白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ブベ(J-P.Boubée神父)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ブベ(J-P.Boubée神父)神父様のお説教
彼らは天主を追い出した!
2021年10月9日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、本日の書簡は、お祝いする聖ディオニジオについて教えられています。アテナのアレオパゴス(一種の集会)と聖ディオニジオは宣教に挑みました。
聖ディオニジオはギリシャ人の強みを活かして、宣教しました。つまり、高等な哲学を営んだギリシャ人の前に、聖ディオニジオは彼らに思い起こさせます。ギリシャ人たちは天主の存在を見極めていて、第一の原因、霊的な神、唯一なるような創造主の存在、異教の神々と異質な天主の存在を見極めたことを、聖ディオニジオは思い起こします。
そして、天主はギリシャ人が気づいたように存在するのなら、天主はこの世のすべての原因となっているので、人間としての本分を守るために天主へ恩を返すべきだと聖ディオニジオは説きます。ですから、天主の存在は重要な問題となり、その存在に気づいたら我々の人生の目的と原因もわかるので、天主からすべてを頂いている分、なるべくすべてを恩返しすべきですし、また人間ならだれでもそれをすべきだということをも明らかになります。
本日、土曜日の夕方なので、天主の存在の幾つかの証明について話さないことにします。それについて多くの説教や書物がありますので、ぜひご覧ください。大変に面白いテーマで、重要です。今晩は手短に話しますが、天主の存在は理性によって証明できるだけではなく、天啓によって示されている真理であることを注意していただきたいです。
世界中、時代を問わないで、どれほど原始社会、未開社会にせよ、皆、神々や人間を超える存在を認めています。神々の存在は普通なことで、日常のことでした。このような社会において、神の存在を証明する発想なんて考えられないで、そもそも理不尽なことであり、神々の存在を前提に生きていたまでです。神の存在を前提としていたのは、人類の歴史で近代期まででした。啓蒙主義や攻撃的な無神論の台頭によって、はじめてその存在は否定されました。
ちなみに、無神論なら、必ず攻撃的な無神論になるしかありません。というのも、無神論を主張するために、つまり人間を超える存在がいないという人間性に反する発想を主張するために、自分の本性に対して、暴力的に強制的にこのような発想を思い込むように押し付ける必要がありますので、攻撃的になるほかありません。天主の存在を否定することなんてこのぐらい不自然なことであるからです。
要するにかなり多くの当たり前な事実、あるいは自明なことを見ないことにして、これらを黙らせて、これらの事実よりもうるさく自慢しなければ無神論は成り立たなくなるので、必ず攻撃的になります。
このようにどれほど原始社会であっても、未開社会であっても、偶像崇拝、汎神論、フェティッシュ、トーテムなどがいろいろあるでしょうが、神のような存在を否定するなんてありえなかったし、神の存在は自然なことでした。このように、死に迫る時、あるいは困難に迫る時、自然に上へ祈りを捧げていたし、お供えあるいは犠牲を捧げていたのです。確かに偽りの神々だったかもしれませんが、善意をもって人間を超える存在に向かって拝みました。そうしないと人間らしくなくなるからで、大昔から人間にとっての当たり前な営みでした。
さて神々を信じていた多くの人々はもちろん、多くの誤謬を抱いていました。キリストの光に照らされてはじめてはっきりと認識できます。いわゆる聖パウロがいう「ジェンチレス(異教徒、フランス語で親切な人という意味にもなっている)」ですね。聖パウロは異教徒の使徒だと呼ばれています。
そして、大体、異教徒たちは神々を信じて、つまり多神教でした。この意味で旧約聖書の時代において、天主によって選ばれたヘブライ民族は唯一、一神教でしたあえていえばヘブライ民族の特徴です。そしてこれがあり得たのは、天主のご加護のお陰でした。あえていえば、ヘブライ民族の意志に反してまで一神教であり続けさせられました。旧約聖書を見たら、何度も何度も天主を捨てようとして多神教になろうとしました。しかしながら、天主はそれを阻むために何度も何度も絶えず、「唯一なる神はわたしだ。天主なるわたしのみである。だから、我を拝むように命令する。また霊的な天主なので、外形的な犠牲などだけではなく、心において我を礼拝して、愛するようにと命令する」といわんばかりに。
