以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。
1917年7月13日金曜日に三人の子どもたちに地獄を見せた後聖母は次のように言われました。
-あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。-
これは第一の秘密の結論に相当する部分です。
聖母は続いて第二の秘密を明らかにされました。第一の秘密が個人の救いに焦点を当てているのに対して、この第二の秘密は民族と教会の運命に関わって語られています。現代世界の平和が問題とされています。平和は人間が神に背くとき人間に与えられないということを聖母は告げておられます。
-私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。-
-このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。-........
ここで問題になっていることは、個人の霊魂の救いではなくて、民族の戦争あるいは平和、教会の自由あるいは平和です。聖母のこの第二の秘密の主題はキリスト教世界の救いだと言えるでしょう。
第二の秘密を正確に理解するためには、私たちは聖母の「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます」という言葉に常に立ち帰らなければなりません。
神の大いなる御計画はすべての霊魂によってばかりでなく、すべての民族によって聖母の汚れなき御心が愛され、称賛され、栄光を帰されることです。神はこの聖母の汚れなき御心にキリスト教世界の上に比類のない恵みの宝を注ぐことをお委ねになりました。
神が望まれたことはキリスト教世界が聖母を単に私的にだけでなく、公的に荘厳に崇敬することでした。「世界の中に聖母の汚れなき御心の信心を打ち立てること」は個人の心の中の問題にとどまるのではなくて、公的な教会の、世界の問題です。ジャシンタが入院するためにリスボンに行く前にルシアに語った次の言葉はこのことを非常によく説明しています。
「....私が天国へ行くのはそれほど先のことではないでしょう。あなたは神が聖母マリアの汚れなき御心に対する世界の信心を確立することを望んでおられるということを人々に知らせるために地上に残るでしょう。このことをあなたが言わなければならないとき、隠してはいけません。神は聖母マリアの汚れなき御心を通じて恵みを私たちにお与えになりますから、彼らがその恵みを聖母にお願いしなければならないということをすべての人に告げてください。そしてイエズスの聖心は聖母マリアの汚れなき御心がイエズスの側で崇敬されることを望んでおられるということを知らせてください。そして人々にまた平和のために聖母マリアの汚れなき御心に祈るように告げてください。なぜなら、神は平和を聖母に委ねられたからです。」
1917年7月13日に、聖母は3人の子どもたちに平和の条件についてこう述べられました。
「世界のために平和を得、戦争を終わらせるために、ロザリオの聖母をたたえて毎日ロザリオの祈りを続けることを私は望んでいます。なぜなら、ただロザリオの聖母だけがあなたがたを助けることができるからです。」
ロザリオを毎日祈るようにという招きを聖母は御出現の度に繰り返されました。世の人々は行動しなければお祈りしても無駄である、と言いますが、聖母はまずロザリオを祈りなさいとわたしたちに勧めておられます。現在もこの聖母の招きは真実だと思います。シスター・ルシアはこのことの緊急性を絶えず強調しています。
聖母はロザリオの祈りの他に、すでに述べた「5ヶ月の初土曜日の信心」を1925年にポンテ・ヴェドラで、そして1929年に後に述べる「聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献」をトゥイで、シスター・ルシアに要求されました。
この三つの条件が神がマリアを通して世界に示された平和の条件です。「私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。」
1917年7月の時点で言われたこの預言は、第一次世界大戦の終結を予告したものです。すでに1914年7月に始まっていたこの戦争(オーストリア・ドイツ・トルコ・ブルガリアの同盟国側2400万とセルビア・イギリス・フランス・ロシア・イタリア・ベルギー・日本・アメリカ・中国・ルーマニアなど連合国側4300万が戦ったヨーロッパを中心とした大戦争)は丸3年経ってもまだいつ終わるかその行方がわからなかったときに、聖母はその終結を予告されたのです。
聖母がおっしゃっている平和は聖母が「平和の元后(女王)」(Regina Pacis)として世界にお与えになる「キリスト教的平和」(Pax Christiana)であって、「世が与えることが出来ない平和」(illam, quam mundus dare non potest, pacem)です。しかし、第一次世界大戦の終結(1918年11月)の後、世界の平和は長続きしませんでした。
すでに第一次大戦の最中、1917年11月7日(ロシア暦10月25日)にロシアではレーニンの率いるボルシェヴィキがケレンスキー臨時政府を倒してソヴィエト政府を樹立する共産主義の支配を始めていました。しかし、共産主義の悪が世界に拡がる前に、世界は第一次世界大戦をはるかに上回る恐るべき第二次世界大戦を経験しなければなりませんでした。
ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本のウルトラ・ナショナリズムという全体主義的・無神論的国家主義による世界再分割の要求貫徹のための侵略戦争という形を取ったと思います。世界の人々は聖母の忠告を無視して神に背くことを止めなかったわけです。神との平和のないところに人間の平和はあり得ないということは、現在もいっこうに変わっていないのではないでしょうか。
現代の人々は、神を信じる人も含めて、神の懲罰ということを信じたがりません。ですから、ファチマの聖母が次のように言われるとき、反発したり無視したりします。何度も引用していますが、聖母は1917年7月13日ルシアにはっきりとこう言われたのです。そしてこの預言通りのことが起こりました。
「しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです」
ピオ十一世の教皇在任期間は1922年から1939年です。1931年日本は中国侵略を開始し、日華事変を引き起こし、1933年にはヒットラーが再軍備に着手、イタリアは1935年エチオピアを侵略、1938年3月ドイツがオーストリアを併合、39年8月にポーランドに要求提出、聖母の預言通りに実質的に第二次世界大戦が開始されていました。
聖母が預言された「未知の光によって照らされる夜」は1938年1月25日の夜から26日の朝がたにかけてヨーロッパ・北アフリカの空に展開されました。それは専門家が「北極光」(aurora borealis)と呼んだ異常な輝きのことです。1938年1月26日のリヨンの新聞 Nouvelliste de Lyon はそれを次のように報じています。
「昨夜、西ヨーロッパの空を異常な大きさの北極光が波打った。それは多くの部局で大騒動を引き起こしたが、最初はそれが大火事だと信じた。.....アルプス地方全域において、多くの人々はこの不思議な光景に非常な興味をそそられた。空は非常に強烈な鮮血色の輝きを発しながら移動する一つの巨大な炉のように燃え立たせられていた。炉の縁はあたかも太陽がまさに昇ろうとしているかのように、白色であった。それは明らかに北極光であったが、しかし、グルノーブル大学理学部のペルス教授によれば、一つの例外的に巨大な北極光であった。」
『フランス天文学協会ブレティン、天文学、気象学、地球物理学月刊誌』は50ページにわたる特集でこの現象を次のように報告しています。
「例外的な美しさをもった北極光が1938年1月25日火曜日の夕方から26日水曜日の朝にかけてフランス、そしてヨーロッパのほとんどすべての国々において見ることが出来た。スイス、イギリスそして同様に西部、南西部、プロヴァンスに至る南東部地域、そしてさらに南部、イタリアやポルトガル、シシリー、ジブラルタル、そして北アフリカにおいてさえ、この現象はこれらの地域の緯度にしては例外的な強度を示した。....
天気は曇りだった。そして夕暮れ頃にはすこし霧雨になった。太陽は一日中見ることができなかった。しかし今、日没後2時間以上たって、雲がなくなり晴れた。北東、北、そして北西の地平線は、夜明けが再び一面に始まるかのように、明るくなった。実用的な目的からはそれは夜明けであった。....しかし、不思議な光をもった夜の曙である。それは北極光である。
青白い、美しい、青緑の光が北東から北西の空に展開している。徐々に上方へと空が深紅色に変わり、そして不規則的な赤い弧が現れる。紫色に染められた雲の一種が北東に圧縮し、それからあたかも一つの神秘的な息によって吹き払われたかのように、北西の方向へと移動して行く。それは積み重なり、波のようにうねり、消え、そしてまた現れる。一方、その色が真っ赤な色からだいだい色にそして黄色に変わって行く巨大な光線は星を覆いながら、天頂にまで登って行く。その光景は、消えたり現れたりしながら、光の振動で変化し、生き物のようで、心を奪うものである。....
通りではパニックが起こっている。『パリが火事だ!』地方のいくつもの村では消防隊が動員されている。....巨大な深紅の光が空いっぱいに拡がっていた。」
同じ雑誌はフランスと外国の特派員からの多くの報告を載せています。
アルプス・ピック・デュ・ミディの観測所で:
「この珍しいオーロラはピック・デュ・ミディ観測所で観測された最初のものであった。それはこの緯度としては非常に稀な現象である。....最初の印象は一つの巨大な火災のそれであった。....」
メーヌ・エ・ロワールのラ・シャペル・サン・ローで、10歳になる生徒の記録:
「昨晩は一つの大きな雲があった。それは血で染めた紙のようだった。それからその雲は大きくなった。それは大きな赤い糸の列になり、上の方へ上がって行った。その下にチョークの線のような白い糸の列が現れた。」
オワーズで、アンリ・ブラン氏:
「最初、それは巨大な地獄の気味の悪い反射だと思われた。....この現象の変則と強度に打たれて村人たちの多くは彼らの家の窓枠から幾分神経質になって観察した。....これらの赤い色の輝きが見られ、また消えた。そして後でかなり長い時間が経って再び現れた。....これらの光り輝く現象はときどき非常に空高く上がり、そして色、輝きにおいてそれらは一つの猛烈な近くの地獄の非常に生々しい反射にまったく比較され得るものであった。....この例外的な天空の光景の強烈さ、その素晴らしい輝き、その巨大な範囲、特にわれわれの地域におけるこの強度で[見られることが]非常に稀であること、一年のうちでこの季節に見られることはさらにもっと稀であることなどは、直ちに社会に教えるべき価値があるとわれわれには思われる。....」
