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イエズスのみ名は全能_地獄は揺らぎ跪かざるを得ないほど恐れ多い

2020年10月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十八講 第二戒について



第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

これは、第一戒の帰結だと言えます。天主は礼拝されるべきです。そして、天主を愛するということは天主にかかわるすべてを愛することを意味します。ですから、天主のみ名を尊重することは自然で当たり前のことです。

一般的にいうと、名前というのは名前を持つその存在のことを言い、またその存在を想起させるものです。例えば、私たちは、自分の苗字と名前の意味を直感的に知っており、そして誰かが自分の名前を呼ぶときは、自分の心にどんな響きが跳ね返ってくるかを皆経験しているなど、名前はそれにすぎるものではないことを知っていますね。天主のみ名に関しても同じです。名前を尊重するのは、その名前を持つ存在を尊重することを意味します。当然といえば当然ですが、天主への礼拝の一環として、天主のみ名への崇拝があります。

み名にかかわる祝日は二つあります。公教会が制定した「いと聖なるイエズスのみ名の祝日」と「いと聖なるマリアのみ名の祝日」です。特に、イエズスのみ名ですが、イエズスのみ名が響きわたるだけで「全地獄は揺らぐうえに、膝をおらざるを得ないほど恐れ多い」と書かれているほどにイエズスのみ名は全能なのです。また、イエズスで呼ばれるキリストを尊敬すべきであるゆえに、その名前を尊敬すべきであるのです。



そして、第二戒は虚しいようなあるいはおとしめるような意図で天主のみ名を唱えることを禁じている戒です。
このように濫りに天主のみ名を扱うやり方はおもに四種類があります。厳密にいうと、み名だけではなく、み名とその名誉に対する不適切な扱いをも含んでいます。

第一、天主のみ名の悪用。
第二、天主に対する冒涜的な言葉であり、よく知られている罪です。
第三、少し第二戒から外れるように見える罪かもしれませんが、「偽りの宣誓」というものもあります。簡単にいうと、天主のみ名を利用して、実現させる気持ちが乏しいあるいは弱い約束などを通して、天主のみ名に対して侮辱を与え、あるいはその名誉を傷つけるような罪です。そして、もちろん、天主のみ名を侮辱するということは、天主ご自身を侮辱することになります。
第四、「誓願を破ること」です。誓願とは、天主の前に何かを誓うことであり、それはとりもなおさず、天主のみ名を誓いの保証として唱えることになります。したがって、誓願を破るということは、天主のみ名の名誉を傷つけることになります。

以上が第二戒に対する主な罪です。これを次に詳細に見ましょう。

第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

第一、聖なる天主のみ名の悪用の実際を見てみましょう。み名の悪用というのは、とるに足りないことであったり、重要はない時に天主のみ名をわざわざ持ち出すようなことです。つまり、根拠もなく、適切な畏怖も持たないまま、天主のみ名をあえて持ち出す時に天主のみ名の悪用となります。深い考えもなく、天主のみ名をことさらに言い出すようなかたちの悪用です。これは、天主のみ名を踏みにじるような扱いとなりが、不注意での悪用であり、ほとんどの場合、小罪となります。



また、天主のみ名だけではなく、天主のみ言葉、つまり、聖書の言葉を軽々しく用い、悪用するときも該当します。
例えば、道徳に反する目的のためにみ言葉を用いる時、あるいは異端を正当化させるために用いる時、大罪となります。この場合、天主のみ言葉を歪曲することになるので、涜聖の罪となるからです。
以上は実際の聖なる天主のみ名の悪用でした。

次に、冒涜的な言葉があります。これは第二誡に対する一番中心となる罪です。み名を汚す罪です。具体的には、天主を侮辱するような言葉で天主をののしる罪です。これには聖人や宗教に対するののしりも含まれます。「冒涜的な言葉」とはギリシャ語で「名誉を傷つける」という意味です。冒涜的な言葉は天主、それから宗教、それから聖人の名誉を傷つける言葉であり、言葉をもって侮辱することになります。「言葉」といった時、もちろん口頭あるいは文章の両方を指すのですね。この罪は深刻です。非常に深刻です。ことに天主に対して直接に向けられるとき、なおさらです。つまり、天主のみ名を馬鹿にすることは、天主を馬鹿にするということになるのです。

旧法では、つまりモーゼの法では、冒涜的な言葉に対する刑罰は死刑でした。レビの書には「主の名を汚す者は、死罪に当たる。」 とあります。
そういえば、ユスティニアヌス法典にも、また革命以前のフランス刑法にも、冒涜的な言葉という罪は厳しく罰させられていました。なぜでしょうか?冒涜的な言葉というのは、天主の復讐を招く罪だからです。当然ながら天主は馬鹿にされるのは大嫌いです。聖書には「神を侮ってはならない。人はまくものを収穫するからである。」 とあります。これは、天主のみ名をみだりにつかってはならない、あるいは軽々しく扱ってはならないということを意味しています。

一つ注意しましょう。昔、冒涜的な言葉として認識していた表現でも今になっては冒涜的な言葉として用いられなくなった例もあります。たとえば、現代になって、この冒涜的な意味は忘れられたか、あるいは用いられたとしても冒涜的な意味としては誰もとらまえられなく場合があります。



具体的にはフランス語独特の「Morbleu」があります。もともと「Morbleu」とは「Mort de Dieu(天主の死)」から転じた言葉であり、本来の意味は忘れられているような表現です。現代では、殆どの場合、これらが使われても本来の意味が知られていません。もちろん、もしも、本来の意味を知って、わざとその意味で使うなら、罪です。しかしながら、このような言葉の意味を知らない時、つまり冒涜する意図もなくて、また冒涜する同意もない場合、罪とはなりません。ただし、曖昧にだけ知りながら使うと、小罪となります。当然ながら、意味が忘れられたとしても、天主のみ名であることに関して変わりがありませんので、これらの古い表現を避けた方が良いです。

以上、冒涜的な言葉についてでした。加えて、冒涜的な言葉に並んで、「呪い」「「呪詛」があります。つまり、怒りあるいは憎しみをもって、隣人あるいは自分自身に対する加害を望む言葉です。「呪い」がなぜ天主のみ名に対する罪の一つになるかというと、「呪い」の前提には「悪を言う」ということがあるからです。ちなみに呪いのラテン語の語源は「(誰かの)悪(いこと)を言う」という意味であり、「呪う」時、その害悪をもたらすのは天主だと望む罪なのです。つまり、隣人に対して弊害を望むだけではなく、天主がその弊害を及ぼすことを望むことだからこそ罪は重いのです。一方で、「祝福」するというラテン語の語源は「善を言う」、「誰かのために善いことを言う」という意味です。つまり、祝福するとき、天主のみ名を唱えて、天主の善が祝福される対象に及ぶように願うということです。



ここで、福音のある場面を思い出すことにしましょう。それは、私たちの主、イエズス・キリストが使徒に二人ずつ、宣教せよと命じてあちこちの町に使徒を送り込む場面です。そして、使徒ヨハネと使徒ヤコブはイエズスの下に戻ります。そして、ある町に行って宣教してみたのですが、何の成果はなかったという報告をします。二人の使徒はちょっとガッカリして、いらいらしながら報告に上がるという感じの場面です。

「主よ、この町をごらんください、だめですよ。この町に天の火を投げていただきたいくらいです」といったような。これはまさに呪いですね。これはまさに「害悪をもたらすことを主に頼んでいる」のです。そして、われらの主、イエズス・キリストは二人の使徒を「雷の子よ」という呼び名を使うほど厳しく叱ります。つまり、「このようにやってはいかん」と主が叱るわけですね。

もちろん、天主ご自身はいくらでも「呪う」ことはできます。全能なる天主なので、あらゆる物事の主(あるじ)であるのですから、いくらでも「呪う」ことはできます。【この場合、「創造主として裁いて罰して」というような意味ですね。】一方、人間は呪ってはならないということです。以上、呪いあるいは呪詛についてでした。

第三、「偽りの宣誓」という罪があります。まず、「宣誓」とは何ですか?「天主を証人にたてて、行っていることが真であることを断言する」という定義です。言いかえると、ある真実を断言したいとき、ある約束をするとき、ある行為を行うことを約束するとき、天主を証人としてそれに巻き込むということです。もちろん、善い宣誓、正しい宣誓はあります。しかしながら、偽りの宣誓もあります。

宣誓という制度の存在理由はある誓い、ある言葉の誠実さを保証するためにあるのです。ですから、場合によって正当な宣誓もあります。ことに、非常に大事な誓いと言葉、それに関わる重要な事実と真実の時にはまさに宣誓が正当です。簡単にいうと、宣誓正当であるための条件を述べてみましょう。まず、疑いなく、真理・真実・真に関する宣誓でなければなりません。つまり、悪いことについてや真ではないことのために宣誓するのは必ずしも正当ではなく、やるべきではありません。このような宣誓はされたとしても何の価値もありません。

旧約聖書には、ある士師(判事【注・天主によって選ばれたユダヤ人のリーダー】)が戦争から帰った時、勝利したゆえに誓ったことがあります。このように天主に誓っていました。それは「これから、遭遇する最初の人を天主に生贄として捧げることを約束します」という宣誓でした。そして、最初に遭遇した人は判事の娘でした。この宣誓にはそもそも価値がなくて拘束力がありませんでした。というのも、宣誓の中身自体が何もよいことではなかったからです。

要約すると、宣誓が正当になるためには、中身が真であり、また正しく、そして何よりも慎重な判断に基づかなければならないということです。つまり、深刻なことについて、また必要不可欠の時にのみ宣誓するという条件です。これらの条件が満たさなければ「悪い宣誓」となります。あるいは「偽りの宣誓」、あるいは「軽率な宣誓」あるいは「無用な宣誓」となりします。このばあい、天主のみ名を冒涜することですから、悪い宣誓はよくありません。悪い宣誓、あるいは偽りの宣誓は言うまでもないのですが、軽々しく宣誓することもよくありません。
以上、第二戒に対する第三の罪でした。



最後、第四の罪を手短に説明しましょう。デリケートな罪なので、簡単に説明してみます。「誓願を破ること」という罪です。自分が約束した誓願を破ることです。誓願という厳密な意味は「宗教上の行為」です。つまり、「ある人はより良い行為をやるように天主に約束する」ということです。天主に誓願を立てることはよいことです。また、天主を讃えるために良いことを行うことを望むこともよいことです。それは当然です。

誓願が成り立つには、条件が四つあります。まず、約束が必要です。それから、約束を破ったら、罪になることを了知することです。そして、よりよい善のために誓願することです。そして、慎重に熟考の結果、誓願を立てることです。つまり、軽々しく誓願を立ててはならないということです。また、誓願を立てるには、必ず聖職者、あるいは司祭、あるいは相応しい上位のだれかの相談を得なければなりません。非常に重いことですから、勝手に軽々しく行うようなものではありません。

誓願を破ることがなぜ深刻で重いのでしょうか?
それはは宗教を侮辱して、宗教に対する罪になるからです。つまり、直接に天主に反対する行為です。ある意味で、わざわざ天主に約束したのに、それを蔑ろにしているような行為です。また誓願を破る時、誓いに背くことになります。宣誓違反になります。要するに、誓願が成り立つためには、熟考が必要であること、よりよいことを約束し、破ったら罪になるということを承知することが必要だということです。(つまり単なる約束ではないのですね。)

これと違って、小さなことで、天主に何か約束しても、これは誓願にならないので、「破ったら罪になる」というようなことはありません。繰り返しますが、誓願を立てるということは、破ったら罪になることをあえて承知した上に約束することになりますので、重い約束です。
もちろん、誓願は非常に善いことで、秀でています。修道士は誓願を立てています。司祭たちも誓願を立てています。助祭に叙階される場合、司祭は貞潔の誓願を立てます。修道士の場合、明らかにはっきりと「従順、貞潔、清貧」の誓願を立てます。これは非常によいことで値すべきです。そして、この三つの誓願のゆえに、修道士の生活はその上なく聖なるものになります。しかしながら、その分、修道士が誓願を破った場合、それは宣誓違反になり、大罪になるのです。ですから、誓願というのは軽いものではありません。誓願を軽々しく立ててはなりません。

誓願を破るということは、自分が誓ったことを破るだけではなく、天主に誓われたものですから天主に背くことになります。つまり、誓願の内容を天主に直接に宣誓して約束したのに、これを破るということは自分がした宣誓を馬鹿にして、天主を侮辱することを意味します。加えて、誓願というのは、天主との契約のような性格があり、契約であるがゆえに、誓願を立てる側と天主にも義務が生じます。要するに、誓願を破ることは契約反となります。そして、天主に誓われた宣誓違反は、天主のみ名を侮辱して、天主の名誉を傷つけることにもなるのです。
以上は、第二戒に対する罪でした。

迷信、占い・・・聖水や祈祷への虚しい遵守は、第一戒に背く罪です

2020年09月24日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十七講 第一誡に対する罪



第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

これは第一誡です。前回、崇拝を中心に第一誡の意味を説明しました。つまり、天主への崇拝を義務付ける第一誡です。要するに、第一誡を以て、自然法に沿って、創造主に対して報いるべきことを命じています。これは、天主への崇拝です。

しかしながら、第一誡を以て同時に、禁じられていることもあります。何が禁じられているかを知ることが大事です。というのも、第一誡に対して罪を犯すことがはあるからです。具体的にどうやって第一誡に対して罪を犯すのでしょうか。

過度になる場合、罪を犯すのです。「迷信」といった行為を行う時です。また、欠如になる場合、罪を犯すのです。「無宗教」といった行為を行う時です。

最初に、過度になる時の第一誡に対する罪を見ましょう。「迷信」といった行為を行う時です。これは、一言でいうと、偽りの神に崇拝を捧げる時です。あるいは、本物の神である天主に、相応しくない崇拝を捧げる時でもあります。

まず、偽りの神に崇拝を捧げる時はどうなるでしょうか。ここでは、程度の違いというか、具体的にいくつかの種類があります。
最初に思い浮かぶ言葉は「偶像崇拝」という表現ですね。偶像崇拝とは「被創造物に対しての崇拝」という意味です。被創造物というと、何でもありです。前にあった有名な例でいうと、旧約聖書の金の子牛の像があります。天主から十誡を授かりにいったモーゼがシナイ山に登っていた間に、ヘブライ人たちがは金の子牛の像を作って礼拝したという場面があります。



つまり、天主を礼拝するのではなく、被創造物を礼拝していたから大問題でした。偶像崇拝といいます。言いかえると、天主ではない何かに対して礼拝することは、崇拝することをは偶像崇拝といいます。このような行為は愚かだけではなく、天主に対する侮辱にもなります。これは、当然ながら、大罪です。

「迷信」といわれたら、最初に思い浮かぶのは「偶像崇拝」です。しかしながら、ほかにも、偽りの神を崇拝する、あるいは偽りの崇拝で天主を崇拝する、ということもあり得ます。

例えば、「占い」はまさにそうなのです。「占い」とは「明白にせよ、あるいは暗にせよ、自然な方法で知れない物事を知るために、悪魔に頼ること」という定義です。つまり、知られないことなのに、知られない物事を知るために、非常な手段を取りますが、これは悪い手段であり、つまり悪魔らに頼るのが「占い」です。

悪魔に頼る時、具体的に明白に直接に頼ることもあり得るし、間接に暗に頼ることもあり得ます。いずれにせよ、どちらもこれは「占い」です。つまり、本来ならば私たち必ずしも知る資格がないものの、天主が知っている物事を知ろうとするのが「占い」です。このような行為をは天主は大嫌いです。旧約聖書には次の文書があります。レビの書にあります。「占いも、まじないもするな。(…)口寄せを信じてたよったり、占い師のもとに足を運んだりしてはならぬ。」

占いはどういったようなものか覗ける文書ですけど、また「交霊術」とも呼ばれています。つまり、このような情報を知るために、悪魔に頼ること自体ははっきりと知らないとしても、結局、悪魔に頼る行為であるということです。

このような「占い」は数えきれないほど、種類は多いです。神託、それから女預言者と女占師なども有名です。旧約聖書には、サウル王は女占師を訪問する場面があります。何をすべきかを知るために、占い師に頼んだ場面です。また、降霊術あるいは、口寄せもあります。つまり、情報を得るためにも、死者に頼るということですね。

またトランプ占いもあります。この場合、トランプに頼って将来でも知ろうとするのです。考えてみると途方もない行為ですね。トランプと将来はそもそも全く関係がないのに、このような占いができたのも理不尽です。また、手相占いもあります。その他、多くあります。顔相占い、昔は鳥占いあるいは鳥腸占い、また縁起関連の迷信等々。

これらのことものをやるのは大罪となります。天主のために捧げるべき崇拝に対する罪となります。というのも、被創造物に頼って、天主にしか知らないことを知ろうとするから、非常に途方もないことですし、そして、最終的にこれらの被創造物の裏でに、悪魔は結局、人間をごまかすにすぎません。

また、「迷信」に陥れて第一誡に対する罪の第三の種類は「虚しい遵守」です。「虚しい遵守」とは「占い」に近いですが、「虚しい遵守」の場合、目的というよりも手段に拘る点で区別します。言いかえると、科学によって証明されていないのに、あるいは天主によって制定されている手段ではないのに、あるいは、カトリック教会によって承認されていない手段なのに、あえてこの手段を踏んでこそ、ある効果を期待する時の罪です。
言い換えると、根拠なし、何かを取ってかわるある祈祷をやると、ある効果が必ず実現することを期待するときです。

要するに、この「何か」と関係のない効果が実現することに期待するときです。これは「虚しい遵守」です。細かく入らないことにしますが、「虚しい遵守」というのは、意外とキリスト教徒でさえ犯しやすいかもしれません。いつの間にか。この場合、大罪にならないかもしれませんが、「虚しい遵守」の一種になります。例えば、「これに期待して必ず効果が出る」と確信している時です。

例えば、「聖水」があるからといって、安心するというような。つまり、天主の御憐みまたは天主の愛を求めない時です。いわゆるて「お守り」扱いをするときです。つまり、例えば、聖水の場合、この「聖水」そのもの自体から効果が出るかのように思い違って、聖水を通じて天主から恵を頂くことを忘れるような時です。

つまり、「虚しい遵守」の罪の根本的な問題は、天主よりも、「ある物」あるいは「ある手段」を中心にすることです。例えば、祈祷を捧げる時も「虚しい遵守」を犯すことはあり得ます。つまり、「祈祷」自体がまじないであるかのように、唱えるだけで効果があることを思い込むときです。実際はそうではなく、天主が善い祈祷を聞き入れ給うのです。祈祷のお陰ではなく、天主のお陰です。

もちろん、ここで申し上げるのは秘跡の文句と違います。また、ミサの聖変化の時の言葉と違います。後述しますが、秘跡の場合、条件が満たされたら、その文句自体は必ず効果を伴うから違いますが、いわゆるそれ以外の祈祷には自動的に必ずある結果を伴うと信じた時、迷信となりまです。祈祷はまじないであるかのように、祝詞であるかのように、呪文であるかのように信じ込む迷信。これは「虚しい遵守」という罪です。

時に、かなり深刻になることもあります。つまり「虚しい遵守」のせいで、根拠なしにも自分が禍から絶対に守られていることを信じ込んだりして、あるいはそれで必ず治ることを信じ込んだりします。しかしながら、例えば、奇跡的な治療とは天主が決めるものなので、奇跡とは天主の御憐みのみによって実現します。つまり、祈祷あるいは聖水によって治るのではないのです。



つまり、「虚しい遵守」というのは、正当なる祈祷などを「まじない」として扱いするような罪です。つまり祈祷や信心において「確実に効く」と間違って思い込むようなことです。実際は、効果が出るのはた時、天主の御憐みによってのみです。当然ながら、祈祷などを捧げて、効果があることを望んで期待するのはもっともですし、善いことです。しかしながら、祈祷の文句自体に期待するのではなく、天主の御憐みに期待するようにするということがは大事です。

また、ちょっと前に触れましたが、迷信のもう一つの罪は「まじない(魔法あるいは魔術)」です。まじないとは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。厳密にいうといわゆる黒魔術です。いわゆる「白魔術」もありますが、大体の場合、このような「白魔術」は自然上の原因があるのですがりますが、原因がは不明のままだからといってなので「白魔術だ」として使われている言葉です。悪魔に頼っている魔術とは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。これも現に存在することです。

例えば、旧約聖書ではモーセの時にマジナイに関する場面があります。モーセはファラオンの前に現れる時です。自分が天主の使者であることを証明するために、モーセはアロンに彼の棒を地面に投げるように命じます。そして、この棒は一瞬で蛇と化します。これは天主によって行われた奇跡です。次に、ファラオンの魔術師たちがはそれぞれ、棒を投げて、地面についたら、蛇と化します。この時は、魔術でした。そしてそういえば、天主はこの呪いより何倍もの強かったことを示されました。というのも、そのあと、アロンの蛇は魔術師の数匹の蛇を食ったのです。魔術師によるマジナイは黒魔術でした。



次に、迷信に属するもう一つの罪を紹介しましょう。呪いです。ラテン語でいうと「悪を成す」という意味ですが、マジナイの一種なのです。ただ、呪いの場合、悪魔の助けを得て隣人へあるいは隣人の持ち物への加有害を目的にするマジナイです。このような行為は流行っている国もあれば、流行っている地域もあります。フランスの幾つかの田舎でもこのような行為はかなりあったりしました。

つまり、呪詛を群にかけたり、家畜小屋にかけたりなどしていろいろあります。理由は何でもいいですが、争いがあったからとか、嫉妬があったからとか何でも。残念ながらも、このような呪詛をかける行為は意外と広まっていた地域もありました。迷信という罪の一種です。なぜでしょうか?悪魔へのある種の崇拝となるからです。それはして、天主の力を侮辱して、悪魔の力に頼るからです。
以上のこれらの罪はすべて深刻な罪です。

このように、天主への偽りの崇拝、それから偽りの神への崇拝をみてきました。また、天主への悪い崇拝もあり得ます。大体、前より軽い罪になることは多いですが、例えば、無駄なことをやる時、あるいは本来ならば礼儀作法でいっても無用なことをするときです。あるいは、完全に乱れる形で崇拝するときです。たとえば、日曜日に断食しながら、金曜日、断食しないようなことです。日曜日は主の日であるから、このような行為は乱れているのです。また無用です。もちろん、より軽い罪になりますが。

それから、第一誡に対して欠如しているせいで罪を犯すこともあります。「無宗教」という罪です。「無宗教」というのは、天主に値する敬意を払う義務に対する違反であり、天主の名誉に対する侮辱です。要するに、この場合、迷信と違って被創造物を対象にすることはないのですが、あるいは無宗教の罪に陥れてもまた天主に向けられるべき崇拝は残っているかもしれませんが、非常に悪い形で天主を崇拝するときの罪です。

「無宗教」の第一種は「天主への誘い」と呼ばれる罪です。要するに、言葉あるいは行為あるいは挑発をもって、「天主を試す」ような罪です。つまり、くだらないことなのに、天主の御業を要求するときです。無謀な行為です。天主を誘う行為です。言いかえると、例えばよくある話は「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」といったような類いの挑発です。天主への誘いです。

「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」残念ながらも、この場合、奇跡があるからといって、奇跡だけをもって回心して天主を信じるためのではに足りないのです。福音にはこれを示す場面があります。貧しいラザロの喩え話です。ラザロは乏しくて、病気で、体もボロボロです。金持ちの玄関に物乞いしているところ、金持ちの人は一円たりともラザロに与えないという。そして、二人は死にます。金持ちは地獄に行きます。ラザロはアブラハムの懐内に行くと福音に書いてあります。

そして、金持ちはラザロとアブラハムに「この世に残った兄弟たちに【私はどうなったかを】しらせてくださいませ。そうするために奇跡を起こしてくださいませ」といいます。しかしながら、「いや、それは無駄な時間だ」とアブラハムが言い返します。そして、金持ちは「死者である私は彼らの前に現れて知らせたら聞いてくれるだろう」と。アブラハムは答えます。「多くの預言者がいたのに、彼らは聞いてくれなかったのです」。天主への誘いはこのような態度です。



つまり、天主より限りのない物事や恵みをいただいているのに、「それよりもさらに多くの奇跡などが必要だ」と自分をごまかすような、天主を誘うようなことです。例えば、別の形ですが、自分がどうしてもいま、恩恵を受けていると確信しているから、重い罪を犯しやすい状況を積極的に自分が作るときです。これはまさに天主への誘いです。第一誡に対する罪です。また傲慢の罪です。深刻な罪です。以上は無宗教の罪の一種でした。

もう一種として、「涜聖」を行う時です。涜聖とは、「聖なる物事を冒涜するとき」です。「聖なる物事」とはつまり、場所・人・物をもさしています。天主に奉献された物事のなら、神聖となりますので、このような聖なる物事を世俗の使途のために使う時、「涜聖」となります。世俗とはつまり、ラテン語の意味を見ると「神殿の前にあるものごと」という意味です。要するに天主のものではなくて、奉献されていない物事です。従って、「涜聖」するとき、天主に奉献されている物事を、天主のものごとであるのに、天主の物事ではないかのように使う時です。

つまり、あえてたとえてみると、天主の持ち物を盗むような行為です。特に、天主への崇拝のために聖別された、奉献された何かをとって、これを「冒涜」するのです。例えば、聖職者を殴るような行為は冒涜です。なぜかというと、聖職者は天主へ奉献された人だからです。つまり、聖職者を殴ったり、あるいは無礼に扱ったりするのは冒涜です。人に対する「涜聖」です。

教会を冒涜することも同じです。つまり、教会に入って、天主と関係ないことをやるような冒涜です。場所に対する「涜聖」です。また、秘跡に対する冒涜もあります。例えば大罪を負っているのに、秘跡を受ける冒涜。「涜聖」です。なぜかというと、秘跡を授かる資格はないままであるのに、それでも受けてしまうという罪です。例えば、大罪の状態のままで、告解の秘跡を受けていないまま、聖体拝領するのは冒涜行為となります。

つまり、下品、卑しい行為です。また、御絵あるいは聖具などの冒涜もあります。現代でもこのような事件は話題になったりするのです。残念ながらも。教会の持ち物を冒涜するような行為もあります。以上は「涜聖」についてでした。

天主に捧げるべき崇拝のためにある物・人・場所をその使途から逸らす罪。つまり、本来ならば天主のためにある人、場所、物、秘跡などを相応しく使わないことによって、違う使途にして、第一誡に対する罪を犯すのです。

無宗教の最後の一種の罪は「聖物売買」です。フランス語で「シモニー」と呼ばれていますが、聖書に登場する「シモン」から転じる名称です。教皇初代の聖ペトロの時、使徒行録に登場する人物です。聖ペトロと聖ヨハネは人々に按手を以て聖霊を授けていた場面をシモンが見ます。そして、「自分も聖霊を授けられるようにしてください、金を払うから」と言い出して、その力を買おうとしました。

つまり、霊的な物の代わりに、世俗的な物で買おうとシモンがしました。聖霊を授ける力を買おうとしたシモンです。聖ペトロはこの依頼に対して強く咎めたのです。使徒行録の第八章にあります。聖ペトロは言います。「あなたの金にも、あなた自身にも呪いあれ。あなたは神の賜物を金で買おうと思いついた。」 これはシモンの話でした。つまり「聖物売買」なのです。

例えば、なんでもありですけど、例えば、金で天主のゆるしを得ようとするような行為です。「聖物売買」です。秘跡を金で買おうとしている時、あるいは司祭を買おうとしているときでもあります。繰り返しになりますが、「聖物売買」とは「世俗物の何かをもって、霊的なもの、あるいは霊的の権限に属するものを意図的に買おうあるいは売ろうとする行為」です。

「聖物売買」と「お礼」とは違います。例えば、死者のために特別にミサを捧げる時、頼まれた人から謝礼を貰っても大丈夫です。そのミサを捧げることに当たる費用や苦労などを労うための謝礼にすぎません。つまり、ミサを買うことではありません。あくまでも、ミサを捧げることに当たる苦労を労うことになります。司祭を買うことはありません。

同じように、いわゆる蝋燭など、このような物質的な物を売ることは大丈夫です。が、これらのものへの祝別を売ることはありません。祝別を売ることは禁止です。つまり、蝋燭やメダルなど、それを作るために苦労があったから、その代価を労うために売買しても大丈夫です。例えば、聖遺物などを売買うすることは禁止です。

ただ、聖遺物の箱を売買してもよいわけです。それらのものを作ったりすることに当たる苦労を労うのは正当であるからです。しかしながら、聖物を売買することは禁止です。例外なし、許可されることはありません。深刻な罪です。聖なるものを汚すようなことです。霊的な物を世俗化するような行為です。

以上は第一誡に対する罪をご紹介しました。


私たちは生まれながらに天主に依存し続けていて、否定してもその事実は変わりません。

2020年09月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理 第九十六講 天主の十誡 第一誡



前回、天主の十誡と教会の掟の全体図を紹介しました。今回から一つずつ挙げてご紹介していきましょう。今回、第一誡を見ていきましょう。

第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

まず、「礼拝」するとはどういう意味でしょうか?礼拝するということは、天主に値する「讃え」あるいは敬意を捧げることです。そして、なぜ礼拝すべきであるかというと、天主は私たちの創造主であり、全宇宙のこその上なき主(あるじ)であるからです。