ヘブライ民族の歴史のなかで、天主は何度も預言者あるいは直接にご自分の存在と在り方をお示しになって、ヘブライ民族が逸脱しないように御手を出されました。
というのも、ヘブライ民族は常に多神教や汎神論の国々に囲まれて、時に支配されていたからです。ですから、例えば、出エジプトの際、天主ははっきりと命令されました。「私以外に神を持つな。異国の神を拝むな。私のみ天主である」と特に天主はしつこくしつこく強調されました。
このようにみると、1986年のアッシジの会で本格的に始めた現代のエキュメニズムを見たら文字通りスキャンダルです。また最近なら、高等聖職者をはじめ、ローマで崇拝されたパチャママの事件を見ても、極めて醜くで恥じるべきことです。なぜなら、もはや天主を弄ぶようなことを意味しており、天主は単なる「お守り」、偶像あるいはフェティッシュ扱いされるだけではなく、その上、天主はずっと、このようなことにならないように何度も何度も命令して、教えられて、奇跡やしるしを与えられていたからです。
また、このようなことがあった時、天主は憤怒され、復讐されました。ご自分の民を罰されました。多神教による祭りは天主から見てふざけるというか侮辱の行為に値するわけです。天主を貶めることだからです。天主より低い存在を絶対化して拝むなんて、どれほど無礼であるかは想像に難くないのです。(天皇陛下を忘れて、その代わりに犬を陛下扱いするようなことと似ているでしょう。)
また多神教の他、もう一つの大きな誤謬は多少なりともいつも潜在していました。いわゆる二元論的な誤謬です。つまり善の原理と悪の原理、あるいは霊の原理と肉体の原理などです。このような誤謬も天主を貶めるのです。なぜなら、天主は何度もお示しになったように、「私の他に神はない(…)光をつくり、やみをつくり、(…)私は主であって、これらすべてを行う」(イザヤ、45,5-7)からです。
善の神と悪の神のようなことは存在しません。平和を行う神と戦争を行う神なんかありません。「私は主であって、これらすべてを行う」と天主はイザヤに告げられます。
また、天主は悪を行うのではなく、被創造物は必ず不完全であることから、必要となる不完全は悪に見えても全体から見て悪ではないということです。ですから、欠陥や不完全性があって当然です。
また、正義を全うするためにも、それに値する人々を罰したりするようなことも善いことです。その個人にとって悪であるかもしれないが、全宇宙にとって正義が全うされるので善いことです。この意味で、我々の目に見える悪は天主の御手に、罪を罰するための手段ともなり得て、その意味で善です。
またその他、多くの誤謬も現れました。例えば、神人同形説のようなものです。一応、神は唯一だと認めても肉体のある神だとして、ある種の超人間に過ぎない神になるような説です。福音書の聖ヨハネを読んだらすぐわかりますが、「天主は霊である」ということで、だれも肉体の眼で天主が見えたことはありません。このような誤謬はいわゆる、天主を個人的な趣味あるいは個人にとって都合の良い形に天主を縮減させるというか、還元化させる傾向を指します。
それ以外にもカトリック信徒たちも間接であるものの、このような傾向に陥りやすいかもしれません。たとえば、天主の御決定を自分なりの決定のレベルで理解しようとするときとか、あるいは低い自分のレベルで天主の御決定を理解しようとするときなどです。
特に葬式の際、よく目撃する傾向です。生者たちは死者について、天主であるかのように判断しようとするというか、裁こうとする傾向です。ただし、人間臭い判断に過ぎないわけです。例えば、死者を称賛したりして、もはや聖人であるかのように語るような傾向の時、そうです。このようなことは天主がお裁きになるので、我々が裁けないし、裁いてはいけないのです。我々はあくまでも人間らしい基準で裁くので、非常に限定的です。
このようにして、天主の命令や我々に対する要求を縮減する傾向に繋がります。いわゆるキリストあるいは天主を模範にしないで、良い人を模範するのなら、いろいろ妥協してしまいます。たとえば、断食(小斎大斎)あるいは結婚あるいは祈りなどで妥協します。いわゆる「いやいや、天主様はこのようなことをお望みにならないと思うからさ」という口実を設けて、一時的に人生を楽にしますが、天主をないがしろにするようなことです。ある種の神人同形説なのです。
