど天主のみ前にその責任が大きいかがわかるでしょう。
このような責任はいずれ問われることになります。個人としてだけではなく、指導する社会としても人前で裁かれる時がいずれきます。日曜日に労働を許可して勧めることによって、人々は罪を犯す機会が増えてしまうので、彼らの責任はその分、より重いのです。
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日曜日には「肉体労働をしてはならない」という掟があると言いました。では何を意味するでしょうか?それは、霊魂よりも身体の方が重んじられる仕事を日曜日にしてはいけないという意味です。厳密にいうと、「奴隷的な仕事」との意味の「肉体労働」とは「精神より身体の方が第一になる」というような仕事です。
つまり、一般的にいうと、霊魂の善よりも、身体の善のためにする仕事だということです。つまり、例えば、奉仕人がいれば、奉仕人にやってもらうような仕事です。または奴隷にやってもらうような、労働者にやってもらうような仕事なのです。

つまり、霊魂よりも身体のためにある仕事なのです。つまり、おもに知性によって行われる「無償」の働きではない「肉体労働」であり、または現代風にいうと、金儲けのための仕事です。

例えば、農業での野良仕事、あるいは企業に関係する作業、機械づくり、あるいは労働的な仕事などなどがあります。日曜日にはこのような仕事をやってはいけません。霊魂より身体が中心となる仕事だからです。というのも、日曜日は主の日であるから、我々の霊魂を聖化するための日なのです。また、司法にかかわる仕事も(裁判、判決執行、捜査などなど)日曜日には禁止されています。また、市場の開き、それから売買という仕事なども日曜日には禁止されています。以上は「肉体労働」という大枠に属するいくつかの仕事です。

当然ながら、公教会は我々の母なので、生活に必要不可欠な仕事は日曜日でも許されていまるのです。例えば、家族のために主婦が引き続き子供の世話をしたり、料理をしたりすることのは必要不可欠です。このような仕事は「肉体労働」として認められていないのです。また、例えば、移動する、あるいは狩りをする、あるいは漁するなどといった働きは許可されています。要するに、日常に必要不可欠となっている活動などは「肉体労働」としてみなされず成り立たなくて、日曜日にも許可されています。しかしながら、いわゆる「余分」の肉体労働は、必要不可欠の義務を越えた労働としては禁止されています。

それから、日曜日を聖にするために、ミサに与るように公教会は信徒に要求します。
つまり、日曜日に天主を礼拝するために、この上なく相応しい秘跡であるミサを荘厳に公教会は捧げて、キリスト教徒の参席を義務付けています。
ミサに与ることは義務なのです。そして精神上に与ることも義務です。



つまり、身体をもって参席する上に、霊魂を以て与るということです。つまり、実際に足を運んでミサに与ることは必要です。つまり、中継でも、家のソファに座っているまま、ミサを見ていることは十分ではありません。これだけでは、身体をもってミサに与ることにならないので、義務は果たされていません。

身体を以てミサに与るために、ミサが捧げられている場所にいるか、そのすぐ近くにいるかということが必要です。例えば、ある教会が満席になって、中に入れなくて、教会の門前でミサに与る場合は、大丈夫です。つまり、身体上にいうと秘跡からある程度の至近の短距離であれば大丈夫です。

それから、霊的にもミサに与るべきです。言いかえると、霊魂をもってミサに与るという意味です。また、ミサに与ろうとしている意志がなければなりません。つまり、例えば、ある人は教会にはいって座ってミサに与っても、ミサ中にずっと読書しているのなら、ミサに与る義務を果たされていないことになります。そしてそれは重い深い罪を犯すことになります。また、例えば、ミサはつまらないと思うから、ミサに集中するよりも何かの小説を読んだらだめです。その人は「ミサに与った」と思っても、形式に留まっており、霊魂をもって与らなかったから、義務を果たさなかったことになるのですります。

そして、ミサに与る義務を果たすためには、ミサへの参席は身体を以て、霊魂を以て、その上に、継続的に参席する必要があります。つまり、ミサの最初から最後まで与る必要があるという意味です。最初から最後までというのは具体的に何でしょうか?

