白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
前回、天主の十誡と教会の掟の全体図を紹介しました。今回から一つずつ挙げてご紹介していきましょう。今回、第一誡を見ていきましょう。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
まず、「礼拝」するとはどういう意味でしょうか?礼拝するということは、天主に値する「讃え」あるいは敬意を捧げることです。そして、なぜ礼拝すべきであるかというと、天主は私たちの創造主であり、全宇宙のこその上なき主(あるじ)であるからです。
言いかえると、私たちは被創造物であるがゆえに、天主に必ず依存しています。そして、この依存を意識して、認めて、天主に報いることです。親へ依存している子供は親にある程度、その恩に報いて敬意を表すべきであると同じように、被創造物も創造主に対してその恩に報いて、敬意を表すべきです。天主へ依存している故の義務であって、天主との絆を意識するように、この絆に感謝して恩に報いるための義務です。天主よりすべてを賜ったものですから、このような礼拝に値するのです。つまり、天主に感謝するために、天主を礼拝すべきです。
要するに、天主を礼拝するというのは、天主に相応しい崇拝を捧げるという意味です。天主の恩に報いるというのは、天主のために崇拝を捧げるということを意味します。
そこで、崇拝(Culte、あるいは祭礼)というのは何でしょうか。厳密にいうと、道徳上の善徳の一つであり、正義の徳の一種なのです。「宗教の徳」と呼ばれる徳です。つまり、崇拝を捧げることはひとまず正しいことだという意味です。最もなことだということです。正義の問題であり、天主のために恩に報いるために天主を讃えるのは正しいことです。
これはなぜでしょうか? 私たちはどうしても生まれながら、天主に結びついているからです。我々はこれを拒否しようとするとも、意図せずして不本意にも、我々は天主に依存していて、天主との縁が現に存在する事実は変わりません。つまり、そもそも私が生まれたのは天主が創造してくださったからです。私は常に存在しているのは、天主が常に存在せしめてくださるからです。私がここにいるのは天主はそうお望みになったからです。
ですから、どうしても、これは嫌だと思っても、天主との縁があり、天主に結びつかれていて、天主との絆が存在することは変わりません。そして、正義が命令するのは、この現実に存在する絆を意識的に肯定して認めて受け入れるようにということです。そして、この絆を意識的に認めて受け入れる行為とは「宗教の行為」だということです。宗教の行為を行うと、天主との絆を強めます。
西洋語での「宗教(Religion)」の語源は「結びつく」という意味で、つまり崇拝などによって天主と結びつくという意味です。西洋では、宗教の本来の意味は、まさに創造主と被創造物の「絆」を大切にするための営みです。【訳注・本来ならば日本語で「Religio」を訳すには、開祖なる「宗」の教えというよりも、本来の意味に沿うのなら「結びつく礼」あるいは「むすび」といったような意味である】
つまり、天主は私たちを存在せしめてくださっているという現実を、この絆を表すために、私たちは「崇拝」を捧げて、天主を礼拝します。このようにして、崇拝を捧げるというのは、「宗教の徳」の実践なのです。そして、宗教の徳は正義の徳の一種類です。正しいことです。
思い出しましょう。正義の徳というのは、以前にみたように「各人に彼の本来の恩に報いること」という行為の実践の意味ですね。天主は私たちにあらゆる物事を与え給ったゆえに、その恩に報いるべきです。もちろん、頂いたほどに天主に恩を返すのは無理ですが、可能な限りに恩に報いるということです。つまり、宗教の徳を実践しても、天主に対する「正義」を完全に全うすることはできないものの、宗教の徳は正義の徳の一種なのです。崇拝をもって、可能な限り、天主に返すべき恩を返すように実践するのは宗教の徳です。
