ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 5. ルシアの疑いと誘惑

2017年09月20日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


5. ルシアの疑いと誘惑 [注19]

[注19] これは、偽物だと疑うというよりは、ルシアが混乱し助けがなかった状況のことである。彼女の家庭における様々な困難と、司祭の慎重な態度によって引き起こされたものである。

そうこうしていると、私たちの小教区の主任司祭は何が起こっているのか知るようになりました。司祭は母に伝言を送り、司祭館に私を連れてくるようにと命じました。母はもう一度生き返って息することができるように感じ、この出来事の責任を司祭が取ってくれると思いました。そこで母は私にこう言いました。

「明日、私たちはミサに行きます。朝になったら最初にすることです。それからおまえは神父様の司祭館に行きなさい。神父様がなさるとおりおまえは真理を言いなさい。神父様がどのようにおまえに本当のことを言わせるかはどうでも良いことです。神父様がおまえを罰するままにさせて、神父様はおまえが嘘をつきましたと認めるように強いる限り、おまえにどのようなことでもさせるがままにさせなさい。そうすれば私は満足です。」

姉たちも母の見方をして、終わりのない脅迫をこしらえました。主任司祭との面会について怖がらせるためです。私はジャシンタとフランシコにそのことを全て言いました。

「私たちも行くのよ。神父様は私たちのお母さんにも私たちを連れてきなさいっておっしゃったの。でもお母さんは私たちにはそんなことは言わなかった。心配しないで!もしも殴られたら、私たちは私たちの主への愛のために、罪人たちのために、苦しみましょう。」

翌日、私は母の後ろを歩きました。母は私にその日、一言もしゃべりませんでした。私はこれから起きようとしていることを考えて、震えていたと認めなければなりません。ミサの間、私は自分の苦しみを天主に捧げました。その後、私は母の後について教会を出て、司祭館まで行きました。ベランダに登る階段を上り始めました。私たちは階段を数歩上ると、母は私の方を向いてこう叫びました。
「もう私を困らせないでちょうだい!今から神父様におまえが嘘をつきましたってちゃんというのよ。そうしたら神父様は主日に教会で、例の件はみな嘘でしたって言うことができるんだからね。そうすればこの事件の終わりになるから。なんて素晴らしいったらありゃしないよ!この群衆がコヴァ・ダ・イリヤに駆け寄せてトキワガシの林の前でお祈りしてるんだから、これは!」

これ以上何もすることなく、母はドアをノックしました。良き司祭の姉妹がドアを開けてくれて、しばらく待つように私たちにベンチに腰掛けるように中に招いてくれました。ついに主任司祭が現れました。神父様は執務室に私たちを通し、母に座るようにと合図しました。私には机のほうに来るように頼みました。神父様が私にとても静かにしかもとても親切に質問をしているのを見て、私は驚きました。私はしかし、なにがやって来るのかとまだ恐れていました。尋問は非常に細かく、疲れると言いたいほどでした。
神父様はこの短い所感で結論づけました。
「天からの啓示であるようには、私には思えない。私たちの主はそのような場合にはそのような伝達をする霊魂たちに、何かが起こったのかを聴罪司祭や主任司祭に報告するようにと命じるのが普通だから。でも、この子供は、その反対に、できる限りそれを自分のために秘密にしている。これは悪魔の欺きかもしれない。様子を見守りましょう。私たちがこれについてどう考えなければならないかは将来が教えてくれるでしょう。」

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 4. 聖母のご出現

2017年09月19日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


4. 聖母のご出現

私は5月13日のご出現を描写して筆を遅らせないようにいたします。それについて司教様はよくご存じのことであり、ここでそれについて書き進めるのは私にとって時間の無駄であると思うからです。司教様は、母がどうやって何が起こったのかを知るに至ったのか、母がどれほどのことをして私に嘘をついていると認めさせようと一生懸命になったのかもご存じです。あの日に聖母が私たちに話した言葉を誰にも言わないと、私たちは同意しました。私たちを天国に連れて行って下さると約束なさった後で、聖母は私たちにこう尋ねました。
「あなたたちは、天主がそれによって屈辱されている罪を償う行為として、また罪人の回心を懇願する行為として、天主があなたたちに送り給う全ての苦しみを耐え忍ぶために、自分自身を天主に喜んでお捧げしますか?」
私たちの答えは「はい、私たちはお捧げします」でした。
「それでは、あなたたちは多くのことを苦しむことでしょう。しかし天主の恩寵はあなたたちの力づけるものとなるでしょう。」

6月13日、聖アントニオの祝日は、いつも私たちの小教区の盛大な祝日でした。その日は、私たちは普通、朝早くから羊の群れを牧場へ連れて行き、9時には羊小屋へ連れ帰ってもう一度柵の中に入れてから、私たちはお祭りに行きました。母と姉たちは、私が祝い日をどんなに楽しみにしているかをよく知っていて、私によくこう言いつづけていました。「私たちは、おまえが祭りに行かずに、コーヴァ・ダ・イリヤへ行ってあの貴婦人と話すのを見なければね!」

この日が来ると、誰一人として私に一言も言いませんでした。私に関しては、家族のものは、「ルチアを放っておいて、彼女が何をするかを見てみよう」と言い合わせていたかのように行動しました。夜明けに、私は羊の群れを外に出しました。群れを9時に柵に戻して、10時にミサに与って、その後コヴァ・ダ・イリヤに行くつもりでした。
しかし、日が昇るやいなや、兄が私を呼びに来ました。兄は私に家に帰るように言いました。何故なら、家に数名の人々が私を訪ねてきて、私に話をしたがっているからだ、と。兄が群れと共に残り、私は訪問客が何を望んでいるのかと家に帰りました。
すると何名かの女性や、男の人たちが、ミンデとかトマール、カラソコス、ボレイロスなどの場所から来た人々が家に来ているのを見ました。[注18]
みんなは私と一緒に、コーヴァ・ダ・イリヤへ行きたいと言うのです。私はまだ早いから、私と一緒に8時のミサにあずかるように招きました。ミサの後、私は家へ帰りました。この良い人達は庭のイチジクの木陰で、私を待っていました。