ピカルディーで:
「5時15分に私は北北西の方向に、私が最初遠くにある地獄の結果であると考えた一つの赤熱に気づいた。....10分後に大きな紫色の点がオリオンの方へまっすぐに私たちの頭上を越えて拡がって行った。次ぎに他のもっと小さい、もっと青白い点が現れ、そして消えて行った。しばらく後に、燃える空が私たちの顔に反射した。私の側でその現象に賛嘆していた妻が、私には非現実的に思われる赤い反射の中で私に現れた。7時45分に、赤い輝きはその最高の強度に達した。ほとんど空全体が火事になっているように見えた。第二の[天にできた]ひだは素早く燃え上がった。その輝きは私が腕時計を見て時間を言うことができるほどの明るさだった。その光景は並外れていた。ニュースを求めて私の側にやって来た一人の農夫は非常に真剣に、それは世の終わりを告げていると信じた。....明らかにこの常ならぬオーロラによって頭がおかしくなった雄鳥が日の出であるかのようにときをつくり始めた!」
カーンの小神学校で:
生徒たちは寄宿舎から「大きな赤いシーツ」を見た。「そのシーツを通していくつかの星を見ることができた。」
ヴォークリューズのある証人は同じ表現を使っている:
「空に非常に大きい赤いシーツを見て私は驚いた。しばらくの間それは周辺の地域のどこかでの火事であると私には思われた。その燃える光が雲に反射していた。....私はその現象が続いている間村と周辺の地域の犬どもが吠え始めたことに気がついた。彼らは10時半頃まで吠えるのをやめなかった。」
北アフリカからの証言:
「このオーロラはチュニジアのほとんどすべての場所から見ることができた。それは、同様なものが1891年以来報告されたことがなかったから、一つの非常に稀な現象である。....一般に、それは巨大な赤い色あるいは桃色の光のように見え、多かれ少なかれ白い縞が入っていた。....非常に驚いた土地の人々はその中に神の怒りの警告を見た。ヨーロッパ人たちはそれは一つの巨大な遠くの火事であると考えた。
この現象それ自体は超自然的な奇跡ではなく、単に「一つの例外的な自然現象」に過ぎませんが、しかし、それは前もって予告されたものであり、神が世界をその罪のために罰しようとしておられる「しるし」として神によって与えられたものだと理解されるのです。現象自体が客観的に意味を持っているというのではなく、その現象に神は一つの意味をお与えになったと考えることができます。この現象の直後にシスター・ルシアは司教、カノン・ガランバ、修道会の上長、聴罪司祭たちにこの現象の超自然的、預言的な意味を説明しました。しかし、教会の司牧者たちはシスター・ルシアがこの自然現象における神の意志の意味を説明したことを無視して、信徒たちにそのことを明らかにしませんでした。「人々が神に背くことをやめ」て痛悔し、回心するようにという天の要求は聞き入れられず、世界は戦争、それも史上最大、最悪の戦争になだれ込んで行きました。
1946年にジョンゲン神父がシスター・ルシアになぜ戦争前にこのことを公表しなかったのか?と問うた時、それに対して彼女は「誰もそのことを私に求めなかったからです」と答えています。シスター・ルシアが預言者のように、完全に独立して行動することを意図して、彼女の上長の同意なしに、彼女自身の権威に基づいて秘密を明らかにするということは神の御意志ではなかったのです。神の御意志はシスター・ルシアの上長、聴罪司祭や司教たちが協力することを通して聖母マリアの秘密が世界に公表されることでした。ですから、戦争が終わってから公表された秘密の責任をシスター・ルシアに負わせることはできませんし、ましてシスター・ルシアが事が起こった後になってそれを秘密の内容としてでっちあげたというダニス神父の主張はとんでもない誤解です。
フレール・ミッシェルによれば、ファチマにおいて神が第一に目的とされたことは、人々に直接的に、そして民主的に、彼らに回心するように警告を発することではありませんでした。シスター・ルシアが自分のイニシャティヴで秘密の預言を公表したのであれば、そうだったでしょう。そうではありませんでした。神の御計画はそれとはまったく異なっていました。神はマリアの汚れなき御心への信心を通じて世界を救うことを望まれました。しかし、神はまたカトリック教会の司牧者たちがその神的な権威を用いてその信心を荘厳に確立することをも望まれたのです。シスター・ルシアが1917年に聖母から託された秘密を教会の上長たちに知らせて、彼らを通して時期が来れば世界へ、信徒たちへ公表されることを願って、自ら公表することをしなかったのは、神の御意志に忠実であった証拠です。
1941年8月31日に書かれた第三の手記においてシスター・ルシアは懲罰を告知する大いなるしるしの後に彼女が経験した不安な期待の数ヶ月について彼女の司教に思い起こさせました。
「そうであると思いますが、(この天空の現象の正確な本性に関して)神は、その正義が罪ある国々をまさに打とうとしているということを私に理解させるためにこのことを利用されました。この理由で、私は初土曜日の償いの聖体拝領とロシアの奉献をしつこく懇願し始めました。私の意図は全世界のためばかりでなく、特にヨーロッパのために憐れみと赦しを得ることでした。....