以上、は宗教の徳、または崇拝ということを見ました。宗教の徳自体は「対神徳」ではありません。なぜでしょうか?もちろん、宗教の徳は天主を対象にしている徳なのです。しかしながら、「対神徳」と違って、直接に天主を対象にする徳ではありません。宗教の徳の直接の対象は、天主のために捧げるべき「崇拝」なのです。言いかえると、天主のために行うべき行為(典礼、崇拝等々)を対象にしています。直接に天主を対象にするのではなく、崇拝を対象にしている「宗教の徳」なので、「対神徳」ではありません。
崇拝というのは、私たちより上にある者のために、その恩に報いために行う行為だ、またその上の立派さに報いるための行為だといいます。これこそ、宗教の存在理由です。天主はこその上なく立派なゆえに、典礼を以て、またほかの行為をもって礼拝すべきです。宗教の徳です。崇拝です。礼拝です。
要するに、第一の誡には、天主のために捧げるべきあらゆる崇拝を含んでいます。そして、次に「崇拝」をよく理解すべきです。いわゆる「はいはい、崇拝を捧げるべきだね」ということだけではまだ足りません。つまり、「崇拝の形を問わず、それぞれはその好みで崇拝を捧げたらよい」ということはありません。また後述しますが、天主のために崇拝を捧げることについて、崇拝にはいくつかの種類がありますが、それらは好みでこれを捧げてあれを捧げないというようなことはなくて、天主のお望みになった全ての崇拝を捧げるべきです。
~~
「崇拝」といった時、内面的な崇拝もあれば、外面的な崇拝もあります。
「内面的な崇拝」は何でしょうか。天主に恩に報いるための行為は霊魂における内面的な行為である時に、「内面的な崇拝」だといいます。例えば、天主のための思い、あるいは、天主への祈りなどなど。つまり、一瞬たち止まって、外面的に何も現れていないものの、心の内に天主に祈りをささげるような時の崇拝です。これは天主のための崇拝の一つです。天主を讃える行為なので、「崇拝」だといいます。
このような内面的な崇拝は一番基礎的な崇拝だと言えます。一番大事なのです。なぜかというと、人間において霊魂は一番大事であり、霊魂こそは生きていて、霊魂によってわれわれは生命に満ちているということなので、霊魂による崇拝こそがは一番大事です。この基礎的な崇拝は不可欠であり、これを捧げなくてもよい場合はもなく、免除される人もいません。内面的に天主のために崇拝を捧げるという義務があります。
しかしながら、それだけではなく、外面的な崇拝をも捧げるべきです。基本的に祭礼ですが、厳密にいうと、天主のための崇拝を行うには、体をも動員するときです。この崇拝も相応しくてよい崇拝です。内面的な行為に伴う外面的な行為の時の崇拝です。
例えば、カトリック信徒は教会に入る時、聖櫃に安置されている御聖体には天主がご現存されているので、礼拝の行為をやるべきです。具体的に、例えば、十字の印をきるのです。で、外面的な仕業である「十字の印をきる」という行為を通じて、内面的な行為をも実践します。「十字の印をきる」ことによって、つまり、三位一体の玄義、御托身の玄義、贖罪の玄義、ご聖体の玄義を信じる行為をやるのです。
つまり、「十字の印をきる」という外面的な行為は外面的な崇拝なのです。そして、この外面的な崇拝はもう一つの崇拝を表す行為です。つまり、内面的な崇拝を表す外面的な崇拝です。天主と天主の聖なる玄義への崇拝です。ご聖体の前に跪く、また平伏するキリスト教徒は外面的な崇拝を行うのです。
また、自宅で一人になって沈黙のうちに、祈るために跪くキリスト教徒は天主への祈りなので内面的な崇拝ですが、また身体をもって外面的な崇拝でもあります。外面的な崇拝は必要です。なぜでしょうか?人間は必ず身体と霊魂から構成されているからです。私たちは天使ではありません。つまり、人間は本質的に身体と霊魂は一体しています。つまり「私」だという時、「私は二人だ」といわないのですね。なんか、身体と霊魂は別々に行動するようなことはこの世にはありません。つまり、人間はある種の全体を成しています。この全体は身体と霊魂ですが、天主に崇拝を捧げる時に、全体を以て捧げるべきです。