[注18] これらの場所はファチマの近辺、25キロメートルほどの距離のところにある。

母も姉も軽蔑的な態度をとり続けており、これが私の心を傷つけ、侮辱を受けるほど辛いものでした。
11時頃、私は家を出て叔父の家でジャシンタとフランシスコを呼びました。そこで彼らは私を待っていたのです。そして私たちはコヴァ・ダ・イリヤに向かいました。待ちに待ったときが来たのです。あの人々もみな私たちについてきて、いろいろな質問を浴びせました。その日は、私は苦々しさで一杯でした。母が深く歎いていることが分かりました。母はどんな値を払ってでも、母の言葉によれば、私が嘘をついていたと認めさせようとしていました。
私は母の望み通りにしたかったのですが、しかしそうする唯一の方法は、本当に嘘をつくことでした。幼い頃から、母は子供たちに嘘の恐ろしさを教えていました。
もし私たちの誰か一人が嘘をついたら、母は厳しく罰するのが常でした。
母は度々こう言いました。
「私の子供たちにはいつも本当のことを言うようにさせてきたのに、今、一番下の子にこのような嘘をつかせるがままにさせるとでも言うの?もしもこれがちょっとしたことだったならともかく!こんなにも多くの人々を騙して、みんなをここまで連れ出してくるような桁外れの嘘を!」
この苦々しい小言の後で、私の方を向いてこう言うのです。
「いいかい、おまえの欲しいものをよぉく決めておきなさい。おまえが嘘をつきましたとみんなに言ってこの騙し話しを取り消すか、さもなければ、私はおまえをくらぁーい部屋に閉じ込めておまえはもうお日様の光も見ることがなくなるよ。私が辛い思いをしたゴタゴタの後で、こんどはこんなことが起こるなんて!」
姉たちは母の側について、私を取り巻く雰囲気は、全くの軽蔑と馬鹿にした態度でした。
私は昔のことを思い出して、こう自問しました。「少し前まであった家族の私に対する愛情は一体どこに行ってしまったの?」と。私の一つの慰めは、主のみ前で泣き、主に私の犠牲を献げることでした。私がすでに司教様に申し上げたことに加えて、まさにこのような日に、聖母はあたかも私に何が起こっているかを当てるかのように私にこう言われました。
「あなたはたくさん苦しんでいますか?落胆しないで。私は決してあなたを見捨てたりしません。私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、あなたを天主へと導く道となるでしょう。」
ジャシンタが私が涙を流しているのを見たとき、慰めようとして私にこう言いました。
「泣かないで。これは確かに、天使が言った犠牲で、天主が私たちに送ってくださる苦しみなのよ。だからルチアちゃんはくるしんでいるの。天主に償いを捧げて、罪人たちを回心させることができるために。」

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 3. 家での問題

2017年09月18日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

II. 御出現


1914~1917までファチマの主任司祭だった、マヌエル・マルケス・フェレイラ神父

3. 家での問題

ここで、司教様、私が7歳だった時から私が10歳だった時までの羊飼いの3年間の終わりに来ました。この3年間で、私の家庭と、敢えて申し上げるなら小教区教会とは、ほとんど全く変わってしまいました。ペナ神父様は転勤になってもはや私たちの主任神父ではありませんでした。その代わりにボイシニャ神父様が主任神父になりました。[注16]

[注16] この司祭の本名はマヌエル・マルケス・フェレイラ神父だった。ボイシニャ神父として知られていた。彼は1945年1月に亡くなった。

この極めて熱心な新しい主任司祭は、終わりを知らずに踊り続けるダンスというような異教の習慣が、あまりにも普通に小教区で行われているのを知り、すぐに日曜日のミサの説教で、これに反対する説教をしはじめました。公的にも私的にも、神父様はこの悪い習慣を攻撃する機会を全て使っていました。私の母はこの良い神父様がこのようなやり方で話すのを聞くや否や、私の姉たちにダンスに出席することを禁じました。

私の姉たちの模範は、他の人々もダンスに参加しないようにさせたので、ダンスの習慣は次第になくなりました。同じことは子供たちにも起こりました。子供たちは自分たちで小さな別のダンスに行く習慣でした。これは私の従姉妹のジャシンタについて書いたとき司教様にはすでに説明したとおりです。

このことについて、ある人はある日、母にこう言いました。
「今までダンスをするのは罪ではなかったのに、新しい主任司祭が来たからというだけの理由で、ダンスが罪だなんて。いったいどうしてそんなことが起こるのかしら?」と。

母は答えました。「私は知らないわ。私が知っているのは、神父様はダンスをするのを望まないということ、だから、私の娘たちはもうそのような集まりには行かないということだわ。譲歩したとしても、娘たちが家庭の中ですこし踊るのは許すぐらいね。神父様もそれには害が無いとおっしゃっているから。」

その頃、二人の一番上の姉たちは婚姻の秘蹟を受けて家を離れました。父は、悪い仲間の手に陥ってしまいました。そこで父は自分の弱さの罠に落ち、私たちの土地の一部を失いました。[注17]

[注17] ルシアの父の行動において、彼の酒好きをオーバーに理解してはならない。確かに酒を好んだがアルコール中毒ではなかった。宗教に関する彼の義務遂行(復活祭の聖体拝領など)については、確かにファチマの小教区では数年間その義務を果たさなかった。それは小教区の主任司祭と仲が悪かったからである。しかしヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの教会で復活祭の義務を果たしていた。

母は私たちの生活費が足りなくなっているのを見ると、姉のグロリアとカロリナとをよその家へ手伝いに出す決心をしました。私たちに残っていたわずかな畑を耕すために、兄だけが家に残りました。母は家事をして、羊の世話をするのは私でした。

かわいそうな母は不幸のどん底に沈んでるようでした。ある晩、私たちは囲炉裏を囲んで、父が夕食に帰るのを待っていた時、母は娘たちがいつも座っていた不在の席を見て、深い悲しみをもってこう叫ぶのです。
「我が天主よ、私たちの家庭の喜びはどこへ行ってしまったのでしょうか?」と。
そこで、頭をそばの小さい机に圧し付けて、苦い涙を流すのです。母と共に、兄も私も泣きました。それは私が経験した最も悲しい場面でした。姉たちを待ち焦がれて、あまりにも悲惨な母を見て、心が本当に引き裂かれました。私はその時まだ子供でしたが、私の家庭の状態を良く理解しました。

その時、私は天使の言葉を思い出しました。「とりわけ、主があなた方に送る犠牲を、従順に受け入れなさい。」そのような時には、私は一人っきりの場所に引きこもり、
私の苦しみを見せて母の苦しみを増やさないようにしました。この場所は、普通はうちの井戸でした。そこでひざまずいて、井戸のふたの石板の縁に寄りかかって、私の涙はその下の水に混じりました。私はこの苦しみを天主に献げました。

時々は、ジャシンタとフランシスコが来て、このように悲しみに沈んでいる私を見つけたものでした。私がむせび泣いて、何も言えないので、二人も大量の涙を流して泣き、彼らは私の苦しみを共にしました。そしてジャシンタは大きな声で、私たちの苦しみを天主に献げました。「わが天主よ、償いの行為として、罪人らの回心のため、この苦しみと犠牲を全て御身に御捧げいたします」と。祈りの言葉はいつも同じではありませんでしたが、その意味はいつも同じでした。

