ファチマの聖母の会・プロライフ

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なぜ洗礼の条件は驚くほど軽いのか?

2021年01月27日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百九講 洗礼について



洗礼とは
Gabriel Billecocq神父

前回は一般的に秘跡とは何であるかを説明しました。今回から、秘蹟を一つずつ見ていきましょう。つまり、各々の秘跡を取り上げて、簡単に神学に照らしてどういった秘跡であるかをご紹介していきたいと思います。

最初に洗礼の秘跡を見ましょう。洗礼はまさにほかの秘跡の門なのです。洗礼を受けずして、ほかの秘跡に与ることはできません。ですから、洗礼の秘跡は時間の順番でいうと最初の秘跡となります。前回も申し上げたように、一番大事な秘跡はミサですが、食べるための条件として、まず、生きているという前提があります。生まれたという前提があります。

従って、洗礼というのは超自然の人生、言いかえると聖寵の生命あるいは聖寵の状態に生まれるための秘跡です。洗礼によって、天主は霊魂に住まいを構えにいらっしゃって、そこに継続的に居を構えておられます。

それでは、洗礼とはなんでしょうか?
洗礼という秘跡は原罪を取り消す上、その人が犯した他の罪をも取り消すのです。そして、洗礼という秘跡は原罪を取り消すことによって、聖寵の生命を与えます。その結果、洗礼という秘跡はイエズス・キリストの弟子となし、天主とカトリック教会の養子となします。

要するに洗礼の秘跡の主な効果は次のとおりです。原罪を取り消す。超自然の聖寵を与える。そうすることによって天主と教会の養子にする。という効果を持つ秘跡です。またイエズス・キリストの弟子になります。イエズス・キリストの弟子という意味は、私たちの主、イエズス・キリストの下に見習っていく者になったという意味です。弟子とは主の下に行って習って従っていく者です。
以上、洗礼の紹介でした。

洗礼の秘跡はわれらの主、イエズス・キリストが制定した秘跡です。洗礼者ヨハネがイエズス・キリストに洗礼を授けた時、イエズス・キリストは洗礼という秘跡を制定したでしょう。周知のように、私たちの主、イエズス・キリストはヨルダン川に入って、洗礼者ヨハネに洗礼を求めて、洗礼を授かりました。

「洗礼」という言葉はギリシャ語に由来しており、「みそぎ」または「潜水」という意味です。
要するに、洗礼の秘跡は霊魂に生命を与えるのです。また、原罪を取り消す秘跡です。
従って、救霊のためには洗礼は必要不可欠となります。洗礼を受けていない人は救われることが不可能です。私たちの主、イエズス・キリストはこれを明白に仰せになっています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マテオ、28、19)。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16,17)。(または、ヨハネ、3,5にも参照。)



ということは、洗礼を受けずして天国に入ることはできません。無理です。裏を返せば、天国に入るためには洗礼は必要不可欠です。
救霊を得るためには、このよう絶対な条件があることから、両親が赤ちゃんを洗礼に与らせる深刻な義務が生じるのは言うまでもありません。しかしながら、これに留まらないで、赤ちゃんを洗礼に与らせた両親はさらにカトリックの信仰の内に育てていく義務をも生じさせます。というのも、「両親として子供を洗礼に与らせたが、そのあとは子どもが好き勝手にすればよい」というわけにはいきませんよ。これでは無意味です。無責任です。

また同じように「洗礼にすぐ与らせないで、子どもが7-8歳になったら決めてもらおう」というわけにもいきませんよ。このような考え方は「君が生きたいか生きたくないか」というようなことを子供に決めてもらうような無意味なことです。なにか、赤ちゃんが生まれたばかりの時、「君、食べることをするかしないか」というようなことを子供に決めてもらうようなことです。これは無意味なことでしょう。母親が赤ちゃんに「母乳を飲みたいか飲みたくないか」ということを聞くわけがないのです。赤ちゃんが食べなければ、当然、赤ちゃんの意見など無視して、食べ物を与えていくわけです。生きていく上には、赤ちゃんにとって必要不可欠なことです。

このようにして、超自然の次元でも、以上と全く同じことになっています。洗礼を遅らせるのは同じように全く理不尽なことです。いや、あえて言えば非常に邪悪な行為です。なにか「天主を選ぶのは君の自由だぞ」という誤った印象を子供に植えつけてしまうからです。しかしながら、天主の外には何もないのです。人間なら、天主を選ぶべきだということです。

また、洗礼を遅らせるのは非常に邪悪なことになりますが、それは正しく善く生きていくために必要となる聖寵と聖寵の生命を子供に与えないことになるからです。言いかえると、洗礼を赤ちゃんに授けないのは、赤ちゃんを「死」の人生に置かせっぱなしにするというか、「霊魂が死んでいる状態のままに」子供をほったらかしにするような行為です。