~~
要するに、天主への外面的な崇拝を行う必要があります。あらゆる物事は天主に依存しています。
崇拝の行為には、次に、公的な崇拝と私的な崇拝があります。
公的なの崇拝は、「典礼」とも言います。あるいは「典礼に基づく祭礼」なのです。公教会の名において、公教会の権威のもと、定まった儀礼を行う「典礼」なのです。社会上の崇拝です。
一方、私的な崇拝は一人が自分の名において、個人として捧げる崇拝なのです。個人的に崇拝を捧げることはもちろん必要です。私たちは皆、天主によって創造されたがゆえに、私的な崇拝を捧げるべきです。
しかしながら、一つ特に注意していただきたいことがあります。現代においてこそ注意すべきことです。つまり、非常に世俗化した社会では、また近代民主主義をはじめ、人格主義といったような誤謬が蔓延する現代に生きていますので、特に強調すべきことがあります。
公的な崇拝は必要だということを強調しましょう。キリスト教徒は必ず公的な崇拝を行うべきです。言いかえると、社会上の崇拝を捧げるべきです。つまり、典礼に与預かることです。これはなぜでしょうか?
天主は社会的な存在として人間を創造したからです。つまり、社会あっての人間として天主が人間を創造したわけです。「個人」を創造したのではなく、社会的な人を創造したのです。つまり、生まれた時、必ず人は社会の一員になって、社会の内に生まれます。
必ず家族の一員です。そういえば「名字あるいは姓」というのはどの一族の一員であるかを特定するための便宜であり、人間の社会的な本質をよく表す慣習習慣でしょう。つまり、人は必ずある血統を引き継いで、遺伝子を以て、先祖もいるのです。
かならず、人は祖国の一員でもあります。人は文化を必ず持つのです。そうでなければ無理であり、人間は存在しません。人は必ず生まれると社会の内に生まれます。【これを否定できるかもしれない、忘れることはあるかもしれないが、現実はかわらない。家族、文化、国などを忘れても、それらの一員である現実に関してはかわらない】
このようにして、天主に崇拝を捧げる義務がありますが、社会的な存在であるがゆえに、人間は社会の一員としても崇拝を捧げるべきです。これは人間の本性です。社会抜きの人間は存在しない。それは人間ではないのです。
先ほど、伝えた通り人間は身体と霊魂の一体のゆえに、外面的な崇拝を行うべきだと同じように、人間は社会的な存在のゆえに、公的な崇拝を捧げるべきです。人間は現にこのように出来ているからこれらの形で崇拝を捧げるべきです。本来ならば、かなり自然な結論であって、常識であるはずです。人間は生まれながら社会的な存在であるから、社会上の崇拝を捧げる義務があるのは本来ならば当然のはずです。
具体的に公的な崇拝とは何ですか。公にミサに与ること、公に一緒に祈ること。例えば晩歌に参加する、あるいは行列に参加するような行為は公的な崇拝の実践です。また、公教会が捧げる多くの祭礼に参加するということです。このように、典礼を挙げるには、一般信徒の参加と協力は必要なのです。
最後に、崇拝のもう一つの区別を見ましょう。それはある意味で崇拝の対象次第です。
もちろん、最終的に、どの崇拝でも、天主にのみ向けられて、必ず天主に崇拝を捧げるべきです。そして、直接に天主に崇拝を捧げる時、礼拝だといいます。まさに第一の誡の内容です。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
しかしながら、諸聖人などにも崇拝を捧げることがあります。「崇敬」と言います。ギリシャ語で「Dulia」に由来しますが、「奉仕する」という意味です。諸聖人のために崇拝を捧げる時に相対的な崇拝になります。つまり、諸聖人を神格化することではなくて、天主の代わりに置くのでもはなくて、天主の何かを特に表した聖人として、天主の近くにいる聖人として崇敬するということです。ですから、諸聖人を崇敬するとき、最終的に間接に相変わらず天主を対象にしています。聖母マリアの場合の崇拝は「超崇敬」といいます。