たくさんの苦しみは、母の健康を損ね始めました。母はもう働くことができなくなり、
よそへ手伝いに出ていた姉のグロリア [訳者注1] は、母の看病と家事をするために、家へ帰りました。私も家事を手伝いました。母は近くの全ての内科や外科の医者らの診療を受けました。ありとあらゆる種類の薬を試してみました。しかし少しも良くなりませんでした。
良き主任司祭は、自分のロバの車に乗せて母をレイリアまで連れてくださることを提案して下さいました。それはそこのお医者さんに見てもらうためです。
姉のテレサと一緒に母はレイリアに行きました。
しかし、母は、半死半生の病態で旅路から家に戻りました。あまりのも多くの診察の後疲れ切ってしまい、利益になるような結果は全くありませんでした。
結局は、サン・マメーデにいる医師の診察を受けると、この先生は、母には心臓病があり、脊髄が歪んでおり、腎臓の機能不全があると言いました。そこで母に赤く熱くなった針での治療と様々な薬を頓服するように命じました。これのおかげで母の体調は少し良くなりました。

以上が、1917年5月13日がやって来たときの私たちの家庭の状態でした。兄が兵役の年齢に到達したのもこの頃でした。兄の健康は良好でしたから、兄が兵役に受かる多くの理由がありました。更に戦争の最中でしたから、兵役義務の免除を得るのは難しいことでした。

母は、ひとりぼっちで家に残ることを恐れて、また、畑の世話をするのが誰もいなくなると思い、姉のカロリナ[訳者注2]を家へ帰るようによびました。
その時、兄の代父が兵役免除を兄のために取ってくれると約束しました。この代父は兄の診断書を書く責任者の医者の言葉を証明書に書いたので、良い主は、母にこの助けを与えてくださいました。


[訳者注1] 「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」1987年/ドン・ボスコ社には、カロリナとなっているが、ポルトガル語の原文によると、ここはグロリアとなっている。Esta, não podendo já trabalhar, mandou vir, para a tratar e tomar conta do arranjo da casa, minha irmã Glória.

[訳者注2] 「ファチマの聖母の啓示~」1987年には、グロリアとなっているが、ポルトガル語によるとここはカロリナとなっている。Com o receio de ficar sem ter quem Ihe cuidasse as terras, minha mãe mandou também vir para casa a minha irmã Carolina.

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 2. 1916年の天使の御出現

2017年09月16日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

II. 御出現


2. 1916年の天使の御出現

しばらくして、私たちは羊たちを連れて同じ場所に戻りました。すると全く同じことがまた起こりました。私の同僚たちはもう一度その話しを全て語りました。しばらく時を置いて、同じことが繰り返されました。母は、家の外でこれらのことが語られているのを3度も聞きましたが、それについて家では私から一言も聞きませんでした。母は極めて不愉快に思い、私を呼んでこう尋ねました。

「さあ、ご覧なさい!おまえたち女の子があそこで見たというのは何なのかい?」
「お母さん、私には分からないわ。それが何か分からないの!」

私たちを馬鹿にし始める人々もいました。姉たちは、私の初聖体の後しばらく私が他のことに気を取られていたようだったのを思い出して、むしろ軽蔑したように私にこう尋ねました。
「紙に包まれた誰かを見たっていうの?」

私はこのような馬鹿にした言葉としぐさを深く感じ取りました。今まで私はいつも抱擁と優しい態度しか受けたことが無かったので、ぐさりと感じました。しかしこんなことは何でもありませんでした。本当です。司教様、私は良き主が将来私が受けるべく、とっておかれたことを知らなかったのです。

このころ、すでに司教様に申し上げましたように、フランシスコとジャシンタは、自分のお母さんから彼らの羊の群れを世話する許しを受けました。そこで私は、私のお友達らから離れて、その代わりに二人の従弟妹すなわちフランシスコとジャシンタと一緒に羊の世話をするようになりました。他の羊飼いたちと一緒にセラに行くのを避けるために、私たちは、叔父や叔母や私の両親の所有地で羊を牧するように決めました。

ある晴れた日、私たちは羊の群れと一緒に、私がすでに申し上げた丘の東側の坂の麓にある両親の所有地へ行きました。この土地はチョウサ・ヴェリャと呼ばれていました。私たちが着いた後すぐ、午前の10時頃、細かい小雨がばらつき始めました。とても細かい雨で霧のようでした。私たちが避難することができるような雨宿りの場所を探して、私たちは丘の脇に登り、羊の群れもついてきました。

こうして、岩の間にあるこの祝福された(カベソの)洞窟に私たちが入ったのは初めてのことでした。これは私の代父のアナスタシオ所有のオリーブの林の真ん中に立っていました。そこからは、私が生まれた小さい村が見えますし、両親の家や、カサ・ヴェリャの村落とアイラ・ダ・ペドラも見えます。オリーブの林はいろいろな人々の所有となって、いろいろな村落の境界線まで広がっていました。
私たちは、そこ岩の間で一日を過ごしました。雨は止んで太陽が明るく輝いていたにもかかわらず、です。私たちはお昼を食べ、ロザリオを唱えました。
その日、私たちがロザリオを、司教様に既に申し上げたやり方で、つまり、珠一つに付き「めでたし聖寵」と「天にまします」とお祈りの最初の言葉だけでやるやり方で唱えたのか、よく分かりません。遊びたいという一心からそうやっていました。私たちの祈りが終わると、私たちは小石遊びをしました!
私たちはほんの少しの間遊んだのですが、強い風が木々を揺らし始めました。

私たちは、一体何か起こっているのかと、思わず振り向きました。何故なら普通は日中は穏やかだったからです。すると、私たちは、オリーブの木々の上を、私たちのほうに向かって、すでにお話しした姿が来るのを見ました。[注12]

[注12] これは天使の最初の御出現であり、天使は1916年に3回現れた。

ジャシンタとフランシスコはそれを以前まだ見たことがありませんでしたし、私もそれについて彼らに話したことがありませんでした。

その姿が私たちに近づいたとき、様子をはっきり見ることができました。それは、およそ14、5歳の美少年で、雪よりも白く、太陽がそれを通して輝くときクリスタルよりも透明で、とても美しい方でした。私たちに近寄ると、この方は私たちに話しました。
「恐れるな!私は平和の天使です。私と一緒に祈りなさい。」
地面に跪き、額が地面につくまで身をかがめて、次の祈りを三度私たちに繰り返えさせました。
「わが天主よ、私は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。私は、あなたを信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々のために、御身に御赦しを乞い願い奉る」と。
すると、天使は身をおこして、こう言いました。
「この通り祈りなさい。イエズスとマリアの聖心は、あなたたちの懇願の声に注意深くおられます」と。

