白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
愛徳という対神徳
対神徳についての講座を続けましょう。今回は、第三の対神徳である愛徳をご紹介しましょう。信徳と望徳の次は、愛徳です。
愛徳とは超自然の徳であり、愛徳によって、愛の源なる天主の限りなき慈しみのゆえに、深く天主を愛し、天主のためにのみ天主を愛する能力です。さらに、「天主を愛するがために、また人をもわが身の如く愛する」能力です。
ですから、愛徳には多くの側面があります。
第一に、愛徳は超自然の徳です。愛徳の源は超自然の次元にあります。愛徳の基盤は超自然の次元にあります。つまり、愛徳は天主に由来しています。天主がその源です。また愛徳と聖寵とは切り離せないものです。聖寵の状態にある人、つまり聖寵に満ちている人は、同時に愛徳を持っているということです。言い換えると、聖寵によってこそ愛徳を持つことができるのです。つまり、天主のみが、聖寵と同様、私たちの霊魂に天賦の徳として愛徳を注ぎ給うということです。
唯一天主のみが愛徳の持ち主であり、愛の源です。つまり、人間だけの世界には、人間だけによる愛は存在しないということです。より正確に言うならば、この世で「愛」という時、それが人間らしい「愛」を指す場合、それは対神徳の愛徳ではなく、天主の愛ではないということです。なぜでしょうか。
天主が私たちの創造主であるという理由のみで私たちが天主を愛しているのではなく、また、私たちがすべてにおいて天主に依存しているという理由のみで私たちが天主を愛しているのでもなく、私たちは愛徳によって、そして天主を父として愛します。愛徳のゆえに、私たちは天主をわが父として愛することが可能となります。
では、どうして天主は私たちの父なのでしょうか。まさに「聖寵」によって、天主は私たちの父なのです。言い換えると、「私たちを養子にしてくださる聖寵」によってです。聖寵を持たない人は天主を父として仰ぎません。当然ながら、聖寵を持たない人が創造主としての天主を仰げば、広義では、天主はその人の父にあたるかもしれませんが、被創造物であっても聖寵がなければ天主の子ではありません。そして、聖寵を持たない人は天主の子ではなく、天主の養子ではないため、天主を父として愛することはできません。したがって、愛徳を得るためには聖寵を持つことが大前提なのです。愛徳がその源において、超自然の徳と呼ばれる所以です。
また、愛徳はその対象においても超自然の徳です。というのも、愛徳は、天主を、「信徳によってこそ知っている」天主として愛することを可能にするからです。天主を、ヴォルテールが言っていたような「宇宙の時計屋」として愛するのみならず、つまり、単に全宇宙の創造主である天主として愛するのみならず、愛徳は、天主を、ご自身の内面をご啓示くださった父として、またご自身の生命である聖寵を与えてくださる父として愛することを可能にするからです。では、天主の内面とは何でしょうか。それは聖なる三位一体の玄義そのものです。またそこには聖なる三位一体の玄義から生じる他の多くの玄義も含まれています。托身の玄義。贖罪の玄義など。それらの玄義は互いに相通じる玄義であることは、信経の部でご紹介した通りです。
ですから、私たちが天主を最も愛するその対象は、まさに天主との親交である天主の内面です。また、天主が私たちに注ぎ給う天主の生命です。ですから、愛徳とはその対象においても超自然の徳だといわれます。愛徳が愛する対象は天主の内面なのです。
最後に、愛徳は目的においても超自然の徳といわれます。つまり、愛徳によって私たちが向かう目的は、天主ご自身のためにのみ天主を愛するということです。愛徳は、私たちのためではなく、天主が天主であるがゆえに愛することを可能にするのです。
次は、愛徳の種類についてお話しします。愛徳唱において唱えられるように、また通常の祈りや会話でもよくいうように、愛徳は天主を愛するだけではなく「隣人を愛する」ことでもあるということです。ここでは、天主への愛と隣人への愛との正しい関係をよく理解する必要があります。なぜなら、愛徳は一つだからです。二つではありません。同じ愛徳のゆえに、天主を愛し、隣人を愛することが可能になるのです。同じ愛徳のゆえに、というのは、天主への愛も隣人への愛も同じ根拠に基づいているという意味です。「(隣人への)愛のない者は神を知らない。神は愛だからである。(…)「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である」 。