それから、特に現代で広く広まっている誤謬ですが、いわゆる快楽主義のような主張があります。天主の叡智も天主のみ摂理をも無視して否定する挙句に、「遊ぼう!飲もう!明日のことを考えないように」ということに邁進して、自滅していきます。つまり、常に天主は我々とともにいらっしゃり、またすべてにおいてましますことを見ないふりにする態度です。聖ペトロの手紙にあるように「すべての心配を天主に委ねれば、天主はあたなたちをかえりみたもう」(ペトロの第一の手紙、5,7)ということです。
天主の常にましましたもうこと、つまりすべてにおいてわれわれと共にましましたもうこと、またすべてにおいて天主はましましたもうことという真実を拒否することは、結局、天主を追い出そうとするようなことです。
ところが、この意味で、人間らしいずる賢さの絶頂は「近代主義」であるでしょう。基本的に、近代主義といったら、天主が存在しないという前提の上にたって、信仰や宗教は人間が必要としているから存在するという誤謬です(まさに近代的な宗教学の基盤です)。完全に人間中心主義となります。「このような神が欲しいので、このような神を作って信じよう」というような、とんでもない人間至上主義でもあります。かなりずる賢いです。つまり、個人の良心の産物、あるいは全体の無意識の産物としての神で、人間がそれを必要としておりそれを産んだというような誤謬になりますが、正面から天主を侮辱する誤謬であることはいうまでもありません。この上なく天主に対する侮辱です。天主を都合の良い心理的なくつろぎというレベルに貶めるようなことです。
そして、ヘブライ民族は旧約聖書の時代、聖書の時代以前から、天主の御命令によって、唯一なる、創造主なる、個別なる、全能なる、み摂理なる天主を信じる義務が与えられました。歴史を通じて、ヘブライ民族において天主への正しい礼拝が保たれるように天主はすべてを用意されました。聖書を読んでみると明らかです。考古学に照らしても歴史学に照らしても聖書に描写される歴史は歴史であることが明らかで、聖書の記述の史実性を否定できないのです。(つまり、聖書は神話ではなく、歴史です。言いかえると神々の話ではなく、ヘブライ民族の歴史です)。また、天主の直接の御介入は学問的に言うと立証されているわけです。認めたくない人々が多くいるとしても学界などの先行研究を細かく見たら自明です。
しかしながら、我々カトリックは新約聖書の継承者たちです。幸いなことに、原始の天啓の最高なる発展を福音書によって知っております。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります。(…)私たちが一つであるごとく、彼らもそうなるようにお守りください」とイエズスは天を仰ぎ祈られました(ヨハネ、17,3、11)。
つまり三位一体なる天主とのこの上なく親しい関係を結ぶようにキリストによって招かれています。
これは旧約聖書よりも斬新で、いわゆるレベルアップになります。
聖ディオニジオが評価していたギリシャ人が持っていた天主についての知識を遥かに超えています。聖ディオニジオが言っていました。「あなたたちが崇敬しているものを見ていて、知られざる神と記した一つの祭壇を見つけた」(使徒行録、17、22-34の内)というところですね。つまり生後とみ摂理、宇宙全体を創造して均衡を与えるような天主だけではなく、それ以上です。肉体になりたまえり、我々を贖罪し給うた我々を非常に愛し給う天主であることは福音書ではじめてはっきりと、行動をもって示されました。また、十字架上の生贄によって、我々に本物の命を齎し給い、つねに内面的な命、聖のもとで生きられるように助け給います。
ですから、皆様、我々の日常において、つねに天主がましまし給うことを意識して生きていきましょう。天主のみ摂理は常に働いていることを忘れないで生きていきましょう。天主の栄光のために常に尽くしていきましょう。
また、常にわれわれを見守り給う善なる天主と共にどんどん相応しくよく生きられるように尽くしましょう。
我々は自分自身だけでは何でもできない存在であり、すべてを天主より頂いていることを常に思い出しましょう。そして永遠の命を得しめ給うように常に祈りましょう。
ですから、聖ディオニジオと聖母マリアに祈りましょう。天主への愛の内に生きられるように。天主と共に天主の内に常に生きられるように。修道士に倣いましょう。シャルトル会、カルメル会のような修道士女に倣いましょう。つねに天主の生命の内に常に生きられるように。聖母マリアこそは一生ずっとそれできましたので、聖母マリアに倣いましょう。このように、真のキリスト教徒になれるように、深いキリスト教徒になれるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ブベ(J-P.Boubée神父)神父様のお説教
彼らは天主を追い出した!