天使の言葉は、私たちの心に深く刻み込まれ、絶対に忘れえないものとなりました。それからというものは、私たちは天使のようにひれ伏して、時々疲れ果てて倒れてしまうまで、天使の言葉を繰り返し繰り返し祈って長い間、時間を過ごすのを常としました。私は二人の子供たちにすぐに、これは秘密にしておかなければならないと警告しました。天主のおかげで、彼らは私が望むとおりにしました。

しばらく時がたち[注13]、夏が来ました。私たちがお昼寝に家に行かなければならないときが来ました。

ある日、両親が所有している庭園(私たちはこれをアルネイロと呼んでいました)の底にある泉の石の板の上で遊んでいました。(私はこの泉についてはジャシンタについての報告書で司教様に既に申し上げたことがあります。)

突然、私たちの横に同じ姿、いえむしろ、私にはそう見えたのですが天使を、私たちは見ました。

「あなたたちは、何をしているのか?」天使は尋ねました。
「祈りなさい。極めてたくさん祈りなさい。イエズスとマリアの至聖なる聖心は、あなたたちに、憐れみの計画をお持ちです。いと高き者に、祈りと犠牲を絶え間なく献げなさい。」
「犠牲を捧げるには、私たちはどうしなければなりませんか」と私は尋ねました。

「あなたたちができることを全て犠牲として、天主がそれによって犯されている罪の償いの行為として、また、罪人たちの回心のための懇願として、それを天主に捧げなさい。こうして、あなたたちはあなたたちの国に平和を呼び寄せるでしょう。私はその守護の天使、ポルトガルの天使です。とりわけ、主があなたたちに送る苦しみを服従して受け入れ忍耐しなさい。」

[注13] 同じ天使の第2回目の御出現。

相当長い時が経ちました。私たちはある日、私の両親の所有の土地に私たちの羊を牧しに行きました。既に申し上げたようにこの土地は丘の坂に位置し、ヴァリニョスよりもすこし高いところにありました。それはプレゲイラと呼ばれたオリーブの林です。私たちはお昼を食べた後、丘の反対側にある岩の間の穴に入って祈ろうと決めていました。そこにたどり着くために私たちは坂の周りを通り、プレゲイラの上の岩をいくつか登りました。羊がこれらの岩を登るのは大変難しいことでした。

私たちがそこに到着するやいなや、私たちは跪いて、額を地面に付けて、天使の祈りを繰り返し始めました。「わが天主よ、私は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。私は、あなたを信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々のために、御身に御赦しを乞い願い奉る」と。

私たちがこの祈りをどれほど多く繰り返したのか分かりません。すると普通では無い光が私たちを照らし出しました。私たちは何が起こっているのかを見ようと立ち上がり、天使を見ました。天使は左手にカリスを持ち、その上にホスチアがありました。ホスチアからはカリスの中に血がしたたり落ちていました。[注14]

[注14] 同じ天使の第三回の最後の御出現。

カリスを空中に残したまま、天使は私たちのそばに跪いて、私たちにつぎの祈りを三度唱えさせました。
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての祭壇のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂、御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

すると立ち上がって、天使はカリスとホスチアを自分の両手に取り、御聖体を私に、カリスから御血をジャシンタとフランシスコに与え [注15] こう言いながらそうしました。

「恩知らずの人々から恐ろしく侮辱されているイエズス・キリストの御体と御血を受け、飲みなさい。彼らの犯罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」

[注15] フランシスコとジャシンタはまだ初聖体を受けていなかった。しかしながら、彼らはこれを秘蹟による御聖体拝領であるとは考えなかった。

再び天使は地にひれ伏して、私たちと一緒に更に3回同じ祈りを繰り返しました。「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。・・・」そして、姿が消えました。

私たちは長い間、この姿勢で留まり、何度も何度も同じ祈りをとなえ続けました。ついに私たちが立ち上がってみると、すでに暗くなっていて、家に帰る時である、ということに私たちは気がつきました。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 1. 1915年の神秘的な前兆

2017年09月15日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

II. 御出現


1. 1915年の神秘的な前兆

これが私が7歳になるまでどんなふうであったかと言うことです。母は私が7歳になると、私たちの羊の世話を私がするようにと決定しました。父は賛成せず、姉たちも賛成しませんでした。彼らは私のことが好きだったので、私のために例外を作ろうと望んだのです。母は同意しませんでした。「あの子も他の子と同じよ。カロリナはもう12歳になったし、あの子は畑で働き始めること、あるいはあの子が好きなように糸巻きや機織りを学ぶことができる年頃になったわけ。」

そこで私たちの羊の群れの世話は、私に与えられました。[注9] 私が羊飼いとしての生活を始めたというニュースは、他の羊飼いたちの間にすぐに広がりました。ほとんど全てのその様な子供たちがやって来て私の伴侶になることを提供してくれました。私は皆に「はい」と答えて、村はずれの坂で会おうと約束しました。翌日、村はずれは羊と羊飼いたちの群れで一杯でした。あたかもそこに雲がおりてきたかのようです。

しかし私はその様な喧噪の中であまり落ち着きませんでした。そこで羊飼いたちの中から三人を選び、誰にも一言も言わないで、私たちは羊たちを反対側の坂で牧することにしました。私が選んだ3人とは、テレサ・マチアス、その姉妹のマリア・ローサ、そしてマリア・ジュスティノでした。[注10] 翌日、私たちはカベソという名前で知られている丘の方角に出かけました。私たちは北側の坂を登りました。ヴァリニョスという、司教様がもうその名前をご存じの場所は、同じ坂の南側にあります。その東側の坂には、私が既にジャシンタについての報告で申し上げた洞窟があります。私たちの群れと一緒に、私たちは丘のほぼ頂上まで登りました。私たちの足元にはオリーブや樫や、松や、トキワガシなどの木々が広く伸び、下の谷の高さまで下に広がっていました。

お昼頃に、私たちは昼食を食べました。この後で、私は伴侶らに私と一緒にロザリオを祈るように誘い、彼女たちは喜んで同意しました。私たちがロザリオを始めるやいなや、そこ、私たちの目の前に、木々の上の空中に置かれた人影を見ました。雪でできた御像で、太陽光線によってほとんど透明になっているように見えました。