神がその無限の御憐れみにおいて、恐るべき瞬間が近づいたということを私に感じさせられたとき、猊下は、機会が提供されるときにはいつでも、私がどのようにそれを指摘する機会を捉えたかを思い起こしてくださるでしょう。」
ところで、1904年3月30日、ポルトガルのポルトの北にある小さな村バラザルに生まれたアレクサンドリナ・マリア・ダ・コスタは1955年10月13日に亡くなるまで多くのカリスマや神秘的な恵みを受けて聖なる生活を送り、1967年1月14日ブラガで列聖調査が行われ、1973年4月14日にはその調査が成功裡に終わりました。
このアレクサンドリナに、1935年8月1日、主が御出現になって、教皇に手紙を書いて、世界をマリアの汚れなき御心に奉献するように求めなさいと次のようにおっしゃいました。「かつて私は私の聖心に人類を奉献するように求めた。今、私は私のいとも聖なる御母の汚れなき御心に人類を奉献するように求める。」
彼女の聴罪司祭のイエズス会士ピニョ神父は1936年9月11日にパチェッリ枢機卿に手紙を出しました。枢機卿は聖座にアレクサンドリナの調査を命じ、1937年にブラガの大司教にさらに彼女についての情報を提供するよう求めました。1938年6月にファチマに黙想のために集まった(この時司教たちに説教したのはピニョ神父でした)司教たちは、ダ・シルヴァ司教が教皇に聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の願いを出してすでに1年を経過しても何の返事も貰えなかったので、今度はポルトガルの司教たちの連名で、聖マリアの汚れなき御心への世界の奉献の要求を教皇に対して送りました。ポルトガルにおけるマリアの汚れなき御心によって働かれたきわだった平和の奇跡に教皇の注意を喚起しようとしてのことでした。
教皇ピオ十一世はこのポルトガルの司教団の要求に沈黙を守りました。カレイェイラ枢機卿が1967年に証言したところによれば、レイリアの司教には戦争の7ヶ月前に戦争が切迫していること、その暴力と範囲が伝えられていました。1939年2月6日付けのシスター・ルシアの手紙には、「聖母によって予告された戦争」が切迫していること、「ポルトガル司教団によってなされたマリアの汚れなき御心への奉献のおかげで」ポルトガルには聖母の御保護が約束されていることが述べられていたようです。また、次のように書かれていたと言われています。
「主たる懲罰は霊魂たちにおける神の国を破壊しようとした国々に対する懲罰でしょう。ポルトガルも同様に罪があり、懲罰のあるものを受けるでしょう。しかし、マリアの汚れなき御心がポルトガルを護るでしょう。よき主はポルトガルが償いをなし、自らと他の国々のために祈ることを求めておられます。スペインは罰せられるべき最初の国でした。スペインはまだ終わっていないその懲罰を受けました。そして他の国々に対する懲罰の時が迫っています。神は霊魂たちにおける神の国を破壊しようと欲するすべての国々をその血において純化することを決断なさいました。にもかかわらず、神は、もし人々が祈りそして痛悔するならば、怒りを和らげ、赦しを与えると約束なさいました。」
この手紙が書かれて数日後、1939年2月10日教皇ピオ十一世は亡くなられました。
シスター・ルシアは1939年3月(あるいは5月)に、主から次のメッセージを受け取りました。
「初土曜日にマリアの汚れなき御心を讃えて償いの聖体拝領が広められらることを願い、しつこく願いなさい。私の正義の厳正さがさまざまの国々の罪を罰する時が来ている。それらのうちのあるものは絶滅させられるであろう。遂に霊魂たちにおける私の支配を破壊しようとする者たちの上に私の正義の厳格さが厳しく降るであろう。」
1939年3月19日アパリシオ神父に宛てた手紙の中でシスター・ルシアはこう述べています。
「世界の平和かそれとも世界の戦争かということは、マリアの汚れなき御心への奉献と共にこの信心の実行にかかっています。これが私がそのように大いにそして特別にそれが広められることを望んだ理由です。なぜなら、それは私たちのよき主と私たちの愛する天の御母の御意志だからです。」
それから3ヶ月後、6月20日シスター・ルシアはアパリシオ神父に次のような手紙を送りました。
「聖母は、もしこの信心が広められ、実行されるならば、戦争の懲罰を遅らせると約束なさいました。私たちはその信心を広めるために努力がなされる程度に応じて彼女が懲罰をそらされるのを見ます。しかし、私は私たちが今している以上にはすることができないということ、そして神がその怒りにおいてその憐れみの手を挙げられ、世界をこの懲罰によって荒らされるにまかせられるということを恐れています。それは以前には決してなかったそのように恐ろしい、恐ろしい懲罰でしょう。」
シスター・ルシアが以前の聴罪司祭であるアパリシオ神父に説明した同じことを、彼女はきっと司教や修道会の上長にも説明したことは疑いのないところでしょう。
しかし、時はもう遅すぎました。1939年8月22日、独ソ不可侵条約が締結され、9月1日ヒットラーはポーランドを侵略し、その2日後イギリスはフランスを誘ってドイツに宣戦布告しました。たびたびの天の警告は顧みられませんでした。ヨーロッパはこの戦争の中に自らを盲目的に投げ込みました。これは聖母が忠告なさった人類の懲罰だったのです。もう一度1917年7月13日の聖母の預言をまとめて聞きましょう。
「戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。....このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」
実にこの戦争で4,000万人以上の人が死にました。
1917年7月13日金曜日に三人の子どもたちに地獄を見せた後聖母は次のように言われました。
-あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。-
これは第一の秘密の結論に相当する部分です。
聖母は続いて第二の秘密を明らかにされました。第一の秘密が個人の救いに焦点を当てているのに対して、この第二の秘密は民族と教会の運命に関わって語られています。現代世界の平和が問題とされています。平和は人間が神に背くとき人間に与えられないということを聖母は告げておられます。
-私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。-
-このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。-........