2021年10月9日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、本日の書簡は、お祝いする聖ディオニジオについて教えられています。アテナのアレオパゴス(一種の集会)と聖ディオニジオは宣教に挑みました。
聖ディオニジオはギリシャ人の強みを活かして、宣教しました。つまり、高等な哲学を営んだギリシャ人の前に、聖ディオニジオは彼らに思い起こさせます。ギリシャ人たちは天主の存在を見極めていて、第一の原因、霊的な神、唯一なるような創造主の存在、異教の神々と異質な天主の存在を見極めたことを、聖ディオニジオは思い起こします。
そして、天主はギリシャ人が気づいたように存在するのなら、天主はこの世のすべての原因となっているので、人間としての本分を守るために天主へ恩を返すべきだと聖ディオニジオは説きます。ですから、天主の存在は重要な問題となり、その存在に気づいたら我々の人生の目的と原因もわかるので、天主からすべてを頂いている分、なるべくすべてを恩返しすべきですし、また人間ならだれでもそれをすべきだということをも明らかになります。
本日、土曜日の夕方なので、天主の存在の幾つかの証明について話さないことにします。それについて多くの説教や書物がありますので、ぜひご覧ください。大変に面白いテーマで、重要です。今晩は手短に話しますが、天主の存在は理性によって証明できるだけではなく、天啓によって示されている真理であることを注意していただきたいです。
世界中、時代を問わないで、どれほど原始社会、未開社会にせよ、皆、神々や人間を超える存在を認めています。神々の存在は普通なことで、日常のことでした。このような社会において、神の存在を証明する発想なんて考えられないで、そもそも理不尽なことであり、神々の存在を前提に生きていたまでです。神の存在を前提としていたのは、人類の歴史で近代期まででした。啓蒙主義や攻撃的な無神論の台頭によって、はじめてその存在は否定されました。
ちなみに、無神論なら、必ず攻撃的な無神論になるしかありません。というのも、無神論を主張するために、つまり人間を超える存在がいないという人間性に反する発想を主張するために、自分の本性に対して、暴力的に強制的にこのような発想を思い込むように押し付ける必要がありますので、攻撃的になるほかありません。天主の存在を否定することなんてこのぐらい不自然なことであるからです。
要するにかなり多くの当たり前な事実、あるいは自明なことを見ないことにして、これらを黙らせて、これらの事実よりもうるさく自慢しなければ無神論は成り立たなくなるので、必ず攻撃的になります。
このようにどれほど原始社会であっても、未開社会であっても、偶像崇拝、汎神論、フェティッシュ、トーテムなどがいろいろあるでしょうが、神のような存在を否定するなんてありえなかったし、神の存在は自然なことでした。このように、死に迫る時、あるいは困難に迫る時、自然に上へ祈りを捧げていたし、お供えあるいは犠牲を捧げていたのです。確かに偽りの神々だったかもしれませんが、善意をもって人間を超える存在に向かって拝みました。そうしないと人間らしくなくなるからで、大昔から人間にとっての当たり前な営みでした。
さて神々を信じていた多くの人々はもちろん、多くの誤謬を抱いていました。キリストの光に照らされてはじめてはっきりと認識できます。いわゆる聖パウロがいう「ジェンチレス(異教徒、フランス語で親切な人という意味にもなっている)」ですね。聖パウロは異教徒の使徒だと呼ばれています。
そして、大体、異教徒たちは神々を信じて、つまり多神教でした。この意味で旧約聖書の時代において、天主によって選ばれたヘブライ民族は唯一、一神教でしたあえていえばヘブライ民族の特徴です。そしてこれがあり得たのは、天主のご加護のお陰でした。あえていえば、ヘブライ民族の意志に反してまで一神教であり続けさせられました。旧約聖書を見たら、何度も何度も天主を捨てようとして多神教になろうとしました。しかしながら、天主はそれを阻むために何度も何度も絶えず、「唯一なる神はわたしだ。天主なるわたしのみである。だから、我を拝むように命令する。また霊的な天主なので、外形的な犠牲などだけではなく、心において我を礼拝して、愛するようにと命令する」といわんばかりに。
ヘブライ民族の歴史のなかで、天主は何度も預言者あるいは直接にご自分の存在と在り方をお示しになって、ヘブライ民族が逸脱しないように御手を出されました。