[注9] これは1915年のことであった。
[注10] この3人は全て、まだ生存中に、ルシアがここで語ることについてコンドル神父によってインタビューされた。

「あれ何?」私はビックリして伴侶らに尋ねました。
「知らないわ!」
私たちは祈り続け、目は目前の姿をじっと見つめていました。私たちが祈りを終えるとこの姿も消えました。私にはいつものことですが、何も言わないことにしました。しかし私の伴侶たちは、家に着くなり何が起こったのかを家族の人々に言いました。ニュースはすぐに広まりました。ある日私が家に着くと母は私に質問しました。

「ほらごらん!おまえたちが私が何か知らないものをあそこで見たそうじゃない。おまえが見たのは何だったの?」
「わかりません。」
私自身説明できなかったので、こう言い続けました。
「何かに包まれている人のように見えたの。」私にはその姿が良く区別できなかったと言おうとしてこう付け加えました。
「目も手もそこにあるのか分からなかったの。」
母はあきれたような仕草をしてその話しをしなくなりました。「子供じみたナンセンスね。」[注11]

[注11] これらの区別のできない天使の御出現は、多分にルシアを将来のために準備するためにあった。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 8. 振り返って

2017年09月14日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前


8. 振り返って

私の初聖体について話した事実が現実なのか、あるいは子供の錯覚なのか、私には分かりません。私が知っているのは、これらの出来事は、私を天主と一致させるために、私の心に強い影響を与えたし、いまでも与えている、ということです。私が知らないのは、何故私が今司教様に私たちの家庭生活についてのことを全てお話ししたかということです。しかし、そうするように私に息吹いてくれたのは天主で、天主はその理由を知っておられます。おそらく、これは司教様が、私にそれほどまで多く降り注がれた愛情を受けた後であればあるほど、私たちの愛する主が私にお求めになろうとする苦しみを、私がそれだけ深く感じたと言うことをお知らせになるためかもしれません。司教様は、私たちの主が私に送り給うた全ての苦しみと、主がその御憐れみによってかたじけなくもくださった御恵みとを書くように私に命じられたので、私は、それらの出来事が実際に起こったがままを述べるのが最も良いことだと思います。[注8]

更に、私はそれについて全くの平安を感じています。何故なら、司教様が天主といとも聖なるマリア様とのより大いなる栄光のためにならないとご覧になるものはどんなものであれ、司教様は火に焼き捨ててくださるだろうと私は知っているからです。

[注8] このことはルシアの単純さを明らかにしている。また彼女の書いたものにおける彼女の潔白さと誠実さを示す。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 7. ルシアの家族

2017年09月13日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前


ルシアの家


7. ルシアの家族

そのような離脱の時はまれでした。司教様はもうご存じの通り、私は、隣人たちから私たちに委託された子供たちの世話をしなければなりませんでした。この他にも、母は看護婦としてたくさんのことを求められていました。たいしたことのない病気の場合、病気の人々は私たちの家に来て母のアドバイスを求めました。しかし病人が外に出ることができないときには、今度は彼らに母に自分たちの家に来てほしいと頼まれました。母は病人の家で昼間を何日も過ごし、時には夜も過ごしました。病気が長引いた場合、或いは病人の状態がそれを必要としたなら、母は時折姉たちを送って病人の寝台の傍らで夜を過ごすように命じました。それは病人の家族に休むチャンスを与えるためでした。病人が若い家族の母親である場合には、或いは、子供たちの騒がしさを耐えることができない人の場合、母は幼子たちを私たちの家に連れてきて私がその世話をするように命じました。私は子供たちと遊び、どうやって機織りの糸を準備するか教えたりしました。子供たちは木の糸巻きを回転させて、それに糸を玉状に巻いて、それをかせに巻き取り、枠に縦糸が準備されるように糸の玉を導きました。

こうして、私たちにはいつもやることが一杯ありました。普通、私たちの家には、機織りや服を作るのを習いに来た数名の女の子たちが働いていました。通常は、これらの女の子たちは私たちの家族に大きな愛情を示し、自分たちの人生で最高の日々が私たちの家で過ごした日だったとよく言ってくれました。一年のある決まったときには、姉たちは日中に畑仕事に出なければなりませんでした。そこで姉たちは、機織りや縫い付けを夜しました。夕食の後、父が祈りの先唱をして夕の祈りがあり、それから仕事が始まりました。

誰もが何かをしなければなりませんでした。姉のマリアは機織り仕事に行き、父は糸巻きを一杯にして、テレサとグロリアは裁縫に行きました。母は回転糸巻きを取り、カロリナと私とは、台所をきれいにかたづけた後、裁縫の手伝いをしなければなりませんでした。仮縫いを取り、ボタンを縫う、などなどです。うとうとするのを遠ざけるために兄はアコーディオンを弾き、私たちは様々な種類の歌をそれに合わせて歌いました。しばしば隣人たちも私たちと一緒にいるために家に来ました。これは彼らの睡眠時間がなくなるということを意味していましたが、私たちの陽気な音楽が自分たちの心配を無くさせてくれ、自分たちを幸せで満たすのだとよく私たちに言っていました。

私はいろいろな婦人たちが母に時々こう言うのを聞きました。
「あなたって、ほんとに幸せね!天主様があなたになんてすてきな子供たちを与えたんでしょう!」

トウモロコシを収穫するときが来ると、私たちはトウモロコシの皮を月明かりで見て取りました。私はトウモロコシの積まれた山のてっぺんに座って、濃い赤の穂軸が現れたら、そこにいる人々に抱擁をするように選ばれていました。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 6. 偉大な日

2017年08月09日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前


6. 偉大な日

歌ミサが始まり、御聖体拝領の瞬間が近づくにつれ、貧しい私の霊魂に一致しようと、天から降りてきて下さろうとする天主様のご訪問を待ち望んで、私の胸はますます速くドキドキしていました。主任司祭が祭壇からおりてきて、子供たちの列の方に近づき、天使たちのパンを配りました。私は最初に御聖体拝領をする幸運に恵まれました。司祭が祭壇をおりてこようとするとき、あたかも私の心臓は胸から飛び出てしまうかのように感じました。しかし司祭が私の舌に天主のホスチアを授けるや、私はえも言えぬ静けさと深い平和を感じました。
超自然の雰囲気にあまりにも浸りこんでいるのを感じたので、私たちの愛する主の現存が、あたかも私の体の感覚で主を見て主の言葉を聞いたかのように、はっきりと感じとれました。
そこで私は主に祈りをしました。
「主よ、私を聖人にしてください。あなたのためにだけ、私の心を常に清く保ってください。」
その時、私の心の奥底で、私たちの愛する主が次の言葉ではっきりと私におっしゃったようでした。
「今日、おまえに与えられためぐみは、おまえの霊魂に生きて留まり、永遠の命の実を結ぶだろう。」
私は天主の中に姿を変えてしまったかのように思いました。