つまり、諸聖人を礼拝することはありません。またいとも聖なるマリアを礼拝することもありません。厳密にいうと、礼拝ではなくて、崇敬です。崇拝はいつも最終的に天主を対象にしています。
たとえてみましょう。天皇陛下のために讃辞を申し上げたいとしましょう。しかしながら、恐れ多いことなので、どうすればよいかわからない。その代わりに陛下の側近の人、あるいはその使者死者に伝言を預けて、彼は善い形で陛下に伝えてくれるというようなことと似ています。つまり、直接に陛下に上奏するよりも、陛下は気に召す人を通じた方がお耳に入りやすいという感じです。これとちょっと似ています。
つまり、天主の友人である聖人を通じて祈祷すると、天主の耳に入りやすいし、また天主の友達が崇拝されて、天主は喜ばれるわけです。つまり、天主の友達を崇拝するのは、間接に天主を崇拝することです。諸聖人への崇拝、つまり、崇敬、あるいは聖母マリアの場合、超崇敬というのは、以上のとおりです。
つまり、崇拝の行為には、典礼などの祭礼と儀礼などもあれば、大きくに言うと、祈祷、拝む行為全般も含んでいます。フランス語でいうと「Devotion(崇拝)」という言葉がありますが、直訳すると、献身する、忠誠を果たすというような意味です。また、「献身する人に自分の意志を捧げる」という意味です。
以上、は簡単に崇拝のことを紹介しました。崇拝するお陰で、献身を実践することにもなりますし、また奉献することにもなります。また、諸聖人への崇拝などもあります。そういえば、御絵への崇拝もあります。注意しましょう。御絵への崇拝というのは、御絵を礼拝する、あるいは崇敬するというようなことは一切ありません。もちろんありません。御絵に表明されている天主、あるいは諸聖人を崇拝するということですね。わかりやすいと思いますが、念のために注意しましょう。
愛する人がいて、離れている時、その人の写真を大切にして、写真を見て偲ぶことと似ています。当然ながら、紙としての写真を偲ぶことはもちろんありませんね。写真に写っている大切な人を偲ぶわけですね。また、写真を見てその人を思い出すような効果があります。御絵への崇拝はまさにこのようなことです。御絵だから崇拝するのではなくて、天主の御絵だから、天主を思い出して天主を礼拝するということです。ご絵あるいはご像も一緒ですね。像の場合、石を崇拝するのではないのはいうまでもありません。そうすれば、偶像崇拝となりますね。いや、天主、あるいはその諸聖人を描くので、それを思い出して礼拝、あるいは崇敬するのです。
この意味で、同じように、諸聖人の聖遺物への崇拝もあります。諸聖人の残された遺物として、つまり諸聖人を思い出させてくれる遺物として、崇敬するのです。当然ながら、天主の遺物はありませんので、聖遺物の場合、崇敬だけになります。大切な人がいなくなって、その人の持ち物の何かを大切にすると同じです。つまり、その人を偲ぶため、その大切の人を記念に、その人を思い出すために、遺物を大切にするということですね。たとえば、何でもいいですけど、時に、ペンでもだとしましょう。当然ながら、このペンをペンとして大切にするのではなく、亡くなった人のペンだったということで、このペンを大切にすることによって、亡くなった人を結ぶことはできます。
そういえば諸聖人の人生を見てもあきらかです。例えば、ナポリのカプチン会の聖ヨセフがいましたが、彼の周りに多くの奇跡が起きていました。ある日、修道院から教会へ行っている途中、また奇跡が起きたりして、その場にいた人々はこれを見て、聖ヨセフの僧服の一部を切り取ろうとしていたという話がありました。これは一般的で、どうしても聖人の何かを貰いたい気持ちがどうしても出てきます。布自体が大切だったのではなくて、その聖人の持ち物だったとして、聖人との縁があるからです。
以上は天主への崇拝でした。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第九十六講 天主の十誡 第一誡