というのも、ヘブライ民族は常に多神教や汎神論の国々に囲まれて、時に支配されていたからです。ですから、例えば、出エジプトの際、天主ははっきりと命令されました。「私以外に神を持つな。異国の神を拝むな。私のみ天主である」と特に天主はしつこくしつこく強調されました。
このようにみると、1986年のアッシジの会で本格的に始めた現代のエキュメニズムを見たら文字通りスキャンダルです。また最近なら、高等聖職者をはじめ、ローマで崇拝されたパチャママの事件を見ても、極めて醜くで恥じるべきことです。なぜなら、もはや天主を弄ぶようなことを意味しており、天主は単なる「お守り」、偶像あるいはフェティッシュ扱いされるだけではなく、その上、天主はずっと、このようなことにならないように何度も何度も命令して、教えられて、奇跡やしるしを与えられていたからです。
また、このようなことがあった時、天主は憤怒され、復讐されました。ご自分の民を罰されました。多神教による祭りは天主から見てふざけるというか侮辱の行為に値するわけです。天主を貶めることだからです。天主より低い存在を絶対化して拝むなんて、どれほど無礼であるかは想像に難くないのです。(天皇陛下を忘れて、その代わりに犬を陛下扱いするようなことと似ているでしょう。)
また多神教の他、もう一つの大きな誤謬は多少なりともいつも潜在していました。いわゆる二元論的な誤謬です。つまり善の原理と悪の原理、あるいは霊の原理と肉体の原理などです。このような誤謬も天主を貶めるのです。なぜなら、天主は何度もお示しになったように、「私の他に神はない(…)光をつくり、やみをつくり、(…)私は主であって、これらすべてを行う」(イザヤ、45,5-7)からです。
善の神と悪の神のようなことは存在しません。平和を行う神と戦争を行う神なんかありません。「私は主であって、これらすべてを行う」と天主はイザヤに告げられます。
また、天主は悪を行うのではなく、被創造物は必ず不完全であることから、必要となる不完全は悪に見えても全体から見て悪ではないということです。ですから、欠陥や不完全性があって当然です。
また、正義を全うするためにも、それに値する人々を罰したりするようなことも善いことです。その個人にとって悪であるかもしれないが、全宇宙にとって正義が全うされるので善いことです。この意味で、我々の目に見える悪は天主の御手に、罪を罰するための手段ともなり得て、その意味で善です。
またその他、多くの誤謬も現れました。例えば、神人同形説のようなものです。一応、神は唯一だと認めても肉体のある神だとして、ある種の超人間に過ぎない神になるような説です。福音書の聖ヨハネを読んだらすぐわかりますが、「天主は霊である」ということで、だれも肉体の眼で天主が見えたことはありません。このような誤謬はいわゆる、天主を個人的な趣味あるいは個人にとって都合の良い形に天主を縮減させるというか、還元化させる傾向を指します。
それ以外にもカトリック信徒たちも間接であるものの、このような傾向に陥りやすいかもしれません。たとえば、天主の御決定を自分なりの決定のレベルで理解しようとするときとか、あるいは低い自分のレベルで天主の御決定を理解しようとするときなどです。
特に葬式の際、よく目撃する傾向です。生者たちは死者について、天主であるかのように判断しようとするというか、裁こうとする傾向です。ただし、人間臭い判断に過ぎないわけです。例えば、死者を称賛したりして、もはや聖人であるかのように語るような傾向の時、そうです。このようなことは天主がお裁きになるので、我々が裁けないし、裁いてはいけないのです。我々はあくまでも人間らしい基準で裁くので、非常に限定的です。
このようにして、天主の命令や我々に対する要求を縮減する傾向に繋がります。いわゆるキリストあるいは天主を模範にしないで、良い人を模範するのなら、いろいろ妥協してしまいます。たとえば、断食(小斎大斎)あるいは結婚あるいは祈りなどで妥協します。いわゆる「いやいや、天主様はこのようなことをお望みにならないと思うからさ」という口実を設けて、一時的に人生を楽にしますが、天主をないがしろにするようなことです。ある種の神人同形説なのです。
それから、特に現代で広く広まっている誤謬ですが、いわゆる快楽主義のような主張があります。天主の叡智も天主のみ摂理をも無視して否定する挙句に、「遊ぼう!飲もう!明日のことを考えないように」ということに邁進して、自滅していきます。つまり、常に天主は我々とともにいらっしゃり、またすべてにおいてましますことを見ないふりにする態度です。聖ペトロの手紙にあるように「すべての心配を天主に委ねれば、天主はあたなたちをかえりみたもう」(ペトロの第一の手紙、5,7)ということです。