儀式が終わったのはほぼ午後の1時でした。何故なら遠方から来られた司祭たちの到着が遅れたこと、お説教、洗礼の約束の更新などがあったからです。母は心配して、私が弱って気を失ってしまうのではないか、と案じて、私を探しにやって来ました。

しかし、私はと言うと、天使らのパンであふれ出るほど満たされ、どんな食べ物も食べることができそうにありませんでした。この後、私はこの世の物への興味と関心を失い、たった一人で静かなところにいるときだけ、私は安心して、初聖体の喜びを思いすことが出来ました。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 5. 初聖体を待ち焦がれて

2017年08月08日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前


5. 初聖体を待ち焦がれて

姉たちは私のために白いドレスと花冠を作るために、その夜はずっと起きていました。私といえば、あまり嬉しくて眠ることができませんでした。あたかも時間が全く進まないかのように思われました。私は何度も起き上がって、朝が来たのかとあるいは、もしも姉たちが私に白いドレスや花冠をつけて見たいか、と尋ねてばかりいました。

ついに幸せな日は昇りました。しかし9時になるのは、どれほど長かったことでしょうか!私は白いドレスを着て、姉マリアは私を台所へ連れて行きました。それは、両親に背いた数々の罪を詫び、両親の手に接吻して、祝福を受けるためでした。この後、小さな儀式があり、母は私に最後の忠告をしてくれました。母は私に、

イエズス様が私の心に来られる時、私が何を願わうことを望んでいるかを教えて、こう言って別れました。
「何よりもまず、イエズス様におまえを聖人にしてくれるように願いなさい。」

母の言葉は、私の心に消すことのできない深いものを刻みつけましたので、聖体を拝領して、私が最初に私たちの主に言った言葉はそれでした。母が私に言ったその時の言葉の声のこだまが、今でも聞こえるように感じます。私は姉たちと教会に向かいました。兄は道から来る埃の汚れが私に触らないように、教会まで私を抱いてくれました。教会につくや否や、私はすぐに聖母マリアの祭壇の前へ走って行って跪き、私の願いを繰り返しました。私はそこに留まり、前日の聖母の微笑みを思い出しながら祈っていました。姉たちが私を探してやって来て、私のために決められた場所に連れて行きました。
4列に並んだー男の子が二列、女の子が二列ーたいそう多くの子供たちがいて、教会の入り口から祭壇の御聖体拝領台までずらりと並んでいました。私は一番小さかったので、祭壇のそばの足元にある天使たちの近くにいました。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 4 ロザリオの聖母はルシアに微笑む

2017年07月25日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前


The statue of Our Lady of the Rosary
in the Parish Church of Fatima


4. ロザリオの聖母はルシアに微笑む

私の順番が来ると、私は罪の許しを乞い求めて、主の役務者である神父様において代表される私たちの愛する主の足元へ跪きました。
告解を終えると、だれもが笑っているのに気がつきました。
母は、私をそばへ呼んで、こう言いました。
「わが子よ、告白は秘密のもので、低い声でするものだって知らなかったの? 皆におまえの言うことを聞こえたのよ!誰にも聞こえなかったのはたった一つだけで、それはおまえが最後に言ったことだよ。」

家へ帰る途中、母は告解の秘密と自分が呼んだことを知ろうと何度も試みました。しかし、母が得た私の唯一の返事は、完全な沈黙でした。

しかし、今、私は司教様に初めて、私の最初の告解の秘密を言い表します。
告解を聞き終わった後、例の神父様は、次のように言いました。

「わが子よ、あなたの霊魂は聖霊の神殿です。それをいつも清く保ちなさい。聖霊がご自分の天主としての働きを、あなたの霊魂の中に実現することができるように。」

これらの言葉を聞いて、私は自分の内的なものに対しての畏敬で満たされたように感じ、親切な聴罪師に自分が何をしなければならないかを尋ねました。

「あそこの聖母の前にひざまずき、大きな信頼を持って、あなたの心を世話して下さるように、明日聖母の愛する御子イエズスをふさわしく受けるように準備して下さるように、またあなたの心を、イエズスのためにだけに取っておくように願いなさい!」

教会には、聖母のご像はいくつかありました。しかし姉たちは、ロザリオの聖母の祭壇を飾る役目を持っていたので、私はいつもそこに祈りに行きました。そこでこの機会にもロザリオの聖母像の前へ祈りに行きました。私は全身全霊を込めて、私の貧しい心を天主様のためだけに守ってくださるようにお願いしました。

この拙い祈りを何度も何度も繰り返し、聖母像を見つめていると、おん母が、愛を込めた眼差しとご親切なジェスチャーとで、私に微笑み、そうすると私に保証して下さったように見えました。私の心は喜びにあふれて、一言も発することができませんでした。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 3 ルシアの初聖体

2017年07月24日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前



3. ルシアの初聖体

小教区の主任神父様が定めた子供たちの荘厳初聖体の祝日が近づいて来ました。私がすでに6歳になっていたことと、私が公教要理をよく覚えていたの事実により、母は私が初聖体を受けることができるかもしれないと思いました。このために、母は、主任司祭が子供たちに教えていた初聖体の偉大な日を準備するための公教要理に、私を姉のカロリナと一緒に送りました。私はすぐに初めて天主様をお受けすることができると期待して、喜びに輝いて教会に行きました。

神父様は、教壇の上にある倚子に座って子供たちに教えました。
司祭は、私をご自分のそばの脇に呼び置き、もしもある子供が司祭の質問に教えられなかったら、その子供の代わりに私に答えさせ、彼らに恥をかかせました。

初聖体の前日がやって来ました。神父様は子供たちは午前中に教会に来るようにと伝言を送りました。それは神父様がどの子供が初聖体を受けることができるか最終の決定をすることができるためでした。神父様が私をお近くに呼んで私の頭を撫でてから、私が7歳になるまで待たなければならないと言った時、私はどれほどがっかりしたことでしょうか!

私はすぐに泣き始めました。ちょうど私が母にしていただろうように、頭を神父様の膝に埋めて泣きじゃくりました。ちょうどその時、告解を聞くために助けに呼ばれた別の神父様 [注6] が教会に入ってきました。この姿勢を取っている私を見て、神父様は私が泣いている理由を尋ねました。

[注6] この司祭は、後に聖徳で有名な、イエズス会のクルズ神父(1948年没)であったと後に分かった。

理由を知らされ、この神父様は私を香部屋へ連れて行って、公教要理とご聖体の神秘について私に質問をしました。この後、私の手をとって、主任神父様のところへ連れて行き、こう言いました。
「ペナ神父様、この子を初聖体に行かせることができますよ。この子は他の多くの子供たちよりもよく理解しているから」と。
主任神父様は「でも、わずか6歳ですよ」と反論しました。
「大丈夫ですよ。その責任は私が取りましょう。」
「それなら、分かりました。」

良い主任司祭は私にこう言いました。
「お母さんのところに行って、明日は初聖体を受けると言いなさい。」

私はその時に感じた喜びをいい表すことができません。聖堂の外へ出て、嬉しさのあまりに両手をたたき、母によいニュースを知らせるために、家にまでずっと走りました。

母は、すぐに、その日の午後私がすべき告解の準備をさせてくれました。母は私を教会に連れて行き、教会に着くと、私は母に別の神父様に告白したいと言ったので、私たちは香部屋へ行きました。そこにこの神父様が倚子に座って告解を聞いておられました。

母は、順番に告解する自分の子供たちを待っている別の母親たちと一緒に、香部屋の入り口に近い主祭壇の前に跪きました。その祭壇の御聖体の前で、母は私に最後の勧めを下さいました。


(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 2 民衆の楽しみ

2017年07月23日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前




2. 民衆の楽しみ

舞踏の時は、姉たちは、木製のタンス、或いは他の背の高い家具のてっぺんに私を置きました。それは私が人々に踏みつけられないようにするためでした。
ある日、私の「止まり木」の上から、私はギターやアコーディオンの演奏と合わせていくつかの歌を歌わなければなりませんでした。
姉たちは、歌とダンスをすでに私に教えてくれていました。ダンスはパートナーがいないときのワルツをいくつか教わりました。ダンスについてはまれに見る技術で踊りました。そこでそこにいた皆からの注目と拍手を奪いました。中には私にプレゼントで褒美をくれました。私へのプレゼントは私の姉たちを喜ばせようするためでした。

日曜日の午後はいつも、全てのこれらの若者たちは私の家の庭によく集まりました。

夏には三本の大きなイチジクの木陰に、冬には、今では姉のマリアの家が建っている場所に私たちが持っていた開かれた張り出し玄関(ポーチ)に私たちは集まりました。
そこで、彼らは私の姉たちと一緒に遊び、おしゃべりをして午後の時を過ごしました。復活祭には、砂糖で焼いたアーモンドを宝くじにしたのもそこでした。くじに当たってアーモンドはそのほとんどは普通は私のポケットの中に入ってきました。何故なら、宝くじに当たった青年たちの中には、こうやって私たちの好意を得ようと期待したからでした。主日の午後を母は台所の入り口に座って、そこから庭を見ていました。それはそこで何かが行われているかを全て見ることができたからです。

時々、母は手に一冊の本を持ってそれをしばらく読みました。別の時には、母は、周りに座っている叔母たちや隣人たちとおしゃべりしました。母は、いつも非常に真面目でしたので、皆は母の言った言葉を聖書のようであり、つべこべ言わずに従順に従わなければならないと知っていました。

私は、母の前で誰からも不敬な言葉を言うのを聞きたことがありませんでしたし、或いは敬意を欠くような態度を表した事も覚えていません。彼らの間の一般的な見解によれば、私の母はその娘達を全て合わせたよりももっと尊愛する値打ちがあるということです。

しばしば母がこう言うのを聞きました。
「あの人たちが家から家におしゃべりして回って楽しんでいるのは、理解することができないわ。私にとっては、家にいてゆっくり静かに読書をするほど楽しいことはないのよ!これらの本は、素晴らしいことで一杯だし!聖人伝は、本当に美しいわ!」

週日の間私が近所の子供たちの群れに囲まれてどうやって時を過ごしたかについて、私は司教様にすでにお話ししたと思います。この子供たちの母親たちは畑に働きに出ているので、彼女たちは私の母に子供たちを私のもとに預けることができるかとよく聞いたものです。私のいとこジャシンタについて司教様に書いたとき、私たちがよく遊んだ遊びやゲームについても描写したと思います。そこで、私はもうここではそれについて詳しく書きません。

愛情深い暖かさを受け優しく可愛がられて、私は幼少の時代を6歳まですごしました。本当のことを言うと、この世は私に微笑みかけていました。特に、ダンスに対する情熱は、私の心に深く根を張りつつありました。天主様が私に特別の憐れみを下さらなかったら、悪魔は私を破滅に導いていたことでしょう、と私は告白しなければなりません。

もしも私の間違いではないなら、母が夏の間は午後のお昼寝の時に、公教要理を自分の子供たちに教え、冬は、夕食の後、暖炉の周りを囲んで、栗と色々な種類の甘いトウモロコシを焼いたり食べたりしながら教えてくれた、ということも同じ手記の中で司教様に既に申し上げたと思います。

(続く)


シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 1 ルシアの幼年期

2017年07月21日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前



1. ルシアの幼年期

司教様、
「主は、そのはしための卑しさを顧み給うた」 [注3]それが故に、全ての民々は主の憐れみの偉大さを褒め歌うでしょう。

司教様、私たちの愛する主は、私のもっとも初期の幼年時代から私に理性を使うというお恵みを与えて下さったようです。私は、まだ母の腕に抱かれていた時の私の行動について自覚していたことを覚えています。私はあやされて、子守歌の歌声に眠りについたことを覚えています。

私たちの主は私の両親に5人の女の子と、1人の男の子[注4]を授けて祝福して下さいました。私はその中の末っ子[注5]でした。姉たちは皆私を抱き私といっしょに遊びたく思ったので、互いに言い争ったことも覚えています。その様なときには誰も成功しませんでした。何故なら、母が赤ん坊の私を姉達に渡さず、彼女たちから離れて別のところ私を連れて行ったからです。もしも母が忙しくて自分で私を抱けない時には、私を父に任せたので、父は私を甘やかしてかわいがりました。

私が初めて習った事は天使祝詞の祈りでした。母は私を腕に抱きながら、私より5歳上の姉、下から二番目のカロリナに天使祝詞を教えたのです。私の姉のうち年長の二人は、既に大きくなっていました。
母は、私がオウムのように聞いたことを全てそのまま全部繰り返すのを知っていたので、姉たちが行くところにはどこでも私を連れて行くように望みました。姉たちは、私たちのよく言う言い回しによると、若い人々を導く光でした。姉たちが参加しない祝日あるいはダンスパーティーはありませんでした。カーニバルの時、洗者聖ヨハネの祝日、クリスマスには、必ずダンスがなければなりませんでした。その上に、ブドウの収穫があります。それからオリーブの取り入れの時には、ほとんど毎日ダンスがありました。
小教区の大祝日が近くに来ると、例えば、イエズスの至聖なる聖心の祝日、ロザリオの聖母の祝日、聖アントニオの祝日などには、私たちはいつもケーキを景品に宝くじをしました。その後で、いつもダンスがありました。

[注3]ルカ1:48
[注4]ルシアの兄弟姉妹たちの名前は次の通り。マリア・ドス・アンジョス(Maria dos Anjos)、テレサ(Teresa)、マヌエル(Manuel)、グロリア(Gloria)、カロリナ(Carolina)、そして別の女の子が生まれたが幼くして死亡した。
[注5]ルシアは1907年3月22日に生まれた。

私たちは数 km あたりの近所の結婚披露宴にもほとんど全てに招かれました。何故なら、もしも母を重要な客として招かなかったとしたら、母を料理のために必ず必要としていました。
これらの結婚披露宴では、ダンスは晩餐の後から始まって翌日の朝まで続きました。
姉たちはいつも私を一緒に連れて行かなければならなかったので、自分と同じように、苦労して私を着飾ってくれました。一人の姉が裁縫士でしたから、私はいつでも地方のコスチュームを着飾り、近所のすべての女の子よりも遙かに上品に着飾りました。私はひだのあるスカート、輝くベルト、カシミヤ織りのスカーフを身につけてその端を後に垂らし、金の数珠と明るい色で染めた羽で飾りつけた帽子をかぶりました。司教様は、時々、姉たちは小さな女の子と言うよりも人形を着飾っていたと思ったことでしょう。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. 導入

2017年07月20日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

導入


ルシアの手記の第一手記によって、ルシアの長上たちは彼女がまだ極めて多くのことを秘密にしているとうことを理解した。この秘密についてはルシアは従順のもとにのみ明らかにするだろう、と。1937年4月、フォンセカ神父は司教に次のように書いた。

「第一手記は、私たちをして御出現の歴史に関するもっと興味深い詳細がまだあると考えさせます。・・がこれらについてはまだ知らされていません。ルシア修道女を説得して、彼女がまだ覚えている全てのことを一つ一つ、自覚して、福音の単純さで、聖母の名誉のために、その詳細を書き出させることは、可能なことではないでしょうか、言い換えると、それに何か難しいことがあるでしょうか?これは一つのアイデアであって、もしもこれが有用なことであるとお考えになるなら、司教様だけがそれを実行に移すことができます。」

そこで、ドロテア修道女会の管区長の修母、マドレ・マリア・ド・カルモ・コルテ・レアル(Madre Maria do Carmo Corte Real)の同意を持って、ジョセ司教は必要な命令を与えた。これに答えてルシアは1937年11月7日に司教に次のように書いた。

「私は今日、書き始めました。何故ならこれが天主の御旨だからです。」

従って、この手記は11月7日に書き始められたことになる。そして、21日に書き終えられた、と私たちは知っている。つまりこれほど長い文書を書くのに彼女はたった二週間で書き終えたと言うことだ。さらに彼女は、修道院の手仕事があり、彼女に自由時間が与えられなかったので、これを書くことは頻繁に中断された。この文書は38ページからなり、ぎっしり詰まった手書きで紙の表と裏とに書かれている。ほとんど訂正はない。これからも私たちはルシア修道女が明晰な頭を持ち、精神的なバランスがとれていたことが分かる。

この手記で取り扱われた主題は、さらに驚くべき事である。天使の出現、彼女の初聖体の特別な祝福、1917年6月の御出現における聖母の汚れなき御心、などその当時まで知られていなかった多くのその他の詳細が書かれた。

ルシア修道女がこれを書いたとき、彼女が意図したことは、「ありのままのファチマの物語」であると自分で説明している。従って、第一の手記にあったような伝記の情報--- そこでは御出現の主題はバックグラウンドでしかない --- ではない。この「追憶」において、御出現がもっと主要な題材となっている。

それにおいてルシアが書いた精神は、次の言葉に要約されている。

「私は御身の愛の秘密を、御身とだけ分かち合うという喜びをもはや味わいません。これからは他の方々も、御身の御憐れみの偉大さを歌うことでしょう。・・・主のはしためをご覧下さい!主が最善であるとお考えの通り、このはしためを主がお使い続けますように。」

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  第二の手記 【諸言】

2017年07月17日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)


ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。



第二の手記

緒言


J. M. J. おお、天主の御旨よ、おまえは私の天国なり。 [注1]
[注1]J. M. J.というのはイエズス・マリア・ヨゼフの頭文字。これは聖ドロテア修道女会の創立者である聖パウラ・フラッシネッティ (Saint Paula Frassinetti) が言った言葉。

司教様、

私はここにペンを手に、我が天主の御旨を行う準備ができています。私にはこれ以外の他の目的はありませんので、私の聖なる創立者が私に伝えて下さった格言を引用することから始めたいと思います。そしてこの格言を、創立者の模範に従って、私はこの手記を書く間、何度も何度も繰り返し唱えるつもりです。「おお、天主の御旨よ、おまえは私の天国なり!」と。

司教様、この格言に含まれている深みを探ることを許して下さい。私の秘密に対する愛、或いはそれを明らかにする嫌悪感は、何かを隠されたまま取っておこうと望ませる時はいつでも、この格言が私の規律であり導き手となるでしょう。

このような報告を私が書くことにおいて、どのような使い道があり得るだろうかと尋ねたい気持ちがありました。何故なら、私の手書きの文字でさえ読みにくくほとんどお読みになるに値しないものだからです。[注2]しかし、私は何も尋ねようといたしません。完璧な従順は理由を尋ねないと知っているからです。

[注2]ルシアのスペルには間違いが良くあるが、しかしルシアの手記の明確で秩序だった書き方に何らの影響をも与えていない。


司教様のお言葉は、私にとって十分です。何故なら、司教様はこれが天国におかれる私たちの聖母の栄光のためであると保証して下さいますから。その通りであるという確実さにおいて、私は、聖母の足元にひれ伏して、聖母の汚れなき御心の保護と祝福とを乞い求めます。私は、我が天主に対して話すとき聖母ご自身の最も聖なるお言葉を使います。

「我が天主よ、御身の最も卑しいはしためである私は、御身のもっとも聖なる御旨に完全な服従において、私の秘密からベールを取りさり、ありのままのファチマの物語を明らかにするために今、参ります。私は、御身の愛の秘密を、御身とだけ分かち合うという喜びをもはや味わいません。これからは他の方々も、御身の御憐れみの偉大さを歌うことでしょう。・・・主のはしためをご覧下さい!主が最善であるとお考えの通り、このはしためを主がお使い続けますように。」

(続く)