ここで問題になっていることは、個人の霊魂の救いではなくて、民族の戦争あるいは平和、教会の自由あるいは平和です。聖母のこの第二の秘密の主題はキリスト教世界の救いだと言えるでしょう。
第二の秘密を正確に理解するためには、私たちは聖母の「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます」という言葉に常に立ち帰らなければなりません。
神の大いなる御計画はすべての霊魂によってばかりでなく、すべての民族によって聖母の汚れなき御心が愛され、称賛され、栄光を帰されることです。神はこの聖母の汚れなき御心にキリスト教世界の上に比類のない恵みの宝を注ぐことをお委ねになりました。
神が望まれたことはキリスト教世界が聖母を単に私的にだけでなく、公的に荘厳に崇敬することでした。「世界の中に聖母の汚れなき御心の信心を打ち立てること」は個人の心の中の問題にとどまるのではなくて、公的な教会の、世界の問題です。ジャシンタが入院するためにリスボンに行く前にルシアに語った次の言葉はこのことを非常によく説明しています。
「....私が天国へ行くのはそれほど先のことではないでしょう。あなたは神が聖母マリアの汚れなき御心に対する世界の信心を確立することを望んでおられるということを人々に知らせるために地上に残るでしょう。このことをあなたが言わなければならないとき、隠してはいけません。神は聖母マリアの汚れなき御心を通じて恵みを私たちにお与えになりますから、彼らがその恵みを聖母にお願いしなければならないということをすべての人に告げてください。そしてイエズスの聖心は聖母マリアの汚れなき御心がイエズスの側で崇敬されることを望んでおられるということを知らせてください。そして人々にまた平和のために聖母マリアの汚れなき御心に祈るように告げてください。なぜなら、神は平和を聖母に委ねられたからです。」
世界平和のための条件
1917年7月13日に、聖母は3人の子どもたちに平和の条件についてこう述べられました。
「世界のために平和を得、戦争を終わらせるために、ロザリオの聖母をたたえて毎日ロザリオの祈りを続けることを私は望んでいます。なぜなら、ただロザリオの聖母だけがあなたがたを助けることができるからです。」
ロザリオを毎日祈るようにという招きを聖母は御出現の度に繰り返されました。世の人々は行動しなければお祈りしても無駄である、と言いますが、聖母はまずロザリオを祈りなさいとわたしたちに勧めておられます。現在もこの聖母の招きは真実だと思います。シスター・ルシアはこのことの緊急性を絶えず強調しています。
聖母はロザリオの祈りの他に、すでに述べた「5ヶ月の初土曜日の信心」を1925年にポンテ・ヴェドラで、そして1929年に後に述べる「聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献」をトゥイで、シスター・ルシアに要求されました。
この三つの条件が神がマリアを通して世界に示された平和の条件です。「私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。」
1917年7月の時点で言われたこの預言は、第一次世界大戦の終結を予告したものです。すでに1914年7月に始まっていたこの戦争(オーストリア・ドイツ・トルコ・ブルガリアの同盟国側2400万とセルビア・イギリス・フランス・ロシア・イタリア・ベルギー・日本・アメリカ・中国・ルーマニアなど連合国側4300万が戦ったヨーロッパを中心とした大戦争)は丸3年経ってもまだいつ終わるかその行方がわからなかったときに、聖母はその終結を予告されたのです。
聖母がおっしゃっている平和は聖母が「平和の元后(女王)」(Regina Pacis)として世界にお与えになる「キリスト教的平和」(Pax Christiana)であって、「世が与えることが出来ない平和」(illam, quam mundus dare non potest, pacem)です。しかし、第一次世界大戦の終結(1918年11月)の後、世界の平和は長続きしませんでした。
すでに第一次大戦の最中、1917年11月7日(ロシア暦10月25日)にロシアではレーニンの率いるボルシェヴィキがケレンスキー臨時政府を倒してソヴィエト政府を樹立する共産主義の支配を始めていました。しかし、共産主義の悪が世界に拡がる前に、世界は第一次世界大戦をはるかに上回る恐るべき第二次世界大戦を経験しなければなりませんでした。
ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本のウルトラ・ナショナリズムという全体主義的・無神論的国家主義による世界再分割の要求貫徹のための侵略戦争という形を取ったと思います。世界の人々は聖母の忠告を無視して神に背くことを止めなかったわけです。神との平和のないところに人間の平和はあり得ないということは、現在もいっこうに変わっていないのではないでしょうか。
神の懲罰としての戦争
現代の人々は、神を信じる人も含めて、神の懲罰ということを信じたがりません。ですから、ファチマの聖母が次のように言われるとき、反発したり無視したりします。何度も引用していますが、聖母は1917年7月13日ルシアにはっきりとこう言われたのです。そしてこの預言通りのことが起こりました。
「しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです」
ピオ十一世の教皇在任期間は1922年から1939年です。1931年日本は中国侵略を開始し、日華事変を引き起こし、1933年にはヒットラーが再軍備に着手、イタリアは1935年エチオピアを侵略、1938年3月ドイツがオーストリアを併合、39年8月にポーランドに要求提出、聖母の預言通りに実質的に第二次世界大戦が開始されていました。
聖母が預言された「未知の光によって照らされる夜」は1938年1月25日の夜から26日の朝がたにかけてヨーロッパ・北アフリカの空に展開されました。それは専門家が「北極光」(aurora borealis)と呼んだ異常な輝きのことです。1938年1月26日のリヨンの新聞 Nouvelliste de Lyon はそれを次のように報じています。
「昨夜、西ヨーロッパの空を異常な大きさの北極光が波打った。それは多くの部局で大騒動を引き起こしたが、最初はそれが大火事だと信じた。.....アルプス地方全域において、多くの人々はこの不思議な光景に非常な興味をそそられた。空は非常に強烈な鮮血色の輝きを発しながら移動する一つの巨大な炉のように燃え立たせられていた。炉の縁はあたかも太陽がまさに昇ろうとしているかのように、白色であった。それは明らかに北極光であったが、しかし、グルノーブル大学理学部のペルス教授によれば、一つの例外的に巨大な北極光であった。」
『フランス天文学協会ブレティン、天文学、気象学、地球物理学月刊誌』は50ページにわたる特集でこの現象を次のように報告しています。
「例外的な美しさをもった北極光が1938年1月25日火曜日の夕方から26日水曜日の朝にかけてフランス、そしてヨーロッパのほとんどすべての国々において見ることが出来た。スイス、イギリスそして同様に西部、南西部、プロヴァンスに至る南東部地域、そしてさらに南部、イタリアやポルトガル、シシリー、ジブラルタル、そして北アフリカにおいてさえ、この現象はこれらの地域の緯度にしては例外的な強度を示した。....
天気は曇りだった。そして夕暮れ頃にはすこし霧雨になった。太陽は一日中見ることができなかった。しかし今、日没後2時間以上たって、雲がなくなり晴れた。北東、北、そして北西の地平線は、夜明けが再び一面に始まるかのように、明るくなった。実用的な目的からはそれは夜明けであった。....しかし、不思議な光をもった夜の曙である。それは北極光である。
青白い、美しい、青緑の光が北東から北西の空に展開している。徐々に上方へと空が深紅色に変わり、そして不規則的な赤い弧が現れる。紫色に染められた雲の一種が北東に圧縮し、それからあたかも一つの神秘的な息によって吹き払われたかのように、北西の方向へと移動して行く。それは積み重なり、波のようにうねり、消え、そしてまた現れる。一方、その色が真っ赤な色からだいだい色にそして黄色に変わって行く巨大な光線は星を覆いながら、天頂にまで登って行く。その光景は、消えたり現れたりしながら、光の振動で変化し、生き物のようで、心を奪うものである。....
通りではパニックが起こっている。『パリが火事だ!』地方のいくつもの村では消防隊が動員されている。....巨大な深紅の光が空いっぱいに拡がっていた。」
同じ雑誌はフランスと外国の特派員からの多くの報告を載せています。
アルプス・ピック・デュ・ミディの観測所で:
「この珍しいオーロラはピック・デュ・ミディ観測所で観測された最初のものであった。それはこの緯度としては非常に稀な現象である。....最初の印象は一つの巨大な火災のそれであった。....」
メーヌ・エ・ロワールのラ・シャペル・サン・ローで、10歳になる生徒の記録:
「昨晩は一つの大きな雲があった。それは血で染めた紙のようだった。それからその雲は大きくなった。それは大きな赤い糸の列になり、上の方へ上がって行った。その下にチョークの線のような白い糸の列が現れた。」
オワーズで、アンリ・ブラン氏:
「最初、それは巨大な地獄の気味の悪い反射だと思われた。....この現象の変則と強度に打たれて村人たちの多くは彼らの家の窓枠から幾分神経質になって観察した。....これらの赤い色の輝きが見られ、また消えた。そして後でかなり長い時間が経って再び現れた。....これらの光り輝く現象はときどき非常に空高く上がり、そして色、輝きにおいてそれらは一つの猛烈な近くの地獄の非常に生々しい反射にまったく比較され得るものであった。....この例外的な天空の光景の強烈さ、その素晴らしい輝き、その巨大な範囲、特にわれわれの地域におけるこの強度で[見られることが]非常に稀であること、一年のうちでこの季節に見られることはさらにもっと稀であることなどは、直ちに社会に教えるべき価値があるとわれわれには思われる。....」
ピカルディーで:
「5時15分に私は北北西の方向に、私が最初遠くにある地獄の結果であると考えた一つの赤熱に気づいた。....10分後に大きな紫色の点がオリオンの方へまっすぐに私たちの頭上を越えて拡がって行った。次ぎに他のもっと小さい、もっと青白い点が現れ、そして消えて行った。しばらく後に、燃える空が私たちの顔に反射した。私の側でその現象に賛嘆していた妻が、私には非現実的に思われる赤い反射の中で私に現れた。7時45分に、赤い輝きはその最高の強度に達した。ほとんど空全体が火事になっているように見えた。第二の[天にできた]ひだは素早く燃え上がった。その輝きは私が腕時計を見て時間を言うことができるほどの明るさだった。その光景は並外れていた。ニュースを求めて私の側にやって来た一人の農夫は非常に真剣に、それは世の終わりを告げていると信じた。....明らかにこの常ならぬオーロラによって頭がおかしくなった雄鳥が日の出であるかのようにときをつくり始めた!」
カーンの小神学校で:
生徒たちは寄宿舎から「大きな赤いシーツ」を見た。「そのシーツを通していくつかの星を見ることができた。」
ヴォークリューズのある証人は同じ表現を使っている:
「空に非常に大きい赤いシーツを見て私は驚いた。しばらくの間それは周辺の地域のどこかでの火事であると私には思われた。その燃える光が雲に反射していた。....私はその現象が続いている間村と周辺の地域の犬どもが吠え始めたことに気がついた。彼らは10時半頃まで吠えるのをやめなかった。」
北アフリカからの証言:
「このオーロラはチュニジアのほとんどすべての場所から見ることができた。それは、同様なものが1891年以来報告されたことがなかったから、一つの非常に稀な現象である。....一般に、それは巨大な赤い色あるいは桃色の光のように見え、多かれ少なかれ白い縞が入っていた。....非常に驚いた土地の人々はその中に神の怒りの警告を見た。ヨーロッパ人たちはそれは一つの巨大な遠くの火事であると考えた。
この現象それ自体は超自然的な奇跡ではなく、単に「一つの例外的な自然現象」に過ぎませんが、しかし、それは前もって予告されたものであり、神が世界をその罪のために罰しようとしておられる「しるし」として神によって与えられたものだと理解されるのです。現象自体が客観的に意味を持っているというのではなく、その現象に神は一つの意味をお与えになったと考えることができます。この現象の直後にシスター・ルシアは司教、カノン・ガランバ、修道会の上長、聴罪司祭たちにこの現象の超自然的、預言的な意味を説明しました。しかし、教会の司牧者たちはシスター・ルシアがこの自然現象における神の意志の意味を説明したことを無視して、信徒たちにそのことを明らかにしませんでした。「人々が神に背くことをやめ」て痛悔し、回心するようにという天の要求は聞き入れられず、世界は戦争、それも史上最大、最悪の戦争になだれ込んで行きました。
1946年にジョンゲン神父がシスター・ルシアになぜ戦争前にこのことを公表しなかったのか?と問うた時、それに対して彼女は「誰もそのことを私に求めなかったからです」と答えています。シスター・ルシアが預言者のように、完全に独立して行動することを意図して、彼女の上長の同意なしに、彼女自身の権威に基づいて秘密を明らかにするということは神の御意志ではなかったのです。神の御意志はシスター・ルシアの上長、聴罪司祭や司教たちが協力することを通して聖母マリアの秘密が世界に公表されることでした。ですから、戦争が終わってから公表された秘密の責任をシスター・ルシアに負わせることはできませんし、ましてシスター・ルシアが事が起こった後になってそれを秘密の内容としてでっちあげたというダニス神父の主張はとんでもない誤解です。
フレール・ミッシェルによれば、ファチマにおいて神が第一に目的とされたことは、人々に直接的に、そして民主的に、彼らに回心するように警告を発することではありませんでした。シスター・ルシアが自分のイニシャティヴで秘密の預言を公表したのであれば、そうだったでしょう。そうではありませんでした。神の御計画はそれとはまったく異なっていました。神はマリアの汚れなき御心への信心を通じて世界を救うことを望まれました。しかし、神はまたカトリック教会の司牧者たちがその神的な権威を用いてその信心を荘厳に確立することをも望まれたのです。シスター・ルシアが1917年に聖母から託された秘密を教会の上長たちに知らせて、彼らを通して時期が来れば世界へ、信徒たちへ公表されることを願って、自ら公表することをしなかったのは、神の御意志に忠実であった証拠です。
1941年8月31日に書かれた第三の手記においてシスター・ルシアは懲罰を告知する大いなるしるしの後に彼女が経験した不安な期待の数ヶ月について彼女の司教に思い起こさせました。
「そうであると思いますが、(この天空の現象の正確な本性に関して)神は、その正義が罪ある国々をまさに打とうとしているということを私に理解させるためにこのことを利用されました。この理由で、私は初土曜日の償いの聖体拝領とロシアの奉献をしつこく懇願し始めました。私の意図は全世界のためばかりでなく、特にヨーロッパのために憐れみと赦しを得ることでした。....