言いかえると、私たちは被創造物であるがゆえに、天主に必ず依存しています。そして、この依存を意識して、認めて、天主に報いることです。親へ依存している子供は親にある程度、その恩に報いて敬意を表すべきであると同じように、被創造物も創造主に対してその恩に報いて、敬意を表すべきです。天主へ依存している故の義務であって、天主との絆を意識するように、この絆に感謝して恩に報いるための義務です。天主よりすべてを賜ったものですから、このような礼拝に値するのです。つまり、天主に感謝するために、天主を礼拝すべきです。

要するに、天主を礼拝するというのは、天主に相応しい崇拝を捧げるという意味です。天主の恩に報いるというのは、天主のために崇拝を捧げるということを意味します。

そこで、崇拝(Culte、あるいは祭礼)というのは何でしょうか。厳密にいうと、道徳上の善徳の一つであり、正義の徳の一種なのです。「宗教の徳」と呼ばれる徳です。つまり、崇拝を捧げることはひとまず正しいことだという意味です。最もなことだということです。正義の問題であり、天主のために恩に報いるために天主を讃えるのは正しいことです。

これはなぜでしょうか? 私たちはどうしても生まれながら、天主に結びついているからです。我々はこれを拒否しようとするとも、意図せずして不本意にも、我々は天主に依存していて、天主との縁が現に存在する事実は変わりません。つまり、そもそも私が生まれたのは天主が創造してくださったからです。私は常に存在しているのは、天主が常に存在せしめてくださるからです。私がここにいるのは天主はそうお望みになったからです。

ですから、どうしても、これは嫌だと思っても、天主との縁があり、天主に結びつかれていて、天主との絆が存在することは変わりません。そして、正義が命令するのは、この現実に存在する絆を意識的に肯定して認めて受け入れるようにということです。そして、この絆を意識的に認めて受け入れる行為とは「宗教の行為」だということです。宗教の行為を行うと、天主との絆を強めます。

西洋語での「宗教(Religion)」の語源は「結びつく」という意味で、つまり崇拝などによって天主と結びつくという意味です。西洋では、宗教の本来の意味は、まさに創造主と被創造物の「絆」を大切にするための営みです。【訳注・本来ならば日本語で「Religio」を訳すには、開祖なる「宗」の教えというよりも、本来の意味に沿うのなら「結びつく礼」あるいは「むすび」といったような意味である】



つまり、天主は私たちを存在せしめてくださっているという現実を、この絆を表すために、私たちは「崇拝」を捧げて、天主を礼拝します。このようにして、崇拝を捧げるというのは、「宗教の徳」の実践なのです。そして、宗教の徳は正義の徳の一種類です。正しいことです。

思い出しましょう。正義の徳というのは、以前にみたように「各人に彼の本来の恩に報いること」という行為の実践の意味ですね。天主は私たちにあらゆる物事を与え給ったゆえに、その恩に報いるべきです。もちろん、頂いたほどに天主に恩を返すのは無理ですが、可能な限りに恩に報いるということです。つまり、宗教の徳を実践しても、天主に対する「正義」を完全に全うすることはできないものの、宗教の徳は正義の徳の一種なのです。崇拝をもって、可能な限り、天主に返すべき恩を返すように実践するのは宗教の徳です。

以上、は宗教の徳、または崇拝ということを見ました。宗教の徳自体は「対神徳」ではありません。なぜでしょうか?もちろん、宗教の徳は天主を対象にしている徳なのです。しかしながら、「対神徳」と違って、直接に天主を対象にする徳ではありません。宗教の徳の直接の対象は、天主のために捧げるべき「崇拝」なのです。言いかえると、天主のために行うべき行為(典礼、崇拝等々)を対象にしています。直接に天主を対象にするのではなく、崇拝を対象にしている「宗教の徳」なので、「対神徳」ではありません。

崇拝というのは、私たちより上にある者のために、その恩に報いために行う行為だ、またその上の立派さに報いるための行為だといいます。これこそ、宗教の存在理由です。天主はこその上なく立派なゆえに、典礼を以て、またほかの行為をもって礼拝すべきです。宗教の徳です。崇拝です。礼拝です。

要するに、第一の誡には、天主のために捧げるべきあらゆる崇拝を含んでいます。そして、次に「崇拝」をよく理解すべきです。いわゆる「はいはい、崇拝を捧げるべきだね」ということだけではまだ足りません。つまり、「崇拝の形を問わず、それぞれはその好みで崇拝を捧げたらよい」ということはありません。また後述しますが、天主のために崇拝を捧げることについて、崇拝にはいくつかの種類がありますが、それらは好みでこれを捧げてあれを捧げないというようなことはなくて、天主のお望みになった全ての崇拝を捧げるべきです。
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「崇拝」といった時、内面的な崇拝もあれば、外面的な崇拝もあります。
「内面的な崇拝」は何でしょうか。天主に恩に報いるための行為は霊魂における内面的な行為である時に、「内面的な崇拝」だといいます。例えば、天主のための思い、あるいは、天主への祈りなどなど。つまり、一瞬たち止まって、外面的に何も現れていないものの、心の内に天主に祈りをささげるような時の崇拝です。これは天主のための崇拝の一つです。天主を讃える行為なので、「崇拝」だといいます。

このような内面的な崇拝は一番基礎的な崇拝だと言えます。一番大事なのです。なぜかというと、人間において霊魂は一番大事であり、霊魂こそは生きていて、霊魂によってわれわれは生命に満ちているということなので、霊魂による崇拝こそがは一番大事です。この基礎的な崇拝は不可欠であり、これを捧げなくてもよい場合はもなく、免除される人もいません。内面的に天主のために崇拝を捧げるという義務があります。

しかしながら、それだけではなく、外面的な崇拝をも捧げるべきです。基本的に祭礼ですが、厳密にいうと、天主のための崇拝を行うには、体をも動員するときです。この崇拝も相応しくてよい崇拝です。内面的な行為に伴う外面的な行為の時の崇拝です。

例えば、カトリック信徒は教会に入る時、聖櫃に安置されている御聖体には天主がご現存されているので、礼拝の行為をやるべきです。具体的に、例えば、十字の印をきるのです。で、外面的な仕業である「十字の印をきる」という行為を通じて、内面的な行為をも実践します。「十字の印をきる」ことによって、つまり、三位一体の玄義、御托身の玄義、贖罪の玄義、ご聖体の玄義を信じる行為をやるのです。

つまり、「十字の印をきる」という外面的な行為は外面的な崇拝なのです。そして、この外面的な崇拝はもう一つの崇拝を表す行為です。つまり、内面的な崇拝を表す外面的な崇拝です。天主と天主の聖なる玄義への崇拝です。ご聖体の前に跪く、また平伏するキリスト教徒は外面的な崇拝を行うのです。

また、自宅で一人になって沈黙のうちに、祈るために跪くキリスト教徒は天主への祈りなので内面的な崇拝ですが、また身体をもって外面的な崇拝でもあります。外面的な崇拝は必要です。なぜでしょうか?人間は必ず身体と霊魂から構成されているからです。私たちは天使ではありません。つまり、人間は本質的に身体と霊魂は一体しています。つまり「私」だという時、「私は二人だ」といわないのですね。なんか、身体と霊魂は別々に行動するようなことはこの世にはありません。つまり、人間はある種の全体を成しています。この全体は身体と霊魂ですが、天主に崇拝を捧げる時に、全体を以て捧げるべきです。
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要するに、天主への外面的な崇拝を行う必要があります。あらゆる物事は天主に依存しています。
崇拝の行為には、次に、公的な崇拝と私的な崇拝があります。

公的なの崇拝は、「典礼」とも言います。あるいは「典礼に基づく祭礼」なのです。公教会の名において、公教会の権威のもと、定まった儀礼を行う「典礼」なのです。社会上の崇拝です。

一方、私的な崇拝は一人が自分の名において、個人として捧げる崇拝なのです。個人的に崇拝を捧げることはもちろん必要です。私たちは皆、天主によって創造されたがゆえに、私的な崇拝を捧げるべきです。

しかしながら、一つ特に注意していただきたいことがあります。現代においてこそ注意すべきことです。つまり、非常に世俗化した社会では、また近代民主主義をはじめ、人格主義といったような誤謬が蔓延する現代に生きていますので、特に強調すべきことがあります。



公的な崇拝は必要だということを強調しましょう。キリスト教徒は必ず公的な崇拝を行うべきです。言いかえると、社会上の崇拝を捧げるべきです。つまり、典礼に与預かることです。これはなぜでしょうか?

天主は社会的な存在として人間を創造したからです。つまり、社会あっての人間として天主が人間を創造したわけです。「個人」を創造したのではなく、社会的な人を創造したのです。つまり、生まれた時、必ず人は社会の一員になって、社会の内に生まれます。

必ず家族の一員です。そういえば「名字あるいは姓」というのはどの一族の一員であるかを特定するための便宜であり、人間の社会的な本質をよく表す慣習習慣でしょう。つまり、人は必ずある血統を引き継いで、遺伝子を以て、先祖もいるのです。

かならず、人は祖国の一員でもあります。人は文化を必ず持つのです。そうでなければ無理であり、人間は存在しません。人は必ず生まれると社会の内に生まれます。【これを否定できるかもしれない、忘れることはあるかもしれないが、現実はかわらない。家族、文化、国などを忘れても、それらの一員である現実に関してはかわらない】

このようにして、天主に崇拝を捧げる義務がありますが、社会的な存在であるがゆえに、人間は社会の一員としても崇拝を捧げるべきです。これは人間の本性です。社会抜きの人間は存在しない。それは人間ではないのです。

先ほど、伝えた通り人間は身体と霊魂の一体のゆえに、外面的な崇拝を行うべきだと同じように、人間は社会的な存在のゆえに、公的な崇拝を捧げるべきです。人間は現にこのように出来ているからこれらの形で崇拝を捧げるべきです。本来ならば、かなり自然な結論であって、常識であるはずです。人間は生まれながら社会的な存在であるから、社会上の崇拝を捧げる義務があるのは本来ならば当然のはずです。



具体的に公的な崇拝とは何ですか。公にミサに与ること、公に一緒に祈ること。例えば晩歌に参加する、あるいは行列に参加するような行為は公的な崇拝の実践です。また、公教会が捧げる多くの祭礼に参加するということです。このように、典礼を挙げるには、一般信徒の参加と協力は必要なのです。

最後に、崇拝のもう一つの区別を見ましょう。それはある意味で崇拝の対象次第です。
もちろん、最終的に、どの崇拝でも、天主にのみ向けられて、必ず天主に崇拝を捧げるべきです。そして、直接に天主に崇拝を捧げる時、礼拝だといいます。まさに第一の誡の内容です。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

しかしながら、諸聖人などにも崇拝を捧げることがあります。「崇敬」と言います。ギリシャ語で「Dulia」に由来しますが、「奉仕する」という意味です。諸聖人のために崇拝を捧げる時に相対的な崇拝になります。つまり、諸聖人を神格化することではなくて、天主の代わりに置くのでもはなくて、天主の何かを特に表した聖人として、天主の近くにいる聖人として崇敬するということです。ですから、諸聖人を崇敬するとき、最終的に間接に相変わらず天主を対象にしています。聖母マリアの場合の崇拝は「超崇敬」といいます。

つまり、諸聖人を礼拝することはありません。またいとも聖なるマリアを礼拝することもありません。厳密にいうと、礼拝ではなくて、崇敬です。崇拝はいつも最終的に天主を対象にしています。



たとえてみましょう。天皇陛下のために讃辞を申し上げたいとしましょう。しかしながら、恐れ多いことなので、どうすればよいかわからない。その代わりに陛下の側近の人、あるいはその使者死者に伝言を預けて、彼は善い形で陛下に伝えてくれるというようなことと似ています。つまり、直接に陛下に上奏するよりも、陛下は気に召す人を通じた方がお耳に入りやすいという感じです。これとちょっと似ています。

つまり、天主の友人である聖人を通じて祈祷すると、天主の耳に入りやすいし、また天主の友達が崇拝されて、天主は喜ばれるわけです。つまり、天主の友達を崇拝するのは、間接に天主を崇拝することです。諸聖人への崇拝、つまり、崇敬、あるいは聖母マリアの場合、超崇敬というのは、以上のとおりです。

つまり、崇拝の行為には、典礼などの祭礼と儀礼などもあれば、大きくに言うと、祈祷、拝む行為全般も含んでいます。フランス語でいうと「Devotion(崇拝)」という言葉がありますが、直訳すると、献身する、忠誠を果たすというような意味です。また、「献身する人に自分の意志を捧げる」という意味です。

以上、は簡単に崇拝のことを紹介しました。崇拝するお陰で、献身を実践することにもなりますし、また奉献することにもなります。また、諸聖人への崇拝などもあります。そういえば、御絵への崇拝もあります。注意しましょう。御絵への崇拝というのは、御絵を礼拝する、あるいは崇敬するというようなことは一切ありません。もちろんありません。御絵に表明されている天主、あるいは諸聖人を崇拝するということですね。わかりやすいと思いますが、念のために注意しましょう。

愛する人がいて、離れている時、その人の写真を大切にして、写真を見て偲ぶことと似ています。当然ながら、紙としての写真を偲ぶことはもちろんありませんね。写真に写っている大切な人を偲ぶわけですね。また、写真を見てその人を思い出すような効果があります。御絵への崇拝はまさにこのようなことです。御絵だから崇拝するのではなくて、天主の御絵だから、天主を思い出して天主を礼拝するということです。ご絵あるいはご像も一緒ですね。像の場合、石を崇拝するのではないのはいうまでもありません。そうすれば、偶像崇拝となりますね。いや、天主、あるいはその諸聖人を描くので、それを思い出して礼拝、あるいは崇敬するのです。



この意味で、同じように、諸聖人の聖遺物への崇拝もあります。諸聖人の残された遺物として、つまり諸聖人を思い出させてくれる遺物として、崇敬するのです。当然ながら、天主の遺物はありませんので、聖遺物の場合、崇敬だけになります。大切な人がいなくなって、その人の持ち物の何かを大切にすると同じです。つまり、その人を偲ぶため、その大切の人を記念に、その人を思い出すために、遺物を大切にするということですね。たとえば、何でもいいですけど、時に、ペンでもだとしましょう。当然ながら、このペンをペンとして大切にするのではなく、亡くなった人のペンだったということで、このペンを大切にすることによって、亡くなった人を結ぶことはできます。

そういえば諸聖人の人生を見てもあきらかです。例えば、ナポリのカプチン会の聖ヨセフがいましたが、彼の周りに多くの奇跡が起きていました。ある日、修道院から教会へ行っている途中、また奇跡が起きたりして、その場にいた人々はこれを見て、聖ヨセフの僧服の一部を切り取ろうとしていたという話がありました。これは一般的で、どうしても聖人の何かを貰いたい気持ちがどうしても出てきます。布自体が大切だったのではなくて、その聖人の持ち物だったとして、聖人との縁があるからです。
以上は天主への崇拝でした。

第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

教会の掟は信者のみ、天主の十戒はすべての人々が守るべき義務があります 【公教要理】第九十五講

2020年09月08日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十五講 天主の十誡と教会の掟



公教要理の道徳の部を引き続きご紹介しましょう。道徳の部といえば、人間的な行為に関する部分です。今まで、人間的な行為についての内的な諸原理を紹介してきました。善悪の区別それから善い行為と悪い行為の違いを見て、また罪、悪徳と善徳などをみてきました。これから外的な諸原理を見ておきましょう。つまり法についての部分です。以前には、法を概観してきました。要するに、永遠の法や自然法や天主の実定法、教会の実定法などを紹介してきました。

今回から、これらの法をより詳しく見ていきましょう。とりわけ人間のために天主が公布した法を中心に見ていきましょう。この法は「天主の十誡」と呼ばれています。ギリシャ語の「デカ(十)ロゴス(み言葉・ノリ)」に由来しています。

天主の十誡なのです。天主の十誡とは、天主が公布した自然法の要約版なのです。「天主が公布」したという言い回しをよく理解しましょう。思い出しましょう。自然法とは、人間の本性に刻印されている人間に課する生まれつきの法ですね。しかしながら、その上、天主は特別にこの自然法を公布なさいました。あらゆる人々に知らせるために、明白に宣言なさったということです。つまり、天主ご自身は、すべての人々に知らせて知ってもらうために、自然法を明らかに宣言して、10つの掟に要約してくださいました。天主の十誡なのです。新しく制定したのではなく、あくまでも既存の自然の法を明らかに明文化したという意味です。

このようにして天主はモーゼに自然法を授けました。周知のとおり、旧約聖書において、エジプトからヘブライ民を導いてモーゼが紅海を開けて脱出を果たしました。それから、天主の命令に従って、ヘブライ民は砂漠へ行きました。アラビアから南行して、シナイ山に到着しました。つまり、エジプトから出発した50日間後、ヘブライ民の全員はシナイ山のふもとに着きました。

それから、天主はモーゼをシナイ山の天辺に呼び出しました。モーゼは天辺まで登り、雷や稲妻の内に囲まれて、そこに40日間、滞在しました。この間に、ヘブライ民はふもとに滞在してモーゼを待っていました。そして、この40日間、天主はモーゼの前に出現なさった際、天主の十誡をモーゼに授け給い、天主が岩の板二枚に十誡を御自ら刻みたまわったのです。そして、モーゼはこの二枚を持って民に伝えるために下山してきました。

しかしながら、下山したところ、モーゼは不在だった間に、民が偶像崇拝に陥った状態にあいます。というのも、ヘブライ民はその間に、金の子ウシの像を作り、礼拝していました。これを見たモーゼは怒り立って、天主からいただいた岩の板の二枚を地面に投げて壊しました。
その後、モーゼは再び天辺に登り、もう一度40日間を過ごせざるを得ませんでした。で、天主は誡の岩の板の二枚を再び渡し給ったのです。
以上のようにわかるとおり、天主は十誡を実定なさいました。つまり、人間の本性において既に刻印される自然を岩の板に明記になさったのです。明文化なさったのです。明らかに示し賜ったのです。
~~


この二枚に要約された自然法は、私たちの主、イエズス・キリストによって、さらに二か条の掟をもって要約されました。そういえば、このようにして、二枚渡された理由は、イエズス・キリストの二つの掟の前兆を示しているのです。ファリサイ派の前にイエズス・キリストが仰せになる二つの掟です。次のように仰せになります。「イエズスは、〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている、〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。すべての立法と予言者はこの二つの掟による。」
聖マテオの福音に記されている御言葉です。

要するに、二枚の十か条の掟は後にイエズス・キリストは明らかに示したまわった二つの掟の明文化なのです。つまり、一枚目は天主への愛に関する掟を細かく明記します。第一から第三までの誡なのです。そして、残りの七つの誡めは二枚目に記されて、隣人への愛の掟を明文化して細かく規定しているのです。

要約すると、天主から直接に授けられた岩の板の二枚に記されている十誡があります。それから、この十誡は天主なるイエズス・キリストの二つの掟の詳細項目なのです。一枚目は〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。二枚目は〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。
~~

天主の十誡を公教要理で習う時、簡潔された形で覚えるのです。というのも、天主はモーゼに授け給った時の場面は、脱出の書に記載されていますが、この場面に記されている天主の十誡の全文を読むと、かなり長い文章となります。特に、最初の諸誡はそうなのです。

このように始まります。「エジプトの地、奴隷の家から、おまえを連れ出したのは、神なる主、私である。私以外のどんなものも、神とするな。刻んだ像をつくってはならぬ、」 そして長く続きます。誡ごとの細かい紹介は次回からにします。第一から第三までの誡めは特に長いです。ですから、公教要理には、短い文章で次のように要約されています。

第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

以上、一行で要約された天主が授け給った誡めです。これは自然法全般の要約版なのです。また、完全度の高い自然法の表明なのです。前に申し上げたように、第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。天主への愛についての掟です。それから、残りの七つの掟は隣人への愛に関する掟です。第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。第一の掟は、天主に対してわれわれが果たすべき忠誠を明確にします。


第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
そして、この天主に対する忠誠から、第二の掟に規定されている畏敬につながります。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
そして、天主に対する忠誠、それから畏敬から、第三の掟に規定されている天主に対する奉仕につながります。 
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。

以上は最初の三つの掟です。一言でようやくすると、忠誠と畏敬と奉仕なのです。
次回から、それぞれの誡めを細かく説明しておきます。

残りの七つの誡めは隣人についてです。

第四の誡めは大事な具体的な義務を再確認します。これは、生命を中心に、すべてのことを頂いた先祖に対する敬いの義務です。孝行の実践です。積極的に孝行の実践を奨励することとして、肯定的な掟だといえます。

第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。

また、この掟において、上司に対する義務なども含んでいます。あるいは、精神上の生命(学問、知識)、また霊的な生命を頂いている人々に対する報いの義務についての掟でもあります。また祖国への義務もこの掟において含んでいます。生まれたら、人々は必ずある祖国の一員となります。というのも、政治的な存在であることは人間の本性に刻印されている要素だからです。
要するに、第四の掟は、積極的な掟であり、あらゆるものごとを頂いた人々に対する報いの実践に関する規定なのです。

そして、残りの第五から第十の掟は「否定的な掟」だといえましょう。つまり、種々の行為を禁じる掟として、「やってはならぬ」という否定形が伴います。要するに、隣人に対して加害するような行為を禁じる諸条なのです。そして、行いにおいても、言葉においても、思いにおいても、隣人に対して有害なことをしてはならないということです。

行いにおいては、第五から第七の掟です。
言葉においては、第八の掟です。
思いあるいは望みにおいては、第九と第十の掟です。

行いにおいて隣人を害してはならぬ。
第一に、隣人にとっての至上の宝である生命、天主が生命の持ち主として生命において隣人を害してはならぬということです。
第五 なんじ、殺すなかれ。

また、行いにおいて、隣人にとっての大事な人々を害することによって隣人を害してはならぬというのは第六です。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。

そして、最後に、行いにおいて、隣人にとっての大切な物を害することによって、つまり隣人の保有権において隣人を害してはならぬというのは第七です。
第七 なんじ、盗むなかれ。

それから、言葉において隣人を害してはならぬというのは第八です
第八 なんじ、偽証するなかれ。

最後に、思い、あるいは望みにおいてですら、隣人を害してはならないのです。というのも、ほとんどの場合、望みはある行い、ある行為のきっかけになります。少なくとも、あらゆる行為は最初に望みから生まれます。このようにして、隣人にとって大切な人々を奪うことを望んではいけません。

第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
意志的に、不浄な欲望を抱いてはならないのです。このうちの一番典型の罪は不倫です。

そして、最後に、隣人が持っている物事を望んではなりません。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

以上のように、天主の十誡を簡潔に整理した形でご紹介しました。
この十誡において自然法全般は要約されています。


自然法の追加の規定として、教会はいくつかの掟をさらに制定しました。「教会の掟」と呼ばれています。実定の掟であって、つまり、自然法の上に追加された掟です。公教会には掟を制定する権限があります。天主より授けられた権限だからです。教会の掟には六つあります。公教会にはこのような追加法を制定する権限があるだけではなく、制定したとき、厳かに義務化させている掟となります。つまり、違反したら大罪となります。

教会の六つの掟は三つの要点で要約できます。
第一と第二の掟は、天主の名誉と天主の玄義に関する掟です。
第三と第四の掟は、秘跡に関するものです。つまり、信徒には不可欠の天主に助けと恩恵となる秘跡に関する掟掟です。
そして、第五と第六の掟は、苦行と改悛に関する掟です。キリスト教的な生活を営む上には不可欠である苦行と改悛です。

第一と第二の教会の掟は、主日の上に、他に与かるべき祝日を追加します。また後述します。この二つの掟の目的は信徒たちが天主をよりよく知ることを助けることです。
思い出しましょう。第一、われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。また、天主を何よりも愛すべし。
そうするために、天主を知る必要があります。ですから、公教会は大事な祝日、それから玄義をよりよくわかるために、いくつかの祝日に与かる義務を追加しました。つまり、教会の第一の掟により、守るべき祝日を制定します。

また、第二の教会には、主日を聖にするためにどうすればよいか規定します。つまり、主日と義務化された祝日のミサに与かることです。
思い出しましょう、十誡の第三はなんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。これをより明文化するのが教会の第一と第二の掟です。

第一 主日と守るべき祝日を聖とし、
第二 ミサ聖祭に与るべし。


第三と第四の掟には、天主の子であるキリスト教徒に、イエズス・キリストから授けた助けをもらうように命令します。臨終まで天主に忠誠しづづけるためのことです。

第三 少なくとも年に一度は必ず告白すべし。
第四 少なくとも年に一度は御復活のころに聖体を受くべし。

つまり、年一回、告白の義務、とご復活の頃、拝領の義務を規する掟です。告白と拝領は信仰を守るための一番大事な秘跡なのです。

それから、改悛と苦行に関する掟があります。イエズス・キリストは仰せになった通りです。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」
このようにして、我々も改悛して、イエズスの後について、私たちの主に従うべきです。

第五 定められた期日には大斎(だいさい)を守るべし。
第六 金曜日およびその他定められたる期日には小斎(しょうさい)を守るべし。

公教会の掟は天主の誡めではありません。天主の誡めの上に追加された掟です。ですから、天主の十誡との性格は違います。天主の十誡とは自然法の明文化なのです。つまり、自然なので、人間の本性に刻印されている掟であって、不変不撓な掟なのです。時代場所を問わないで天主の十誡を変えることもできないし、いつも有効です。

たとえば、嘘をついていけないという掟は場所と時代を問わず変わりません。昔も将来も、いつまでも「嘘をついてもよい」ということはなりません。殺すなかれ。親を敬え。などなども一緒です。
十誡は自然法の一環なので、人間である限り従うべきです。従わなくてもよいことがあり得たとしたら、もう人間でなくなったということを意味するでしょう。
一方、公教会の掟の場合、実定法であり、制定法なのです。言い換えると追加された法なのです。このような追加法はいつでもどこでも義務を生じるとは限りません。事情次第では場合によって例外な時代と場所も出てくることはあります。

このようにして、密接に関係するものの、天主の十誡と教会の掟は違うのです。混同してはいけません。
ことに、公教会の掟は公教会が制定する法として、公教会の構成員である洗礼者に限って適用される法なのです。
一方、天主の十誡は自然法なのですから、洗礼者であるかどうかを問わず、あらゆる人々に適用されます。

たとえば、教会の第一と第二の掟、主日にミサに与かるべき掟は洗礼者に課するのです。しかしながら、洗礼者ではない人は、ミサに与かる義務を負わないのです。教会の一員ではないからです。当然といったら当然ですが、一員ではないのに、ある社会の法を負うことはないからです。
一方、「嘘をつくな」というのは自然法なのですから、人間性を持っている以上、つまり、人間に生まれて、人間である以上、あらゆる人々は守るべき掟です。

つまり、天主の十掟を守るべきは、あらゆる人々です。
一方、教会の掟を守るべき人々は洗礼者のみです。洗礼を受けると教会の一員になるからです。
また、前述したように、深刻な事情がある場合、教会の掟の義務から免除されることもあります。制定法だからです。
一方、天主の十誡は例外なし、いつでもどこでも守るべき義務があります。

以上は、天主の十誡と教会の掟の概観でした。
次回から、それぞれを詳しくご紹介していく予定です。

なぜ誘惑があるのか?誘惑に打ち勝つ方法は?【公教要理】第九十四講

2020年09月02日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十四講 誘惑について



罪は何であるか、それから大罪と小罪との違いは何であるかをいままでご紹介しました。それから、七つの罪源を簡単に紹介しました。罪に関して、最後に説明する課題はもう一つ残っています。罪に先立つ「誘惑」のことを紹介する必要があります。

誘惑というのは非常にデリケートなときです。罪へ導くときにもなれば、うまく抵抗したら、逆に罪を退けて勝利へ導くときにもなります。罪を犯す前段階は誘惑なのです。罪を犯さないために、誘惑に負けないことです。そして、誘惑に負けないためにどうすればよいかについてが、今回の講話の課題なのです。

誘惑の意義は二つあります。第一に、誘惑とは天主から送られた試練でもあります。つまり、天主が許可した試練という意味です。周知のとおり、このような試練を許したことがよくあります。天使たちに対しても、アダムとエバに対しても試練を許したように、私たちにも天主が試練を許すことがあります。

もちろん、「罪に陥れる」ために送られる誘惑ではありません。天主はそうするわけがありません。むしろ、我々の天主への愛を試すために、試練を送るのです。よく考えてみたら当たり前でしょう。親も子供に対して優しく子供を試すことと似ています。つまり、子どもの能力を試して、刺激して、子供の改善と上達のための試練です。

また、「試験」のようなものですね。試験とは知識を試すために、この意味で試練です。そもそも「試し」といった時、どういう意味でしょうか?「証明するため」と意味が強いです。試験の場合、「知っていること」を証明して、明かすためにあるのです。誘惑という試練は「天主への愛の証」となります。

そして、天主への私たちの愛を天主がご覧になって喜んでおられます。私たちも愛されてほしいと同じように、天主も愛されてほしがっておられるのです。そして、私たちも愛の証を貰う時、喜ぶのです。そして、われわれは愛している人々を時々試すこともあります。同じように、天主は私たちへ試練を送るのは私たちの愛を試すためです。私たちの愛の強さを試すのです。

そういえば、私たちへ天主は試練を送ると同時に、その試練を乗り越えるための恩寵をも与えてくださいます。大事なことですが、誘惑に勝つために必要である恩寵を必ず天主が私たちに与えてくださいます。ですから、天主は本当の意味で善なのです。まさに善き天主なのです。

つまり、天主は試練を送るだけではなく、試練を乗り越えて、誘惑に勝つための力・手段・武器をも与えてくださいます。その上、実際、誘惑に凱旋した時、天主は私たちのためにさらに恩寵と栄光の増加をあたえてくださいます。つまり、誘惑が与えられて勝利する時、私たちにとって善いことばかりです。ですから、本当に善き天主です。試練を与えたもう時、誘惑に勝つための武器をも与え賜って、勝利した時、その勲章である恩寵と栄光の増加をも与え給う善き天主です。


誘惑の切っ掛けはなんでしょうか?罪へ導く刺激である誘惑とは三つに分けられます。

第一、現世欲があります。「現世欲」とは厳密にいうと、原罪によって我々の霊魂に残る傷跡なのです。前に観た通り、原罪のせいで、人間の霊魂は傷つけられました。そして、このせいで、塞がっていない傷口が霊魂に残っているのです。この傷口は「現世欲」と呼ばれています。で、時々、これらの傷口がまた開いてしまう時、現世欲による誘惑が出ています。

現世欲は三つあります。色欲をはじめ、感覚の欲望を満たすような貪食などがあります。それから、金をはじめこの世の物事に対する強欲などもあります。また、傲慢による現世欲もあります。要するに、「優秀になりたい、出世したい、人々に認めてもらいたい、目立ちたい」といったような現世欲もあります。これらは現世欲であって、現世欲において誘惑の一つの源があります。この源は日常にだれでも感じられて、残念ながらも現実に経験していますね。


第二、「世俗」なのです。これについても前にちょっと紹介しましたが、「この世」あるいは「世俗社会」は誘惑の源です。現代こそはそうです。例えば、街を歩いて広告やCMなどをご覧になってください。あるいは、世論調査をはじめ、いわゆる無用の商品を買わせるためにどうすればよいかという類の「マーケティング調査」などをご覧になってください。これらは、人々の現世欲を刺激するようなものです。こうした「世俗」あるいは「この世」こそは人々の霊魂の傷口を改めて開けてしまう時の誘惑です。人為的ですね。罪へ堕とすための人為的な誘惑ということです。


そして、誘惑の第三の源は悪魔自身です。悪魔が動き出す時です。ただ、悪魔は直接にかかわる前、人間の心にある現世欲と「この世」を利用するのです。そして、現世欲とこの世の誘惑を示しても霊魂に影響がない時だけ、悪魔は直接に手を出すことがあります。

諸聖人の人生を見ると、以上のような流れは明らかです。ある意味で、残念ながらも、罪をよく犯す人々、頑固に罪人になっている人々に対して、悪魔は手を出さなくてもよいわけです。現世欲だけで、このような罪人は罪に堕ちるからです。あるいは、「この世」の圧力だけで罪へ転んで充分であることがほとんどです。

残念ながら。しかしながら、「禁欲」と苦行を繰り返す修道士のような人々に対して、あるいはあえて俗の世から引いた人々に対して現世欲は効かなくなります。そういえば、私たちの主、イエズス・キリストも「この世」から出て砂漠に行った場面は有名ですね。断食と祈祷をするためでした。砂漠ですからもはや、砂漠では現世欲を刺激するようなこともなければ、この世の圧力もないのです。この場合、悪魔自身が動き出して、誘惑しにくることがあります。福音には、砂漠に行ったイエズス・キリストに対して、三回ほど悪魔が誘うのです。
そして、聖人の人生を調べても同じようなこともよくあります。聖人に対して、悪魔はよく誘うことがあります。悪魔自身も誘惑の源であり、人間を誘うのです。

さて、具体的に誘惑される時、どうなっているでしょうか?誘惑において、三段階に分けられています。

第一の段階は「客体」次元に起きて、それから、第二と第三の段階は「主体」において起きるといってもよいです。

第一の段階とは「示唆」なのです。
第二の段階とは「歓喜」なのです。
第三の段階とは「同意」それから「罪」なのです。あるいはもちろん「罪に対する勝利」ですね。

第一の段階とは「示唆」なのです。これは理解しやすいと思います。以上に紹介した誘惑の源に近いです。つまり、「罪の可能性」は私たちの目の前に現れる時です。あるいは、霊魂の前に「魅力」が提供されている時です。つまり、誘惑というのは、「磁化」のようなものです。つまり「示唆」として誘惑が働きかけて、霊魂を「磁化」させてみます。磁場のようなもので、誘惑は霊魂を魅力して引き寄せるような段階です。

つまり、現世欲の魅力が現れて、「この世」は魅力的な物事を提供して(身分、憧れ、快楽等々)、霊魂の傷口を開けるように働きかけます。この時、誘惑の対象によって霊魂は引き寄せられている状態なのです。なんでもいいですが、肉体的な快楽でもあり得るし、世俗の快楽でも精神的な快楽(悪い意味での好奇心、過剰に知識好き等々)でも何でもいいですが、霊魂はその何かにたいして磁化されていて、引き寄せされるような、つい巻き込まれるような段階です。

かなり強い示唆であるということです。そういえば、この意味で、残念ながらも、悪魔も世俗もかなりずる賢いです。ある意味でまさに奇術のようなものです。本来ならば偽りのものを「善いもの」として何かを私たちの目に見せかける奇術です。

実際、罪人も偽りのものであることはよく知っています。というのも、誘惑に負ける時、事後、必ず偽りのものだったことは気づくからです(改悛しない人々は一切認めませんが)。誘惑と罪のその虚しさ、その儚さ、その無意味性に必ず気づくのです。「まさか、このためにもう一度騙されたか」という気持ち。これは誘惑の第一の段階です。「示唆」です。

第二の段階は「歓喜」です。世俗も悪魔もずる賢くやるということはいうまでもありませんね。誘惑が現れる時、私たちは「歓喜」するように招かれています。例えば、具体的にいうと、営業者はこのような「商売術」をよく使っていますね。商売のために、何かを売ろうとするとき、商品は非常に立派でこの上ない良い商品であるといって売りつけようとするような。

「あらあら、この商品を持たないで君がいままでどうやって生活できただろうか?」というような感じですね。このような「心理的な働きかけ」ですね。そして、私たちの心において「歓喜」が生じるように働きかけるというものです。「この「罪」は善いよ、歓喜すべきだよ、快楽すればよいよ、いいものだからさ」といったような働きかけです。

創世記では、エバが誘われる際、「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」 と書いてある通りです。「歓喜」の段階です。悪魔はエバに「さあ、木の実をたべな」と示唆します。そして、エバは木の実を見て、「なんて美味しそうな実だ」と思っています。それは当たり前ですね。良き天主は綺麗な物事ばっかりを創りだされたから、綺麗に決まっています。

「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」この段階では、歓喜してすでにある種の快楽があります。この第二段階では、「どうしても快楽したい、手に入れたい、享受したい」という欲望に囚われています。肉体的な快楽でも、世俗的な快楽でも、精神的な快楽でもなんでもいいです。自己満足にせよ、傲慢を満たすような快楽にせよなんでも。

以上は第二の段階なのです。「歓喜」です。私たちの心にそれぞれの感情などが動かされている段階です。激情によって動揺させられて、魅力に感じさせられたりするせいで、知性が暗くさせられる危険の段階であり、あるいは誘惑の対象のみに執着するあまりに、知性の光が弱くなると、意志すら激情に流されて「行こうよ、行こうよ」というこの偽りの善に引き寄せられる危険の潜んでいる段階です。

それから、第三段階こそ罪に落ちるかどうかは決まります。意志が関わっている段階です。つまり「同意」です。つまり、誘惑が示唆されても、歓喜させられても、意志が「やるかやらないか」を最終的に決定するのです。「やる」と決定してしまったら歓喜の誘いに同意することになります。罪へ飛び出すことになります。誘惑に負けました。罪によって引き寄せられてしまい、罪の奴隷となります。現世欲の奴隷となります。

あるいは、意志は「やらないぞ」と決定します。誘惑に勝ちます。凱旋します。その上、本当に自由となります。誘惑から解放されるだけではなく、自分の現世欲からも解放されます。自由となりました。ですから、罪は「奴隷」にさせるものです。一方、意志的に誘惑を拒絶する人は奴隷ではなくて、本当の意味で自由となります。

以上、誘惑をご紹介しました。
誘惑から逃れられる人は誰もいません。誘惑に必ず遭うのです。もちろん、人間なら皆、原罪によって傷つけられているからですが、また、「試練」としての誘惑でもありますので、誘惑自体は悪いことではありません。むしろ、善いことです。誘惑のお陰で「勝利」することができて、また善において「鍛える」こともできて、より自由になれます。

そして、必ず思い出しましょう。善き天主は誘惑を乗り越えるための恩寵を必ず与えてくださいます。また、勝利した時、恩寵と栄光の増加で報いを与え給います。

このようにして、誘惑に対する抵抗力を鍛えた時、誘惑が来てもあまり努力しなくても勝利するようになります。このようになったら、誘惑が出ても何のインパクトはないような境地となっていきます。つまり、最初にかなり強い印象を与えていた誘惑、歓喜を引き起こすような誘惑は、鍛えていくにつれて、霊魂はなんとも動揺しなくなります。

ただし、このような状態に達するためには誘惑に抵抗するように鍛えるべきです。さて、誘惑に抵抗するために、具体的にどうすればよいでしょうか。

定番の手段は祈祷と犠牲なのです。それ以外にもほかの手段もありますが、まず祈祷と犠牲はメインとなります。というのも、祈りによって、自分を天主に捧げることにしていますので、祈る者は天主の内に生きているのです。そして、天主の内に生きている者は誘惑が現れる時、反射的にでもすぐ、天主の方へ向かいます。誘惑に対する大きな武器となります。



祈りだけではなく、苦行も大事です。苦行によって、私たちの現世欲を抑制します。また、現世欲を意志に仕えるようにさせる苦行です。断食によって、清貧によって、貞潔によって現世欲を抑制します。そして、鍛えたら、身体は自然に霊魂に従うことになります。そして、そのおかげで、霊魂はより自由となり、天主によりよく従順になっていけます。

祈りと苦行の他に、誘惑に抵抗するための有力な手段は「無為を避けること」にあります。「無為は悪のもと」という諺があるのですが、まさにそうなのです。暇たっぷりのある人は悪魔による示唆の機会が増えるわけです。無為で暇なので、多くの誘惑が出てくることは簡単です。逆にいうと、無為にならない人には誘惑の機会も減っていきます。

そういえば、歴史に照らしても、教会が命じた修道会用の戒律は良くできています。修道会に入る男あるいは女はその修道会の戒律に従うことを誓います。そして、多くの修道会では違う戒律の一つの共通点は「いつも何かやることをあたえられている原則」という点です。修道士は忙しいです。いつも忙しいです。なぜでしょうか。忙しければ忙しいほど、誘惑される機会が少なくなるからです。そして、修道の生活がなぜ一番、人を聖化する生活様式であるかはそれでわかるのです。


ちなみに、現代では本物の「忙しさ」は見失われています。残念ながらも、いわゆる「IT技術」のせいで生じる弊害は大変です。画面を見て「暇つぶし」だと思っても、これは無為を避けることとは違います。かつてまで、いわゆる休む時にこそ、「意義的に休む」嗜みがありました。何か芸術をやっても、庭の仕事をやっても、嗜んで読書するのも、何かについて徹底的に調べることも、みんな自然にできていたのです。

最近になってなんか何事にも感激しなくなっているような空気になっています。そのせいで、無為になることが多くなります。そして、無為になる時、何もかも示唆されることは容易になって、罪を犯しやすくなります。ですから、誘惑を防ぐために無為を避けることは重要です。

最後に、誘惑を恐れてはいけないことを繰り返しましょう。カトリック信徒は必ず誘惑を受けます。私たちの主、イエズス・キリストは誘惑を受けることになさったのです。なぜでしょうか?私たちに模範を残すためです。イエズス・キリストは砂漠で四十日間、ずっと誘われた結果、勝利して凱旋しました。これを黙想するのがよいです。誘惑に対する武器をイエズス・キリストは私たちのためによく示していただきました。断食と祈祷という武器です。

そして、イエズス・キリストは誘惑に勝ちました。これはつまり、「あなた達も勝つために私は勝ちましたよ」ということです。ですから、誘惑を恐れてはいけません。常に、祈る習慣を身につけて、できるだけ犠牲を捧げて、苦行をやって、無為を常に避けたら、誘惑を恐れることはありません。誘惑が来てもその影響はほとんどでないからです。



「罪源その2」―貪食・嫉妬・憤怒・怠惰 【公教要理】第九十三講

2020年06月28日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十三講 罪源その二


今回、罪源の紹介を続けたいと思っております。前回は、「自分に対する乱れた愛着」である傲慢を紹介した後に、「この世にある物事、移り変わる儚い物質的な財産などに対する乱れた愛着」である強欲を紹介しました。

これから、残りの罪源をご紹介したいと思います。邪淫に関しては前に申し上げたように一旦保留しておきます。天主の第六と第九の誡めの際に譲ることにします。

さて、貪食について説明しましょう。他の罪源と同じように、乱れた愛着です。というのも、罪というもの自体は、偽りの善への愛着であるということを思い出しましょう。貪食は「飲食に対する乱れた愛着」なのです。また、傲慢についても申し上げた通りです。「自分に対する乱れた愛着」である傲慢だからといって、「自分を愛すべきだ」ということに関して変わりはありません。ただ、相応しく適切に自分を愛すべきだということです。

同じように、「この世にある物事に対する乱れた愛着」である強欲の場合も、天主によく奉仕するために役立つ「この世の物事に対する」相応しい愛もあるのです。同じように、「飲食に対する乱れた愛着」である貪食の場合も、本来、「飲食に対する相応しい愛」も当然、あるわけです。

良き天主は身体を持った人間として私たちを創造してくださいました。そして、飲食する必要がある体を持った人間として天主は私たちを創造してくださいました。ですから、天主は私たちにとって必要不可欠な飲食を嫌うようにしむけるわけにはいかないということです。

天主ご自身はこの飲食の必要性を私たちに付与したし、飲食すると、ある程度の安楽を感じうる能力をも与えてくださいました。ですから、貪食とは飲食に対する「乱れた」愛着なのです。

また、飲食からくる快感に対する乱れた愛着です。言いかえると、飲食の本来の目的に沿った「愛」でなくなる時に、乱れた愛着というのです。飲食の本来の目的は食欲と渇きを癒すためにあるのです。で、貪食の場合、食欲と渇きの癒しだけでは足りなくて、飲食する快楽を求めるためにだけ飲食するという乱れです。または、飲食による快感のみを求める時の乱れです。

繰り返しますが、食べ物において味を嗜むこと自体、料理をうまくすること自体は善いことです。われわれは五感が備わっていますし、天主は人間には五感を持った存在として生活するように我々に命じていっらしゃるのです。だから、相応しい程度に、五感を満たすのは悪いことではありません。ただし、身体は霊魂によく仕えるようにするために五感を満たす程度は認められています。ここはポイントです。

徳とはそもそも「秩序」なのです。一方、罪とは「乱れ」なのです。貪食の場合、五感は過剰に満たされたあまりの乱れのせいで、身体自体はもう霊魂の奉仕をやらなくなり、身体は自分自身のみに奉仕するという羽目に陥るのです。従って、快楽するためにのみ、おなかを壊してまで飲食するのは罪です。そして、理に適う秩序を乱すほどの貪食になる時、大罪となります。

例えば、ある人は過剰に飲酒するとしましょう。そのせいで、酔っぱらって理性を使えなくなったら、自分自身に対する罪になります。この場合、明らかに、身体は理性に仕えることもできなくなり、霊魂に仕えることにできなくなり、大罪となります。泥酔とは大罪です。貪食のせいで、罪を犯すことはよくあります。過剰に飲食するとき、あるいは貪欲に飲食するとき、快楽のみを求める時、過剰に食事の豪華を求め、料理の質を過剰に求めるときも罪になります。もちろん、「過剰に」という時です。これらは大体、小罪になるでしょうが、とにかく秩序を乱す行為になるから罪となります。言いかえると、本来、人間の本性上求められている傾向に反する行為ということになります。つまり、本来、我々の本性が要求する使命を果たせなくする行為なのです。時には、理性の作用ですらなくさせる貪食なのです。

貪食が大罪になるもう一つの場合があります。教会が命じる小斎大斎を守らない時です。現代では、残念ながらも、小斎大斎が義務付けられている日は少なくなって灰の水曜日と聖金曜日のみです。ちょっと昔まで、この二日以外にも、通年の多くの機会に、ほかの小斎大斎はあったし、あるいは小斎だけの日も多かったです。小斎というのは、「肉を食べない日」ということです。基本的に、毎週金曜日は小斎をやるといいです。

なぜ、教会はそういったような戒律を立てているでしょうか?それは、我々においての飲食に対する本能を節制するためです。というのも、原罪以降、飲食に対する本能は乱れてしまったので、何もしないで霊魂は身体を簡単にいつも従わせることができないのです。霊魂はいつも物質的な物事に対して超然たる態度をとれるように、またいつも、身体は速やかに、自由に霊魂をよく奉仕できるように規定されてあった戒律なのです。
要するに、義務付けられている日に、小斎大斎を破る時、大罪となります。

貪食の一つの典型的な結果はもちろん泥酔と飲食癖です。そして、飲食癖の一般の結果は精神上の愚鈍化なのです。ほとんどの場合、過剰に飲食すると、愚かになるような、愚鈍化してしまう結果を伴います。聖書に書いている通りです。シラの書には「泥酔は愚か者の怒りを掻き立て、身を滅ぼさせ、力を衰えさせ、人からたたかれるもとをつくる。」 とあります。

愚鈍化の他には、残念ながら、ほとんどの場合、貪食すると、宗教に対する義務の怠慢に陥ることが多いです。そういえば、修道士の生活と飲食の節制との関係性は高い現象は確認されています。つまり、修道者たちは、世俗社会に生きている一般信徒の小斎大斎よりも、飲食に対する厳しい戒律を実践しているのです。大斎においても、修道士ならより厳格であること、そして、小斎においても、時には常時小斎の戒律の修道会もあります。例えば、ドミニコ修道会では、常時小斎となっています。このような特徴はなぜあるでしょうか?大斎小斎などの規定のおかげで、霊魂は天主によりよく仕えるための非常な助けとなる節制につながるからです。

貪食のもう一つの結果は、邪淫と怠惰によくつながっているのです。聖書にも書いてあります。エゼキエル書にあります。「ソドムの罪はこうだった」、周知のように、ソドムの罪は邪淫を中心にしています。「妹のソドムの罪はこうだった。おごりをきわめ、ぜいたくと安逸をむさぼっていた彼女とその娘たちは、貧しい者と不幸な者を助けようとしなかった。」エゼキエル書、16、49に書かれています。
後は、貪食のせいで争いと喧嘩の種になります。そして、健康をも破壊します。それが過剰な時には、生命を危うくすることもあります。

貪食に抵抗するためにどうすればよいでしょうか。第一に、祈ることは大事です。特に、食前と食後の祈りをすると、我々のすべての行為を天主に捧げるために善い助けとなります。そして、単純に、いつもいつも節度を保つことです。
~~

次に、嫉妬という罪源があります。妬み、羨ましがることなどです。嫉妬の定義をよく抑えることは大切です。注意しましょう。嫉妬とは「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるということです。言葉遣いは大事です。「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」。言いかえると、隣人の恵みを見て、自分に対する損であると捉えることをいう罪です。

ですから、それに似ているものの違っているほかの感情と嫉妬の罪とを混同しないように気を付けましょう。例えば善い意味での競争心は嫉妬ではありません。また、例えば、隣人は自分が欲しがっている物を持つことを見て、ちょっとガッカリして悲しむことはまだ嫉妬ではありません。隣人はその物を持つこと自体を認めていたらまだ嫉妬とは言えません。嫉妬の罪を特徴づける根本な様子は「隣人の持つ善・恵を見て悲しみ、自分に対する損であることを思い込む」ことにあります。

例えば、隣人が持つ何かを見て正当に悲しむこともあり得ます。例えば、それに値しないのに、誰かがある物を持つときはその典型です。例えば、不正や窃盗、あるいは時には殺人などを常に犯しているのに、何も罰を受けないどころか、時には名誉が与えられたりする悪人もいるのですね。このように正義が全うされない場合が少なくないのが現実です。

で、例えば、それに値しないのに犯罪者が無断に解放されるとき、その解放を見て悲しんでも罪にならないのです。全くそうではありません。このような場合、その犯罪者にとっての「善」である「解放」というのは、実際に他の人々に対する損であるから、それを悲しむのは正当であります。時には、このような場合、社会に及ばしての損になることもあります。

嫉妬の罪は大体の場合、かなり重いのです。なぜでしょうか?嫉妬とは必ず「隣人に対する愛徳」に反対する罪だからです。隣人にはある恵み、喜び、善を持っていることは喜ばしいことであるはずなのに、めでたいことなのに、それを見て悲しむという罪。愛徳の欠如なのです。嫉妬するとき、隣人に対する愛徳の欠如である上に、嫉妬の対象の善に対する愛の欠如でもあるのです。というのも、本来ならば、誰かを愛することは、このだれかの善を望むことにあります。ですから、嫉妬の罪の場合のように、隣人の善を求めないことは隣人を愛していないということを意味します。隣人に対する愛徳に反対する嫉妬なのです。

嫉妬の挙句に、隣人に対する嫌悪につながります。そして、嫌悪のあまり、殺人に至ることもあります。また、嫉妬のあまりに、隣人の不幸に対する喜びにつながるのです。言いかえると、隣人が被る損と悪を喜ぶ罪です。

嫉妬の罪自体は「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるとして、その嫉妬の結果は、「隣人の不幸に対して喜ぶ」ということになります。例えば、隣人を見て、その隣人が困った場面、虐められる場面、罵倒される場面を喜ぶような時です。嫉妬の罪の結果です。もう一つの結果は隣人の成功を見て悲嘆するということもあります。

また、嫉妬のもう一つの結果があります。具体的な結果でいうと、かなり深刻な結果です。隣人について小言を言い、誹謗・罵倒したりすることです。噂を流すことです。このような結果は、かなり大変です。邪悪であるだけに、いつの間にか広まってこれらによる損害は大きいです。
それから、嫉妬のせいで不和の種となることも多いです。

嫉妬に対して抵抗するためにはどうすればよいでしょうか?隣人の善をみて喜ぶことに努めましょう。隣人に恵みが与えられた時、善がある時、素直に喜ぶように努力することです。また、この世の物事や名誉などの虚しさ・儚さをよく黙想することも大事です。そして、隣人の善を素直に喜ぶことは大事です。そして、天主こそあらゆる物事のお主であることを忘れないことは大事です。
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次に、憤怒という罪源があります。憤怒というのは、「困難・障害に対する霊魂の乱れた反応の結果、復讐することに及ぶ」というのがその定義です。怒りというのは自分が気に入らない物事に対してその障害を強く退けるようにする感情です。そういえば、一般的にいっても、「怒りっぽい」、「苛立ちやすい」と「暴力」とを普段、結びついています。そして、憤怒のあまりに、復讐に及ぶという。憤怒というのは乱れた動きです。理性に従わない、秩序に沿わない怒りとして罪となります。当然ながら、正当な怒りもあります。正しい怒りはもちろんあるのです。そういえば、聖書に書いてある通りです。「怒っても罪を犯すな」 。

また、私たちの主、イエズス・キリストも怒ったことがありました。天主に対する本物の侮辱を晴らした時での場面です。神殿が冒涜されることを見て、私たちの主が怒ったのです。そして、神殿から商人らを追い出したのです。最もな怒りの発動とその正当な復讐の好例です。

憤怒の罪になるのはいつでしょうか?例えば、相手には何も咎められることはないのに、それでも復讐してしまう時です。あるいは、相手は罰せられるべきだとはいえ、私が復讐する権威を持っていないのに、それでも復讐するときです。あるいは、相手に咎めがあって、私も正当に復讐できるものの、乱れた形で、大体、犯された侮辱に比べて、過剰に復讐してしまう時です。あるいは、不正を糺して正義を全うするために復讐を行うのではなく、自分の気持ちを済ませるため、満足させるために悪意を持って復讐するときです。これらは憤怒の罪となります。

時には、そもそも怒ってもよい状況ではあるものの、過剰に度を越えて憤怒するのも罪なのです。憤怒の罪は多くの結果につながります。憤慨があります。また、心の誇張もあります。心の誇張のせいで、なんでもかんでも、「速やかに復讐に及ぼしがち」という弊害が生まれます。言うまでもないのですが、憤怒の罪のせいで、喧嘩、争い、罵倒などは生じます。そのほかに、慌ただしさと極端な自負も生じます。これも憤怒の大変な産物です。というのも、理性に反する動きであるから、罪となります。例えば、極端な自負のせいで、理性はもう何も接することはできなくなって、節度がどこにあるのか見えなくなってしまうような。

憤怒の罪に抵抗するのはそれほど簡単ではありませんが、一番良い対策とは、イエズス・キリストの極まりない柔和を黙想するがよいです。不思議なことにも、私たちの主、イエズス・キリストはご自分自身を指してはっきりと仰せになった徳は二つしかありません。「私は心の柔和なへりくだった者であるからくびきをとって私に習え」

このお言葉で、イエズス・キリストは二つの重い罪源に対する対策を提供してくださいます。憤怒と傲慢に対して、柔和と慎みです。だから、憤怒と傲慢に対して柔和と慎みの心を養うように努力するのがよいです。耐えて、時には沈黙を保つことにして、寛大さと親切さを養うのがよいです。憤怒に抵抗するのは確かに容易ではないのです。
~~

次に、最後の罪源となるのですが、怠慢さであります。怠慢さとは「休みにおいての乱れ」だということです。言いかえると、休みすぎるせいで、私たちが果たすべき物事を怠ったりする時です。怠慢の罪というのは、ことに宗教の義務にたいして適用できます。要は、乱れた休みのせいで、天主に対する義務を怠るようになってしまうという時です。

聖書には次のことが書いてあります。「天の国」という表現は宗教の義務に関するお言葉であることを示します。「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う。」 イエズス・キリストは仰せになります。このお言葉は怠慢に対するお言葉です。なまくらな者は自分に対して何の暴力はできないわけです。つまり、やるべきことを踏ん張っていやでもやるように頑張るような「自分自身に対する暴力」という意味です。

このような怠慢の罪のせいで、天の多くの善を無視したり、宗教の義務を破ったりするとき、大罪となります。なまくらな者は例えば、主日にミサに行かないとか、あとにするからあまり祈らないとか、その場合、大罪となります。怠慢の罪は愛徳を深く傷つけるものです。

怠慢の罪に抵抗するために、一番早いのは、私たちの主、イエズス・キリストが我々のためになさったことを黙想するのがよいです。苦難を受けて十字架に上ってまで贖ってくださったイエズス・キリストの行動を黙想するのがよいです。それを考えると、怠慢になるのは、どれほど贖罪の玄義に対して無礼であるかを自覚できるでしょう。つまり、私たちの主はそれほど私たちのためになさったので、天主は私たちに対して命じる物事は結局、天主がご自分の御子イエズス・キリストに命じたことに比べたら、本当にちっぽけのことだけです。

要するに、怠慢さのせいで、本来果たすべき義務を無視することになります。特に、私たちの救済のためにすべてをなさったイエズス・キリストへの感謝を怠ることになります。また、怠慢さのせいで、無気力の状態が生じます。その結果も大変です。ひどいものです。このような無気力のせいで、何の意志も徹底することはできなくなり、何の行動も無理にしてしまい、時には麻痺状態、愚鈍につながります。

また、怠慢さから、卑怯になることも多いです。卑怯であることは、難しい働きに対して恐れてやらない、避けるということです。勇気の欠如です。なまくらな者は勇気を欠如しています。時には、「私はカトリックだ」という勇気でさえなくなるのです。怠慢さのせいで、祈りにおいて取り留めなくなったりします。または、恨みを生みます。

そして、一番大変なのは、怠慢さのあまりに、絶望になることもあります。これはひどいものです。「何もやることはできない、やりたいけどどうしてもやりだすことはできない」とみているなまくらな者はそれをみて絶望に陥るという弊害。まさに悪循環になっていきます。やらないから、絶望となって、余計にやらなくなって、絶望は深まっていくような悪循環です。

怠慢さに抵抗するためには、「自分に対して暴力を振るう」のがよいです。一番早いのは、私たちの主は受難の時、私たち一人ひとりのためにどれほど苦しみと暴力を受けたかを黙想するのがよいです。そして、イエズス・キリストが受難の際に受けた暴力に比べたら、私が自分自身に対して課する暴力とはちっぽけだと認識するのがよいです。