狭義のミサ実態の構造は三部からなっています。奉献の部。聖変化の部。拝領の部。その中に一番大事なのは、聖変化と拝領であることはいうまでもありません。ですから、ミサに与るために、最低限、奉献の部と聖変化の部と拝領の部に与る必要があります。それは最低限の最低限です。
最低限なので、非常でもはないのに、もしも一人が最低限の要求にとどまって十分に義務を果たさないのなら、今度は、不敬という罪を犯すでしょう。

それは当然と言ったら当然ですが、天主への礼拝をぞんざいに片付けるようなことですので、すくなくとも不敬にあたりますね。天主に対する侮辱のようなもので、天主に対する罪です。宗教の徳に対する罪でもあり、天主への不敬を表す行為なのです。第一から第三の戒は天主への愛に関する掟なので、天主への礼拝をぞんざいに片付けるのは天主の愛徳に対する罪でもあります。当然といったら当然ですが。



それはともかく、奉献の部、聖変化、拝領の部のいずれにも与らない信徒は義務を破って、大罪を犯すことになります。このように不可能ではない限り、非常ではない限り、日曜日にミサに与ることは義務です。

ミサに与る義務は大事です。制定された掟として公教会は定めたのですから、分別がついた人々を対象にしています(一般的に、6-7歳以上)。そして、この義務は制定法の一種なので、つまり実定法の一種なので、その義務から免除されることはあり得ます。また、免除される事情があります。

繰り返しますが、忘れないでおきましょう。制定法、つまり実定法、言いかえると、追加法である限りにおいて、どうしてもいつでもどこでも適用されるのだということはありません。非常に重い支障がある場合、その義務から免除されます。例えば、病気で、あるいは不自由で、移動できない人。あるいは感染しやすいような病気の人は免除されます。あるいは、ミサ会場は遠いから、飛行機に乗らないとミサに与れないような人。このような場合は、身体上の差し支えがあるゆえに、ミサに与る義務から免除されています。当然ながら、この場合、出来ないから、無理してミサに与らなくてもいいですし、ミサに与らなくても、この場合、罪にならないのです。7歳以下の子供はミサに与る義務はありません。分別はまだないので義務の対象者外です。

また、愛徳の施しのためにミサに与らない場合、罪になりません。例えば、医者、看護士婦、消防士などが愛徳の施しを行う時、あるいは主婦が病気の子供を看病している時、ミサに与ることは免除されます。また、例えば、両親の高齢化で一人でいられなくなって、傍にいなければ身の危険がある場合でも義務から免除されています。



このようにしてみると、愛徳というのは一つしかないことが見えてくると思います。すでに説明したことですが、隣人への愛と天主への愛は一致しています。要するに、隣人への愛を実践する場合、ミサに与る義務から免除されることがあります。どうしても、このようにやむを得ないことがあって、日曜日にミサに与れない時に、その代わりに、できるだけ、何かの祈祷なり、崇拝なりを捧げることに超したことはありませんが、ミサに与る義務自体から免除されています。

それから、公教会はいくつかのことをお勧めしています。お勧めなので義務でも何でもありませんが、一応簡単に紹介します。つまり、日曜日は主の日だと言います。ですから、ミサ以外にも日曜日の用事・活動などは霊的であると何より善いことです。例えば、日曜日を機に、何か霊的な読書をするか、あるいは何か霊的なことを勉強するか、あるいは、何かの形で天主に自分の身をよりよく奉献するような活動。日曜日はそのためにあります。日曜日は主の日なのです。

残念ながら、現代では、殆どの場合、日曜日は人間への崇拝の日になりがちです。なんか、人々は休みの日だから、スポーツあるいはショッピングあるいはスターの出る番組(コンサート?)?になったりして嘆かわしいですね。スターにとんでもない金を払って、単なる身体上のショーを日曜日に挙げて嘆かわしいです。永遠の栄光は何もならないのに、嘆かわしいです。これは悲惨なことです。天主への畏怖と報恩の念を失わせた近代社会はかわいそうです。