前回、天主の十誡と教会の掟の全体図を紹介しました。今回から一つずつ挙げてご紹介していきましょう。今回、第一誡を見ていきましょう。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
まず、「礼拝」するとはどういう意味でしょうか?礼拝するということは、天主に値する「讃え」あるいは敬意を捧げることです。そして、なぜ礼拝すべきであるかというと、天主は私たちの創造主であり、全宇宙のこその上なき主(あるじ)であるからです。
言いかえると、私たちは被創造物であるがゆえに、天主に必ず依存しています。そして、この依存を意識して、認めて、天主に報いることです。親へ依存している子供は親にある程度、その恩に報いて敬意を表すべきであると同じように、被創造物も創造主に対してその恩に報いて、敬意を表すべきです。天主へ依存している故の義務であって、天主との絆を意識するように、この絆に感謝して恩に報いるための義務です。天主よりすべてを賜ったものですから、このような礼拝に値するのです。つまり、天主に感謝するために、天主を礼拝すべきです。
要するに、天主を礼拝するというのは、天主に相応しい崇拝を捧げるという意味です。天主の恩に報いるというのは、天主のために崇拝を捧げるということを意味します。
そこで、崇拝(Culte、あるいは祭礼)というのは何でしょうか。厳密にいうと、道徳上の善徳の一つであり、正義の徳の一種なのです。「宗教の徳」と呼ばれる徳です。つまり、崇拝を捧げることはひとまず正しいことだという意味です。最もなことだということです。正義の問題であり、天主のために恩に報いるために天主を讃えるのは正しいことです。
これはなぜでしょうか? 私たちはどうしても生まれながら、天主に結びついているからです。我々はこれを拒否しようとするとも、意図せずして不本意にも、我々は天主に依存していて、天主との縁が現に存在する事実は変わりません。つまり、そもそも私が生まれたのは天主が創造してくださったからです。私は常に存在しているのは、天主が常に存在せしめてくださるからです。私がここにいるのは天主はそうお望みになったからです。
ですから、どうしても、これは嫌だと思っても、天主との縁があり、天主に結びつかれていて、天主との絆が存在することは変わりません。そして、正義が命令するのは、この現実に存在する絆を意識的に肯定して認めて受け入れるようにということです。そして、この絆を意識的に認めて受け入れる行為とは「宗教の行為」だということです。宗教の行為を行うと、天主との絆を強めます。
西洋語での「宗教(Religion)」の語源は「結びつく」という意味で、つまり崇拝などによって天主と結びつくという意味です。西洋では、宗教の本来の意味は、まさに創造主と被創造物の「絆」を大切にするための営みです。【訳注・本来ならば日本語で「Religio」を訳すには、開祖なる「宗」の教えというよりも、本来の意味に沿うのなら「結びつく礼」あるいは「むすび」といったような意味である】
つまり、天主は私たちを存在せしめてくださっているという現実を、この絆を表すために、私たちは「崇拝」を捧げて、天主を礼拝します。このようにして、崇拝を捧げるというのは、「宗教の徳」の実践なのです。そして、宗教の徳は正義の徳の一種類です。正しいことです。
思い出しましょう。正義の徳というのは、以前にみたように「各人に彼の本来の恩に報いること」という行為の実践の意味ですね。天主は私たちにあらゆる物事を与え給ったゆえに、その恩に報いるべきです。もちろん、頂いたほどに天主に恩を返すのは無理ですが、可能な限りに恩に報いるということです。つまり、宗教の徳を実践しても、天主に対する「正義」を完全に全うすることはできないものの、宗教の徳は正義の徳の一種なのです。崇拝をもって、可能な限り、天主に返すべき恩を返すように実践するのは宗教の徳です。