これは深刻なことです。つまり、子どもが霊魂においてかなり深く長く死んでいる状況のなかで「君は命が欲しいのか」と子供に聞くようなことです。これは無理があります。なぜかというと、子どもは超自然の命は何であるか知らないし、長く罪のなかで生き続けたので、このような選択はそもそもできないわけです。

罪による多くの悪い習慣を身についた子供は一体どうやって洗礼を選べるでしょうか?言いかえると、多くの犠牲をこれからいきなりやっていくことを約束することを選びうる子供はいるものでしょうか?幼児洗礼をした上、さらにそのための躾がないのなら、これは無理なことでしょう。

ですから、赤ちゃんの時に洗礼を授けないで、遅らせてそのあとにするのは本当に邪悪な行為なのです。
しかしながら、赤ちゃんであるうちに洗礼を授けても、信仰の内に育てていかないことも非常に邪悪なことです。

ですから、カトリック的な教育を受けられないだろうと思われる赤ちゃんに対してはカトリック司祭は洗礼を授けないことになっています。なぜでしょうか?洗礼を授けるということは洗礼者の霊魂には刻印を刻むことになります。この刻印は永遠に残るわけです。
つまり、赤ちゃんにせよ、大人にせよ、この刻印をもったまま、地獄に落ちた場合、地獄に必ず落ちる「洗礼を受けていない者」よりも洗礼者の方が幾倍、厳しい苦痛と罰を受けることになります。



はい、比較にならないほど、洗礼を受けた者が地獄に落ちたら未洗礼者よりも苦しんでいます。洗礼者だったがゆえに、天主の養子だったわけです。ですから、天主を否認して、天主の父性を拒んだ洗礼者、つまり地獄に落ちた洗礼者に対する罰は、天主の養子でもない未洗礼者よりも重いのは当然でしょう。というのも、未洗礼者はいったん天主を受け入れてから天主を否認しているわけでもなく、まだ、養子にもなっていないため、その父性を拒んでいるとはいえないことから、その分、洗礼者に比べたら地獄での罰が軽くなるのです。

ですから、両親は赤ちゃんに洗礼を授ける時、これは義務ですが、またカトリック的な教育を与える、つまり、子どもの霊魂を養っていくという深刻な義務も生じます。その責任は大きいです。

では、洗礼の質料は何でしょうか?つまり物質的な印は何でしょうか?またその形相は何でしょうか?
水です。厳密にいうと、聖土曜日の復活徹夜祭の際、神父によって聖別されている洗礼水をもって、洗礼を授けることになります。洗礼水がない場合、普通の水を利用してもよいです。水とは洗礼の秘跡の遠因の質料です。

考えてみると素晴らしいことです。救霊を得るために、絶対に洗礼が必要不可欠です。そして、世界において一番普通にどこでもいつでもある、人間にとって必要不可欠なる水を善き天主が質料として制定なさいました。素晴らしいでしょう。これを見た時、善き天主がどれほど人々を救いたいかがわかってくるでしょう。一番普通である物質、「水」だけで洗礼に授かることができるのです。「洗礼を授かりたいか」「はい、授かりたい」と答えたら、水だけで洗礼を授けることが可能なのです。

もちろん、洗礼を授けるということは軽いことではないのですが、どこでもいつでも、洗礼を授けることは可能だということです。
繰り返しますが、洗礼の秘跡の遠因の質料は水です。近因の質料は「水を額に注ぐ」仕草です。これは「洗う」ことを示す仕草です。つまり、「みそぎ」を示している仕草です。

そして、この質料を完成化する形相は次の言葉です。洗礼を注ぎながら司祭が「我、聖父と聖子と聖霊との名によりて汝を洗う」といいます。「洗礼を授ける」という意味は「汝を洗う」という意味です。

以上の質料と形相は揃ったら、洗礼の秘跡という刻印が霊魂に刻まれます。洗礼者は天主ご自身を自らの霊魂に迎えることになって、聖寵の命を迎えて、聖父と聖子と聖霊なる天主が霊魂に居を構えます。洗礼によって霊魂は聖寵の状態に入ります。
以上、質料と形相についてでした。つまり、目に見える物質的な印です。

次は洗礼の執行者はだれでしょうか?洗礼を授ける通常の執行者は神父あるいは司教です。洗礼を授ける非常時の執行者は助祭です。
そして、必要に迫られてどうしても洗礼を授けざるを得ない場合は洗礼の執行者は誰でもよいです。このような場合は、本当に必要に迫られて、赤ちゃんの死に迫っている時、司祭も助祭もいない場合、間に合わない場合のことです。



善き天主はどうしても人々の全員を天国に迎えたいわけです。ですから、洗礼を授ける条件は非常に軽いです。素晴らしいでしょう。善き天主はどうしても人々の全員を天国に迎えたいわけです。このような真理を理解すると、どんどんいろいろなことが見えてきます。まるで善き天主は「天国に行くのは簡単なことだから、さあ小さな努力すらしてくれたらもう済むよ」という素晴らしい事柄に気づきます。