以上、それぞれの罪源を手短くご紹介しました。罪源とはあらゆる罪の種になるのです。



「罪源その1」―あらゆる罪の源は”傲慢” 【公教要理】第九十二講

2020年06月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十二講 罪源その一


前に、「天主の法への違反」とは罪の定義だと紹介しました。あるいは、聖トマス・アクイナスの罪の定義も非常に緻密で参考になります。罪とは「天主への嫌悪、そしてある被創造物への転向」という聖トマス・アクイナスの定義です。

そして、前回は大罪と小罪との区別を見ました。大罪は霊魂においての天主の友情を失うことを言います。ですから、大罪は深刻です。大罪とは自分の霊魂から天主を追い出すまで、霊魂に傷をつく罪なのです。そして、小罪とは霊魂において天主の友情を失わなくても済む罪なのです。

今回、罪源という特別な罪の種類についてご紹介したいと思います。罪源は文字通りに「多くの罪の源である罪」だという意味です。つまり、罪源こそは他の罪の源であり、その種であるということです。つまり、罪源のような罪を犯すと、ほかの多くの罪につながっていくという意味であります。

そういえば、罪源を指すには、枢要悪徳ともいわれています。というのも、一発の行為よりも、罪源とは大体の場合、潜在的な傾向であり、悪い習慣であるからです。つまり、常に悪習のような悪徳であるからこそ、罪源は多くの罪の源になっています。

そして、罪源には七つありますが、その七つも共有の基本的な罪を源にしています。傲慢という罪はあらゆる罪の源だということです。言いかえると、あらゆる罪の根源には、「自分自身に対する乱れた愛着がある」と間違いなくいえます。例えば、罪というのは天主より被創造物を選び、被創造物を優先することですが、そうすることによって、間接でも自尊心を満たすような側面が必ずあります。従って、あらゆる罪の源は究極的にずっと傲慢があるのです。罪源中の罪源は傲慢です。一番重要な罪源です。

七つの罪源は次のとおりです。傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、憤怒、怠惰です。繰り返します。七つの罪源は次のとおりです。傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、憤怒、怠惰です。簡単に、一つずつについて説明しておきましょう。今回は邪淫に関して省きます。別途の機会、十誡を見る時、より詳しく説明する予定です。特に、天主の第六と第九の誡は邪淫に関する誡なので、その時にご紹介します。

第一、罪源中の罪源は傲慢です。傲慢とは何でしょうか?「自分自身への過剰な愛着である」と定義づけましょう。つまり、傲慢は自分自身への乱れた愛着であり、不適当な愛なのです。当然ながら、一方、自分自身を愛することは義務です。天主によって創られた被創造物として、また天主は私を愛し給う被創造物として、自分自身を愛すべきです。しかしながら、それとは言っても、自分自身を自分自身のありのままに愛すべきことであり、また自分自身に値する相応しい程度で愛すべきだということです。

言いかえると、被創造物として、また、天国に行くべき人として、自分自身を愛すべきだということです。要するに、傲慢とは「自分自身への乱れた愛」です。自分自身を邪道に愛するあまりに、どうしても自分が優秀になりたいという野望に陥れてしまいます。この挙句の果て、天主の代わりに自分自身、人を置くという欲望になってしまう傲慢。まさに、サタンの罪です。

「奉仕しないぞ」といったサタンです。傲慢の罪です。その時、聖ミカエルはサタンに答えました。ちなみに「ミカエル」というの名前の意味ですが、「天主に似たるものは誰か」と答えました。ちなみに「ミカエル」という名前の意味ですが、「天主に似たるものは誰かという意味です。言いかえると、自分自身には自分の力で至福を与えられるものは誰か?自分自身において完全なるすべての満足を見つけるものは誰か?いや、我々が持っている善いものことはなんてすべて天主より頂いているのです。天主においてしか私たちは人間が幸せを見つけることはできないのです。

そして、傲慢という罪は「天主において幸せを望む」欲望に反対しています。傲慢のせいで、自分だけが優秀になり、立派になり、優れたいあまりに、本来、天主への欲望を失亡くすのです。傲慢はまさに自己満足です。実際には、唯一、自己満足できるのは天主のみです。しかしながら、もちろん天主は傲慢でも何でもありません。その上なく善なる天主なので、天主は単にご自分自身のありのままに、つまり創造主として至上の善として自分を愛しているということだけです。

同じように、被創造物として、それから天主に依存している存在として、自分自身を愛している人は傲慢な人ではありません。現実にそって、人のありのままに、自分を愛しているから、愛徳なのです。しかしながら、人間を超えた偽りの虚像であるかのように自分自身を愛するときに、傲慢となります。

傲慢のせいで、かなり大変なことになることもあります。最悪なのは、天主を侮辱することに至ることもあります。この場合、傲慢の罪は深刻になります。当然ながら、軽い形での傲慢もありますよ。ちょっと優秀になりたいとき、他人にたいしてちょっと勝ち取りたい程度の時の傲慢なら、まだ軽いです。

すでに傲慢の罪ですが、自分自身を過剰に評価するあまりに、天主の代わりに自分自身を置いた羽目になる時、その場合、非常に深刻です。で、傲慢という罪には多くの「産物」があります。つまり、傲慢が生む罪は多いです。罪源なので、ほかの罪を生むのです。

傲慢のせいで、うぬぼれが出てきます。自尊心の一種でありますが、つまり自分が実際に現実的にできることを認識するよりも、実際にできないものの自分がより多くのことができると間違って思い込む罪です。実際よりも、自分が力強いと信じる罪です。

また、野望という罪もあります。野望とは何でしょうか。過度に、身分・地位・権力などを望むということです。そして、共通善のために望むのではなく、自分自身のために望む野望です。本来ならば、権力を持つ人は共通善のために行動すべきです。

要するに、下にある人々の善のために働く上の者なのです。しかしながら、現代ではこのような本来の形はもはや存在しません。残念ながらもトップに就く人々はほとんどの場合、野望だけでその地位に就いたわけです。簡単にいうと野望とは傲慢の帰結の一つなのです。

そういえば、悪魔は私たちの主、イエズス・キリストを誘惑するとき、イエズス・キリストを高い山に移動されて、サタンが彼に世界の国々を見せます。そして悪魔は言います。「あなたが私の前に礼拝するなら、わたしはこれをみなあなたにやろう」 。まさにこれです。野望は直接に天主を敵にしているのです。というのも、野望は福音の中に、サタンへの服従を意味するのです。

残念ながらも悪魔と契約を結んだ人々は歴史上にいるのは周知のとおりです。ほとんどの場合、野望のせいです。悪魔から、何かの権力、力、宝、ある程度の、充実した福祉がサタンへの服従の代わりに約束されたから、誘惑に負けたのです。野望はよく、罪として深刻です。というのも、大体の場合、野望のせいで不正な手段を選んだりしたする挙句に、多くの罪を犯すという弊になります。現代の政治界を一瞬でも見たら、残念ながらも明らかでしょう。

そして、傲慢から生じる第三の罪は「虚栄心」です。虚栄心とは人間・世間からの賞賛に対する乱れた・不適切な愛着です。言いかえると、自分自身のためにだけ、世間の賞賛を求めるということです。虚栄心です。むなしいです。虚栄心のせいで、天主に帰する賞賛を自分自身に帰させようとすることです。

ある詩編には「Non nobis domine, non nobis sed nomini tuo da gloriam」「主よ、光栄を帰せよ、われらにではなく、われらにではなく、あなたのみ名に、」 。虚栄心はいつ深刻な罪となるでしょうか?天主に帰すべき光栄を自分に帰させようとするときに大罪となります。

また、虚栄心のせいでさらにほかの罪につながることが多いです。命令に対する不従順。また高慢になることもあります。つまり、愚かに、馬鹿なに発言をするという罪です。また自慢にもつながるのです。また虚栄心のせいで、偽善につながることもあります。偽善というのは、文字通りに、実際に持たない善徳を偽って見せかけるということです。まあ、17世紀のフランス文学では、特にモリエールの喜劇において、このような偽善者、虚栄を愛着していた偽りの熱心な信徒者を非難する喜劇は有名ですね。このような偽りの信徒者は熱心であるように見せかけて、他人からの賞賛を求めているという虚栄心。

私たちの主、イエズス・キリストはまさに虚栄心を咎めて、ファリサイ派の人々を叱ったのです。これはすべて傲慢の一種なのです。

また、傲慢のせいで、議論における喧嘩と争いも起きます。不和もその意味で傲慢の帰結です。つまり、傲慢のせいで、多くの場合は喧嘩・不和・争いが起きるわけです。つまり、自分自身に対する過度な愛着、自分への賞賛への愛着、自分の権力への愛着のせいで、他人が自分より優秀であり、権力があり、賞賛があることにを耐えられないことになってしまう結果、喧嘩、争いなどが起きます。そして、最悪の場合、傲慢者は傲慢のあまりに、汚い手段を使ってでも自尊心を守るようなことに至ったりします。大変です。

以上に観たように、傲慢という罪を出発点にして、殺人にいたることもあります。
そういえば、聖ヨハネはサタンについて次のことをいっています。「彼(悪魔)は始めから殺人者だった。」
つまり、傲慢と殺人はつながっているということを示す文章です。傲慢者は殺人者になることは少なくないということです。悪魔は傲慢者であり、人殺しであるのです。以上は傲慢でした。

で、傲慢に抵抗するために、傲慢と戦うためにどうすればいいでしょうか?慎みによってです。つまり、自分自身をこのありのままに素直に見ることによってです。つまり、自分自身は被創造物であること、天主に依存すること、限られた存在であることを考えて、適切に自分のことを思うことによってです。

特に効果的なのは、人間の究極的の目的地を考えるのがよいです。つまり地獄と天国のことです。また死を黙想するのもよいです。いつでも死が起きうるわけです。地上の国々の指導者でさえ、必ず死ぬものです。死んだときに、一番強い人でも一番弱い人でも全く同じ状態になります。死んで、体は屍となって、塵に戻るのです。これは全人類の共通の運命です。死に関して、栄光や権力・権威などは人間のためにならないのです。死に対して、一番乏しい人と変わらないで、どれほど金持ちになっても何も変わらないのです。ですから、死のことをよく考えるのは善いことです。傲慢に抵抗するために効果的です。この世の物事はどれほどむなしいか、儚いかを黙想することもよいです。

また、イエズス・キリストに倣うことがよいです。そして、目立たない小さい使命や役割をとるのも傲慢に抵抗するために効果的です。

そして、第二の罪源に移りましょう。貪欲があります。傲慢と密接にかかわる罪です。地上の多くの善・物事、即ち外面的な物事に対する乱れた・邪道な愛着なのです。

傲慢の場合、「自分自身」に対する乱れた愛着である一方、貪欲は時間においての周りの世界にある何かに対する乱れた愛着です。

なぜ、乱れた愛着というでしょうか?このような世俗の物事はすべて天主によって創られたのです。そして、傲慢の場合と同じようなことです。自分自身を相応しくこのありのままに愛するのは非常に良いことです。同じように世俗の物事に対しても、それぞれの物事のありのままに、それ以上も以下もなく、相応しく愛することは善いことです。つまり、地上にある善い物事の全ては天主によって私たちに与えられた手段であり、天主へ近づくために与えられた手段なのです。このようにこれらを愛するのはいいです。

しかしながら、貪欲になる時、過度に愛着するあまりに、天主を忘れて、天主よりもこの世の何かに愛着してしまうという罪です。物質的でも精神的でも、天主を忘れてこの世の何かに過剰に愛着するとき、貪欲となってしまいます。いつ貪欲は深刻な罪になるでしょうか?

例えば、一番典型なのは、「金」あるいは財産において目的を置く時です。そういえば、典型的な現象があります。貪欲に満ちた金持ちは常に「自分の財産を失うことを心配していていつも不安だ」という傾向があります。このように、常に不安になった時に、貪欲の罪が深刻になったということがわかります。つまり、多くの財産と金を得ていくだけではないのです。

ちなみに、死に対して、財産を多く集めても何のためにもならないのです。どれほど、死なないために膨大な財産を使っても、結局必ず死ぬのです。ですから、いずれか天主の前に出廷して裁かれることになります。それでも、膨大な金を集めることに留まらないです、貪欲者の霊魂において、財産と金のせいで、不安の種となってきます。いつもいつも財産を失うことを恐れています。

このような現象は貪欲者が財産においてこそ、あるいは、世俗の何かに、変わりゆく儚い一時的な何かにおいてこそ、自分のすべての目的を置くことは明らかです。つまり、自分の霊魂の命よりも、霊的な善よりも、世俗の善を優先する、そこに自分の目的を置くということです。

このように、貪欲は大罪になります。そして、どれほど金かねと財産を集めたところに、何がのためにあるのでしょうか?このようになると、金、財産は手段でなくなり、目的になってしまいます。金を使うのではなく、金に仕えるということです。

つまり、貪欲者は世俗の何かの奴隷となります。よく考えると理不尽です。やはり、人間には知性と理性があるから、霊的な存在でもあるのに、世俗的な、物質的なことの奴隷になるなんて、理不尽です。このようになると、貪欲は大罪になります。金を使うのではなく、金に仕えるということです。イエズス・キリストは福音では次のように仰せになります。「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。(…)神とマンモンとにともに使えることはできぬ」 。マンモンとは金の神です。
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貪欲から生まれる罪は多いです。貪欲のせいで、精神的な不安が生まれます。また、無関心になる弊もでます。これは大変なことです。つまり、貪欲者は心が固くなって無関心になり、施すために、他人の苦しみを和らげるために自分の財産を使うことはできなくなる時です。

現代の社会はまさにこのような世界と化してしまいました。例外があっても、現代では、いわゆる豊富裕者たちは貧乏人のために施すことはできなくなっています。心が固まっていて、無関心になっています。残念ながらも、このような無関心が確認できる時、霊魂には天主の生命はもはやなくなったことを物語る現象です。

天主への愛を排除した結果に、貧しい人々への憐みもできなくなっています。隣人にたいして憐れむことはできなくなった時、天主への愛はいったいどうやってありえるでしょうか?この世での霊的なことに対して何の関心がなくなった時、一体どうやって本質的に霊的である天主への関心はどうやってありえるでしょうか?

また、貪欲のもう一つの帰結は残念ながらも、暴力なのです。傲慢と一緒です。またけんかと争いです。すぐ思い浮かぶのはいわゆるゴールドラッシュですね。その時、争いあって自分の土を奪い取り、金属を集める争いは典型的でしょう。貪欲は争いと喧嘩の種になります。

そして、当然と言ったら当然ですが貪欲のあまりに詐欺や不正な手段の種となります。詐欺、偽証、不正な手段は現代では蔓延しています。なんか、貪欲者は公の場でも、人の前で、誓ったことを平気に破ったりするような。もう、名誉は貪欲者にもはやなくなります。政治家たちなら、名誉はもはやまったくないのです。明らかでしょう。
要するに、貪欲のあまりに、霊的な営みと生活を完全に破壊しています。そして、挙句の果てに超自然次元の生活の営みはもちろん、自然次元の生活すら破壊します。悲劇的です。人間より低い存在に対する乱れた愛着である貪欲です。

貪欲を理解するために、偶像崇拝の一種だといえます。旧約聖書において、石のかけらなどを過剰に愛着するヘブライ民を見て天主はよくヘブライ人を咎めていました。ですから、旧約聖書の時代に、天主の絵を作成することは厳禁でした。偶像崇拝にならないためでした。貪欲者は偶像崇拝者でした。破滅の運命を持つ、一時的な物事への礼拝者にすぎません。そして、礼拝する対象のように、貪欲者も破滅の運命となります。

「大罪と小罪」―天主より被造物を求め、被創造物において自分の喜びと善があると間違って思う 【公教要理】第九十一講

2020年05月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第九十一講 大罪と小罪


罪に関する講座を続けましょう。前回は罪の定義を提示しました。罪とは「天主の法への違反である」という定義です。つまり、罪とは天主が人間に対して人間の救いのために命じた戒め・掟・法などに反する行為なのです。ですから、罪とはそもそも私たちの完全化に反する行為となります。というのも、戒めなどによって「行うべき行為」とは自分の完全化のために天主によって規定された行為であるからです。

そして、究極的に人間の完全な境地は天主なのです。天主は万物やあらゆる物事のこの上なき目的であり、善であるのです。従って、罪は「天主の法への違反である」でいう天主の法とは、究極的にこの上なき人間の善である天主を私たちが承るために天主が与え給った掟や法や戒めなのです。

そういえば、これを見ると、聖トマス・アクイナスの罪の定義をよりよく理解できます。聖トマス・アクイナスによると、罪とはラテン語で「Aversio a deo et conversio al creaturam」という定義になっています。つまり、罪とは「天主からの被創造物の離脱である」となります。

要するに、あえて言えば、罪には二つの側面があります。そもそも人間の目的地は天主であり、天主へ向かうべき人間です。が、罪を犯す時、人間は天主への道から、つまり人間の本来の目的から逸脱するということになります。後述するように道を外れるには程度の差があります。それはともかく、罪を犯している人は自分の本来の目的を拒絶する行為を犯し、あるいは目的地から背を向けるようなことを意味しています。

だからこの意味で、罪とは「乱れた行為である」とよく言われています。「乱れた」とは、その言葉の意味通りであって、つまり、「秩序がなくなった状態」あるいは「方向性を失った状態」という意味です。「乱れる」の反対語はフランス語で、「秩序づける」あるいは「方向付ける」という意味であり、その存在の本来の目的通りに方向付けるという意味です。

要するに、罪とは「本来の目的を乱して曖昧にする」ような行為です。従って、罪を犯す人は天主から逸らすことになって、天主に背を向けるようになってしまうという意味です。そして、そうすることによって、被創造物へ向かうことになります。「天主から被創造物へ自分の方向を変える」という意味が罪です。

言いかえると、罪を犯す人は、「創造主よりも被創造物を優先する」ということです。つまり、罪を犯す時、創造主において自分の喜びと善を置かなくなって、被創造物において自分の喜びと善があると間違って思うのです。なぜでしょうか?つまり、罪びとは「善」を間違うのです。

つまり、罪人は「創造主よりも、なんらかの被造物においてより多くの善と喜びがある」と間違って思い込んだりして、このように見えてしまう状態に陥ります。言いかえると、罪人は「善」を間違っているのです。つまり、罪とは「偽りの善」を間違って選ぶ行為です。あるいは罪とは「うわべだけの善にみえる」被創造物を間違って絶対な善として選ぶ行為なのです。



実際に、これらの偽りの善は禍なのですが、多くの場合は禍・悪は善として見せかけられているのです。そして、現に本当の善なる天主よりも見せかけの善を選ぶときに罪を犯すのです。一言でいうと、「天主に背を向けて、ある被創造物へ方向を変える」行為を罪というのです。

罪の犯行を促す原因とは何でしょうか?第一に、無知があります。善を知らないから、無知のせいで善を間違って悪いことを選ぶ時もあります。それから、すでに見てきたように、乱れた欲望と悪意という原因もあります。それから、もう一つの罪の大きな原因は「世間」にあります。

「世間」あるいは「この世」は罪の原因の一つなのです。いわゆる、「偽りの善を提示する」世間です。良いことに、格好良いこととして見せかけるまがい物を提示する「この世」のことです。あえて、この上なき善なる創造主と単なる創られた相対的な善との間には「差がない、一緒だよ」と見せかける世間です。

なんか、「この世の物事だけでは幸せを得ることはあり得るよ、充実な生活したら幸せになるよ、金持ちになったら幸せになるよ、権力と身分を得たら幸せになるよ」といったような偽りの幸せを提示する「この世のこと」です。少ない例ですが、これらを絶対的な善として、つまり理想として提示する「この世」です。一言でいうと、多くの誘惑を潜んでいる「世間」なのです。

現代では特に明白でしょう。「天主の法を犯してもよいよ」と誘っている現代では明らかでしょう。例えば、結婚に関する天主の法を否定する制度を正当化するときは自明です。要は、この世というのは誘惑の原因であり、罪を促す原因なのです。

そして、罪を促す最後の原因は「悪魔」自身です。福音には有名な場面があります。私たちの主は砂漠にいる間の場面ですが、三回ほどに悪魔によって誘われる場面です。私たちの主、イエズス・キリストには、当然ながら「無知」もなければ、「乱れた欲望」もなくて、「悪意」も当然になかったのです。そして、砂漠にいた間に、「世間」も罪への誘惑の原因になることは不可能な状態でした。砂漠には何もないからですね。ですから、福音のこの場面での誘惑の原因は悪魔自体です。そして、時には現に悪魔が人間にも働きかけて誘って誘惑の原因となったりします。


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これから、罪に関する大事な区別について注意しましょう。小罪と大罪という区別です。というのも、罪を考える時、罪の「軽重」で、区別するのです。より厳密にいうと、罪の結果次第で、小罪と大罪という区別ができます。

小罪と大罪という区別はカトリック教会だけにあるのではなくて、曖昧ながらももかなりどこにでもいつでも定着している区別なのです。歴史上、罪に関する誤謬を特に提供したのはプロテスタントですが、トレント公会議の際、罪に関する本来の教義を再断言しました。「罪とは、必ずしも大罪のみではない。罪には小罪もある」。言いかえると、罪には深刻さでいうと軽重の別があると。とても重い罪もあったら、軽い罪もあるということです。このような違いで、小罪と大罪との区別をつけます。

当然ながら、「罪」である限り、天主に対して常に深刻な行為ですが、それでも、罪ごとに、天主の法への違反(の程度)は必ずしも一様ではないので、罪の内容により同じ結果を伴わないので、大小の区別があります。小罪と大罪という区別をするとき、殆どの場合、罪という行為の中身で考えるのです。多くはどういった悪い行為をするかによって、その罪の行為の軽重が決まります。

例えば、無罪の人を殺す罪は、ジョークのために嘘をつく罪と比較ならないほど、前者の方がより深刻であるのは言うまでもないのですね。当然といったら当然ですが、ちょっと笑わせるための嘘と殺人を同じく扱うことは無理です。行為とその中身次第で大小の罪の区別がつけられます。そして、行為の深刻さによって、小罪と大罪という区分で分類します。

第一に、大罪とは一体何なのでしょうか?大罪とは重い罪であります。大罪のせいで、天主との友好関係を失うのです。言いかえると、大罪とは、ラテン語でいうと「死なせる罪」という意味ですが、つまり、文字通りに、大罪とは死を伴う罪なのです。もちろん、ここの「死」は身体の死ではありません。霊魂の死です。これは大事であり、よく理解する必要がありますので注意していただきたいです。

「霊魂の死」とは何でしょうか?霊魂の死は、「霊魂にある命、生命を失うこと」という意味です。そして、「霊魂にある命」とは何でしょうか?「霊魂にある命」は天主ご自身です。洗礼を預かった日に、天主は幼き洗礼者の霊魂にお住まいになることになさったのです。洗礼によって、天主は霊魂において居を構えたのです。つまり、洗礼によって聖父と聖子と聖霊なる天主が現に霊魂に降りて実存することになったのです。洗礼によって「恩寵によって霊魂に居を構えた」と通常にいわれています。


恩寵などについての細かい説明は別の機会に譲ります。それはともかく、簡単にいうと、「恩寵」とは「天主の命に与ること」を意味する言葉です。言いかえると、「恩寵」によって、天主はご自分の命の何かを我々の霊魂に垂れ給うことです。そして、そうすることによって、天主は私たちにご自分の友情の印を現に与えて、その友情を私たちに与えたもうのです。

ラテン語で、友情とは「Convivere」というのですが、直訳すると「一緒に生きる、一緒に生活する、一緒に生命に与る」といったような意味です。本物の友人は「一緒に生きる」のです(実際の場所じゃなくても、距離を超えて心を合わせて)。この意味を天主の次元に運ぶと、愛徳そのものです。

つまり、天主の生命に与り、天主の生命において生きることを、自分の霊魂に天主の生命が居を構えたことを意味して、天主との友情の状態にあるということです。これが恩寵なのです。霊魂においての天主の生命の内に私が生きている時は恩寵の状態にあるというのです。

しかしながら、天主の生命を根絶して霊魂から追い出すことも人間にはできることです。このような行為はまさに大罪というのです。というのも、天主に対して背を向けるほどに天主の法を違反した時の罪です。つまり、そもそも、天主は人々にご自分の生命を垂れるのです。そうすることによって、恩寵によって、人々を(人間の目的である)天主へ向かわせておいてくださるのです。ただ、大罪を犯す時、その人が意図的に天主から逸らすことにします。それは、天主との友情を絶交する行為なのです。そして、自分の霊魂に住んでいた天主の生命を追い出して、殺すのです。これは大罪という行為です。

また、別の言い方をしましょう。ある被創造物を天主より優先するあまりに、罪人は自分の目的を間違って被創造物に置くことにする時、実際にそのことをするとき、大罪というのです。まさに大罪の行為なのです。天主こそは現に目的であるのに、意図的に天主において目的を置かないことにするとき、大罪を犯すのです。

この際、「天主よ、邪魔者だから、あなたを追い出そう。出ていけ」と言わんばかりの大罪を犯す罪人です。また、大罪を犯す時、「ある被創造物を優先して、この被創造物においてこそわが善を置くぞ」と言わんばかりの時です。

そして、具体的に、ある行為はいつどう大罪となるのでしょうか?違反される天主の法の中身が重大である時です。その重大さを知るには、聖書や公教会の教義や教父と神学者の証言などで知られています。要するに、重大な掟が侵されたときに、大罪となるということです。いくつの大罪をご紹介しましょう。一番有名な大罪となり、一番重い罪なのです。

第一に、天主を直接に対象にする罪です。天主に反乱を犯す時、天主の法を違反するだけではなく、また正面から天主を拒み、攻撃する行為となります。当然と言ったら当然ですが、天主を攻撃するのは、天主を拒むことですね。

例えば、涜聖と冒涜の行為は大罪です。つまり、聖なる物事を汚す行為は天主に対する直接な侮辱であります。ある教会に入って汚すのは大罪です。教会を汚す時に、天主を攻撃する行為であるのは自明です。また、宗教を冒涜するのも大罪です。これは、天主と宗教に対して無礼と誹謗をいうことは明らかに天主を直接に霊魂から追い出す行為です。

要するに、これらの罪をはじめ、天主を直接に攻撃する罪は大罪なのです。また例えば、主日の安息の掟を破ることも大罪です。このような掟に関して、日曜日でも人々を働かせようとする社会はどれほど有罪であるか明らかでしょう。社会の責任にもあるのです。つまり、社会、国家、政府は天主への奉仕から逸らすことを促す時、大変です。主日にミサに与る掟は重大であるのに、日曜日、ミサに与らないことも大罪です。

以上のように、第一の大罪の種類は「天主に対して直接に攻撃するような行為だ」ということです。


それから、第二の大罪の大きな種類は、淫乱にかかわる罪です。つまり、みだらな、汚らわしい行為です。孤独で行う行為でも自然に反する行為の時です。つまり、本来の目的から外れた時に、すなわち生殖という目的のためにある行為はその目的から外れた時に大罪となります。

天主を敵にする行為です。もちろん、人間を敵にする行為でもありますし、隣人を敵にする行為でもありますが、ひとまず、生命に対する侮辱であり、したがって生命を創った天主に対する侮辱なのです。天主はそもそも善です。そして、その善の一番具体的な産物は生命を与えることにあります。

ですから、淫乱によって、人間の生命を破壊する人、あるいは人間の生命に反する行為を犯す人は、天主の生命に対しての反乱、侮辱、敵対の行為です。というのも天主は人間の生命には天主の生命を垂れたまわっているから、人間の生命を否定するのは、まさに天主の生命の垂れ流しを無にして、天主の生命を否定する行為ともなります。

ですから、淫乱にかかわる罪は大罪です。本来の目的から離れた行為だから罪となります。つまり、生殖を目的にする行為、つまり、生命を与えるためにある行為なのに、この目的から離れたら、乱れることになって、天主に反乱を起こすことになります。

聖書によると、かなり明白に、しつこいほど、このような淫乱にかかわる行為を断罪します。聖書では、淫乱に陥れる人はいつも地獄に行く運命は明らかに書かれています。淫乱を犯す人々は改めなければ残念ながらも地獄に堕ちます。

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また、隣人を深く傷つける罪も大罪です。例えば、殺人は大罪です。当然と言えば当然ですが、生命という人間の最も大切な宝を破壊する殺人だからです。

深刻な場合、窃盗も大罪です。誰かの大切な物、彼の命に必要な物を盗むことは、深刻な結果を伴うような窃盗は大罪です。というのも、このような深刻な場合、物を盗むことによって隣人の生活を妨げるからです。その意味で、生命を奪うようなものです。

隣人を侮辱することも大罪です。誰かについて誹謗して、その名誉を奪うことは、つまり名声を傷づくことは大罪です。だれでも、社会においてよく生きるためによき名声を必要としています。そういえば報道機関や新聞がどれほど人々の名声を破壊することを好んでいるか周知のとおりです。誹謗によって、ののしりによってでも、名声を破壊することによって、その人の生活、その善い社交を壊して、攻撃するようなことです。時には、隣人の名声を気づくことによって、隣人の生活を無にすることもあります。