以上、は宗教の徳、または崇拝ということを見ました。宗教の徳自体は「対神徳」ではありません。なぜでしょうか?もちろん、宗教の徳は天主を対象にしている徳なのです。しかしながら、「対神徳」と違って、直接に天主を対象にする徳ではありません。宗教の徳の直接の対象は、天主のために捧げるべき「崇拝」なのです。言いかえると、天主のために行うべき行為(典礼、崇拝等々)を対象にしています。直接に天主を対象にするのではなく、崇拝を対象にしている「宗教の徳」なので、「対神徳」ではありません。
崇拝というのは、私たちより上にある者のために、その恩に報いために行う行為だ、またその上の立派さに報いるための行為だといいます。これこそ、宗教の存在理由です。天主はこその上なく立派なゆえに、典礼を以て、またほかの行為をもって礼拝すべきです。宗教の徳です。崇拝です。礼拝です。
要するに、第一の誡には、天主のために捧げるべきあらゆる崇拝を含んでいます。そして、次に「崇拝」をよく理解すべきです。いわゆる「はいはい、崇拝を捧げるべきだね」ということだけではまだ足りません。つまり、「崇拝の形を問わず、それぞれはその好みで崇拝を捧げたらよい」ということはありません。また後述しますが、天主のために崇拝を捧げることについて、崇拝にはいくつかの種類がありますが、それらは好みでこれを捧げてあれを捧げないというようなことはなくて、天主のお望みになった全ての崇拝を捧げるべきです。
~~
「崇拝」といった時、内面的な崇拝もあれば、外面的な崇拝もあります。
「内面的な崇拝」は何でしょうか。天主に恩に報いるための行為は霊魂における内面的な行為である時に、「内面的な崇拝」だといいます。例えば、天主のための思い、あるいは、天主への祈りなどなど。つまり、一瞬たち止まって、外面的に何も現れていないものの、心の内に天主に祈りをささげるような時の崇拝です。これは天主のための崇拝の一つです。天主を讃える行為なので、「崇拝」だといいます。
このような内面的な崇拝は一番基礎的な崇拝だと言えます。一番大事なのです。なぜかというと、人間において霊魂は一番大事であり、霊魂こそは生きていて、霊魂によってわれわれは生命に満ちているということなので、霊魂による崇拝こそがは一番大事です。この基礎的な崇拝は不可欠であり、これを捧げなくてもよい場合はもなく、免除される人もいません。内面的に天主のために崇拝を捧げるという義務があります。
しかしながら、それだけではなく、外面的な崇拝をも捧げるべきです。基本的に祭礼ですが、厳密にいうと、天主のための崇拝を行うには、体をも動員するときです。この崇拝も相応しくてよい崇拝です。内面的な行為に伴う外面的な行為の時の崇拝です。
例えば、カトリック信徒は教会に入る時、聖櫃に安置されている御聖体には天主がご現存されているので、礼拝の行為をやるべきです。具体的に、例えば、十字の印をきるのです。で、外面的な仕業である「十字の印をきる」という行為を通じて、内面的な行為をも実践します。「十字の印をきる」ことによって、つまり、三位一体の玄義、御托身の玄義、贖罪の玄義、ご聖体の玄義を信じる行為をやるのです。
つまり、「十字の印をきる」という外面的な行為は外面的な崇拝なのです。そして、この外面的な崇拝はもう一つの崇拝を表す行為です。つまり、内面的な崇拝を表す外面的な崇拝です。天主と天主の聖なる玄義への崇拝です。ご聖体の前に跪く、また平伏するキリスト教徒は外面的な崇拝を行うのです。
また、自宅で一人になって沈黙のうちに、祈るために跪くキリスト教徒は天主への祈りなので内面的な崇拝ですが、また身体をもって外面的な崇拝でもあります。外面的な崇拝は必要です。なぜでしょうか?人間は必ず身体と霊魂から構成されているからです。私たちは天使ではありません。つまり、人間は本質的に身体と霊魂は一体しています。つまり「私」だという時、「私は二人だ」といわないのですね。なんか、身体と霊魂は別々に行動するようなことはこの世にはありません。つまり、人間はある種の全体を成しています。この全体は身体と霊魂ですが、天主に崇拝を捧げる時に、全体を以て捧げるべきです。