天主への愛と隣人への愛とは通常二つの愛として認識されることが多いのですが、実際は同じ一つの愛です。言い換えると、天主への愛と隣人への愛とは切り離せないものです。隣人を愛さずに天主を愛すことはできません。また、天主を愛さずに隣人を愛すことはできません。同じ一つの愛徳を持つことによって、天主と隣人を愛すことが可能となります。それでは、天主と隣人を愛する、その唯一の根拠はなんでしょうか。
天主はこの上なく愛すべき存在であるから、というのがその根拠です。天主はこの上なく最高の善として愛すべき存在だからです。言い換えると、いと慈しみ深き天主、いと憐み深き天主、いと善き天主を観想すればするほど、愛徳によって私たちの心に天主への愛が湧き、私たちが自然に天主を愛し、また天主を愛するよう私たちを方向づけるのが愛徳です。
天主のゆえに、天主ご自身のゆえにのみ、天主は愛すべき存在なのです。天主はこの上なく完璧な存在なので、天主をたとえ垣間見るような観想ができたとしても、その天主を愛さざるを得ない、愛する以外にない、ということです。本質的に天主は善そのものだからです。これこそが愛徳の根拠です。天主こそが愛徳の根拠です。これは信じられないことですし、また素晴らしいことでもあります。天主はいと素晴らしき存在であるがゆえに、私たちは天主を愛します。この上なく善なる天主、この上なく愛すべき天主であるがゆえに、私たちは天主を愛すべきであるのです。
そうすると、一体なぜ私たちは隣人を愛するのでしょうか。隣人は隣人であるということだけで愛すべき存在だからでしょうか。いえ、そうではありません。天主のゆえにこそ、隣人は愛すべき存在であるからです。隣人は天主より来て、天主へ戻るべき人だからこそ、愛すべき存在なのです。そのゆえに「隣人愛」は存在し得るのです。これが隣人愛の根拠です。後述しますが、隣人を愛する根拠は、第一に、隣人が天主の被創造物であることです。
たとえてみましょう。あなたが特別に愛している友人がいるとしましょう。あなたがその友人を愛する唯一の理由は、その友人がその人であるからです。本当の友人は、相手が何をやるか何をするかを問わず、その友人がその人であるからこそ愛する、という本当の友情を持っています。本当の友人というのは、自分の利益や自分との共通点のためではなく、その人自身のゆえにのみ、その人を愛します。しかし、友人を友人自身のゆえにのみ愛するなら、最終的にその友人から生じるすべてのことをも愛することになります。したがって、その友人の行う物事、作る作品、その人の働きなどは、その友人から生まれたがゆえに、それらをも愛することになります。同じように、隣人愛も完全に天主への愛によっているのです。
私たちが天主を愛するのは、天主が限りなく、この上なく愛すべきお方、文字通り「可愛い(愛し得て、愛すべき)」お方だからです。そして、天主に依存しているすべてのもの、また、天主に繋がるすべてのものをも、それらが天主に依存しているがゆえに愛することになります。
したがって、隣人への愛と天主への愛は、全く同じ愛徳によって愛し得る、ということです。
第二に、私たちが天主において特に愛するのは、天主が私たちに伝えてくださるこの上ない善良さです。善き天主は、私たち一人一人にご自分の善良さの一部を、賜物の一部を与えてくださいます。これは称賛すべきことです。また隣人を愛すべき根拠でもあります。隣人は必ず天主の善良さをいささかでも持ち合わせているがゆえに、隣人は私たちが愛すべき存在なのです。
要するに、愛徳の究極の根拠は天主ご自身です。善なる天主としての天主、この上なく善き天主としての天主ゆえに、天主はこの上なく、限りなく愛すべき存在です。これこそが私たちの愛徳の根拠です。
もう一度繰り返しましょう。そもそも、天主はこの上なく愛すべき存在ですが、なぜそれほど愛すべきであるかというと、それは天主が私たちにご自分の内面を啓示されたからです。したがって、愛徳は、その源も対象も目的も天主ですから、超自然のものです。
聖徳の内で、愛徳こそが一番完全な聖徳です。聖徳の内で、この上なく最も優れたものが愛徳です。
ご存知のように、愛徳は永遠なる徳で、終わりのない対神徳です。私たちの主はそう仰せになりました。確かに、信徳も望徳も愛徳も、三つの対神徳はすべて非常に大事であり、それらのおかげで私たちは天主へと方向づけられます。信徳のおかげで、天主を知ることが可能となります。望徳のおかげで、天主の与えてくださった多くの賜物によって、私たちが天主に近づくことが可能となります。そして、愛徳のおかげで、天主の愛を分かち合うことが可能となります。
しかし、三つの対神徳のうち、天国では愛徳のみが残ります。天国では信徳はなくなります。なぜかというと、天国では天主をありのままに「見る」ことができるからです。ですから、天国では信徳はもう要らないのです。直接天主を見るのですから。同様に、望徳も天国ではなくなります。何かを望むということは、その何かを享受していない、あるいは持っていないということが前提となりますが、天国ではもう常に天主を享受しているので、望徳はもう要らないのです。
しかし、愛徳だけは天国でも残ります。いつまでも、永遠に、天主への愛は残ります。まさに、天国では永遠に、言うならば愛徳によって私たちは燃えることになるのです。永遠なる天主との親交で、天主のみ前に常にいることのできる、終わりのない至福としての愛徳です。天国にたどり着いた暁には、いよいよ本当の意味で私たちの全能力を尽くして天主を愛しつくせるようになります。天国では愛徳がまさに君臨しています。天国はすべて愛徳から成り立っています。当然その意味で、天主は愛そのものですから、人が天国に入ると、天主の愛に入ることになるということです。
また、なぜ愛徳がこの上なく優位であるかというと、愛徳こそが法の完成だからです。福音の中で有名な場面があります。ある弟子がイエズス・キリストのもとに来て、「『先生、律法のうち、どのおきてがいちばんたいせつですか』と尋ね」ました。
普通に考えると、私たちの主イエズス・キリストは、十戒の中の一つの掟、たとえば「われのほか、何者も神となすべからず」という掟などを挙げられるだろうと思うのも当然かもしれません。または、「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし」、あるいは「なんじ、殺すなかれ」という掟を挙げられるだろうと思うのも自然なことでしょう。
しかし、私たちの主はまさに「愛の掟」を挙げられます。「イエズスは〈すべての心、すべての霊、すべての知恵を上げて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。」 とおっしゃいました。
これこそが、律法の最高の掟、律法を完成する最大の掟だということです。私たちの主は、「すべての律法は」この掟による、と仰せになりました。天主への愛こそがすべての律法を要約し、完成するのです。また後述しますが、この福音には続きがあります。「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」
「似ている」という言葉は大事です。天主への愛のゆえに隣人を愛するという意味で、「似ている」というよりは、むしろ原文を見ると、「同一」と読むべきところです。天主への愛と隣人への愛は同じ愛だということです。
また、愛徳がなぜそれほど優位であるかというと、愛徳が備わっているおかげで、霊魂における天主との真の親交、真の友情が実現するからです。つまり、愛徳は、天主と人との間の睦まじさを可能にするのです。
実は、天主が私たちに愛徳をお与えくださるというのは、私たちにご自身の友情をわけ与え、私たちにその友情を提供してくださることです。友情というのは、親切心を基盤とする愛です。つまり、愛する友人の善を正直に本当に望む愛です。つまり、天主は「友人にならないか」と私たちに申し出てくださいます。それによって、天主ご自身が私たち一人一人の友人になってくださる、という驚くべき提案です。「これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない。(・・・)あなたたちを友人と呼ぶ」 と、私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに仰せになりました。
このように、愛徳によって、天主は私たちに天主の仲間となることを提案してくださいます。つまり、天主は私たちに対してある程度の対等さをもって付き合っていこうと提案してくださいます。友人の間ではある程度の対等さが前提となるからです。これこそが愛徳です。天主の友情こそが愛徳の特徴です。これが天主の愛です。天主は私たちを愛し給うのです。愛徳は、天主と人の霊魂との間の相互の流れです。これが愛徳という対神徳です。
それから、愛徳にはまた完全性があります。愛徳のゆえに、罪人は義化されます。それは、愛徳を持っている人は死に至らせる罪(大罪)を負っていない、という意味です。愛徳と大罪とは相いれず、根本的に矛盾しており、同じ霊魂に同時に愛徳と大罪が存在することは不可能です。なぜかというと、死に至らせる罪、すなわち大罪の定義は「霊魂において天主の生命を殺す」ことだからです。他方、愛徳は「霊魂に天主の生命を与える」のです。ですから、大罪と愛徳とはまったく相いれず、矛盾しています。
最後に、愛徳こそがこの上なく優位な聖徳である、もう一つの理由があります。神学用語を使うと、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だからです。それはつまり、愛徳のおかげで、直接、私たちの目的として、私たちの最高の善として、天主と私たちとを一体化させる最高の徳だからです。
思い出しましょう。「目的」と「善」は同一の意味をもっています。ですから、この上なく善なる天主は、同時にこの上ない目的たる天主でもあります。天主は私たちの究極の目的だということです。つまり、愛徳のゆえに、私たちは私たちの究極の目的である天主と直接に繋がり、一体化することができるようになるのです。したがって、愛徳による行為を実践する人は、当然、言動に当たっても賢明や従順や正義など多くの聖徳を実践し、また愛徳をも実践することによって、自らの働きにおいて、それら多くの聖徳をもって究極の目的である天主に繋がることになります。言い換えると、目的にたどり着くために存在する多くの善徳は、愛徳のゆえに、私たちをその究極の目的である天主とつなぐことが可能になるのです。
この意味で、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だといわれます。つまり、愛徳は、すべての善徳・聖徳を包含するかのように、抱くかのように、燃え立てるかのように、すべての善徳・聖徳を究極の目的である天主へと向かわせるのです。
以上、この上なく優れた愛徳についてお話ししました。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第八十四講 愛徳
愛徳という対神徳
対神徳についての講座を続けましょう。今回は、第三の対神徳である愛徳をご紹介しましょう。信徳と望徳の次は、愛徳です。
愛徳とは超自然の徳であり、愛徳によって、愛の源なる天主の限りなき慈しみのゆえに、深く天主を愛し、天主のためにのみ天主を愛する能力です。さらに、「天主を愛するがために、また人をもわが身の如く愛する」能力です。
ですから、愛徳には多くの側面があります。
第一に、愛徳は超自然の徳です。愛徳の源は超自然の次元にあります。愛徳の基盤は超自然の次元にあります。つまり、愛徳は天主に由来しています。天主がその源です。また愛徳と聖寵とは切り離せないものです。聖寵の状態にある人、つまり聖寵に満ちている人は、同時に愛徳を持っているということです。言い換えると、聖寵によってこそ愛徳を持つことができるのです。つまり、天主のみが、聖寵と同様、私たちの霊魂に天賦の徳として愛徳を注ぎ給うということです。
唯一天主のみが愛徳の持ち主であり、愛の源です。つまり、人間だけの世界には、人間だけによる愛は存在しないということです。より正確に言うならば、この世で「愛」という時、それが人間らしい「愛」を指す場合、それは対神徳の愛徳ではなく、天主の愛ではないということです。なぜでしょうか。
天主が私たちの創造主であるという理由のみで私たちが天主を愛しているのではなく、また、私たちがすべてにおいて天主に依存しているという理由のみで私たちが天主を愛しているのでもなく、私たちは愛徳によって、そして天主を父として愛します。愛徳のゆえに、私たちは天主をわが父として愛することが可能となります。
では、どうして天主は私たちの父なのでしょうか。まさに「聖寵」によって、天主は私たちの父なのです。言い換えると、「私たちを養子にしてくださる聖寵」によってです。聖寵を持たない人は天主を父として仰ぎません。当然ながら、聖寵を持たない人が創造主としての天主を仰げば、広義では、天主はその人の父にあたるかもしれませんが、被創造物であっても聖寵がなければ天主の子ではありません。そして、聖寵を持たない人は天主の子ではなく、天主の養子ではないため、天主を父として愛することはできません。したがって、愛徳を得るためには聖寵を持つことが大前提なのです。愛徳がその源において、超自然の徳と呼ばれる所以です。
また、愛徳はその対象においても超自然の徳です。というのも、愛徳は、天主を、「信徳によってこそ知っている」天主として愛することを可能にするからです。天主を、ヴォルテールが言っていたような「宇宙の時計屋」として愛するのみならず、つまり、単に全宇宙の創造主である天主として愛するのみならず、愛徳は、天主を、ご自身の内面をご啓示くださった父として、またご自身の生命である聖寵を与えてくださる父として愛することを可能にするからです。では、天主の内面とは何でしょうか。それは聖なる三位一体の玄義そのものです。またそこには聖なる三位一体の玄義から生じる他の多くの玄義も含まれています。托身の玄義。贖罪の玄義など。それらの玄義は互いに相通じる玄義であることは、信経の部でご紹介した通りです。
ですから、私たちが天主を最も愛するその対象は、まさに天主との親交である天主の内面です。また、天主が私たちに注ぎ給う天主の生命です。ですから、愛徳とはその対象においても超自然の徳だといわれます。愛徳が愛する対象は天主の内面なのです。
最後に、愛徳は目的においても超自然の徳といわれます。つまり、愛徳によって私たちが向かう目的は、天主ご自身のためにのみ天主を愛するということです。愛徳は、私たちのためではなく、天主が天主であるがゆえに愛することを可能にするのです。
次は、愛徳の種類についてお話しします。愛徳唱において唱えられるように、また通常の祈りや会話でもよくいうように、愛徳は天主を愛するだけではなく「隣人を愛する」ことでもあるということです。ここでは、天主への愛と隣人への愛との正しい関係をよく理解する必要があります。なぜなら、愛徳は一つだからです。二つではありません。同じ愛徳のゆえに、天主を愛し、隣人を愛することが可能になるのです。同じ愛徳のゆえに、というのは、天主への愛も隣人への愛も同じ根拠に基づいているという意味です。「(隣人への)愛のない者は神を知らない。神は愛だからである。(…)「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である」 。
天主への愛と隣人への愛とは通常二つの愛として認識されることが多いのですが、実際は同じ一つの愛です。言い換えると、天主への愛と隣人への愛とは切り離せないものです。隣人を愛さずに天主を愛すことはできません。また、天主を愛さずに隣人を愛すことはできません。同じ一つの愛徳を持つことによって、天主と隣人を愛すことが可能となります。それでは、天主と隣人を愛する、その唯一の根拠はなんでしょうか。
天主はこの上なく愛すべき存在であるから、というのがその根拠です。天主はこの上なく最高の善として愛すべき存在だからです。言い換えると、いと慈しみ深き天主、いと憐み深き天主、いと善き天主を観想すればするほど、愛徳によって私たちの心に天主への愛が湧き、私たちが自然に天主を愛し、また天主を愛するよう私たちを方向づけるのが愛徳です。
天主のゆえに、天主ご自身のゆえにのみ、天主は愛すべき存在なのです。天主はこの上なく完璧な存在なので、天主をたとえ垣間見るような観想ができたとしても、その天主を愛さざるを得ない、愛する以外にない、ということです。本質的に天主は善そのものだからです。これこそが愛徳の根拠です。天主こそが愛徳の根拠です。これは信じられないことですし、また素晴らしいことでもあります。天主はいと素晴らしき存在であるがゆえに、私たちは天主を愛します。この上なく善なる天主、この上なく愛すべき天主であるがゆえに、私たちは天主を愛すべきであるのです。
そうすると、一体なぜ私たちは隣人を愛するのでしょうか。隣人は隣人であるということだけで愛すべき存在だからでしょうか。いえ、そうではありません。天主のゆえにこそ、隣人は愛すべき存在であるからです。隣人は天主より来て、天主へ戻るべき人だからこそ、愛すべき存在なのです。そのゆえに「隣人愛」は存在し得るのです。これが隣人愛の根拠です。後述しますが、隣人を愛する根拠は、第一に、隣人が天主の被創造物であることです。
たとえてみましょう。あなたが特別に愛している友人がいるとしましょう。あなたがその友人を愛する唯一の理由は、その友人がその人であるからです。本当の友人は、相手が何をやるか何をするかを問わず、その友人がその人であるからこそ愛する、という本当の友情を持っています。本当の友人というのは、自分の利益や自分との共通点のためではなく、その人自身のゆえにのみ、その人を愛します。しかし、友人を友人自身のゆえにのみ愛するなら、最終的にその友人から生じるすべてのことをも愛することになります。したがって、その友人の行う物事、作る作品、その人の働きなどは、その友人から生まれたがゆえに、それらをも愛することになります。同じように、隣人愛も完全に天主への愛によっているのです。
私たちが天主を愛するのは、天主が限りなく、この上なく愛すべきお方、文字通り「可愛い(愛し得て、愛すべき)」お方だからです。そして、天主に依存しているすべてのもの、また、天主に繋がるすべてのものをも、それらが天主に依存しているがゆえに愛することになります。
したがって、隣人への愛と天主への愛は、全く同じ愛徳によって愛し得る、ということです。
第二に、私たちが天主において特に愛するのは、天主が私たちに伝えてくださるこの上ない善良さです。善き天主は、私たち一人一人にご自分の善良さの一部を、賜物の一部を与えてくださいます。これは称賛すべきことです。また隣人を愛すべき根拠でもあります。隣人は必ず天主の善良さをいささかでも持ち合わせているがゆえに、隣人は私たちが愛すべき存在なのです。
要するに、愛徳の究極の根拠は天主ご自身です。善なる天主としての天主、この上なく善き天主としての天主ゆえに、天主はこの上なく、限りなく愛すべき存在です。これこそが私たちの愛徳の根拠です。
もう一度繰り返しましょう。そもそも、天主はこの上なく愛すべき存在ですが、なぜそれほど愛すべきであるかというと、それは天主が私たちにご自分の内面を啓示されたからです。したがって、愛徳は、その源も対象も目的も天主ですから、超自然のものです。
聖徳の内で、愛徳こそが一番完全な聖徳です。聖徳の内で、この上なく最も優れたものが愛徳です。
ご存知のように、愛徳は永遠なる徳で、終わりのない対神徳です。私たちの主はそう仰せになりました。確かに、信徳も望徳も愛徳も、三つの対神徳はすべて非常に大事であり、それらのおかげで私たちは天主へと方向づけられます。信徳のおかげで、天主を知ることが可能となります。望徳のおかげで、天主の与えてくださった多くの賜物によって、私たちが天主に近づくことが可能となります。そして、愛徳のおかげで、天主の愛を分かち合うことが可能となります。
しかし、三つの対神徳のうち、天国では愛徳のみが残ります。天国では信徳はなくなります。なぜかというと、天国では天主をありのままに「見る」ことができるからです。ですから、天国では信徳はもう要らないのです。直接天主を見るのですから。同様に、望徳も天国ではなくなります。何かを望むということは、その何かを享受していない、あるいは持っていないということが前提となりますが、天国ではもう常に天主を享受しているので、望徳はもう要らないのです。
しかし、愛徳だけは天国でも残ります。いつまでも、永遠に、天主への愛は残ります。まさに、天国では永遠に、言うならば愛徳によって私たちは燃えることになるのです。永遠なる天主との親交で、天主のみ前に常にいることのできる、終わりのない至福としての愛徳です。天国にたどり着いた暁には、いよいよ本当の意味で私たちの全能力を尽くして天主を愛しつくせるようになります。天国では愛徳がまさに君臨しています。天国はすべて愛徳から成り立っています。当然その意味で、天主は愛そのものですから、人が天国に入ると、天主の愛に入ることになるということです。
また、なぜ愛徳がこの上なく優位であるかというと、愛徳こそが法の完成だからです。福音の中で有名な場面があります。ある弟子がイエズス・キリストのもとに来て、「『先生、律法のうち、どのおきてがいちばんたいせつですか』と尋ね」ました。
普通に考えると、私たちの主イエズス・キリストは、十戒の中の一つの掟、たとえば「われのほか、何者も神となすべからず」という掟などを挙げられるだろうと思うのも当然かもしれません。または、「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし」、あるいは「なんじ、殺すなかれ」という掟を挙げられるだろうと思うのも自然なことでしょう。
しかし、私たちの主はまさに「愛の掟」を挙げられます。「イエズスは〈すべての心、すべての霊、すべての知恵を上げて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。」 とおっしゃいました。
これこそが、律法の最高の掟、律法を完成する最大の掟だということです。私たちの主は、「すべての律法は」この掟による、と仰せになりました。天主への愛こそがすべての律法を要約し、完成するのです。また後述しますが、この福音には続きがあります。「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」
「似ている」という言葉は大事です。天主への愛のゆえに隣人を愛するという意味で、「似ている」というよりは、むしろ原文を見ると、「同一」と読むべきところです。天主への愛と隣人への愛は同じ愛だということです。
また、愛徳がなぜそれほど優位であるかというと、愛徳が備わっているおかげで、霊魂における天主との真の親交、真の友情が実現するからです。つまり、愛徳は、天主と人との間の睦まじさを可能にするのです。
実は、天主が私たちに愛徳をお与えくださるというのは、私たちにご自身の友情をわけ与え、私たちにその友情を提供してくださることです。友情というのは、親切心を基盤とする愛です。つまり、愛する友人の善を正直に本当に望む愛です。つまり、天主は「友人にならないか」と私たちに申し出てくださいます。それによって、天主ご自身が私たち一人一人の友人になってくださる、という驚くべき提案です。「これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない。(・・・)あなたたちを友人と呼ぶ」 と、私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに仰せになりました。
このように、愛徳によって、天主は私たちに天主の仲間となることを提案してくださいます。つまり、天主は私たちに対してある程度の対等さをもって付き合っていこうと提案してくださいます。友人の間ではある程度の対等さが前提となるからです。これこそが愛徳です。天主の友情こそが愛徳の特徴です。これが天主の愛です。天主は私たちを愛し給うのです。愛徳は、天主と人の霊魂との間の相互の流れです。これが愛徳という対神徳です。
それから、愛徳にはまた完全性があります。愛徳のゆえに、罪人は義化されます。それは、愛徳を持っている人は死に至らせる罪(大罪)を負っていない、という意味です。愛徳と大罪とは相いれず、根本的に矛盾しており、同じ霊魂に同時に愛徳と大罪が存在することは不可能です。なぜかというと、死に至らせる罪、すなわち大罪の定義は「霊魂において天主の生命を殺す」ことだからです。他方、愛徳は「霊魂に天主の生命を与える」のです。ですから、大罪と愛徳とはまったく相いれず、矛盾しています。
最後に、愛徳こそがこの上なく優位な聖徳である、もう一つの理由があります。神学用語を使うと、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だからです。それはつまり、愛徳のおかげで、直接、私たちの目的として、私たちの最高の善として、天主と私たちとを一体化させる最高の徳だからです。
思い出しましょう。「目的」と「善」は同一の意味をもっています。ですから、この上なく善なる天主は、同時にこの上ない目的たる天主でもあります。天主は私たちの究極の目的だということです。つまり、愛徳のゆえに、私たちは私たちの究極の目的である天主と直接に繋がり、一体化することができるようになるのです。したがって、愛徳による行為を実践する人は、当然、言動に当たっても賢明や従順や正義など多くの聖徳を実践し、また愛徳をも実践することによって、自らの働きにおいて、それら多くの聖徳をもって究極の目的である天主に繋がることになります。言い換えると、目的にたどり着くために存在する多くの善徳は、愛徳のゆえに、私たちをその究極の目的である天主とつなぐことが可能になるのです。
この意味で、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だといわれます。つまり、愛徳は、すべての善徳・聖徳を包含するかのように、抱くかのように、燃え立てるかのように、すべての善徳・聖徳を究極の目的である天主へと向かわせるのです。
以上、この上なく優れた愛徳についてお話ししました。