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以上、大罪を簡単にご紹介しました。もちろん、大罪になるには、何をやっているかをよく知って、その罪は意図的に行われる前提があります。もしも、何をやっているか完全に認識していない場合、あるいは意図していない場合、大罪とはなりません。

それはともかく、大罪になるには、第一に罪の中身で決まるのです。そのあと、状況ももちろんあって、場合によって罪の深刻さを重くする事情もあれば、軽くする事情もあるし、ときには罪を完全に弁解する事情もあります。

とりあえず、大事なのは、大罪というのは深刻な違反です。「死なせる罪」である大罪は文字通りに霊魂においての天主の生命を殺すのです。その上、なぜ「死なせる罪」と呼ばれるかというと、「永劫」の罰に値する罪になるからです。というのも、大罪を犯した人は天主よりある被創造物を決定的に優先したということですね。そうすることによって、深刻な違反を犯したから、その犯行に値する罰も深刻になります。

この罰は永劫の罰です。つまり、いつまでも終わらない地獄での滞在という罰です。地獄は永遠ではないと時々言われることがあるようですが、地獄は永遠です。この真理は福音に明記されています。私たちの主、イエズス・キリストご自身は「永遠の火、永遠の刑罰」 と仰せのとおりです。

つまり、大罪を犯す罪人は自分の動きで自分が地獄へ飛び込むのです。なぜかというと、大罪を犯すことによって天主を拒絶し天主を霊魂から追い出すからです。そして、そういうことをするということは、まさに自分の動きで地獄に飛び込む行為なのです。天主を拒否するのです。

サタンと同じように「奉仕しないぞ」ということです。「奉仕しないぞ」といったサタンが、「地獄に落とされた」と書いています。厳密にいうと、サタンが「地獄に飛び込んだ」といった方はイメージされやすいでしょう。同じように、深刻に天主の法に違反する人、つまり淫乱を犯す人、天主に対して直接に攻撃するような冒涜や涜聖、また、隣人に対して深刻に罪を犯す人は、天主の法を深刻に犯すので、天主を拒絶して、侮辱して、創造主より被創造物を選び優先することになります。そうすることによって、自分の動きで地獄に飛び込むことになります。「のろわれた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 。

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以上、大罪を簡単にご紹介しました。どれほど重大であり深刻であることは理解いただけたかと思います。聖母マリアは多くの出現の際、特にファチマでの出現の際、三人の子供の前に現れた時、地獄をちょっと見せました。地獄は空っぽではありませんでした。その時、聖母マリアは言いました。「地獄へ落とす罪人のために祈り給え」。「罪人のために祈り給え」と何度もおっしゃった聖母マリアです。それは地獄へ落ちるから祈る必要があります。大変なことです。落ちたら、もう二度と戻ることはありません。

地獄に関してすでにご紹介したとおりですが、地獄には喜びはありません。幸せもありません。
大罪は以上のとおりでした。

そして、小罪もあります。小罪を犯す時、天主の友情を失わないのです。その結果、恩寵、即ち天主の友情は霊魂に残っているママです。ただ、それでも天主の法へ違反があります。そして、天主への侮辱もあることに関して変わらないのです。

ちょっと説明してみましょう。本来ならば、この世においては人は巡礼者のような存在です。目的は天主であり、目的地は至福です。その目的地へ歩んでいく巡礼者です。大罪を犯す時、道を変えることになります。大罪の場合、「この目的地はもういやだ」ということで、道を変えるということです。方向を完全に変えることになります。

小罪の場合、方向を変えることはありません。本来の人間の目的である天主への方向は変わらないままです。ただ、小罪を犯した前と比べたら、善い方向に真っすぐに行くのは微妙にできなくなっているような感じです。なんか、道の途中では立ち留まったりして、あるいは蛇行したりします。具体的に、なんかある趣味に夢中になって歩むことを忘れたかのような感じでありながらも、道を離れることはない時です。このような時に、小罪なのです。


小罪を犯す時、天主の友情、即ち恩寵を失わないのです。従って、恩寵は霊魂において残っているママなので、霊魂は天主へ向かってあるままです。しかしながら、天主への道に相応しくないことに止まっているようなことです。

小罪とは軽い罪です。なぜ軽いかというと霊魂を殺す罪ではないからです。小罪を犯しても、霊魂は引き続きに恩寵によって生かされているのです。しかしながら、小罪を犯したときに、罪が罪のままであり、究極的な目的からちょっと秩序を失った、乱れたことに関して罪のままです。天主に対するちょっとした軽蔑のようなものであるものの、絶交するまでのことではない時に小罪です。

もちろん、小罪を犯したときに、それに値する罰があります。が、有限の罰となります。つまり、時間上、限られている罪だけが課されるのです。ある期間だけ与えられる罰です。

つまり、小罪を犯して罪を償わなかった人がそのままに死んだら、犯した罪の償いを行う必要が残っています。これが煉獄です。煉獄は小罪を償う、小罪にかかわる刑罰を果たす場です。小罪とは以上のような罪です。

例えば一つの嘘が小罪です。余計にちょっと甘い物を過剰に食べた一回は小罪となります。このような時、軽い時、天主の友情を失わないで済みます。このような罪では、被創造物を過剰に「気に入った」かもしれないが、天主をそのせいで忘れることもなくて、天主を見捨てることはない時です。

大罪と小罪との区別は大事です。というのも、大罪を犯した人は天主の友情を失うので、秘跡の効果を被ることは不可能となるからです。大罪を犯した人は速やかに告解に行くべきです。小罪を犯した人は引き続きに諸秘跡の効果を被ることができます。


「罪とは」―意図的に天主の法に違反すること_怠りも罪になるのです 【公教要理】第九十講

2020年05月03日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第九十講 罪とは


道徳の部を引き続きご紹介します。
最初、人間的な行為とは何であるか、人間的な行為の原理原則や基準は何であるかをご紹介しました。その後、「良心」や「法」についてもご紹介しました。次に、「徳」を見てみました。三つの対神徳の他、枢要徳などの倫理徳を見て、人間的な行為を善く実践するための良き習慣なる徳をご紹介しました。

善徳の反対は悪徳です。あるいは罪です。罪についてきちんと学ばなければなりません。まず、罪とは一体何でしょうか?それから、七つの罪原(capitalia peccata)と呼ばれるいくつか個別の罪を見ていきます。そして、ほとんどの場合、罪に先立つ「誘惑」をもご紹介していきます。

今回、まず、罪とは何かを見ましょう。罪の基本的な特徴は「違反」です。罪とは「意図的に天主の法に違反すること」と定義されます。繰り返します。「意図的に天主の法に違反すること」。

前には諸般の法をご紹介しました。天主の法、自然法、実定法などの法です。これらは、法のいかんを問わず、「違反」があった場合、罪となります。「違反 transgression」とは語源的な意味でいうと、「限度を超えて入り込んでしまう」という意味で、「不適切な領域」に入るという意味です。つまり、法が規定することを超えて入り込んで、違反し、罪となります。

罪とは「法に違反すること」ですが、それだけではなく、罪になるために「意志的」「意図的」である前提があります。思い出しましょう。単なる人間の行動ではなく、ある行為が「人間的な行為」になるには条件があります。
第一、知性が必要です。つまり、何をしているのかを「知っている」条件。
第二、そして意志も条件です。ある行為をやろうと思っているということです。意志的に、意図的に、行為を踏まえるときに人間的な行為となります。

ですから、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為だ」といいます。言い換えると、人間が罪を犯すとは、何の行為をやっているかを知りつつ、この行為を意図して行うのです。つまり、罪を犯す時、罪の前提である、自分の行動を完全に認識し、実践している行為の責任を完全に負っているということです。これは定義の「意志的に」という部分の意味です。つまり、「罪を犯した」と言った時、罪人には責任があるのです。

ですから罪とは「意図的に天主の法を犯すこと」です。天主の法は、種類を問わず、違反すると罪となります。天主の法の永遠の法でも、天主の法の自然法でも、天主の法の実定法でも、天主の法の教会法でもそうです。一言で言うと、罪とは基本的に天主の法にたいする違反です。

徳と違って、罪に関して二つの表現を利用することがあります。罪とは行為です。つまり人間が実践する或る行為が天主の法に違反する時、その行為を「罪」といいます。これに対して、「悪徳」という表現もあります。罪とは「一時の個別の具体的な行為」を指します。この行為が犯され、すでにこの行為が終わっているというような語感があります。


他方で、「悪徳」とは習慣です。つまり、ある種の行為の繰り返しを意味しています。たとえてみると、霊魂がある種の行為をついどうしてもやってしまうという意味です。善徳に関して言えば、一般に徳あるいは善徳の行為を言いますが、罪に関して悪徳といいます。悪徳とは悪い慣習であり、悪い傾向です。例えば酒飲みの人は酒を飲みすぎる癖をもち、悪習を持つのです。悪い傾向です。

一方、「罪」とは必ずしも悪い慣習による行為ではありません。時には一時の行為にとどまることがあります。例えば、いつも正直な者、一切嘘をつかない人が、ある日、嘘をついて罪を犯したといいます。このような場合、嘘つきという悪習はないものの、悪い行為を実践して、天主の法に違反したので、罪といいます。
要するに、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」です。

罪は、いくつかの種類で分けられます。この区別はちょっと細かくて退屈なところがありますがやはり大事です。また、このような区別を習うと多くのことが見えてくるのでやってみましょう。

まず、原理あるいは起源において罪を区別することがあります。原罪と自罪という区別です。
原罪とは、その文字通り、原初にアダムによって一回だけ犯された罪です。アダムは全人類の元祖です。教義の部で、原罪についてすでにご紹介しましたが、アダムの一回だけ犯した罪が、子孫である全人類に継がれ、これを原罪と言います。ただ、私たちにおいて、アダムが犯した罪は原罪ですが、自罪ではありません。

自罪と原罪の違いは、自罪とは「個人の責任がある」時です。私が犯した罪なので私がその責任を負う時です。他方、原罪は、全人類の人々の霊魂における痕跡のようなものです。罪の痕跡、なぜかというと、アダムが原罪を犯した時、天主を侮辱したので、天主に対して「負債を負った」かのようになりました。アダムは人類の元祖なので、永遠の天主に対して到底代償できない負債、その債務を子孫に継ぎ、全人類はこの債務を負っているのです。
たとえてみると、父が家族の名で借金したら、亡くなってもその家がこの借金を負う時と同じです。


一方で、自罪は、個人として負う「天主に対する負債」のようです。つまり、人類の元祖としてではなく、個人として負う罪です。一般的にいうと、罪を犯すとは、自罪のことです。具体的にいうと、告解に行く時に「原罪を犯した」と言うことは当然ありません。これは意味をなさないことです。

自罪には、さらに二つの種類が分類あります。現実の罪と習慣的な罪です。現実の罪は一時の、具体的な、限った時間と場所の罪を指します。この罪は一旦犯され、もう終わっています。一回限りです。

習慣的な罪とは、霊魂に残る汚点のようです。一回限りではなく、時には長く続く「罪の状態」を指します。平常に罪の状態にあるという意味です。言い換えると、天主の法に違反している状態が継続的で、常に天主の法に違反している状態にあるということです。

例えば、教会はカトリック信徒に次のように要求します。結婚は、教会で婚姻の秘跡を受ける義務がある、婚姻の秘跡を受けて初めて男女は同居することができる、と。ですから、洗礼を受けた信者が、教会で婚姻せずに同居するなら、「同棲生活」という罪の状態にあるということになります。このようなとき、常に同居しているので、平常に罪を犯しているという状態にあることになります。習慣的な罪です。

現実の罪にはさらにいくつかの分類があります。まず、掟が犯されたので、怠りによる罪と犯行の罪との区別があります。

告解を準備するために自分の罪について反省する際、主に「犯行の罪」を中心に検討することが多いのですが、「怠りの罪」について反省することはよく忘れています。

「犯行の罪」というのは、実際の行為であり、具体的に踏まえる行為の時の罪です。例えば、嘘あるいは不倫あるいは貪食などです。これらの罪は実際に犯す行為であって、犯行してしまった行為です。

一方、「怠りの罪」とは、ある行為をしなかったことによる罪です。ですから「何もやらなかったから罪がない」とは限りません。実際、何も行為しないことによって、「あれこれをすべきだ」と命令する天主の法に違反するのです。ですから、「怠りの罪」といいます。

ある掟を実践しなかった罪です。例えば、教会は洗礼者には灰の水曜日と聖金曜日の日に、小斎大斎を命じています。そして、この二つの日に小斎大斎を行わなかった場合、「怠りの罪」となります。この場合、教会が規定する行為を怠って実行しなかった時の罪です。また、例えば主日を聖とするという教会の掟があります。具体的に、日曜日にミサに与かることによって果たされる掟ですが、理由なしにミサに与からない信徒は「怠りの罪」を犯すということになります。つまり、本来ならば実践すべき行為を実践しなかった罪です。


次に、罪を原因別で分けることもあります。つまり、人間には何のために罪を犯すかによっての区別であり、動機別です。

人間において、人間の三つの能力別に従って、三つの罪の種類があります。
第一の能力は知性です。無知のせいで罪を犯すことがあります。第一の種類です。知らなかったから、罪を犯す。無知にはいくつかの区別があります。克服できない無知もあれば(この時に限って罪にならないのですが)、克服できる時もあります。つまり、ちょっとでも努力したら「知ることができた」のに、面倒だから知りたくないということで、知らないことにして、やるべきことをやらないというパターンが多いです。

このように罪を犯す人はどうなりますか?つまり、掟を知るべきだったのに、知らないせいで罪を犯したという時です。このような場合には、「無知による罪」を犯します。この場合、罪の原因は無知だから、「無知による罪」と呼ばれています。しかし、知っているべきことを知らないのは咎めるべきことです。したがって、無知のせいで罪を犯しても、結局、無知である責任は相変わらず残っているので、罪の責任を負います。

たとえば、想像してみましょう。建築家であるのに、幾何学が知らないからといって作った家が崩れても私の責任ではないというような建築家がいたらどう思いますか。いや、この建築家がいるのなら、有罪ですね。建築家である限り、幾何学に関して知ろうとも知るまいとも、作り上げた家のすべての結果の責任者です。無知によって罪を犯す建築家です。建築家であるから、幾何学を知るべきでした。

第二の罪の原因、弱さです。つまり、ある感情に対する弱さのせいで、意志がこの感情あるいは感覚に流されてしまう罪です。本来ならば、意志は感情を支配すべきですが、意志が弱く感情が勝ってしまうのです。不本意にも感情のあまりにも強い要求に屈してしまい、弱さによって、罪を犯す時です。

次に、これが一番深刻な罪ですが、「悪意による罪」です。この場合、無知のせいで罪を犯すことでもなく、また、激情に負けて感情に流されて罪を犯すのでもありません。意図的に断行する罪です。言いかえると、「罪をあえて望んで犯す罪」であり、あるいは「罪を犯していると知りながらも悔い改めることを頑固に拒絶する罪」です。悪意による罪です。ほかの罪よりも重くなります、なぜかというと、意志まで侵されているからです。意志がすべての行為の根源なので、行為の根源の意志にまで侵されているという意味で深刻です。

さらに、罪の実践様式によって罪の区別があります。体で犯すのではない内的な罪と具体的な行為あるいは言葉での外的な罪があります。内的な罪とは、思いや欲望の罪です。思いと欲望は本当の行為なので、罪を思い望む時、本当の罪を犯します。なぜかというと、外面的な結果がなくても、思いと欲する時、知性と意思が行う本物の行為だからです。何かを意図的に思うのは、「思い」という行為だからです。

例えば、誰かに対しての憎しみの思い、あるいは悪い思いを意図的に思索するのは罪です。内的でも、意図的な行為であるかぎり罪です。そして、現に、悪い思いをあえて思うあまり、外的にも具体的な行為につながることは少なくないのです。例えば、言葉で傷づくことを言う、あるいは無礼なこと言うことにもつながるし、そして場合によって悪しきを犯すことにもなります。

次に、罪の対象別で罪を分けます。天主に対して犯す罪もあれば、隣人に対して犯す罪もあります。また罪を犯している人自身を犯す罪もあります。


後述しますが、この最後の罪はある意味で自分を殺すようなときです。対象別の罪の分類です。例えば、貪食を犯す人は自分自身に対して罪を犯します。なぜかというと、乱れて食べると自分の健康を崩すからです。悪口を言う人は、つまり隣人について悪いことを言う人は、隣人に対して罪を犯すといいます。そして、冒涜する時、天主に対して罪を犯すといいます。このように、罪の対象に従って罪を分類することも可能です。

そして、罪の結果で罪を分類することもあります。小罪と大罪です。次回は、小罪と大罪について詳しく説明します。

最後に、罪源であるかどうかによって罪を分類することもできます。言い換えると、罪により、その罪のせいで、他の罪を犯させる「罪の原因」となる罪もあれば、他の罪の原因とならない罪もあります。前者は「罪源」とよばれています。これらの罪のせいで、他の多くの罪の原因になるからということです。七つの「罪源」に関しては、のちに詳しく説明します。

以上、罪のいくつかの分類をご紹介しました。当然、これらの分類は重なっているところがあります。

最後に罪の定義を総括してみましょう。罪を特徴づけるものは、何でしょうか?
結局のところ、罪を次のように定義できます。「罪とは、天主への正しい方向付けを失った人間的な行為」と。さきほど罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」といいました。まさにそうであり、言い換えると、罪とは「天主に対する正しい方向付けの欠如」ともいえます。
天主のためにあるのではない人間的な行為です。大事なのは、罪という違反は意図的であること、そして、天主の法に違反することという二つの要素をよくおさえておきましょう。

「剛毅の徳と節制の徳」―天使ではなく、人間が実践する徳  【公教要理】第八十九講

2020年04月27日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理-第八十九講 剛毅の徳と節制の徳


四つの枢要徳のうちに、賢明の徳と正義の徳をご紹介しました。枢要徳とは、道徳において、人間の行為を調整する基本的な徳であります。また、あらゆる徳はこの四つの枢要徳を中心に据えているのです。

今回、枢要徳のうちの最後の二つの徳をみておきましょう。剛毅の徳と節制の徳です。この二つの枢要徳は特に人間の行為において感覚を調整するのです。特に現世欲(色欲など)や感情(怒り)を調整する徳なのです。例えば、天使には身体も感情も感知力も感覚もないので、天使には剛毅や節制といった徳がありません。

というのは、天使は身体がないので、身体上のことを調整しなくても済むのです。一方、天使は賢明の徳と正義の徳を実践するのです。が、剛毅の徳と節制の徳は天使にとって基本的に意味をなさない徳なのです。要するに、剛毅の徳と節制の徳は人間においての感覚・身体次元のすべてを調整する徳なのです。

第一に、剛毅の徳を見ておきましょう。剛毅の徳というのは、人間における「怒る能力」を調整します。「怒る能力」というのは、言い換えると、「困難(艱難)の物事に当たる時に使う」剛毅の徳なのです。剛毅という徳のおかげで、我々は困難な難しい事柄を実施することができるのです。時には、大きな苦痛・苦労・犠牲を伴う行為を実践するように助けるのが「剛毅の徳」なのです。

剛毅の徳は「恐れ・恐怖」を退けてくれます。というのも、恐れというのは至難な業・働きの前にいる時、私をこの難しい働きから逸らそうとする感情なのです。また、剛毅というのは大胆を抑制する徳としても大切な徳です。つまり、大胆が剛毅によって調整されなかったら、出来る範囲を超えるところまで実践しようとして、うまく行けないことになってそれもよくありません。

要するに、剛毅の徳は恐れと大胆との二つの激情を和らげて調整する徳なのです。剛毅の徳は恐れと大胆を調整して、中庸を得るように助ける枢要徳です。臆病にならいように、過剰に果敢にならないように。剛毅の徳はこの二つの過剰な境地の間に、常に相応しい中庸を得るように助ける剛毅の徳です。

そして、剛毅の徳は「怒り」を抑制するのです。怒りとは、人間においての感情ですが、何かの障害が現れたとき、怒りの感情によって、この障害を攻撃するように自分を傾かせる感情なのです。そして、剛毅の徳は怒りをも調整していて、困難な物事に対して、苦痛・苦悩を伴う支障などに対して相応しく反応するように、過剰にならないで耐えられないように助ける剛毅の徳なのです。

要約すると、剛毅の徳は、困難(艱難)な働き、犠牲・苦痛・苦悩を伴う行為を実行するように助ける徳なのです。そして同時に、我々における陥れやすい過剰な感情(怒り、恐れ、大胆)を抑制することを助ける徳でもあります。恐れがありすぎると、麻痺となって何も行動できなくならないように。

つまり、剛毅の徳を中心に、付属の多くの徳があります。ある意味で、剛毅の徳の多面の中の一面となる付属の徳なのです。

第一付属の徳は高潔さです。高潔な人は語源の意味でいうと、「広い霊魂を持つ人」だという意味です。つまり、偉業や偉大な行為を常に志す習慣なのです。

第二付属の徳は鷹揚さです。鷹揚な人は気前良い人であり、高貴な事柄のためなら無償に全力を尽くし、献身に身を捧げる人です。従って鷹揚な人は高貴の事柄のためなら、自分の持っている多くの事々を犠牲にしても構わない心を持つ人です。

第三付属の徳は辛抱です。文字通りに「辛さをかかえる」ということです。辛抱の徳のお陰で、苦悩・苦痛・災害・不幸などを受けても耐え忍べるように助ける徳であり、または、苦痛を受け入れるように助ける徳です。辛抱とは、苦しみを受け入れて耐えるということです。ちなみに、辛抱の第一の対象は自分自身です。つまり、(短所や欠陥・欠如だらけの)私のありのままに自分を耐えるということです。それほど容易なことでもないといえましょう。

それから、第四付属の徳は根気の良さです。根気の良さのお陰で、長期にわたって禍害を耐えるように助ける徳なのです。また、忍耐の徳もあります。忍耐と根気の良さは長期にわたっての苦痛を耐えるように助ける徳なのです。根気の良さと忍耐は辛抱と密接な関係にあると同時に、ある意味で時間において、辛抱の延長線にあるような徳なのです。つまり、一瞬だけではなく、長く忍耐するというようなことです。例えば、敵陣によって攻囲されている時、敵に対して消耗戦になるかのように、忍耐強く最後まで耐えるように、根気よく忍ぶように、辛いことが多かろうとも辛抱するように。

剛毅の徳をよく実践する人は支障・障害を単に攻めるような人ではなくて、一瞬攻撃するのではなくて、根気よく継続的に勝利するまでにこの支障・障害への攻撃を続行する人なのです。つまり長い時間において絶えまなく攻めることを続行して、攻撃を続けるという意味です。忍耐は大切です。私たちの主も仰せになった通りです。
「だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる。」

忍耐の徳、あるいは剛毅の徳の実践は「殉教」という行為において特によく表れているのです。殉教というのは、最大の苦しみを耐え忍ぶ行為です。人間にとっての最大の禍は死です。つまり人間にとって一番大切なもの、命が奪われるという意味での死なのです。殉教という行為は、剛毅の徳の実践の内、一番英雄的な行為なのです。


なぜかというと、この世で最悪の禍である死とそれに伴う多くの苦しみを耐え忍ぶ行為だからです。よって、永遠の命のために、天主の生命のために、殉教死を耐え忍ぶ行為だといえます。つまり、この世での命をうしなってまで、この世の命を捨ててまで天主の生命なる永遠の命を得るという決断をする最も英雄的な行為なのです。それが殉教です。そして、本当の意味での殉教死を成し遂げる人は、剛毅の徳の一番英雄的な実践をやるということです。

また、剛毅の徳は殉教する時、他の多くの徳と密接に関係しています。信徳と望徳と愛徳と密接に剛毅の徳がかかわります。というのも、信仰と天主への愛を継続的に保つためにこそ剛毅の徳を実践して殉教を成し遂げられるからです。

また、賢明の徳ともかかわります。殉教を受け入れた人は、身体にかかわる物事と現世を大切にするような過剰な用心よりも、永遠の命の方が大切であることを判断して受け入れてつまり賢明の徳を実践した上に、剛毅の実践の助けをもって永遠の命を選ぶ殉教者です。また正義の徳ともかかわります。殉教するとき、天主に返すべき本来のことを返す行為です。つまり、自分の名誉より、人間の名誉より、天主の栄光を選んだ殉教者は正義の徳を実践します。剛毅の徳はこれらすべての徳を助けます。

当然ながら、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。最近、剛毅の徳について普段、あまり聞こえないからそれについて考える機会も少ないでしょうが、残念ながらも剛毅の徳に対して罪を犯すのも容易です。第一、軽率に行動することによって、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。過剰に大胆であり、思い上がった時に行為するときの罪です。

また、剛毅の徳に対しての逆の罪があります。剛毅が欠如している時です。つまり何もかも恐れすぎて臆病で何も行っていない、何も始まらないで、何もやらないという時の罪です。つまり、剛毅の徳に対して、やりすぎも物足りなくて何もやらないことも罪になります。やりすぎによっても罪を犯せます。剛毅すぎるというか、野望あるいは図々しさに陥いっている時です。



野望の人は、得てして本来ならばできる以上のことを望んでいて行為をやるので、剛毅に対する罪となります。例えば、上司になろうと思う人がいるとしましょう。そして、上司になる能力はないのに、そうなりたいと思う人だとしましょう。このような時の罪です。また虚栄心によって罪を犯すこともあります。これも剛毅がありすぎる時です。

そして、剛毅が足りない時の罪もあります。遠慮すぎる、臆病のような時です。気の弱さとも言います。臆病です。ラテン語の語源を見ると、高潔の反対語で、「小さい霊魂」で、何も偉大なことをやろうともせずに、恐れすぎて何もやらないような。思い切って何か行為することはそもそもないということです。

たとえば、言うべきことを言えないなどです。たとえば、隣人の罪に対して、何かを正直に言うべき時なのに、恐れて言わないような時です。典型な状況は上司が部下に対して部下の欠陥、過ちを指摘しないで、部下の改善と進歩をそのせいで妨げる時でもあります。

また、剛毅の徳に対してのもう一つの罪は浪費癖なのです。鷹揚の徳のとき、相応しく正しく善のために費やすことに対して、浪費癖になった時、過剰に浪費するということです。福音においての放蕩の息子のたとえ話は典型です。彼が持っているすべての財産を浪費して財産をなくすのです。

その逆の罪もあります。ケチになる時、何も尽くさないで何も費やさない時です。冷淡さという罪もあります。剛毅の欠如の時に現れます。つまり、自分にかかわる禍に対しても隣人にかかわる禍に対しても無関心になり、冷淡であるときの罪です。これも罪であり、剛毅に対する罪です。辛抱に対する罪ですね。「構わないよ」という。「無感動」あるいは「冷やかさ」という時です。これも罪です。苦しまざるを得ません。誰でも苦しんでいるのです。だから、苦しむこと自体をなくすかのような態度は罪です。どうしても何もかも苦しみを避ける弱さ。悪に対する無関心になるような罪です。剛毅の欠如です。

逆に、忍耐心がないことも罪です。性急で何も耐えないということで、結局、苦しむことをいつも回避するような罪です。そういえば、忍耐に対する過剰な罪は執拗であります。つまり、本来ならばやめるべき道をどうしても固執に頑固にやり続ける時です。逆の罪もあります。忍耐が欠如している時、移り気という罪です。何かをやり始めた時、すぐやめるような。以上は剛毅の徳に対するいくつかの罪のご紹介でした。
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剛毅の徳の次に、枢要徳の最後の徳、節制の徳をご紹介しましょう。節制の徳は人間においての現世欲を調整する徳なのです。つまり、現世欲とはみだらな欲望への魅力だといえます。言いかえると、五感を過剰に楽しませる物事です。特に味覚と触覚はそうなのですが、すべての五感も同じです。

節制の徳は人間の五感と感覚の乱れる傾向を抑えて、調整するのです。つまり、五感を楽しませる多くの物事に当たって、中庸を得られるように助ける徳です。つまり、相応しい良い楽しみをとるように、そして抑制すべき悪い楽しみを退けるように助ける節制の徳なのです。現世欲の多くの欲望は節制の徳の対象です。特に色欲や身体にかかわる欲望がその対象です。節制の徳の実践によって、調整されて抑制されて相応しい中庸を得られます。

節制の徳の基礎は第一に慎みと遠慮です。つまり、自然に恐れるべきことを実際に恥じうる能力です。はにかむ能力です。ラテン語では慎みと遠慮の語源は赤面するという意味です。残念ながら、現代ではカトリックの信徒の間に至って慎みと遠慮というものがかなりなくなりつつありますが、本来の慎みと遠慮の徳は自然に赤面するような物事に対する警戒心とでも言えましょう。

つまり、やってしまったら恥じるから遠慮する行為を対象にしています。一言でいうと、健全な恥の働きです。節制の徳において、慎みと遠慮の徳があります。また、節制の徳において、基礎として礼節の徳もあります。礼節のお陰で、相応しい慎みを自然に実践するようができます。

節制の徳について語る時にいくつかの区別があります。第一に、禁欲があります。禁欲というのは、主に食べることに関する過剰と欠如を調整する徳なのです。また節酒があります。節酒は飲むことに関する過剰と欠如を調整する徳です。

そして、貞節の徳もあります。貞節というのは生殖に関する行為における欲望を調整する徳なのです。貞節の徳では、それぞれの召命と身分次第にふさわしく、欲望は理性の法に従わせているということです。結婚においての貞節。また童貞もあります。未亡人とやもめの貞節の徳でもあります。



そういえば、貞節の徳と密接にかかわるもう二つの徳があります。現代において特筆すべき徳なのです。さきほど、慎みと遠慮について説明しましたが、羞恥心もあります。あるいは自制心です。つまり、外面的な行為を調整する徳です。視線・服装・言葉・仕業などに関する調整であって、卑猥な行為、下品な快楽にかかわるすべての行為が対象となります。これらの行為は羞恥心あるいは自制心によって調整されて抑制されています。

節制の徳に関して、付属の徳もいくつかあります。寛容、仁慈、柔和、謙遜、謙虚、勤勉などです。これらの徳は節制の徳と密接にかかわっています。その共通点は乱れた過度の欲望を調整して抑制することにあります。例えば、知識の乱れた過度の欲望や五感による乱れた欲望などの欲望を抑制するような徳です。要するに、節制の徳にかかわる多くの徳は人間の欲望を調整するのです。

欲望に関する罪についてまた今度の講座でご紹介する予定です。天主の十誡それから七つの罪源に関する講話の時、改めてご紹介します。とりあえず、節制の徳に対する罪を要約しましょう。

節制が足りない時、欠如するときの罪は「暴欲暴食」あるいは過度という罪になります。節制の徳に対して過剰にある時の罪は無情・無感覚になる罪なのです。「過度」の罪という時に、五感の快楽において何の抑制、何の遠慮なく、快楽を追求するときの罪です。時には、「不節制・過度」のせいで、知性を失うことがあります。

「暴欲暴食」の結果は「精神の目暗み」があります。これは非常に悲劇的な帰結なのです。例えば、いわゆる過度の「食道楽」つまり貪食は典型です。節制の徳に対して過剰に実践することによって罪となりますが、ここでの過剰とは「量において」でもありますし、また「質において」でもあります。例えば美食過ぎて、あるいは食いしん坊になる時など。多くの違う形をとれる過度の「食道楽」なのです。あとは、邪淫という罪があります。貞節に反対する罪です。

これらの罪に陥れないために、苦行を行う必要があります。なぜかというと、原罪以来、我々人間における欲望はよく理性と意志に対して反乱を起こすようになっているからであり、そのため、苦行は必要となります。苦行の積み重ねのお陰で、このような乱れを抑えて、欲望を本来の位置、機能に戻してくれます。つまり、欲望を整理するということで、相応しい程度に欲望を抑制してくれる苦行なのです。そうすることによって、欲望は再び理性に従うことは可能となります。

「正義の徳」―実践するのは難しく、賢明の徳が必要  【公教要理】第八十八講

2020年04月19日 | 公教要理
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公教要理-第八十八講 正義の徳


三つの対神徳なる信徳・望徳・愛徳を見てから、第一の枢要徳である賢明の徳をご紹介しました。枢要徳は四つありまして、これらの四つの徳は一番中心となる徳であるということで、ほかのあらゆる徳は枢要徳を基盤にしています。復習ですが、徳というのは、人間の行為を律する・調節する善い習慣です。そして、第一の枢要徳は賢明の徳です。前回は賢明の徳をご紹介しました。

賢明の徳の次は正義の徳があります。賢明の徳は「具体的な多くの場合において実際に何をすべきかを決めることを助ける実用的な徳」だと説明しました。それから、第二の枢要徳は正義の徳です。正義の徳は我々の意志の完成を助けます。

そもそも正義とは何でしょうか?「正しいこと」は何でしょうか?
フランス語での「Juste(正しいこと)」にはいくつかの意味があります。まず、最も一般的な意味があります。聖書においてもこの意味での正義がよく使われています。私たちの主、イエズス・キリストの推定上の父である聖ヨゼフについて、この意味で「正しい」という言葉がつかわれています。「夫のヨゼフは正しい人だった」(マテオ1.19) と福音書に書いてあります。ここでの「正しい人」の意味は「義化」された人だという意味です。つまり、恩寵によって義化されたという意味です。要するに「正しい人」は「聖寵の状態にある人」であります。つまり「聖人」の定義そのものです。
枢要徳の一つである正義の徳という時、以上の神学上の最も一般的な「正しい人」の意味ではありません。正義の徳の場合、正義は別の意味でつかわれています。

枢要徳である正義の徳は意志を完成させます。正義の徳は「各人に彼の本来の分を返すこと」あるいは「各人に彼の本来の恩に報いること」という定義になっています。この上なく政治的な徳なのです。なぜかというと人間同士の関係を調節する徳だからです。また後述しますが、人間同士の関係だけではなく、人間と天主との関係をも調節する徳なのです。要するに、正義の徳は正しい人間関係を律して、そして、正しい接触を助けて、そして人間同士の間の物事に対する中庸な態度を助けて、人間同士の間の物事の正しい管理を促す徳です。

「各人に彼の本来の分を返すこと」。これは正義です。正義の徳の対象は、返すべき「善」です。つまり、正義の徳は隣人を対象にするのではなく、隣人に返すべき「善(恩、物等々)」を対象にしています。だからこそ、正義の徳はまさに隣人との関係を調節するのです。具体的な例をあげましょう。例えば、何かの物を貸してもらったとき、正義の徳が要求するのは、その借りた物を貸主に返すことです。単純なことですが。例えば勉強のためか、なんでもいいですけど、私の友達が本を私に貸してくれたとしましょう。この本は私の本ではないのです。貸主の本ですので、この本を貸主に返すべきです。このように実際に本を返したときはこれが正しい行為です。公正です。だから、正義の徳というのは、隣人・人々を対象にするのではなく、人間同士の関係、このような事柄・善等々を対象にしています(物理的であろうとも、でなかろうとも)。

また、現代では経済の分野に関して正義の徳は多く働くのです。ある程度の正義がないと経済が成り立たないのです。言いかえると、それぞれの人々に彼の本来の善・財産・物事を返すべきです。
従って、人間同士が共通している多くの「善」(広義の善であり、物質的な財産もあれば、非物質的な事柄はふくめている。例・名誉、地位、資格、敬意などなど)の間に、ある程度の等価値を見出して、それぞれの人々にそれぞれの返すべき善を実際に返すことは正義の徳の実践だということです。
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正義は三つの種類に分けることができます。人間同士の関係の種類次第で、これらの種類の正義が分けられています。正義に関する話はデリケートになっているのはまさにそういうところです。というのも正義の徳は前述したとおりに、人間同士の関係を調節するものです。が、同時に、人間同士の関係は正しいといえるには、交換されている「善」が善く渡されるかどうかでも決まります。交換される対象だけではなく、交換のやり方の正しさもあるわけです。だからデリケートです。

個人個人の人々が物事を交換する際 、個人あるいは共同体同士の関係を「私法的」に管理する場合、自治的に調節する場合、この第一の種類の正義は「置換的な正義(計算的な正義)justitia commutativa」と呼ばれます。つまり、対等関係を調節する正義の徳です。

例えば、二人の兄弟がいるとしましょう。そして、この二人の兄弟の間の関係は兄弟同士だけで調節する物事に関するときは「置換的な正義(計算的な正義)justitia commutativa」になっています。あるいは、二つの当事者の間に契約が結ばれたとき、まさに典型的です。いわゆる「民間・私法・民法」的な関係の時です。「置換的な正義」といいます。

要するに、二つの当事者、あるいはあえて言えば「個人」、共同体は自分の動きで何かをお互いに約束したとき成立する関係の時です。この関係をよく調節するには通常ならば契約なり、何かの制度なりがあります。そして、この場合の関係における正義の徳というのは、約束した通りに、それぞれの当事者に与えるべき物事を与えることです。

例えば、保険契約の場合、保険を押印する被保険者が保険者に決まった保険料を払う義務があります。しかしながら、同時に、契約をサインした保険者にも義務が生じて、契約の条件通りに、補償金などを支払う義務があります。実際に、これをやる時、それは正しいことです。つまり、契約という形でも、二人あるいは二つの当事者が約束をした結果、その約束を果たす義務があるのです。正義の徳によって調節される関係としての契約・約束です。約束した通りに義務を果たすとき正義が全うされるということです。当然ながら、不正な契約もあるわけです。だから、不正な契約の場合、約束したからといって、約束したとおりに果たす義務がなくなります。しかしながら、公平に公正に交わされた約束の場合、約束したことを果たす義務があるのです。公正な契約だったら、約束を果たすべきです。これは「置換的な正義」と呼ばれます。現に、約束通りに果たした時の行為は「正しい行為」です。

繰り返しますが、正義の徳は人間同士の関係を調節する枢要徳なのです。しかしながら、人間は社会において必ず生活しています。従って、位階制も必ずあって、それから地位・権限・権威・権力を持つ人々がいるということです。これらの人々は共通善の世話をして、共通善を特に大事にする使命を持つ権力者たちです。また、「頭」、指導者の役割は下にある人々を共通善に向かわせる使命があります。そして、「頭」が行う特別の正義の徳があります。

「部下・臣下・下の人々のそれぞれに名誉・善などを返すべきだ」という正義の徳です。つまり上に立った時の上下関係を調節する正義の徳です。これは「配分的な正義」と呼ばれます。例えば、社長は従業員それぞれに与えるべき物事を与える義務があるのです。実際にこれをやる時、これは正しいことです。例えば「正しい給料」を与える義務とかです。また社長はそれぞれの従業員に「相応しい敬意、相応しい名誉、相応しい慰労」を与えるべきです(その仕事・立場次第にという意味ですね)。これは正しいことです。


だから、いかなる社会においても(会社を含めて)名称・敬称・肩書などの存在理由は正義を全うするためにあるということです。これらの身分、敬称、品位、名誉などは正当であり、正義の徳によって調節される必要があります。そして、特に、上下関係で正義を全うするために調節するのは上司、頭、上の者の役割です。配分的な正義と呼ばれています。なぜかというと、共通善の一部、あるいは共通善の配分に与る(必ずしも物質的ではなくてもいいですが)、共通善を享受させることは上の者の仕事ですから、「配分的な正義」といいます。例えば、賢者は政府に立つのは、正しいことであり、正義にかなうことです。一方、愚かな者は政府に立つのは正しくないことであり、正義にかなわないことで、相応しくないことです。不正です。「配分的な正義」ですね。

だから、上に立つ人々、上司、頭、元首などは正義に対して深刻に罪を犯しうることは理解いただけるかと思います。例えば、本来ならば配分すべき物事を独占してしまう上の者は正義に対して罪を犯します。あるいは、公正に配分すべき物事を人々の間に公平公正に配分しないとき、上の者は正義に対して罪を犯します。あるいは、それに値しない人々に、名誉・敬称などを与えたり、あるいは為政者に適わないで相応しくない人々を政府・指導者の立場に寄せたりすることも、上司・上の者の正義に対しての罪です。

第三の種類の正義の徳は、配分的な正義との逆の立場の正義の徳なのです。つまり、遵法的な正義のようなものですが、下からみた上下関係を調節する徳です。つまり、上の者、あるいは共通善、それから共通善の一環である本物の法に対して下の者が本来、返すべきことを返すことです。一言でいうと、共通善への各人の参画ということです。「遵法的な正義」の具体例でいうと、職人あるいは労働者は与えられている業務を果たすべきだというようなことです。正しい職人なら、自分の仕事を実際に果たすのです。

以上、正義の徳の三つの種類をご紹介しました。非常にデリケートな正義の徳だということが理解いただけたと思います。
どこの社会においても正義の徳が不可欠であり、なければ社会は成り立たないのです。正義の徳が実践されない社会は完全に崩壊するしかないのです。無秩序と乱れになります。まさに、正義の徳は人間同士の間の関係を秩序付けて、社会を秩序づけて、社会を整えるのです。というのも、人間同士の関係と人間同士の間に交わされる多くの「善」を調節する正義の徳ですから、社会にとって死活にかかわる徳です。

正義の徳がなくなった社会は解体して崩壊します。それは鉄則であり、正義が侮辱されて侵されたら、社会は破滅へ向かうのです。これは必然であり鉄則です。残念ながら現代社会では確認しやすい事実です。多くの社会は、ほとんどすべての社会は破滅へ走っているのです。というのも正義の徳は実践されなくなっているからです。

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要約すると、正義の徳を実践するのは難しいことです。同時に、非常に大事な不可欠な肝心要の徳となります。前回にもご紹介したように、正義の徳には賢明の徳によって調節される必要が当然にあります。

正義の徳においては、「潜在的な正義の徳がある」といわれています。言いかえると、正義の徳の中に、ほかのいくつかの正義の徳があるということです。つまり、全体の正義の徳を実践するに際して不可欠になるいくつかの他の正義の徳を指すのですが、残念ながらこれらのいくつかの徳だけでは正義の徳を実践することはできないということです。

例えば、正義の徳の基本の定義を思い出しましょう。「各人に彼の本来の分を返す(報いる)こと」と。しかしながら、ある相手に対して、本来ならば返すべき分を返せない事実がよくあります。そもそも与えすぎてくれたから到底に返せないこともあります。つまり、もらった分のすべてを返すことはできないという時です。

ですから、この場合、正義の徳を実践するのは、私の力でできるだけ返しつくすのですが、完全に正義を全うすることは不可能だということです。この場合を指して、完全に完璧に正義の徳を実践していないから、そして完全に実践することは不可能だから、「潜在的な正義」と呼ばれています。

例えば、孝行の徳があります。それから、「宗教の徳」もなおさらのことです。宗教の徳は、つまり、天主のために礼拝して、儀式を捧げることであり、もっとも正しいことです。というのも、天主は私たちにあらゆることを与え賜った存在です。天主より生命、身体と霊魂、大自然、多くの善と恵を与えて、天主のおかげでつまりすべてを享受しています。


だから、当然ながら、正義の徳を実践するために、天主にできるだけ、その本来の分を返すべきです。つまり、天主と人間の間に絶対な不平等があるからといって、下から上に何も返さなくてもよいわけがありません。いや、できるだけ、力が許すだけ、その分を返すべきだということに関して変わりません。

詩編にあるように「私に与えられた主の恵みに、何をもって報いようか」(詩編116、12)。当然ながら、このような関係だと、「完全に」返すことは到底ありえないことです。それでも、できる限り、天主にその本来の分を報いるべきです。返すべきです。その恩を報いることです。これは正義の徳の一部、潜在的な部分であり、「宗教の徳」と呼ばれています。

同じように孝行の徳があります。両親をはじめ、先祖に対して、それから国に対して。親に対して完全に彼らの本来の分を返してその恩を報いることはできないのです。生命を親か与かったことはは完全に返すことのできない善です。しかしながら、できる限り、力の許す限りに、孝行を実践すべきです。要は、先祖から受けた恩に報いるということです。それは、親に対して従順であることによって、あるいは犠牲を払うことによって、または老人になると親が必要とする世話をすることによって。これらの行為は正しい行為です。

そして、このような行為によって両親からの恩に報いないことは正義に対する罪を犯すことになります。しかしながら、親からもらったほどの物事を親に返すことは当然ながら不可能であり、無理なことです。同じように良い意味での祖国から無数に多くのことをもらっています。文化、文明、周りにある社会など。当然ながら、これほど多くの恵みを返すことは無理です。しかしながら、できるだけ、力の許す限りにその恩に報いるべきです。引き継いだ文化・文明などを守り、活かし、伝えていくことによって、それから、引き継いだ宝を増加することによって。そして、共通善のために(公のために)できるだけ善く多くに報いる努力を尽くすことによって。これも孝行(忠君)の徳です。

宗教の徳、孝行の徳は大事な徳です。そして正義の徳の一環であることは以上のように見たとおりです。まさに枢要徳の在り方を理解いただけたかと思います。あらゆる徳は、この四つの枢要徳を基盤にしています。できるだけ、各人に本来の恩に報いるという正義の徳です。

それから、当然ながら、そして残念ながら、正義の徳に対して罪を犯すことはあります。現代の社会を見たら悲惨なほどに確認できることです。
まず、隣人の権利を侵すことによって正義の徳に対して罪を犯すことがあります。例えば、生命に関する権利。殺人は正義の徳に対する罪です。正当な理由なしに隣人を殺すのは正義に対する罪です。不正です。深刻な不正です。目に余る不正です。堕胎は深刻な不正です。というのも、生命というのは人間から受けただけではなく、天主より与えられた宝ですから、殺人は人間に対する不正だけではなく、天主に対する不正でもあります。

また、同じように無罪の人を罰することは不正です。例えば、無罪であるのにその人を投獄させることは不正です。なぜ不正でしょうか。無罪の人に本来、与えるべきこと(ここで自由)を奪うから、正義に対する罪です。無罪の人を投獄させるのは無罪の人の自由を奪うことを意味します。現代の社会は「自由万歳」を唱えながら、あらゆるところで自由はどんどん奪われつつあります。

また、名誉に値する誰かの「名誉、名声」を破壊することも不正なことです。あるいは、栄光に値しない人に栄光に浴させることも不正です。詐欺師を讃えることは当然ながら不正なことです。同じように、正しい者を誹謗するのも不正なことです。隣人の良き名声、値にする名声を傷つくことは不正なことです。同じように、隣人の保有物を奪い、盗むことは不正なことです。残念ながらも、現代社会は目に余るほど不正なことが蔓延しているのです。

また、例えば、何の理由なしにある人を昇級・昇進させるようなコネ、あるいはえこひいきのようなことは、配分的な正義に対する罪です。
要するに正義に対して罪を犯すのは意外と多くてよくある話です。例えば、無宗教であることは正義に対する罪です。無神論は、それからいわゆる政教分離は天主に対しての深刻な重い罪です。宗教の徳に対する重罪です。宗教の徳に関して、いずれか天主は罰することになりますが、この報復はとんでもなく大変になってきます。


親に対しても祖国に対しても反旗をひるがえすというのは不孝であり、重罪です。祖国や文明が善い場合、両親の行為が善い場合、それらにたいして反乱を犯すのは重罪です。そういえば、国々の為政者・元首・指導者が行う不正の報いをいずれか受けざるを得ないということは自明でしょう。また、嘘をつくのは不正なことです。各人に返すべき真理に対する不正です。約束したことを果たさないことは不正なことです。偽善者であることは不正なことです。偽善者とは「自分のありのままではないように見せかける行為」ということです。つまり、外に嘘、本物ではないことを見せかけるのは不正なことです。

感謝しないことは不正なことです。というのも、善をもらったとき感謝するのは、ある種の償いだからです。忘恩という罪です。過剰に寛大であることも不正なことです。というのも、過剰に寛大である人は犯された罪・過失を償わないから不正なことです。欲張り・吝嗇・ケチであることはある種の不正です。というのも、ほとんどの場合、ケチだと、隣人に返すべきある善を与えないということを意味していますから。

それから、冷酷さ、言葉において荒々しさ、へつらい、友情における移り気などなど、不正の一種です。残念ながらもだれでも常に経験している不正ですね。正義の徳を実践するのは本当に難しいことであり、賢明の徳をかなり必要としています。どれほどそれらの枢要徳は結合して密接な関係にあることは理解いただけるかと思います。つまり、我々においてそれらの徳は完成されるために、一緒に今こそ同時にそれぞれを実践して、働くときです。


「賢明の徳」―四つの枢要徳の妃  【公教要理】第八十七講

2020年04月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十七講 賢明の徳


信徳、望徳、愛徳からなる三つの対神徳を見てから、これから、枢要徳と呼ばれている徳をご紹介していきたいと思っております。
枢要徳とは対神徳ではありません。なぜかというと、天主を直接に対象にする徳ではないからです。枢要徳の対象は基本的にこの世にあって、被創造世界の内にあるための徳なのです。「道徳的な徳」だと区別されています。なぜかというと、具体的にどう行為すべきか(それは道徳の分野ですが)を決めるために助けてくれる徳なのです。道徳という語源は「風俗」にあり、「振る舞う、行為する」という意味です。

そして、道徳的な徳に属する徳は非常に多いですが、いずれか四つの基本的な徳に帰することになります。その四つの基本的な徳を指して、「枢要徳」と呼ばれています。なぜかというと、ラテン語の語源は「Cardo」ですが、これは扉の「肘金」という意味で、まさに「とぼそ(枢)」という意味です。その「肘金」で扉が開閉するように、すべての道徳的の徳は枢要徳を枢軸にしています。

枢要徳には四つからなっています。道徳生活の全部は四つの枢要徳を中心に展開しているということです。枢要徳が四つあるのは、原罪によって我々の四つの大事な能力が傷つけられているためであり、その大きな傷を治すための枢要徳なのです。四つの枢要徳は次の通りです。すなわっち賢明の徳、正義の徳、剛毅の徳、節制の徳です。

賢明の徳とは我々の「実用的な理性」を律する徳です。つまり、具体的な場合に何を決めるべきかを助ける徳です。
それから、正義の徳は意志を律する徳です。つまり、善へ意志を傾かせることを助ける徳です。
剛毅の徳は艱難において感情などを善に向かわせることを助ける徳です。
最後に、節制の徳は欲望などの抑制を助ける徳なのです。以上の四つの枢要徳を基盤に、ほかの多くの徳があります。公教要理においては枢要徳を中心にご紹介することにとどめます。取り敢えず、枢要徳を一つずつご紹介しましょう。

第一の枢要徳は賢明の徳です。枢要徳の内に一番大事な徳だといえましょう。
賢明の徳とは、「正しい基準に基づいて具体的な一つ一つの場合に、何をすべきかを決めることを助ける徳」だという定義です。要するに、公教要理において教わっている多くの原則、原理、信条などを実際の場合に適用することを助ける徳です。

というのもそれらの原理は普遍的なので、そのままの形で賢明の徳に頼るということです。つまり、賢明の徳のおかげで、「Hic et nunc」つまりここ、今、何をすべきかを決めて実行します。つまり、具体的に、今、ここの固有の場合においてどうすべきだろうかということです。

要するに、賢明の徳によって、人生においての多くの具体的な場合にあって、何をすべきかを決めて実行することを助ける徳であります。言い換えると、賢明の徳は現実において、実際の場合、そして具体的な事情に置かれて、普遍的な原理をどう適用すればよいかを明らかにするための徳です。というのも、不動なる不変なる普遍的な原理を適用するのは容易なことではありません。だから、賢明の徳というのは、実用的な理性の完成を助ける徳です。なにをすべきかを教えてくれる徳です。

そういえば、賢明の徳を抜きにして道徳的な徳は存在しないのです。ちなみに、賢明の徳を指して「枢要徳の妃」と呼ばれることが多いです。なぜかというと、もちろん、剛毅、正義、節制に従って行為しなければならないのですが、結局、すべてにおいて、具体的な固有的な場合に適用すべき徳だとして、賢明の徳をも必ず作用するのです。

要注意なのは、適用するからといって、それらの徳や原理は変わることはありませんよ。ただ、事情に合わせて最適にそれらの原理原則を活かすという意味です。
したがって、正義、剛毅、節制を作用する際、それらの事情を考慮するという意味で、賢明の徳も作用しています。つまり、必ず、賢明の徳はかかわってきます。

例えば、節制するように頑張る人が断食することにするとしましょう。その時、賢明の徳は問います。「断食することは可能ですか」つまり、健康を考慮するという意味での可能性。それから「断食しても君の使命を果たし続けられるだろうか」と問います。「断食したら病気になるかどうか」と問います。たとえば「断食したら、相手のために果たすべき義務を果たしうるままになるだろうか」と。などなど。
要するに、節制の徳を適用するときに、賢明の徳は節制の徳を律することになっています。

全く同じく、賢明の徳は正義の徳を律するのです。たとえば、「ある物をある人に返す義務がある」としましょう。「自白して返すべきどうか」「そのもの自体を返すべきか、あるいは違う形でかえすべきか」、事情を考慮するとき、賢明の徳は働きます。従って、賢明の徳はすべての徳の妃なのです。賢明の徳がなければ、他の徳を作用することは不可能となりますから。

賢明の徳をよくうまく作用するために、三つの点が必要となります。つまり、完成された賢明の徳を作用するには三つのことが必要です。賢明の徳には次の三つの要素は不可欠なのです。それは、助言力、判断力、実行力という三つの要素です。
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助言力は賢明の徳の第一の段階だといえましょう。相応しい人から助言を得る段階です。ときどき、何をすべきかについてわからない時があります。自分の理性と経験だけで判断しかねる場合が少なくないのです。だから、相応しい人々に頼って助言を得ます。国王などが「輔弼」を仰ぐということはまさにその意味です。「輔弼会」を設けて、諫言、助言、顧問を聞かせます。それぞれの意見を聞かせてくれます。だから、「賢人」に頼って、豊かな経験のある先輩や老人の助言を求めるのは普通です。そういえば、聖書においてこのような場面があります。ソロモン国王の死後、新しい若き王は年長者たちに頼って助言を得ることをやめて若手からの助言を得ることにします。つまり、経験のない英知のない若手の顧問を受けることにします。案の定、結果は悲惨となりました。

しかしながら、助言を得たからと言って、それだけで賢明に行為したことにならないのです。次の段階は、賢明の徳を作用しようとしている人が判断する必要があります。多くの助言と意見の内に判断して選ぶ必要があります。判断して何をすべきかを決めるという判断力です。それは容易なことでもないのです。なぜかというと、判断する人は判断するときに独りぼっちです。彼の代わりに誰も判断しえないのです。助言を受ける時、多くの人々に囲まれているのですが、判断する際、自分の心において一人で判断することになります。統治者は所詮、多くの諫言や顧問や助言を受けて、どうするかを自分で判断するしかありません。彼が責任者なのです。

で、判断したときに、まだ賢明の徳を完全に作用したとは言えません。第三段階として、判断を実行すべきです。だから、完成なる賢明の徳は、ある個別の行為において完成されています。助言を得た上に判断したことを実行したときにこそ、賢明の徳の作用は完全に完成されました。賢明な人はこのような人です。要するに、助言を得た上に、何をすべきか判断して、実際に行為において実行した人です。

賢明の徳というと、個人的な徳として存在します。つまり、自分の人生において何かについて決める場合、助言を得て判断して実行するときです。しかしながら、同時に賢明の徳は政治的な徳でもあります。賢明の徳は統治者の一番肝心要の徳となります。本物の「頭(かしら)、君」は賢明な人でなければなりません。善き指導者は善き側近を作って、善き助言者に頼るという。非常に政治的な徳なのです。というのも、賢明の徳のおかげで、統治者は善き命令、善き法律を決めて実行できるということです。

賢明の徳に対する罪があります。徳が欠如する場合の罪と徳が過剰な場合の罪があります。つまり、賢明の徳が欠如する場合の罪です。助言を得ないですぐに決めてしまうということで「あわただしくなる」という。言い換えると、助言などを得ないで、あわてて判断して実行するという罪です。第二の欠如は軽率なのです。判断力が足りない時です。第三の欠如は移り気ということです。つまり、判断したのに、実行が中途半端に留まって判断を取り消して別のことを判断するような。第四の欠如は実行においてぞんざいに実行するという。

それから、賢明の徳が過剰な場合の罪もあります。賢明すぎる時です。第一、「肉体の賢明」という過剰罪があります。つまり、物質的あるいは世俗的な利害を重んじすぎるせいで霊的な利害を無視する罪といいます。つまり、天主の名誉を第一に考えるよりも周りの人々はどう考えているかを気にしすぎるような罪。「肉体の賢明」と呼ばれています。場合によって深刻な罪になることもありますよ。

それから、詐欺という罪です。相手をごまかすときです。

それから世俗においての「過剰な配慮」という罪もあります。肉体の賢明との共通点もありますが、つまり、自分の「イメージ」あるいは「評判」に配慮しすぎる時です。いわゆる経済でいう「レピュテーション」というやつですか。なんかの「ブランディング」というやつですね。この世の利害だけを考えて、世俗的なことだけを考えて、配慮しすぎる時です。周りの人々にどう思われるかどう見えるかに配慮しすぎる罪です。

最後に世俗的な、この世的な「将来に関する過剰な配慮」も罪です。つまり、この世での将来について全力を尽くしているのに、天国に入るための準備を忘れるような罪です。要するに、天主のみ前に良くいられることよりも、この世においてよくいられるために配慮しすぎる時です。賢明の徳の過剰です。

以上、賢明の徳をご紹介しました。


「愛徳」―隣人への愛徳:天主において隣人を愛するとは  【公教要理】第八十六講

2020年03月31日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十六講 隣人に対する愛徳


「イエズスは〈すべての心、すべての霊、すべての知恵を上げて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。」(マテオ、22、37)
そして、私たちの主は続きます。「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」 (マテオ、22、38 )
天主への愛徳と離れられないのは、隣人への愛徳です。忘れないようにしましょう。天主への愛と隣人への愛は同じ愛なのです。隣人への愛徳は本当の意味での愛徳であり、人道主義のような、博愛のようなものではありません。というのも、ヒューマニズム(人道主義)というのは人のゆえに人を愛するに過ぎないからです。しかしながらここでの愛徳という愛は天主を愛するということです。だから、人道主義は愛徳ではありません。さて、隣人への愛徳は一体何なのでしょうか。

隣人への愛徳の内に第一に来るのは、一番近い存在である「自分自身」への愛徳です。「自分自身」を愛すべきです。自分自身の有りのままに自分を愛すべきです。また、天主は自分のためにお望みになるありのままの自分自身を愛すべきです。もちろん、自然次元においても、「自愛」というのは存在しますね。自然に誰でも自分自身を愛する本性を持っています。自然に(本性的に)その傾向があります。本能的に自分自身を愛するのは自然であり、普通であります。それ自体には問題がなくて、罪ではありません。

罪になるのは、自分自身を「悪く」愛することは罪ですが、自分自身を普通によく愛するのは極自然で正常です。善き天主は私たちを創造し給ったのです。そして、創造し給ったのですが、善き存在として創造し給ったのですから、我々は善き存在であるとして自分自身を愛する義務があります。しかしながら、自分自身への愛、つまり自愛は本当の意味で善き愛になるために、本当に愛徳になるために、自分自身への愛徳をも活かすことは大事ですし、これは隣人愛の最初ですし、要するに、自分自身への愛は聖でなければなりません。

「聖」といった時に、「天主のために」という意味です。それをよく理解する必要があります。自分自身は宇宙の全体でもなんでもなく、自分自身は宇宙のごく一部にすぎない存在なのです。そして、自然なことに、本性的に、一部は全体の善のために向かわせられている事実があります。で、天主はあらゆる物事のこの上ない最善であります。また、天主はあらゆる物事の共通善なのです。全体の一部はその全体のために存在するということです。言い換えると、ある固有の善は共通の善のために存在してそのために向かわされている、その共通の善のために秩序付けられているということです。

従って、自分自身への健全な愛、それから聖なる愛というのは、全体の一部として自分自身を愛するということです。そして、その全体は人類だけではありません。それを超えて、ある共通善、天主がお望みになった究極的な目的地のために方向づけられている、そのために存在する一部としてです。このように自分自身を愛するように努力しましょう。

たとえてみると、身体の経験で類似するところがあります。例えば、地面に転んだとしましょう。どうなるでしょうか。本能的に、幸いにも何も考えなくても反射的に、手はある意味で自分の動きで出されて身体という全体を支えようとします。手は場合によっては危険にさらして危害を受けてまで全体を支えようとします。また同じように、身体において一番貴重となる頭は何かにぶつかりそうになるとき、あるいは頭に何かぶつかるのではないかと予感している時、反射的に本能的にある意味で自分の動きで手が出て頭を守ろうとしますね。要するに、一部はその全体に使っている、「奉仕している」のです。全体のために存在するのです。

従って、自分自身への愛というのは、共通善という全体のゆえに愛するという愛でなければなりません。そして、私たちの究極的な共通善は天主です。従って、その意味で一番近い隣人である自分自身への愛徳は天主への愛徳であるのです。自分自身よりも遥かに天主を愛するゆえに自分自身を本当の意味で愛しうるようになるということです。全体の一部として「自分自身を愛しうる」ということです。

要約すると自分自身への愛徳は聖でなければなりません。聖なる愛なのです。それから、正しい愛でなければなりません。言い換えると、悪のための愛ではなく、善のための愛でなければならないという意味です。それは当然ですが、「悪」を望むたびに、結局どうしても「自分自身を敵にする」という結果を産むのですから悪を愛するなんて不可能です。「そうでもない」と思い込んでいても、結局、悪を望む時、天主を敵にすることであって、自分自身を敵にしています。その結果、自分自身への危害を加えるようなことです。

それから、第三、自分自身への愛は真でなければなりません。要は、善を目的にすべきだけではなく、清廉な善を目的にしなければなりません。それは、自分自身を一番効率的に完全に自分を完成させる善を目的にすべきだという意味です。「善」の定義ですが、そもそも「善」というのは、自分自身のために何かの「得」を与えるものは「善」と言います。善の種類は三つあります。快楽の善、有用の善、清廉の善があります。清廉の善とはまさに「聖徳」であり、自分を発展させる完成化させる徳であり、自分のすべての能力などを完成化させる聖徳です。
要約すると、自分自身への愛徳は、聖、正、真なる愛でなければなりません。

そして、残念ながら、こういった自分自身への本来の愛徳は、原罪以降の人間における深い傷である「三つの現世欲」にぶつかるのです。これは人間における三つの乱れ(反乱)だといえましょう。誰でも経験したことですが、心においての三つの反乱は、傲慢、快楽(肉欲)、強欲なのです。

傲慢という現世欲のせいで、自分自身を究極的な目的にしてしまうのです。自分自身が全体の一部である現実を否定させる傲慢です。「Non Serviam(奉仕しないぞ)」とサタンが言いました。これこそはサタンの大罪なのです。傲慢の罪でした。また、天主への憎しみという罪でもありました。天主はあらゆる被創造物の善と目的と全体であるのに、サタンは天主を憎しみ、サタンが自分自身を絶対なる目的にしてしまい、不可能であるものの、自分自身を「全体化」させようとする大罪を犯しました。つまり、現実に反しているものの、サタンは「何に依存するものはないぞ」としてしまいました。

そして、残念ながらも、私たちの心において、どうしてもいつまでも原罪の傷である傲慢がいつまでも多少残っています。その傲慢という現世欲のせいで、自分自身を過剰に愛する傾向が生じて、自分自身への愛はそのせいで、聖でなくなり、正でなくなり、真でなくなります。以上の原罪による大傷に対して、我々は常に抵抗し、戦うべきです。傲慢に対して戦うために、「従順」という徳があります。要注意なのは、本物の「よき従順」という意味であり、要は「天主への依存」としての従順という徳です。

第二の原罪による心においての大傷は「肉欲」なのです。「不正なる快楽」をさします。言い換えると、人間における下等なる諸能力(動物的な能力など)は上等なる能力に反乱を犯すような、下等なる能力が上等なる能力を無視して下等なる能力の善だけを望むという第二の現世欲なのです。別の次元でありながらも、反乱として乱れとして傲慢という現世欲と同じような乱れなのです。要するに、感覚をはじめ、下等なる諸能力は理性を無視して、理性の外に、これら固有の善のみを望んでしまう乱れなのです。その意味で傲慢と同じです。感覚は「自分が全体であり、何にも依存するものはない」と言っているかのようです。

つまり、人間における感情・激情などは反乱を宣言して、「我々は自律であり、理性の指導がなくても、知性の光がなくても、意志による拘束がなくてもよし、我々だけで自立できて全体である」と言っているかのようです。これはいわゆる肉欲(快楽)という第二の現世欲です。そして、その肉欲に勝ち取るために、「従順」というよりも、理性などは下等なる諸感覚を支配すべきであり、本来の立場にそれらの反乱者に戻すべきです。下等なる諸能力は上等なる諸能力の下にあるように常に我々は努力しなければなりません。そのための武器は禁欲であり、苦行であります。

最後に、第三の大傷である現世欲は強欲なのです。つまり、傲慢は自分自身を間違って絶対なる善としてとらえさせる傷です。肉欲は自分自身においての下等なる諸能力(感覚、感情など)を間違って絶対なる善としてとらえさせる傷です。強欲というのは、自分自身の外にある何かを間違って絶対なる善としてとらえさせる傷だということです。その意味で、下等なる諸能力よりも下等である物質的な何かにおいて善を置くという現世欲なのです。

残念ながらも、現代の社会を見たら、こういった強欲の事例は沢山ありますね。そういえば、三つの現世欲というのは、現代社会ではどれほど蔓延って発展してきたかは毎日のように確認できます。強欲とは周りにある善を貪りながら自分の幸せを得られるかのように欲しているという強欲です。だから、強欲とは愛徳の直接の敵です。その意味で強欲を亡くすための「苦行」という武器は不可欠です。

でも、苦行する、禁欲するというのは、欲を亡くすことではなくて、正しい目的に欲を向かわせる修行なのです。そして、苦行するときに思い出しましょう。周りにある多くの物事は我々のために天主が創り給った物事であると思い出す必要があります。カトリックはあらゆる被創造物を肯定して、禁欲を武器として必要であるからといって、被創造物を否定することではありません。被創造物はすべて良いことですから。

そしてカトリックは二元主義のような誤謬に堕ちていません。つまり、物質的なことだから「悪」だということは一切ありません。カトリックの言っていることは、物質は物質としてよいですが、正しい目的のための手段にすぎない物質だということです。苦行とは、それら物質を目的ではなく、手段としてしっかりと使えるための修行です。以上は自分自身への愛徳のご紹介でした。大事なのは、自分自身への本物の愛徳で生きられるために、自分自身において戦闘が必ず生じるということです。戦わなければなりません。三つの現世欲、傲慢、快楽、強欲に対して苦戦せざるを得なくて、激戦をせざるを得ないのです。

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次は、隣人への愛徳です。隣人への愛徳というのは、天主への愛徳のゆえにこそ生じる隣人への愛徳だと繰り返しに強調しておきましょう。愛徳は結局一つだけです。これを強調する必要があります。というのも、天主への愛と隣人への愛を別々にする傾向が少なくはないのですが、それは間違いです。愛徳は唯一であり、一つだけであり、分離できません。だから、隣人への愛徳というのは、天主への愛徳より生じるのみだということです。

私たちの主、イエズス・キリストは「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」( マテオ、22、38)と仰せになりました。第二ということは、区分できるということですが、同時に、「これと(第一の掟)と似ている」ということでもあります。従って、愛徳として同じ愛徳であって、隣人への愛徳は天主への愛徳と密接に依存しているという意味です。
「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」( マテオ、22、38)

これは一体何と意味することでしょうか。天主のゆえに、天主においてこそ、隣人を愛すべきだとの意味です。まず、もちろん、隣人を自然に愛する本性を我々が持っています。というのも、理性に照らしてだけでも、隣人を愛すべき結論を出せます。当然といったら当然ですが、周りの人々は私と同じ人間であるゆえに、同じ本性を共有しているわけです。人間の存在として皆、共通の本性ですので、自分と同じ本性ですから、隣人を愛するのは自然だし、人間らしいことです。しかしながら、それはまだ愛徳に至っていない「自然愛(本性的な愛)」なのです。まさに、「人道主義」の愛の次元を超えない自然愛なのです。

もちろん、そういった自然次元の愛自体は悪でもなんでもありませんが、まだ愛徳ではありません。そして、隣人への自然愛と隣人への愛徳を混同してはいけません。愛徳において、隣人を愛する根拠は天主がお望みになってその隣人が幸せになるために創られたことにあるのです。つまり、その隣人は天主の栄光のために創られた隣人です。しかも、その隣人は幸福に至りえる隣人です。

隣人とは、つまり私の周りにいる人々は天主によって故意に一人一人が創られて、そして天主の栄光のために一人一人が創られているのです。それだけでも、どれほど素晴らしいかなあ!周りの人々、皆が天主を奉仕するために創られたわけです。そして、その上、天主の栄光を分かち合うために創られた隣人として、至福に入るための隣人として創られたわけですよ。つまり、天主と一対一にその至福を分かち合い、天主を見て、永遠に天主を愛するために創られた隣人なのです。その上なく最善である天主のために創られた隣人です。で、人を愛するというのは、その人の善を望むという意味です。そして、隣人の善というのは、天主にほかならないのです。だから、隣人を愛するというのは、隣人においての天主を愛するということです。

また、隣人において、天主がほめたたえられていることを望むことです。これこそ愛徳です。つまり、隣人を愛するというのは、隣人がよく衣食住が全うされることを、苦しまないことを望むにとどまらないのです。それだけでは足りないのです。隣人のためにその上なく最善(これは天主)を与えようとしないのなら、隣人を愛しているとは言えないでしょう。「愛する」という定義は相手の「善を望む」ということですから、隣人を愛するというのは、愛徳において愛するとき、愛徳とはその上なく最善を望むという愛徳ですから、究極的な目的地である、最高の善である天主を隣人のために望むということです。

愛徳において隣人を愛するというのは、隣人のために天主を差し上げるということです。天主へ導きだすということです。隣人において天主が誉めたたえることを望むということです。従って、カトリック教会は隣人への愛徳を実現する意味であり、ずっと宣教を望み続けました。宣教というのは世界中に愛徳を広げるということです。それは福音をも運んでいくということです。ギリシャ語で、福音というのは「善き知らせ」という意味です。その善き知らせとはなんでしょうか。「あなたは天主のために存在するよ」という善き知らせです。「天主は肉体になり給うった」という善き知らせです。「天主はあなたに聖寵を与えたもう」という善き知らせです。「天主は我々のために御自らの御血を流し給うた」という善き知らせです。

これは隣人への本物の愛徳です。隣人を愛するというのは、「悪いことをしてもよいよ」というようなことを知らせるのではないのです。「まあ、天主が馬鹿なほどやさしいから、どうでもよい、何をしても良い、気にしなくてもよい、どうせ赦されるから」という知らせではないのです。悪いことをやって天主をほめたたえることはできない、天主の栄光にならないから、それは愛徳ではありません。だから、隣人への愛徳は天主への愛徳でもあり、隣人においての天主のゆえに天主への愛徳であるのです。隣人への愛というのは、天主に向かわせられている愛なのです。

従って、「隣人」とは至福に入りうる人々です。つまり、至福とは天国に入るということであるので、天国に入りうるすべての人間は隣人なのです。だから、「隣人」とはこの世に生きているすべての人々です。まだ死んでいないすべての人々です。つまり、また天国に入りうる人々は隣人です。また、「隣人」とは煉獄にいる霊魂たちなのです。煉獄の霊魂はまだ天主のみ前にいられないが、清められたらいずれか天国に入っていく霊魂たちなのです。また、「隣人」とは天国にいるすべての聖人たちなのです。もうすでに天主のご栄光の内に生きていられる霊魂たちだからです。だから、聖人は常に天主をほめたたえて、天主のご栄光を増やすことにおいてこそ聖人たちを愛徳の内に一番偉い隣人として我々は愛しているのです。

一方、地獄にいる霊魂たちは「隣人」ではありません。愛徳を持って地獄にいる霊魂たちを愛することは不可能なのです。地獄にいる霊魂たちのために何もできることはありません。永遠に罰せられた霊魂たちであり、その罪の報いとしてすでに劫罰を受けた霊魂たちであり、天主に呪われた霊魂たちです。「〈呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ〉」 。(マテオ、25、41)
地獄にいる霊魂たちはもはや天主に使えることは不可能です。至福を得ることはもはや不可能となりました。

そして、これは全く不正なことでもなんでもありません。というのも、これらの霊魂たちは至福に入ろうともできない状態になっているからですよ。天主がその至福を勝手に奪ったようなことではなくて、その逆です。あらゆる手段を尽くして、天主がその至福をこれらの霊魂に提供したものの、その霊魂が頑固に拒んだということであり、地獄に行くことにしました。このような霊魂を愛することは不可能です。悪魔に対して愛徳を持てないのです。地獄にいる霊魂たちに対して愛徳を持てないのです。あえて言えば、罪を望む罪人としてその罪人のために愛徳を持てないというべきです。

罪人を愛するというのは、その罪人が改心して、改めて「(恩寵の内に)生きる」ように望むという愛です。「悔い改めよ、そうすれば生き延びる」 。(エゼキエルの書、18、32) つまり、罪人に対して、その罪を見逃すような、あるいはその罪を勧めるような行為は愛徳に対する大罪なのです。また、罪人に対して、罪人が罪を犯しているのに、それを戒めないこと、あるいは糺さないことは愛徳に対する大罪なのです。こういったような自称親切さのせいでどれほどの弊害があるか計り知れないのです。とりわけ、聖職者こそこういった迷わせるような行為をやるとなおさらのことです。残念ながらも。

要するに、隣人を愛するには、自分自身を愛すると同じく、天主への聖、正、真な愛を持って愛すればよいです。それで愛徳になります。つまり、隣人の最高の善を望む(天主であり、聖)、隣人の善を望む(正)、また隣人のために罪ではなく清廉に善を望む(真)ということです。
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隣人とは天主の御血によって贖われた霊魂なのです。要は、隣人への愛徳、隣人を愛するとき、いつもこの事実を念頭に置くべきです。無罪の天主によって十字架に垂れた贖罪の御血は隣人の贖罪のために私たちの霊魂の贖罪のために流されたのです。従って、この世にいる限り、すべての人々は至福に入れる状態なのです。御血によって贖われた霊魂であり、天国に入れる霊魂なのです。これは我々の隣人への愛徳の根拠なのです。ですから、隣人を愛するということで、隣人への愛を実践すべきです。

隣人を愛することを具現化する具体的な行為をなすべきです。隣人の善を実践的に望まなければなりません。これこそ隣人を愛することです。行為というのは、内面的な行為もあれば、例えば隣人のためにお祈りすることですが、外面的な行為もあります。外面的な行為とは「憐みの施し」と呼ばれています。

「憐みの施し」には二重の種類があります。霊的な施しもあれば、身体的な施しもあります。霊的な施しには七つの種類があります。また身体的な施しにも七つの種類があります。霊的な施しの七つは次の通りです。一、無知の人々に教える施し。二、助言を必要とする人々に助言を与える施し。三、そして、デリケートな施しでありますが、慎重にやるべきですが、誤っている人々を糺す施し。「兄弟愛の矯正」と呼ばれている施しです。軽々しくやるわけにはいきませんが、やるべき時はやるべきことで愛徳による憐みの一つの施しです。四つ、悲嘆にくれた人々を慰める施し。五、罪を赦す施し。六、厄介な人々に根気よく耐える施し。七、死者と生者のために祈る施し。これは霊的な憐みの七つの施しでした。

そして、身体的な憐みの施しも七つあります。一、空腹の人々に糧を与える施し。二、のどが渇いている人々に水を与える施し。三、裸の人々に衣服を与える施し。四、異人(外国人)をもてなす施し。五、障害者の人々を訪問する施し。六、捕虜の人々を訪問する施し。七、死者を埋葬する施し。

これらの憐みの施しを実際に実践するには、現代に置かれた状況を見るとデリケートになっているところがあります。というのも、「福祉」というもの出てしまい、身体的な憐みの施しになると、政治的な話につながる傾向があります。だからこの場で深く入らないことにしますが、一つだけ念頭に置いておきましょう。愛徳というのは共通善を前提にしていることを忘れないようにしておきましょう。そして、共通善というのは、固有の善よりも優位であるという原則があるということを忘れないようにしておきましょう。この原則こそを念頭に入れたら、具体的な場合に遭った時、どうすべきかは自ずと導き出されるでしょう。

それから、わかりやすく説明するために、現代に置かれて多くの反駁が出てきそうな状況の中で、あえて次のことを言いましょう。隣人愛という時に、隣人の間には順番があるということを思い出せばよいです。その原則を思い出すと、具体的な問題に対してどうこたえるべきか見えてくるはずです。確かにデリケートな問題ですが、聖トマス・アクイナスがすでに説明した課題です。つまり、聖トマス・アクイナスはすでに隣人愛においての順番優先を指摘しました。つまり、隣人はまず誰ですかという質問に答えなければなりません。つまり、限られた私の力で、優先的に順番で誰に善を施すべきですかという質問に答えなければなりません。順番があるということです。常識といったら常識であり、当然ですが。

で、具体的に、隣人の間の優先順番はなんであるでしょうか。簡単です。定義を思い出しましょう。隣人を愛するのは隣人において天主を愛するということです。天主のゆえに、天主のために隣人を愛するということです。従って、隣人愛における順番には二重性があるというか、二つの側面があります。繰り返しますが、天主のゆえに隣人を愛するということです。隣人への愛徳です。

従って、第一、天主より近ければ近い隣人を愛するということです。なぜかというと、天主に近ければ近いほど、その隣人は天主をよりよく多く賛美するということになるからです。より賛美するゆえに愛徳を持ってより愛すべき隣人なのです。天主をより完全によくほめたたえる存在はより完全によく愛すべき対象です。愛徳は天主への愛なのですから。従って、隣人の間に一番愛すべき隣人とは天主より一番近い隣人なのです。一番完成されている隣人なのです。ですから、聖人たちは罪人よりも愛徳という次元でよりよく愛しうる存在なのです。だからといって、罪人を愛すべきではないということではもちろんありませんよ。単純に隣人の間に隣人愛においての順番を置くにすぎません。

これは隣人愛においての順番の第一の原則ですが、もう一つの原則もあります。隣人を愛すべきという掟もあります。一体どういうことでしょうか?隣人とは私より近い人を指すのです。要するに、自分自身より近ければ近いほどに愛すべき存在となります。つまり、日常に一緒に過ごしている人々です。また、日常、一緒に過ごすべき人々です。つまり、隣人と言ったら、第一、家族です。第二、村の人々です。地元の人々です。あるいは地方の人々です。第三、同胞の人々です。国の人々です。隣人愛における優先順番はその通りであって、その順番を逆さまにするのは愛徳に反しているわけです。

その意味で、このような愛徳の実践に当たっての原則を念頭に置きながら、現代での政治上の困難な問題に対してどういう風に答えればよいか手掛かりになるでしょう。それほど難しいことではないはずです。また、自分自身より一番「隣」の人々は自分と一番多くの共通点を持つ人々なのです。当然といったら当然ですが。そして、「近さ」を増やすのは、「近さ」を作るのは共同体に他なりません。だから、当然ながら一番守ることは自分の共同体なのです。それは自然なことであり、正当なことなのです。しかも、超自然の次元でさえ、その通りなのです。つまり、愛徳もその順番を大切にしています。

それから、もう一歩先にいくと、愛徳についてもう一つの掟があります。自分の敵をも愛すべきです。敵を愛するというのは一体どういう意味でしょうか?最低限に、第一、敵が自分に対する犯した罪を赦すということです。イエズス・キリストは十字架上に私たちを赦し給うたと同じです。「イエズスは、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか知らないからです」」 。(ルカ、23、34)

そして、もう一つ、敵に対して救援を必要とするときに救援して差し上げること。とりわけ霊的な救援ならなおさらです。つまり、敵でも、誰かの回心の恩寵を与えることを助けた時に、その隣人に対して一番高等な愛徳の示しであるのです。天主のゆえに隣人を愛しているということです。そして、隣人は回心したら天主の栄光の増加につながるし、本来の目的地である天主を仰ぐ霊魂は増えたということです。

それから、天主への愛徳に対して罪を犯すことがあるように、隣人への愛徳に対して罪を犯すこともあります。第一、隣人に対する憎しみによって愛徳に対する罪になります。つまり、敵意という憎悪による罪。つまり隣人の悪を望むような罪です。また、隣人の才能や能力を憎むといった愛徳に対する罪。要注意なのは、隣人においての悪を憎むべきです。それは当然であり、悪を愛してはいけません。愛するのは、聖、正、真なる愛でなければなりません。だから、隣人においての悪を愛してはいけません。そして、戦争、喧嘩、争いを起こすことなどは愛徳に対する罪です。
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それで、愛徳に対する大罪はもう一つがあります。「スキャンダル、不祥事」という罪があります。「不祥事」という罪は、ある行為をするせいで、隣人を悪へ傾かせて、悪へ誘惑してしまうような行為なのです。聖Jean Boscoによると、「不祥事は足掛けのようなものだ」と言われました。その通りです。足掛けするせいで、隣人が転んでしまうという。つまり、足掛けして、隣人を転ばすということです。つまり、私の行為は隣人の罪の原因になるとき、不祥事と言います。それは深刻な罪です。私が隣人の罪の原因であるということは、私のせいで隣人と天主の間に友情を破壊するという意味です。従って、不祥事のせいで、愛徳を破滅するのです。

だから、不祥事という罪は非常に深刻で重い罪です。不祥事の罪の帰結は計り知れないという意味でも重いです。例えば、ヨハネ・パウロ二世がコーランに接吻するような不祥事は典型的です。それはまさに不祥事です。なぜかというと、接吻するのは「愛することを示す仕業」だとして、偽りの神を礼拝する人々の誤謬を愛するような不祥事です。偽りの宗教を愛するような不祥事です。深刻です。愛徳に反することです。または、アッシジの集会は文字通りに不祥事です。

ルターの石像は最近フランシスコによってヴァチカンにおかれたのですが、これも大不祥事なのです。カトリック教会によって否認されたルターを崇拝するような行為ですから大不祥事です。つまり、プロテスタント教徒に対して「誤謬の内に残ってもよいぞ」というような印象を与えており、愛徳に対する大罪です。言い換えると、天主から離れた状態にあるプロテスタント教徒はそのままでよいということを知らせていることになり、これは大不祥事です。非常に深刻な重い罪なのです。この例でいうと、愛徳に対してだけではなく、信仰に対する大罪でもあります。不祥事というのはどうしても避けなければならない罪なのです。直接に愛徳に反する罪です。なぜかというと、不祥事のせいで、隣人の霊魂において、天主への愛を破壊する罪だからです。


「愛徳」―完全な愛徳と不完全な愛徳  【公教要理】第八十五講

2020年02月23日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十五講 天主に対する愛徳


前回見たように、愛徳とは「愛の源なる天主のゆえに、限りなく愛すべき天主へ直接に繋がらせ、向かわせる」対神徳です。
愛徳はただ一つですが、二つの側面があります。愛徳によって天主を深く愛すべきであるということと、愛徳によって隣人を愛すべきであるということです。

第一に、天主を深く愛すべきであるということ。これは一体どういう意味でしょうか。天主を愛するとは一体どういうことでしょうか?「愛」という言葉が非常に頻繁に使われるようになりました。残念ながら、一般に使われる「愛」という言葉は濫用されていて、キリスト教の愛とは全く違ったものになってしまっています。何もかもが、もうそれが意味不明になるほど、「愛」と呼ばれているのは理不尽なことです。その結果、最近教会においてでさえ、「天主の愛」という言葉がとんでもなく理不尽なことを意味するかのように使われることも少なくありません。

そこで、天主への愛を助ける「愛徳」について、じっくりと説明する必要があるように思われます。
では、天主を愛するとはどういう意味でしょうか?そして、「愛」とは一体何なのでしょうか?

愛の定義は「意志による愛情」とされます。言い換えれば、「愛する時」には、意志による行為が実行されます。愛するのは意志による行為です。当然ながら、それは感覚による行為でもありうるのですが、天主は純粋に霊的な存在なので、感覚よりも、意志を中心に「愛する」という行為です。ところで、愛徳という対神徳は、(感覚においてではなく)意志においてこそ備わる徳です。要するに、愛するという行為は「意志による行為を実行する」ということです。

あえて言えば、「愛する」という行為は「実行しようとする」意志の行為そのものだといえます。それはなぜでしょうか。意志を持つとき、「実行しようとする」時は、当然「善・益を望む」という意志を持つことになります。なぜ、当然に善を望むのでしょうか。それは、善を得ること、つまり自分にとっての善・益を享受することですから善を望むのです。自分を愛しているため、自分のために善が欲しいゆえに、善を望んで善を愛するか、あるいは、その善自体が良いものだとわかったから愛するほかないと信じて愛するか、のどちらかです。

したがって、自然に意志を持つ時とは、「何かが欲しい時」、「何かを望む時」であって、同時にその何かを愛するのです。ですから、意志による行為が愛する行為なのです。要するに、「愛する」というのは意志による愛情なのです。
天主を愛するとは何でしょうか?それは「意志による愛情であり、その意志の行為によって天主を愛する」ということです。

そして、天主を愛徳によって愛するというのは、創造主あるいは恩人としてだけ天主を愛するのではなく、それに加えて、父として、究極の目的として天主を愛するということです。そのため、愛徳による愛とは「意志による愛情であり、その愛情によって、この上ない最高の善として、また究極の目的として、天主へと向き、言い換えると、天主に結び付き、天主ご自身を愛する」ということです。

天主はこの上なく愛すべき存在で、この上ない最高の善です。そして、この上ない善であるということは、この上ない目的でもあるということです。言い換えると、究極の目的だということです。
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前回ご説明しましたように、愛徳による愛は、友人愛の一種です。それはどういう意味でしょうか。
そもそも、愛には二つの種類があります。一般的には、愛は親切愛(あるいは厚意愛)と現世欲愛との二つの種類があります。親切愛というのは、その語自体が示すように、「相手の善を望む」という愛です。厚意のゆえに、思いやりのゆえに、相手の善だけを望むという愛です。親切愛は、愛している人の善だけを望むのです。

他方、現世欲愛は、「自分の善を得るために」生じる愛です。言えば、現世欲愛は「自分中心」だといえましょう。自分が得る善が最終的な目的なのです。エゴイズムと似ているかもしれませんが、現世欲愛で動くからといって、必ずしも利己主義の罪になるとは限らないことに注意しましょう。「自分を愛する」、自愛とは、本性に刻印されている自然な傾向であり、その傾向があるのはよいことです。

要するに、現世欲愛というのは、「自分のために」何かを愛するということです。他方、「親切愛」は「その人のためにだけ、その人の善のためにだけ愛する」ということです。

愛徳は親切愛の一種です。言い換えると、自分のために天主を愛するだけではなく、愛徳によって、第一に天主のためにのみ、天主ご自身のためにのみ愛するということです。当然ながら、自分のために天主を愛することも可能であるばかりか、そのようにも天主を愛すべきです。

不完全な愛徳には、当然現世欲愛も入っています。つまり、天主から多くの賜物を得ているがゆえに天主を愛するというのが現世欲愛です。その意味で、愛徳における現世欲愛の部分は望徳以外のなにものでもありません。天主から善や限りない賜物を得るがゆえに天主を愛するのが現世欲愛です。その場合、結局、天主ご自身よりも、得られる賜物を愛しているのが現世欲愛の実態です。また場合によっては、天主を愛するよりも、結局、自分の方をもっと愛してしまうようなこともあるかもしれません。

一方、愛徳における現世欲愛は、私たちが天主への感謝を表すという正しい行動を助けてくれます。天主からの多くの賜物を得て、天主への感謝が生じるのは自然です。これは現世欲愛の効果です。
こういった不完全な愛徳は、愛徳であるには変わりがないのですが、やはり、天主ご自身よりも、天主からの賜物あるいは自分への善の方が天主ご自身より中心的になってしまいます。つまり、天主を黙想するよりも、自分を見るような不完全な愛徳です。とはいえ、こういった不完全な愛徳も愛徳であって、それは良い愛徳です。天主に感謝することは非常に良いことですから、不完全な愛徳自体は良いことです。

しかし、それが完全な愛徳ではないということに違いはありません。つまり、現世欲愛による愛徳は完全な愛徳ではないと言わなくてはなりません。完全な愛徳は、天主のためにのみ、天主を愛するということです。天主が天主であるがゆえに、天主ご自身のためにのみ、天主を愛するということです。

つまり、私たちの聖化のために天主を愛するのではないということです。よくあるパターンですが、結局、自分を聖化して、聖人になるという観点からのみ天主を愛してしまうのは自然で普通のことかもしれません。それはそれで良いことですが、完全な愛徳はそれを超えるものです。完全な愛徳は天主のためにのみ天主を愛するのです。つまり、天主の栄光を望むのみです。それは、自分の善よりも、天主の善である栄光を望む愛徳です。

「でも、結局それは一緒のことになる。天主の栄光は当然私の善につながるのだから。」と思われるかもしれません。それはそうなのですが、動因が違います。見方が違うのです。自分の善を忘れてまで天主の栄光を愛するのです。つまり、一方では天主のために働くかもしれませんが、自分を中心に見がちだということです。それはそれでよいことなのですが。完全な愛徳は、自分のことを忘れても、天主だけを見て、天主の栄光のみを望むのです。確かに、天主の栄光を望むことが、必ず天主は自分に善を与えてくださるということに繋がるのですが、その観点が違うということをお分かりいただけますでしょうか。なぜかというと、完全な愛徳は友人愛ですから、親切愛の一種であり、現世欲愛と違って、「お互いに愛し合う」からです。

言い換えれば、友人愛は、必ず二者の間での愛です。お互いに愛し合い、相手の善を望むことによってのみ愛し合うことです。つまり、友人が友人を愛するのは、友人であるという理由によってのみです。自分の益・善とは関係しません。その結果、友人愛という徳が、友人の間にお互いに通じ合う「流れ」のようなものを生む結果、愛する側は、愛される側が受けている善をも自然に享受するようになります。つまり、友人が受けるすべての善を見て、自分もそれを受けたかのように喜ぶのです。

ですから、愛徳は本当の友人愛です。その友人愛によって、まず天主の栄光を望み、そして天主であるがゆえに、天主のために、天主がこの上なく善なる天主であるがゆえに、天主の栄光を望み、天主の栄光のために働き続けます。その結果、当然天主はそれに応じて、より多くの善を与えてくださいます。ですから、天主からいただくそれら多くの良きことへの感謝を表すのは当然です。
それでも、完全な愛徳は、天主ご自身のみを対象にしているのです。
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これから、愛徳のいくつかの側面を見ていきたいと思います。それはほんの一部にすぎませんが。というのは、愛徳は私たちの霊魂におけるダイヤモンドのようなものだからです。

愛徳によって、私たちは天主との友人愛を得ることができ、天主との親交を得ることができます。友人愛は必ず親交を前提とするからです。本物の友人なら、秘密は一つもなく、心の内のすべてを明かします。ところで、天主はご自分の御心のすべてを、啓示を通じて私たちに明らかにしてくださいました。ご自分のすべてを見せてくださいました。啓示、それは私たちの信仰そのものです。天主は私たち一人一人を、表現に絶するほど限りなく愛し給うのです。天主は私たちのためにのみ啓示をしてくださいました。それは天主の栄光にもつながるかもしれませんが、天主はまず私たちを愛してくださるのです。
ですから、私たちも天主のためにのみ天主を愛するように努力しましょう。常に天主との親交に、より深く入るように努力しましょう。友人愛は、友人との親交を深めることがその根本にあるからです。

そして、愛徳は大変綺麗な聖徳であり、いと美しき徳ですから、ダイヤモンドのように多くの側面があります。
第一に、愛徳の愛には、心遣い、思いやりの愛があります。それは愛徳の結果です。つまり、天主を見るだけで、天主を黙想するだけで、天主の考えにあふれるだけで喜ぶ、という思いやりの愛です。天主においてこそ喜びを得ます。天主においてこそ喜びに浸るのです。その喜びは天主のみのための愛によって生じる、天主における喜びです。

また、愛徳は前述したように親切愛でもありますが、それは、天主に限りない栄光を帰し、天主をほめたたえたくなるということです。天主の善である栄光を望むということです。天主の栄光を望む。ある詩編には、「Non nobis domine, sed nomini tuo da gloriam」と歌われています。「主よ、光栄を帰せよ、われらにではなく、あなたのみ名に」 。詩編にはまた、「すべての栄光はあなたに帰する」ともあります。この通り、愛徳とは親切愛でもあります。

その結果、従順の愛が生じます。つまり、天主の掟に積極的に従おうとすると、それが天主の掟であるがゆえに、天主の掟であるということのみによってそれに従う、という愛徳による従順心です。それは天主を愛しているからです。ある人を愛している時は、その人の望み通りの行為をしたいと思います。それは自然なことです。愛しているからこそ、望みの通り、み旨のままに従いたいと思うのです。またそれは、愛している相手の望むことであるから当然望む、ということでもあります。それは、天主の望まれることは天主の善ですから、天主を愛しているから、その善を望むのみ、ということです。ですから、どうしても愛している相手の望み通りにしたくなり、それに従いたくなるのです。本当に相手を愛するときは、相手の望みの通りにしたいものです。ですから、愛徳をよく理解すれば、従順の徳をも理解できることになります。

そうすれば、従順の徳が直接愛徳に依存しているということも理解できます。愛徳に依存していがゆえに、信徳にも依存しているのが従順の徳です。
だからこそ、盲目的な従順を命令する人々は間違っています。深く間違っています。これほど誤ったことはありません。これほど愛徳に反することはありません。従順というのは、上に立つ者が望むことを自分も望むということです。したがって、従順は、まず上に立つ人を愛することから始まります。そして、愛することによって、上に立つ者の望むことが善であること、良いことであることを深く理解したときこそ、本当の意味で従順が可能となるのです。このように、愛徳の愛は従順の徳に現れます。

また、愛徳の愛は、熱心の徳にも現れます。というのは、天主の栄光をどこまでも広めたいがゆえに、全宇宙が天主の掟を全うするように努力したくなるのです。それが天主の掟なのですから。もう一度繰り返しますが、この愛が盲目的な従順を望むことはありません。それはあり得ないことです。天主は例外なくすべての人々の究極の目的であるがゆえに、また、天主の栄光のためにも、すべての人々が天主の掟に積極的に従うように熱心に働くことになります。当然と言えば当然ですが、天主の御働きへの熱心な従順の根拠は愛徳にあります。

それから、愛徳のもう一つの側面は、痛みを感じる愛としての愛徳です。それは、愛徳に反するすべての物事に遭遇する時、痛みを感じて苦しむということです。まず、自分自身において、天主の愛の妨げになること(傲慢、自己愛など)に痛みを感じます。それから、自分の周りにある、天主の愛の妨げとなる物事についても同じです。ですから、愛徳に生きる人は、天主を悲しませるようなあらゆる物事に遭遇したとき、痛みを感じて苦しむのです。

聖人の霊魂を見ると、その聖人がなぜ聖人であるかがわかります。言い換えれば、そのような痛みを感ずる愛によってこそ、どの霊魂が聖人の霊魂であるかがわかるのです。聖人は、天主を侮辱するような行為に対して必ず深く傷つくということです。もちろん、聖人自身による行為(誰もが罪人であり、罪は天主に対する侮辱です)も含まれますが、それだけではなく、周りの多くの悪しき行為に対しても聖人は非常に痛みを感じて苦しむのです。

つまり、聖人にとって周りの悪に対する無関心はあり得ないことなのです。周りの悪を見ると、必ず痛みを感じて苦しむのです。「Stabat Mater Dolorosa」。いとも聖なる聖母は、この世における被造物のうち最も完全なる愛徳に満ち溢れた人生を送ってこられました。ですから、聖母マリアは愛徳を傷つける受難をはじめ、天主に対する様々な侮辱の行為に痛みを感じ苦しまれるのです。もちろん、聖母マリアは、私たちの主イエズス・キリストのご受難の際、主を直接苦しませた人々によって苦しめられましたが、それだけではなく、更に全人類による罪によって苦しめられたのです。それは、原罪に始まり、過去、現在、未来のすべての罪が十字架のご受難の遠因だからです。「憐みの聖母」とも呼ばれる聖母マリアは、そのために、愛徳において非常にお苦しみになったのです。天主のために、天主を愛しておられるがゆえに、天主への侮辱に痛みを感じて、聖母はお苦しみになるのです。それは、罪によって侮辱される天主のため、愛徳によって痛みを感じる苦しみです。

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また、天国に入るためには愛徳が必要不可欠です。これは当然のことです。天国は天主の愛そのものだからです。天国は、また私たちと天主との完全な親交に他ならないからです。天主との親交に入るために、愛するという前提があるのはあたりまえです。天国は愛そのものです。したがって、超自然である愛徳を持たない人は天国に入ることはできません。天主との親交に入ることもできません。逆に、愛徳を持つ人は自分の心に天国の始まりを持っているのです。それは、愛徳のゆえに、天主が私たちの霊魂にお住まいになるからです。

親交は天主との一体化を意味します。愛は二つの心の一体化を意味します。愛は二者の霊魂の一体化なのです。もし私の記憶が正しければ、ナチアンツの聖グレゴリウスは友人同士について、「友人愛とは、二つの体にあたかも一つの霊魂しかないかのようなものである」と言っています。人の間の友情さえそれほど素晴らしいものであるならば、天主との友情はいかに素晴らしいものでしょうか!

天主の友人愛なる愛徳によって、天主が私たちの霊魂に住みにきてくださるということです。またそれによって私たちの霊魂を変えてくださいます。その結果、愛徳によって霊魂の中に天国の始まりが開かれます。幼きイエズスの聖テレジアは、「天は地を訪れにいらっしゃいました」と言いました。このように、愛徳を持たない人は天国に入ることはできません。

ですから、救いを得るためには、愛徳は最も必要なものです。それは救いの「手段」として必要だといわれます。つまり、愛徳という手段がなければ、愛徳という道を歩かなければ、我々の目的地である天国にたどり着くことは不可能だということです。それは不可能なのです。

天主への本当の愛を持たない人、愛徳を持たない人は、残念ながら天国に入ることはできません。
また救いを得るためには、愛徳が「掟として」必要だとされます。つまり、愛徳を実行し、愛する行為を実際に実践する必要があるということです。「愛徳がある」というだけでは足りないのです。誰かを愛する時、「愛している」と言うだけでは足りないのと同じです。それを行為に移し、実践することによって、また言動によって愛していることを証明するということです。

そうしないのであれば、いくら愛しているとしつこく言ったとしても、相手が疑問を抱いてもおかしくないどころか、相手の疑問ももっともであることになるでしょう。ですから、理性には不自由がないのであれば、愛徳を実践する行為を行う義務があります。言い換えると、天主への愛を実践する必要があります。例えば、祈りは天主への愛の行為の一種です。また、「天主を愛しているがゆえに」実践するあらゆる行為も、そういった愛徳による行為です。
ですから、愛徳は絶対に必要です。私たちは何よりも天主をもっと愛すべきです。

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残念ながら、愛徳に反する罪が存在します。
まず、愛徳による行為を行う義務があるにもかかわらず、その行為を意図的に行わない場合です。それは、愛の掟です。善き天主がその掟を与えてくださったのですから、その場合、愛徳の行為を拒むのは愛徳に反する行為となります。これは当然のことです。また後述しますが、罪とはまさに天主の愛に反する行為です。ですから、深い罪人でありながら愛徳にあふれるということはあり得ません。善徳・聖徳と愛徳は切り離すことができないので、愛徳にあふれるのなら、それは善徳につながるのです。

ですから、時々聞くような近代主義的な意見は無意味です。例えば、天主は何か馬鹿みたいに「優しい人」で、何の掟も存在しないかのように何をやっても大丈夫で、どんな形で愛しても良く、必ず天国に入ることができるといったような理不尽な誤りです。それは真実ではありません。

愛するということは愛する相手の善を望むことですから、天主のお望み通りのことを実践しようとする時こそ、本当に「愛している」と言えます。ですから、天主のみ旨を拒むたびに、必ず天主に背くことになります。天主がお望みになること、天主が愛されることに背くことになりますから、それは天主の愛に背くことになります。天主の愛は愛徳ですから、愛徳に背くことになります。

また、天主を憎むことによって、愛徳に対する罪を犯すことがあります。カトリック教会の歴史を見ても、世界の国々の歴史を見ても、天主を非常に憎んだ人々がいたということがわかります。たとえば、学校から天主を追い出そうとした人々がそうです。現代においても引き続き学校と社会から天主を追い出そうとしている人々がいます。そういう人々には愛徳がないのです。愛徳を持てないのです。天主を愛さない人々ですから、その状態で天国に入ることはできません。当然のことです。

それは、天主に正面から反対する憎しみという大罪です。敵意による憎しみです。天主が天主であるがゆえにのみ憎む、という愛徳に反する罪です。それは罪のうちで一番深い、最も深刻な罪です。サタンの罪です。天主が天主であるがゆえにのみ憎むという罪です。それは自らの最高の善である天主、目的である天主を憎むということです。悲惨なことです。

また同じように、天主から多くの賜物を得るからこそ天主を憎むという罪もあります。恩人だから恩人を憎むということです。また、天主の掟を憎むから、天主の望みである掟を憎むという罪もあります。相手を愛しているのなら、相手の望み通りの行為をすることによる喜びがあるはずです。本当に愛しているのなら、それが難しくても、愛している相手の望みを果たそうとします。しかし、その掟を憎めば、必然的に天主ご自身を憎むようになります。残念ながらそうなってしまいます。これは嫌悪の罪と呼ばれます。

そのほか、大罪のせいで愛徳を失うこともあります。枢要な罪の一つとして、「怠惰の罪」もあります。それは天主に従うことを怠ける罪です。以上、愛徳に反する罪についてお話ししました。

「愛徳」―対神徳 愛徳は永遠に続く、一番完全な聖徳 【公教要理】第八十四講

2020年02月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十四講 愛徳


愛徳という対神徳
対神徳についての講座を続けましょう。今回は、第三の対神徳である愛徳をご紹介しましょう。信徳と望徳の次は、愛徳です。
愛徳とは超自然の徳であり、愛徳によって、愛の源なる天主の限りなき慈しみのゆえに、深く天主を愛し、天主のためにのみ天主を愛する能力です。さらに、「天主を愛するがために、また人をもわが身の如く愛する」能力です。
ですから、愛徳には多くの側面があります。

第一に、愛徳は超自然の徳です。愛徳の源は超自然の次元にあります。愛徳の基盤は超自然の次元にあります。つまり、愛徳は天主に由来しています。天主がその源です。また愛徳と聖寵とは切り離せないものです。聖寵の状態にある人、つまり聖寵に満ちている人は、同時に愛徳を持っているということです。言い換えると、聖寵によってこそ愛徳を持つことができるのです。つまり、天主のみが、聖寵と同様、私たちの霊魂に天賦の徳として愛徳を注ぎ給うということです。

唯一天主のみが愛徳の持ち主であり、愛の源です。つまり、人間だけの世界には、人間だけによる愛は存在しないということです。より正確に言うならば、この世で「愛」という時、それが人間らしい「愛」を指す場合、それは対神徳の愛徳ではなく、天主の愛ではないということです。なぜでしょうか。

天主が私たちの創造主であるという理由のみで私たちが天主を愛しているのではなく、また、私たちがすべてにおいて天主に依存しているという理由のみで私たちが天主を愛しているのでもなく、私たちは愛徳によって、そして天主を父として愛します。愛徳のゆえに、私たちは天主をわが父として愛することが可能となります。

では、どうして天主は私たちの父なのでしょうか。まさに「聖寵」によって、天主は私たちの父なのです。言い換えると、「私たちを養子にしてくださる聖寵」によってです。聖寵を持たない人は天主を父として仰ぎません。当然ながら、聖寵を持たない人が創造主としての天主を仰げば、広義では、天主はその人の父にあたるかもしれませんが、被創造物であっても聖寵がなければ天主の子ではありません。そして、聖寵を持たない人は天主の子ではなく、天主の養子ではないため、天主を父として愛することはできません。したがって、愛徳を得るためには聖寵を持つことが大前提なのです。愛徳がその源において、超自然の徳と呼ばれる所以です。

また、愛徳はその対象においても超自然の徳です。というのも、愛徳は、天主を、「信徳によってこそ知っている」天主として愛することを可能にするからです。天主を、ヴォルテールが言っていたような「宇宙の時計屋」として愛するのみならず、つまり、単に全宇宙の創造主である天主として愛するのみならず、愛徳は、天主を、ご自身の内面をご啓示くださった父として、またご自身の生命である聖寵を与えてくださる父として愛することを可能にするからです。では、天主の内面とは何でしょうか。それは聖なる三位一体の玄義そのものです。またそこには聖なる三位一体の玄義から生じる他の多くの玄義も含まれています。托身の玄義。贖罪の玄義など。それらの玄義は互いに相通じる玄義であることは、信経の部でご紹介した通りです。

ですから、私たちが天主を最も愛するその対象は、まさに天主との親交である天主の内面です。また、天主が私たちに注ぎ給う天主の生命です。ですから、愛徳とはその対象においても超自然の徳だといわれます。愛徳が愛する対象は天主の内面なのです。

最後に、愛徳は目的においても超自然の徳といわれます。つまり、愛徳によって私たちが向かう目的は、天主ご自身のためにのみ天主を愛するということです。愛徳は、私たちのためではなく、天主が天主であるがゆえに愛することを可能にするのです。

次は、愛徳の種類についてお話しします。愛徳唱において唱えられるように、また通常の祈りや会話でもよくいうように、愛徳は天主を愛するだけではなく「隣人を愛する」ことでもあるということです。ここでは、天主への愛と隣人への愛との正しい関係をよく理解する必要があります。なぜなら、愛徳は一つだからです。二つではありません。同じ愛徳のゆえに、天主を愛し、隣人を愛することが可能になるのです。同じ愛徳のゆえに、というのは、天主への愛も隣人への愛も同じ根拠に基づいているという意味です。「(隣人への)愛のない者は神を知らない。神は愛だからである。(…)「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である」 。

天主への愛と隣人への愛とは通常二つの愛として認識されることが多いのですが、実際は同じ一つの愛です。言い換えると、天主への愛と隣人への愛とは切り離せないものです。隣人を愛さずに天主を愛すことはできません。また、天主を愛さずに隣人を愛すことはできません。同じ一つの愛徳を持つことによって、天主と隣人を愛すことが可能となります。それでは、天主と隣人を愛する、その唯一の根拠はなんでしょうか。

天主はこの上なく愛すべき存在であるから、というのがその根拠です。天主はこの上なく最高の善として愛すべき存在だからです。言い換えると、いと慈しみ深き天主、いと憐み深き天主、いと善き天主を観想すればするほど、愛徳によって私たちの心に天主への愛が湧き、私たちが自然に天主を愛し、また天主を愛するよう私たちを方向づけるのが愛徳です。

天主のゆえに、天主ご自身のゆえにのみ、天主は愛すべき存在なのです。天主はこの上なく完璧な存在なので、天主をたとえ垣間見るような観想ができたとしても、その天主を愛さざるを得ない、愛する以外にない、ということです。本質的に天主は善そのものだからです。これこそが愛徳の根拠です。天主こそが愛徳の根拠です。これは信じられないことですし、また素晴らしいことでもあります。天主はいと素晴らしき存在であるがゆえに、私たちは天主を愛します。この上なく善なる天主、この上なく愛すべき天主であるがゆえに、私たちは天主を愛すべきであるのです。

そうすると、一体なぜ私たちは隣人を愛するのでしょうか。隣人は隣人であるということだけで愛すべき存在だからでしょうか。いえ、そうではありません。天主のゆえにこそ、隣人は愛すべき存在であるからです。隣人は天主より来て、天主へ戻るべき人だからこそ、愛すべき存在なのです。そのゆえに「隣人愛」は存在し得るのです。これが隣人愛の根拠です。後述しますが、隣人を愛する根拠は、第一に、隣人が天主の被創造物であることです。

たとえてみましょう。あなたが特別に愛している友人がいるとしましょう。あなたがその友人を愛する唯一の理由は、その友人がその人であるからです。本当の友人は、相手が何をやるか何をするかを問わず、その友人がその人であるからこそ愛する、という本当の友情を持っています。本当の友人というのは、自分の利益や自分との共通点のためではなく、その人自身のゆえにのみ、その人を愛します。しかし、友人を友人自身のゆえにのみ愛するなら、最終的にその友人から生じるすべてのことをも愛することになります。したがって、その友人の行う物事、作る作品、その人の働きなどは、その友人から生まれたがゆえに、それらをも愛することになります。同じように、隣人愛も完全に天主への愛によっているのです。

私たちが天主を愛するのは、天主が限りなく、この上なく愛すべきお方、文字通り「可愛い(愛し得て、愛すべき)」お方だからです。そして、天主に依存しているすべてのもの、また、天主に繋がるすべてのものをも、それらが天主に依存しているがゆえに愛することになります。
したがって、隣人への愛と天主への愛は、全く同じ愛徳によって愛し得る、ということです。

第二に、私たちが天主において特に愛するのは、天主が私たちに伝えてくださるこの上ない善良さです。善き天主は、私たち一人一人にご自分の善良さの一部を、賜物の一部を与えてくださいます。これは称賛すべきことです。また隣人を愛すべき根拠でもあります。隣人は必ず天主の善良さをいささかでも持ち合わせているがゆえに、隣人は私たちが愛すべき存在なのです。

要するに、愛徳の究極の根拠は天主ご自身です。善なる天主としての天主、この上なく善き天主としての天主ゆえに、天主はこの上なく、限りなく愛すべき存在です。これこそが私たちの愛徳の根拠です。
もう一度繰り返しましょう。そもそも、天主はこの上なく愛すべき存在ですが、なぜそれほど愛すべきであるかというと、それは天主が私たちにご自分の内面を啓示されたからです。したがって、愛徳は、その源も対象も目的も天主ですから、超自然のものです。

聖徳の内で、愛徳こそが一番完全な聖徳です。聖徳の内で、この上なく最も優れたものが愛徳です。
ご存知のように、愛徳は永遠なる徳で、終わりのない対神徳です。私たちの主はそう仰せになりました。確かに、信徳も望徳も愛徳も、三つの対神徳はすべて非常に大事であり、それらのおかげで私たちは天主へと方向づけられます。信徳のおかげで、天主を知ることが可能となります。望徳のおかげで、天主の与えてくださった多くの賜物によって、私たちが天主に近づくことが可能となります。そして、愛徳のおかげで、天主の愛を分かち合うことが可能となります。

しかし、三つの対神徳のうち、天国では愛徳のみが残ります。天国では信徳はなくなります。なぜかというと、天国では天主をありのままに「見る」ことができるからです。ですから、天国では信徳はもう要らないのです。直接天主を見るのですから。同様に、望徳も天国ではなくなります。何かを望むということは、その何かを享受していない、あるいは持っていないということが前提となりますが、天国ではもう常に天主を享受しているので、望徳はもう要らないのです。

しかし、愛徳だけは天国でも残ります。いつまでも、永遠に、天主への愛は残ります。まさに、天国では永遠に、言うならば愛徳によって私たちは燃えることになるのです。永遠なる天主との親交で、天主のみ前に常にいることのできる、終わりのない至福としての愛徳です。天国にたどり着いた暁には、いよいよ本当の意味で私たちの全能力を尽くして天主を愛しつくせるようになります。天国では愛徳がまさに君臨しています。天国はすべて愛徳から成り立っています。当然その意味で、天主は愛そのものですから、人が天国に入ると、天主の愛に入ることになるということです。

また、なぜ愛徳がこの上なく優位であるかというと、愛徳こそが法の完成だからです。福音の中で有名な場面があります。ある弟子がイエズス・キリストのもとに来て、「『先生、律法のうち、どのおきてがいちばんたいせつですか』と尋ね」ました。
普通に考えると、私たちの主イエズス・キリストは、十戒の中の一つの掟、たとえば「われのほか、何者も神となすべからず」という掟などを挙げられるだろうと思うのも当然かもしれません。または、「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし」、あるいは「なんじ、殺すなかれ」という掟を挙げられるだろうと思うのも自然なことでしょう。
しかし、私たちの主はまさに「愛の掟」を挙げられます。「イエズスは〈すべての心、すべての霊、すべての知恵を上げて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。」 とおっしゃいました。
これこそが、律法の最高の掟、律法を完成する最大の掟だということです。私たちの主は、「すべての律法は」この掟による、と仰せになりました。天主への愛こそがすべての律法を要約し、完成するのです。また後述しますが、この福音には続きがあります。「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」

「似ている」という言葉は大事です。天主への愛のゆえに隣人を愛するという意味で、「似ている」というよりは、むしろ原文を見ると、「同一」と読むべきところです。天主への愛と隣人への愛は同じ愛だということです。
また、愛徳がなぜそれほど優位であるかというと、愛徳が備わっているおかげで、霊魂における天主との真の親交、真の友情が実現するからです。つまり、愛徳は、天主と人との間の睦まじさを可能にするのです。

実は、天主が私たちに愛徳をお与えくださるというのは、私たちにご自身の友情をわけ与え、私たちにその友情を提供してくださることです。友情というのは、親切心を基盤とする愛です。つまり、愛する友人の善を正直に本当に望む愛です。つまり、天主は「友人にならないか」と私たちに申し出てくださいます。それによって、天主ご自身が私たち一人一人の友人になってくださる、という驚くべき提案です。「これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない。(・・・)あなたたちを友人と呼ぶ」 と、私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに仰せになりました。

このように、愛徳によって、天主は私たちに天主の仲間となることを提案してくださいます。つまり、天主は私たちに対してある程度の対等さをもって付き合っていこうと提案してくださいます。友人の間ではある程度の対等さが前提となるからです。これこそが愛徳です。天主の友情こそが愛徳の特徴です。これが天主の愛です。天主は私たちを愛し給うのです。愛徳は、天主と人の霊魂との間の相互の流れです。これが愛徳という対神徳です。

それから、愛徳にはまた完全性があります。愛徳のゆえに、罪人は義化されます。それは、愛徳を持っている人は死に至らせる罪(大罪)を負っていない、という意味です。愛徳と大罪とは相いれず、根本的に矛盾しており、同じ霊魂に同時に愛徳と大罪が存在することは不可能です。なぜかというと、死に至らせる罪、すなわち大罪の定義は「霊魂において天主の生命を殺す」ことだからです。他方、愛徳は「霊魂に天主の生命を与える」のです。ですから、大罪と愛徳とはまったく相いれず、矛盾しています。

最後に、愛徳こそがこの上なく優位な聖徳である、もう一つの理由があります。神学用語を使うと、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だからです。それはつまり、愛徳のおかげで、直接、私たちの目的として、私たちの最高の善として、天主と私たちとを一体化させる最高の徳だからです。

思い出しましょう。「目的」と「善」は同一の意味をもっています。ですから、この上なく善なる天主は、同時にこの上ない目的たる天主でもあります。天主は私たちの究極の目的だということです。つまり、愛徳のゆえに、私たちは私たちの究極の目的である天主と直接に繋がり、一体化することができるようになるのです。したがって、愛徳による行為を実践する人は、当然、言動に当たっても賢明や従順や正義など多くの聖徳を実践し、また愛徳をも実践することによって、自らの働きにおいて、それら多くの聖徳をもって究極の目的である天主に繋がることになります。言い換えると、目的にたどり着くために存在する多くの善徳は、愛徳のゆえに、私たちをその究極の目的である天主とつなぐことが可能になるのです。

この意味で、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だといわれます。つまり、愛徳は、すべての善徳・聖徳を包含するかのように、抱くかのように、燃え立てるかのように、すべての善徳・聖徳を究極の目的である天主へと向かわせるのです。
以上、この上なく優れた愛徳についてお話ししました。