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要するに、天主への外面的な崇拝を行う必要があります。あらゆる物事は天主に依存しています。
崇拝の行為には、次に、公的な崇拝と私的な崇拝があります。
公的なの崇拝は、「典礼」とも言います。あるいは「典礼に基づく祭礼」なのです。公教会の名において、公教会の権威のもと、定まった儀礼を行う「典礼」なのです。社会上の崇拝です。
一方、私的な崇拝は一人が自分の名において、個人として捧げる崇拝なのです。個人的に崇拝を捧げることはもちろん必要です。私たちは皆、天主によって創造されたがゆえに、私的な崇拝を捧げるべきです。
しかしながら、一つ特に注意していただきたいことがあります。現代においてこそ注意すべきことです。つまり、非常に世俗化した社会では、また近代民主主義をはじめ、人格主義といったような誤謬が蔓延する現代に生きていますので、特に強調すべきことがあります。
公的な崇拝は必要だということを強調しましょう。キリスト教徒は必ず公的な崇拝を行うべきです。言いかえると、社会上の崇拝を捧げるべきです。つまり、典礼に与預かることです。これはなぜでしょうか?
天主は社会的な存在として人間を創造したからです。つまり、社会あっての人間として天主が人間を創造したわけです。「個人」を創造したのではなく、社会的な人を創造したのです。つまり、生まれた時、必ず人は社会の一員になって、社会の内に生まれます。
必ず家族の一員です。そういえば「名字あるいは姓」というのはどの一族の一員であるかを特定するための便宜であり、人間の社会的な本質をよく表す慣習習慣でしょう。つまり、人は必ずある血統を引き継いで、遺伝子を以て、先祖もいるのです。
かならず、人は祖国の一員でもあります。人は文化を必ず持つのです。そうでなければ無理であり、人間は存在しません。人は必ず生まれると社会の内に生まれます。【これを否定できるかもしれない、忘れることはあるかもしれないが、現実はかわらない。家族、文化、国などを忘れても、それらの一員である現実に関してはかわらない】
このようにして、天主に崇拝を捧げる義務がありますが、社会的な存在であるがゆえに、人間は社会の一員としても崇拝を捧げるべきです。これは人間の本性です。社会抜きの人間は存在しない。それは人間ではないのです。
先ほど、伝えた通り人間は身体と霊魂の一体のゆえに、外面的な崇拝を行うべきだと同じように、人間は社会的な存在のゆえに、公的な崇拝を捧げるべきです。人間は現にこのように出来ているからこれらの形で崇拝を捧げるべきです。本来ならば、かなり自然な結論であって、常識であるはずです。人間は生まれながら社会的な存在であるから、社会上の崇拝を捧げる義務があるのは本来ならば当然のはずです。
具体的に公的な崇拝とは何ですか。公にミサに与ること、公に一緒に祈ること。例えば晩歌に参加する、あるいは行列に参加するような行為は公的な崇拝の実践です。また、公教会が捧げる多くの祭礼に参加するということです。このように、典礼を挙げるには、一般信徒の参加と協力は必要なのです。
最後に、崇拝のもう一つの区別を見ましょう。それはある意味で崇拝の対象次第です。
もちろん、最終的に、どの崇拝でも、天主にのみ向けられて、必ず天主に崇拝を捧げるべきです。そして、直接に天主に崇拝を捧げる時、礼拝だといいます。まさに第一の誡の内容です。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
しかしながら、諸聖人などにも崇拝を捧げることがあります。「崇敬」と言います。ギリシャ語で「Dulia」に由来しますが、「奉仕する」という意味です。諸聖人のために崇拝を捧げる時に相対的な崇拝になります。つまり、諸聖人を神格化することではなくて、天主の代わりに置くのでもはなくて、天主の何かを特に表した聖人として、天主の近くにいる聖人として崇敬するということです。ですから、諸聖人を崇敬するとき、最終的に間接に相変わらず天主を対象にしています。聖母マリアの場合の崇拝は「超崇敬」といいます。