神がその無限の御憐れみにおいて、恐るべき瞬間が近づいたということを私に感じさせられたとき、猊下は、機会が提供されるときにはいつでも、私がどのようにそれを指摘する機会を捉えたかを思い起こしてくださるでしょう。」
ところで、1904年3月30日、ポルトガルのポルトの北にある小さな村バラザルに生まれたアレクサンドリナ・マリア・ダ・コスタは1955年10月13日に亡くなるまで多くのカリスマや神秘的な恵みを受けて聖なる生活を送り、1967年1月14日ブラガで列聖調査が行われ、1973年4月14日にはその調査が成功裡に終わりました。
このアレクサンドリナに、1935年8月1日、主が御出現になって、教皇に手紙を書いて、世界をマリアの汚れなき御心に奉献するように求めなさいと次のようにおっしゃいました。「かつて私は私の聖心に人類を奉献するように求めた。今、私は私のいとも聖なる御母の汚れなき御心に人類を奉献するように求める。」
彼女の聴罪司祭のイエズス会士ピニョ神父は1936年9月11日にパチェッリ枢機卿に手紙を出しました。枢機卿は聖座にアレクサンドリナの調査を命じ、1937年にブラガの大司教にさらに彼女についての情報を提供するよう求めました。1938年6月にファチマに黙想のために集まった(この時司教たちに説教したのはピニョ神父でした)司教たちは、ダ・シルヴァ司教が教皇に聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の願いを出してすでに1年を経過しても何の返事も貰えなかったので、今度はポルトガルの司教たちの連名で、聖マリアの汚れなき御心への世界の奉献の要求を教皇に対して送りました。ポルトガルにおけるマリアの汚れなき御心によって働かれたきわだった平和の奇跡に教皇の注意を喚起しようとしてのことでした。
教皇ピオ十一世はこのポルトガルの司教団の要求に沈黙を守りました。カレイェイラ枢機卿が1967年に証言したところによれば、レイリアの司教には戦争の7ヶ月前に戦争が切迫していること、その暴力と範囲が伝えられていました。1939年2月6日付けのシスター・ルシアの手紙には、「聖母によって予告された戦争」が切迫していること、「ポルトガル司教団によってなされたマリアの汚れなき御心への奉献のおかげで」ポルトガルには聖母の御保護が約束されていることが述べられていたようです。また、次のように書かれていたと言われています。
「主たる懲罰は霊魂たちにおける神の国を破壊しようとした国々に対する懲罰でしょう。ポルトガルも同様に罪があり、懲罰のあるものを受けるでしょう。しかし、マリアの汚れなき御心がポルトガルを護るでしょう。よき主はポルトガルが償いをなし、自らと他の国々のために祈ることを求めておられます。スペインは罰せられるべき最初の国でした。スペインはまだ終わっていないその懲罰を受けました。そして他の国々に対する懲罰の時が迫っています。神は霊魂たちにおける神の国を破壊しようと欲するすべての国々をその血において純化することを決断なさいました。にもかかわらず、神は、もし人々が祈りそして痛悔するならば、怒りを和らげ、赦しを与えると約束なさいました。」
この手紙が書かれて数日後、1939年2月10日教皇ピオ十一世は亡くなられました。
シスター・ルシアは1939年3月(あるいは5月)に、主から次のメッセージを受け取りました。
「初土曜日にマリアの汚れなき御心を讃えて償いの聖体拝領が広められらることを願い、しつこく願いなさい。私の正義の厳正さがさまざまの国々の罪を罰する時が来ている。それらのうちのあるものは絶滅させられるであろう。遂に霊魂たちにおける私の支配を破壊しようとする者たちの上に私の正義の厳格さが厳しく降るであろう。」
1939年3月19日アパリシオ神父に宛てた手紙の中でシスター・ルシアはこう述べています。
「世界の平和かそれとも世界の戦争かということは、マリアの汚れなき御心への奉献と共にこの信心の実行にかかっています。これが私がそのように大いにそして特別にそれが広められることを望んだ理由です。なぜなら、それは私たちのよき主と私たちの愛する天の御母の御意志だからです。」
それから3ヶ月後、6月20日シスター・ルシアはアパリシオ神父に次のような手紙を送りました。
「聖母は、もしこの信心が広められ、実行されるならば、戦争の懲罰を遅らせると約束なさいました。私たちはその信心を広めるために努力がなされる程度に応じて彼女が懲罰をそらされるのを見ます。しかし、私は私たちが今している以上にはすることができないということ、そして神がその怒りにおいてその憐れみの手を挙げられ、世界をこの懲罰によって荒らされるにまかせられるということを恐れています。それは以前には決してなかったそのように恐ろしい、恐ろしい懲罰でしょう。」
シスター・ルシアが以前の聴罪司祭であるアパリシオ神父に説明した同じことを、彼女はきっと司教や修道会の上長にも説明したことは疑いのないところでしょう。
しかし、時はもう遅すぎました。1939年8月22日、独ソ不可侵条約が締結され、9月1日ヒットラーはポーランドを侵略し、その2日後イギリスはフランスを誘ってドイツに宣戦布告しました。たびたびの天の警告は顧みられませんでした。ヨーロッパはこの戦争の中に自らを盲目的に投げ込みました。これは聖母が忠告なさった人類の懲罰だったのです。もう一度1917年7月13日の聖母の預言をまとめて聞きましょう。
「戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。....このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」
実にこの戦争で4,000万人以上の人が死にました。