要約すると、通常は司祭あるいは司教。非常時の時、上司の許可を貰ったら、助祭。死の危険がある場合、瀕死の人が洗礼を受けたいという時、あるいは赤ちゃんの瀕死の時、司祭などを来てもらえないような必要な場合は、だれでも洗礼を授けます。

つまり、水を取って、教会の典礼に則って、教会の意向を踏んで、水を注ぎながら「我、聖父と聖子と聖霊との名によりて汝を洗う」といったらよいのです。これだけでも、洗礼は有効となります。授ける人はカトリック信徒ではなくても、異教徒が授けろうとも、洗礼は有効です。洗礼の典礼に則って授ける時、カトリック教会がなさろうとしている意向すらあったら、有効です。これで十分です。

なんと簡単なことでしょう。死んでから、天主のみ前に我々は出廷するとき私たちに「簡単だったはずなのに」あるいは「ほら、簡単だっただろう」と善き天主が必ず仰せになります。

次は、洗礼を受けられるのはだれですか?生きている人間ならだれでも洗礼に与ることができます。ただし、身体的な生命でまだ生きているという条件があります。死者に洗礼を授けることは不可能です。

また、洗礼を受けるために、洗礼を一度も受けたことがないという条件もあります。取り消せない刻印を霊魂に刻む洗礼なので、一度、洗礼を受けたら決定的であって永遠であるので、二度と洗礼を受けることは不可能です。

また、先述したように、洗礼に与るためには、生きているという条件がありますので、死んでいる人に対して洗礼を授けることは不可能です。
また、洗礼を授けるためには、水を注ぐ必要があるので、身体の一部に実際に水を注ぐ必要があります。

赤ちゃんの場合はどうなりますか。赤ちゃんの場合は「洗礼を受ける意志」はまだありません。生まれたばかりの赤ちゃんにはその知性と意志が足りないのでできません。ですから、赤ちゃんの代わりに代父と代母が赤ちゃんの名によって宣言します。そして、洗礼を授けることを望むのは両親であって、そしてカトリック的な教育を与えるという意志も必要です。つまり、赤ちゃんは洗礼を受けて、超自然の生命に生まれて、成長していきます。
以上、洗礼を受ける能力者についてでした。



次に洗礼の効果はなんでしょうか?前にすでにちょっと触れた課題ですね。
洗礼は成聖の聖寵を与えます。それに伴って、聖寵に属するすべてを与えます。要するに、超自然の聖徳、つまり信徳、望徳と愛徳です。続いて、天賦の枢要徳や聖霊の賜物をも与えます。それとともに、洗礼は天国の門を開けてくれます。

要するに、洗礼を受けた人は聖寵の状態に入った瞬間に、天国に入ることが可能となります。天国の門は洗礼者のために開いています。あえていえば、洗礼を受けた途端、洗礼者が死んだ場合、必ず天国に行くということです。この真理は非常に慰めになるでしょう。

もちろん、だからといって死を軽視するわけにはいきませんが、洗礼を受けた幼児が死んだ場合、必ず天国にいるということです。つまり永遠に至福であると確信できることは、何と慰めとなることでしょう。

ですから、これはよくあることですが、幼児が早世した時、両親の悲しみはいつも大きいです。でも、幼児に洗礼を授けたカトリック信徒のために善き天主は洗礼をうけて死んだ幼児が必ず天国に入ったという慰めを与えます。さらに言うと、天では聖人がいてくれて、その家族のためにとりなしてくださる聖人がおられるという確信を善き天主はカトリック信徒に与え給うのです。なんと素晴らしいでしょう。これは私の経験に照らしても、本当に計り知れないほどの慰めです。
つまり、洗礼は成聖の聖寵とそれに伴うすべてを与えるのです。

次に、洗礼は霊魂に取り消せない刻印を与えます。この刻印のお陰で、ほかの秘跡に与ることが可能となります。特に堅信と告解と聖体拝領ですね。

次に、洗礼によって、原罪は許されます。原罪を取り消されます。原罪に伴った結果は取り消されていないのですが、原罪自体は赦されます。また、同時に、洗礼を受ける前の全ての罪は赦されます。つまり、大人が洗礼を受けると、生まれてから洗礼までの全ての罪は赦されます。

そして、最後に、洗礼は罪のせいで受けるべき永劫罰と有限罰を取り消します。つまり、原罪を負っている限りにおいて、地獄に落ちる罰を受ける身となるのですが、洗礼によって、原罪は赦されるだけではなく、その上、地獄での永劫罰をも取り消されます。
それから、洗礼を受ける前に多くの罪を犯した大人は洗礼を受けると、それらの罪が赦されるだけではなく、それらの罪に伴う更なる罰も取り消されます。

以上、洗礼の効果でした。


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