つまり、諸聖人を礼拝することはありません。またいとも聖なるマリアを礼拝することもありません。厳密にいうと、礼拝ではなくて、崇敬です。崇拝はいつも最終的に天主を対象にしています。
たとえてみましょう。天皇陛下のために讃辞を申し上げたいとしましょう。しかしながら、恐れ多いことなので、どうすればよいかわからない。その代わりに陛下の側近の人、あるいはその使者死者に伝言を預けて、彼は善い形で陛下に伝えてくれるというようなことと似ています。つまり、直接に陛下に上奏するよりも、陛下は気に召す人を通じた方がお耳に入りやすいという感じです。これとちょっと似ています。
つまり、天主の友人である聖人を通じて祈祷すると、天主の耳に入りやすいし、また天主の友達が崇拝されて、天主は喜ばれるわけです。つまり、天主の友達を崇拝するのは、間接に天主を崇拝することです。諸聖人への崇拝、つまり、崇敬、あるいは聖母マリアの場合、超崇敬というのは、以上のとおりです。
つまり、崇拝の行為には、典礼などの祭礼と儀礼などもあれば、大きくに言うと、祈祷、拝む行為全般も含んでいます。フランス語でいうと「Devotion(崇拝)」という言葉がありますが、直訳すると、献身する、忠誠を果たすというような意味です。また、「献身する人に自分の意志を捧げる」という意味です。
以上、は簡単に崇拝のことを紹介しました。崇拝するお陰で、献身を実践することにもなりますし、また奉献することにもなります。また、諸聖人への崇拝などもあります。そういえば、御絵への崇拝もあります。注意しましょう。御絵への崇拝というのは、御絵を礼拝する、あるいは崇敬するというようなことは一切ありません。もちろんありません。御絵に表明されている天主、あるいは諸聖人を崇拝するということですね。わかりやすいと思いますが、念のために注意しましょう。
愛する人がいて、離れている時、その人の写真を大切にして、写真を見て偲ぶことと似ています。当然ながら、紙としての写真を偲ぶことはもちろんありませんね。写真に写っている大切な人を偲ぶわけですね。また、写真を見てその人を思い出すような効果があります。御絵への崇拝はまさにこのようなことです。御絵だから崇拝するのではなくて、天主の御絵だから、天主を思い出して天主を礼拝するということです。ご絵あるいはご像も一緒ですね。像の場合、石を崇拝するのではないのはいうまでもありません。そうすれば、偶像崇拝となりますね。いや、天主、あるいはその諸聖人を描くので、それを思い出して礼拝、あるいは崇敬するのです。
この意味で、同じように、諸聖人の聖遺物への崇拝もあります。諸聖人の残された遺物として、つまり諸聖人を思い出させてくれる遺物として、崇敬するのです。当然ながら、天主の遺物はありませんので、聖遺物の場合、崇敬だけになります。大切な人がいなくなって、その人の持ち物の何かを大切にすると同じです。つまり、その人を偲ぶため、その大切の人を記念に、その人を思い出すために、遺物を大切にするということですね。たとえば、何でもいいですけど、時に、ペンでもだとしましょう。当然ながら、このペンをペンとして大切にするのではなく、亡くなった人のペンだったということで、このペンを大切にすることによって、亡くなった人を結ぶことはできます。
そういえば諸聖人の人生を見てもあきらかです。例えば、ナポリのカプチン会の聖ヨセフがいましたが、彼の周りに多くの奇跡が起きていました。ある日、修道院から教会へ行っている途中、また奇跡が起きたりして、その場にいた人々はこれを見て、聖ヨセフの僧服の一部を切り取ろうとしていたという話がありました。これは一般的で、どうしても聖人の何かを貰いたい気持ちがどうしても出てきます。布自体が大切だったのではなくて、その聖人の持ち物だったとして、聖人との縁があるからです。
以上は天主への崇拝でした。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。