天主の常にましましたもうこと、つまりすべてにおいてわれわれと共にましましたもうこと、またすべてにおいて天主はましましたもうことという真実を拒否することは、結局、天主を追い出そうとするようなことです。
ところが、この意味で、人間らしいずる賢さの絶頂は「近代主義」であるでしょう。基本的に、近代主義といったら、天主が存在しないという前提の上にたって、信仰や宗教は人間が必要としているから存在するという誤謬です(まさに近代的な宗教学の基盤です)。完全に人間中心主義となります。「このような神が欲しいので、このような神を作って信じよう」というような、とんでもない人間至上主義でもあります。かなりずる賢いです。つまり、個人の良心の産物、あるいは全体の無意識の産物としての神で、人間がそれを必要としておりそれを産んだというような誤謬になりますが、正面から天主を侮辱する誤謬であることはいうまでもありません。この上なく天主に対する侮辱です。天主を都合の良い心理的なくつろぎというレベルに貶めるようなことです。
そして、ヘブライ民族は旧約聖書の時代、聖書の時代以前から、天主の御命令によって、唯一なる、創造主なる、個別なる、全能なる、み摂理なる天主を信じる義務が与えられました。歴史を通じて、ヘブライ民族において天主への正しい礼拝が保たれるように天主はすべてを用意されました。聖書を読んでみると明らかです。考古学に照らしても歴史学に照らしても聖書に描写される歴史は歴史であることが明らかで、聖書の記述の史実性を否定できないのです。(つまり、聖書は神話ではなく、歴史です。言いかえると神々の話ではなく、ヘブライ民族の歴史です)。また、天主の直接の御介入は学問的に言うと立証されているわけです。認めたくない人々が多くいるとしても学界などの先行研究を細かく見たら自明です。
しかしながら、我々カトリックは新約聖書の継承者たちです。幸いなことに、原始の天啓の最高なる発展を福音書によって知っております。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります。(…)私たちが一つであるごとく、彼らもそうなるようにお守りください」とイエズスは天を仰ぎ祈られました(ヨハネ、17,3、11)。
つまり三位一体なる天主とのこの上なく親しい関係を結ぶようにキリストによって招かれています。
これは旧約聖書よりも斬新で、いわゆるレベルアップになります。
聖ディオニジオが評価していたギリシャ人が持っていた天主についての知識を遥かに超えています。聖ディオニジオが言っていました。「あなたたちが崇敬しているものを見ていて、知られざる神と記した一つの祭壇を見つけた」(使徒行録、17、22-34の内)というところですね。つまり生後とみ摂理、宇宙全体を創造して均衡を与えるような天主だけではなく、それ以上です。肉体になりたまえり、我々を贖罪し給うた我々を非常に愛し給う天主であることは福音書ではじめてはっきりと、行動をもって示されました。また、十字架上の生贄によって、我々に本物の命を齎し給い、つねに内面的な命、聖のもとで生きられるように助け給います。
ですから、皆様、我々の日常において、つねに天主がましまし給うことを意識して生きていきましょう。天主のみ摂理は常に働いていることを忘れないで生きていきましょう。天主の栄光のために常に尽くしていきましょう。
また、常にわれわれを見守り給う善なる天主と共にどんどん相応しくよく生きられるように尽くしましょう。
我々は自分自身だけでは何でもできない存在であり、すべてを天主より頂いていることを常に思い出しましょう。そして永遠の命を得しめ給うように常に祈りましょう。
ですから、聖ディオニジオと聖母マリアに祈りましょう。天主への愛の内に生きられるように。天主と共に天主の内に常に生きられるように。修道士に倣いましょう。シャルトル会、カルメル会のような修道士女に倣いましょう。つねに天主の生命の内に常に生きられるように。聖母マリアこそは一生ずっとそれできましたので、聖母マリアに倣いましょう。このように、真のキリスト教徒になれるように、深いキリスト教徒になれるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン