白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
これは第一誡です。前回、崇拝を中心に第一誡の意味を説明しました。つまり、天主への崇拝を義務付ける第一誡です。要するに、第一誡を以て、自然法に沿って、創造主に対して報いるべきことを命じています。これは、天主への崇拝です。
しかしながら、第一誡を以て同時に、禁じられていることもあります。何が禁じられているかを知ることが大事です。というのも、第一誡に対して罪を犯すことがはあるからです。具体的にどうやって第一誡に対して罪を犯すのでしょうか。
過度になる場合、罪を犯すのです。「迷信」といった行為を行う時です。また、欠如になる場合、罪を犯すのです。「無宗教」といった行為を行う時です。
最初に、過度になる時の第一誡に対する罪を見ましょう。「迷信」といった行為を行う時です。これは、一言でいうと、偽りの神に崇拝を捧げる時です。あるいは、本物の神である天主に、相応しくない崇拝を捧げる時でもあります。
まず、偽りの神に崇拝を捧げる時はどうなるでしょうか。ここでは、程度の違いというか、具体的にいくつかの種類があります。
最初に思い浮かぶ言葉は「偶像崇拝」という表現ですね。偶像崇拝とは「被創造物に対しての崇拝」という意味です。被創造物というと、何でもありです。前にあった有名な例でいうと、旧約聖書の金の子牛の像があります。天主から十誡を授かりにいったモーゼがシナイ山に登っていた間に、ヘブライ人たちがは金の子牛の像を作って礼拝したという場面があります。
つまり、天主を礼拝するのではなく、被創造物を礼拝していたから大問題でした。偶像崇拝といいます。言いかえると、天主ではない何かに対して礼拝することは、崇拝することをは偶像崇拝といいます。このような行為は愚かだけではなく、天主に対する侮辱にもなります。これは、当然ながら、大罪です。
「迷信」といわれたら、最初に思い浮かぶのは「偶像崇拝」です。しかしながら、ほかにも、偽りの神を崇拝する、あるいは偽りの崇拝で天主を崇拝する、ということもあり得ます。
例えば、「占い」はまさにそうなのです。「占い」とは「明白にせよ、あるいは暗にせよ、自然な方法で知れない物事を知るために、悪魔に頼ること」という定義です。つまり、知られないことなのに、知られない物事を知るために、非常な手段を取りますが、これは悪い手段であり、つまり悪魔らに頼るのが「占い」です。
悪魔に頼る時、具体的に明白に直接に頼ることもあり得るし、間接に暗に頼ることもあり得ます。いずれにせよ、どちらもこれは「占い」です。つまり、本来ならば私たち必ずしも知る資格がないものの、天主が知っている物事を知ろうとするのが「占い」です。このような行為をは天主は大嫌いです。旧約聖書には次の文書があります。レビの書にあります。「占いも、まじないもするな。(…)口寄せを信じてたよったり、占い師のもとに足を運んだりしてはならぬ。」
占いはどういったようなものか覗ける文書ですけど、また「交霊術」とも呼ばれています。つまり、このような情報を知るために、悪魔に頼ること自体ははっきりと知らないとしても、結局、悪魔に頼る行為であるということです。
このような「占い」は数えきれないほど、種類は多いです。神託、それから女預言者と女占師なども有名です。旧約聖書には、サウル王は女占師を訪問する場面があります。何をすべきかを知るために、占い師に頼んだ場面です。また、降霊術あるいは、口寄せもあります。つまり、情報を得るためにも、死者に頼るということですね。
またトランプ占いもあります。この場合、トランプに頼って将来でも知ろうとするのです。考えてみると途方もない行為ですね。トランプと将来はそもそも全く関係がないのに、このような占いができたのも理不尽です。また、手相占いもあります。その他、多くあります。顔相占い、昔は鳥占いあるいは鳥腸占い、また縁起関連の迷信等々。
これらのことものをやるのは大罪となります。天主のために捧げるべき崇拝に対する罪となります。というのも、被創造物に頼って、天主にしか知らないことを知ろうとするから、非常に途方もないことですし、そして、最終的にこれらの被創造物の裏でに、悪魔は結局、人間をごまかすにすぎません。
また、「迷信」に陥れて第一誡に対する罪の第三の種類は「虚しい遵守」です。「虚しい遵守」とは「占い」に近いですが、「虚しい遵守」の場合、目的というよりも手段に拘る点で区別します。言いかえると、科学によって証明されていないのに、あるいは天主によって制定されている手段ではないのに、あるいは、カトリック教会によって承認されていない手段なのに、あえてこの手段を踏んでこそ、ある効果を期待する時の罪です。
言い換えると、根拠なし、何かを取ってかわるある祈祷をやると、ある効果が必ず実現することを期待するときです。
要するに、この「何か」と関係のない効果が実現することに期待するときです。これは「虚しい遵守」です。細かく入らないことにしますが、「虚しい遵守」というのは、意外とキリスト教徒でさえ犯しやすいかもしれません。いつの間にか。この場合、大罪にならないかもしれませんが、「虚しい遵守」の一種になります。例えば、「これに期待して必ず効果が出る」と確信している時です。
例えば、「聖水」があるからといって、安心するというような。つまり、天主の御憐みまたは天主の愛を求めない時です。いわゆるて「お守り」扱いをするときです。つまり、例えば、聖水の場合、この「聖水」そのもの自体から効果が出るかのように思い違って、聖水を通じて天主から恵を頂くことを忘れるような時です。
つまり、「虚しい遵守」の罪の根本的な問題は、天主よりも、「ある物」あるいは「ある手段」を中心にすることです。例えば、祈祷を捧げる時も「虚しい遵守」を犯すことはあり得ます。つまり、「祈祷」自体がまじないであるかのように、唱えるだけで効果があることを思い込むときです。実際はそうではなく、天主が善い祈祷を聞き入れ給うのです。祈祷のお陰ではなく、天主のお陰です。
もちろん、ここで申し上げるのは秘跡の文句と違います。また、ミサの聖変化の時の言葉と違います。後述しますが、秘跡の場合、条件が満たされたら、その文句自体は必ず効果を伴うから違いますが、いわゆるそれ以外の祈祷には自動的に必ずある結果を伴うと信じた時、迷信となりまです。祈祷はまじないであるかのように、祝詞であるかのように、呪文であるかのように信じ込む迷信。これは「虚しい遵守」という罪です。
時に、かなり深刻になることもあります。つまり「虚しい遵守」のせいで、根拠なしにも自分が禍から絶対に守られていることを信じ込んだりして、あるいはそれで必ず治ることを信じ込んだりします。しかしながら、例えば、奇跡的な治療とは天主が決めるものなので、奇跡とは天主の御憐みのみによって実現します。つまり、祈祷あるいは聖水によって治るのではないのです。
つまり、「虚しい遵守」というのは、正当なる祈祷などを「まじない」として扱いするような罪です。つまり祈祷や信心において「確実に効く」と間違って思い込むようなことです。実際は、効果が出るのはた時、天主の御憐みによってのみです。当然ながら、祈祷などを捧げて、効果があることを望んで期待するのはもっともですし、善いことです。しかしながら、祈祷の文句自体に期待するのではなく、天主の御憐みに期待するようにするということがは大事です。
また、ちょっと前に触れましたが、迷信のもう一つの罪は「まじない(魔法あるいは魔術)」です。まじないとは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。厳密にいうといわゆる黒魔術です。いわゆる「白魔術」もありますが、大体の場合、このような「白魔術」は自然上の原因があるのですがりますが、原因がは不明のままだからといってなので「白魔術だ」として使われている言葉です。悪魔に頼っている魔術とは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。これも現に存在することです。
例えば、旧約聖書ではモーセの時にマジナイに関する場面があります。モーセはファラオンの前に現れる時です。自分が天主の使者であることを証明するために、モーセはアロンに彼の棒を地面に投げるように命じます。そして、この棒は一瞬で蛇と化します。これは天主によって行われた奇跡です。次に、ファラオンの魔術師たちがはそれぞれ、棒を投げて、地面についたら、蛇と化します。この時は、魔術でした。そしてそういえば、天主はこの呪いより何倍もの強かったことを示されました。というのも、そのあと、アロンの蛇は魔術師の数匹の蛇を食ったのです。魔術師によるマジナイは黒魔術でした。
次に、迷信に属するもう一つの罪を紹介しましょう。呪いです。ラテン語でいうと「悪を成す」という意味ですが、マジナイの一種なのです。ただ、呪いの場合、悪魔の助けを得て隣人へあるいは隣人の持ち物への加有害を目的にするマジナイです。このような行為は流行っている国もあれば、流行っている地域もあります。フランスの幾つかの田舎でもこのような行為はかなりあったりしました。
つまり、呪詛を群にかけたり、家畜小屋にかけたりなどしていろいろあります。理由は何でもいいですが、争いがあったからとか、嫉妬があったからとか何でも。残念ながらも、このような呪詛をかける行為は意外と広まっていた地域もありました。迷信という罪の一種です。なぜでしょうか?悪魔へのある種の崇拝となるからです。それはして、天主の力を侮辱して、悪魔の力に頼るからです。
以上のこれらの罪はすべて深刻な罪です。
このように、天主への偽りの崇拝、それから偽りの神への崇拝をみてきました。また、天主への悪い崇拝もあり得ます。大体、前より軽い罪になることは多いですが、例えば、無駄なことをやる時、あるいは本来ならば礼儀作法でいっても無用なことをするときです。あるいは、完全に乱れる形で崇拝するときです。たとえば、日曜日に断食しながら、金曜日、断食しないようなことです。日曜日は主の日であるから、このような行為は乱れているのです。また無用です。もちろん、より軽い罪になりますが。
それから、第一誡に対して欠如しているせいで罪を犯すこともあります。「無宗教」という罪です。「無宗教」というのは、天主に値する敬意を払う義務に対する違反であり、天主の名誉に対する侮辱です。要するに、この場合、迷信と違って被創造物を対象にすることはないのですが、あるいは無宗教の罪に陥れてもまた天主に向けられるべき崇拝は残っているかもしれませんが、非常に悪い形で天主を崇拝するときの罪です。
「無宗教」の第一種は「天主への誘い」と呼ばれる罪です。要するに、言葉あるいは行為あるいは挑発をもって、「天主を試す」ような罪です。つまり、くだらないことなのに、天主の御業を要求するときです。無謀な行為です。天主を誘う行為です。言いかえると、例えばよくある話は「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」といったような類いの挑発です。天主への誘いです。
「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」残念ながらも、この場合、奇跡があるからといって、奇跡だけをもって回心して天主を信じるためのではに足りないのです。福音にはこれを示す場面があります。貧しいラザロの喩え話です。ラザロは乏しくて、病気で、体もボロボロです。金持ちの玄関に物乞いしているところ、金持ちの人は一円たりともラザロに与えないという。そして、二人は死にます。金持ちは地獄に行きます。ラザロはアブラハムの懐内に行くと福音に書いてあります。
そして、金持ちはラザロとアブラハムに「この世に残った兄弟たちに【私はどうなったかを】しらせてくださいませ。そうするために奇跡を起こしてくださいませ」といいます。しかしながら、「いや、それは無駄な時間だ」とアブラハムが言い返します。そして、金持ちは「死者である私は彼らの前に現れて知らせたら聞いてくれるだろう」と。アブラハムは答えます。「多くの預言者がいたのに、彼らは聞いてくれなかったのです」。天主への誘いはこのような態度です。
つまり、天主より限りのない物事や恵みをいただいているのに、「それよりもさらに多くの奇跡などが必要だ」と自分をごまかすような、天主を誘うようなことです。例えば、別の形ですが、自分がどうしてもいま、恩恵を受けていると確信しているから、重い罪を犯しやすい状況を積極的に自分が作るときです。これはまさに天主への誘いです。第一誡に対する罪です。また傲慢の罪です。深刻な罪です。以上は無宗教の罪の一種でした。
もう一種として、「涜聖」を行う時です。涜聖とは、「聖なる物事を冒涜するとき」です。「聖なる物事」とはつまり、場所・人・物をもさしています。天主に奉献された物事のなら、神聖となりますので、このような聖なる物事を世俗の使途のために使う時、「涜聖」となります。世俗とはつまり、ラテン語の意味を見ると「神殿の前にあるものごと」という意味です。要するに天主のものではなくて、奉献されていない物事です。従って、「涜聖」するとき、天主に奉献されている物事を、天主のものごとであるのに、天主の物事ではないかのように使う時です。
つまり、あえてたとえてみると、天主の持ち物を盗むような行為です。特に、天主への崇拝のために聖別された、奉献された何かをとって、これを「冒涜」するのです。例えば、聖職者を殴るような行為は冒涜です。なぜかというと、聖職者は天主へ奉献された人だからです。つまり、聖職者を殴ったり、あるいは無礼に扱ったりするのは冒涜です。人に対する「涜聖」です。
教会を冒涜することも同じです。つまり、教会に入って、天主と関係ないことをやるような冒涜です。場所に対する「涜聖」です。また、秘跡に対する冒涜もあります。例えば大罪を負っているのに、秘跡を受ける冒涜。「涜聖」です。なぜかというと、秘跡を授かる資格はないままであるのに、それでも受けてしまうという罪です。例えば、大罪の状態のままで、告解の秘跡を受けていないまま、聖体拝領するのは冒涜行為となります。
つまり、下品、卑しい行為です。また、御絵あるいは聖具などの冒涜もあります。現代でもこのような事件は話題になったりするのです。残念ながらも。教会の持ち物を冒涜するような行為もあります。以上は「涜聖」についてでした。
天主に捧げるべき崇拝のためにある物・人・場所をその使途から逸らす罪。つまり、本来ならば天主のためにある人、場所、物、秘跡などを相応しく使わないことによって、違う使途にして、第一誡に対する罪を犯すのです。
無宗教の最後の一種の罪は「聖物売買」です。フランス語で「シモニー」と呼ばれていますが、聖書に登場する「シモン」から転じる名称です。教皇初代の聖ペトロの時、使徒行録に登場する人物です。聖ペトロと聖ヨハネは人々に按手を以て聖霊を授けていた場面をシモンが見ます。そして、「自分も聖霊を授けられるようにしてください、金を払うから」と言い出して、その力を買おうとしました。
つまり、霊的な物の代わりに、世俗的な物で買おうとシモンがしました。聖霊を授ける力を買おうとしたシモンです。聖ペトロはこの依頼に対して強く咎めたのです。使徒行録の第八章にあります。聖ペトロは言います。「あなたの金にも、あなた自身にも呪いあれ。あなたは神の賜物を金で買おうと思いついた。」 これはシモンの話でした。つまり「聖物売買」なのです。
例えば、なんでもありですけど、例えば、金で天主のゆるしを得ようとするような行為です。「聖物売買」です。秘跡を金で買おうとしている時、あるいは司祭を買おうとしているときでもあります。繰り返しになりますが、「聖物売買」とは「世俗物の何かをもって、霊的なもの、あるいは霊的の権限に属するものを意図的に買おうあるいは売ろうとする行為」です。
「聖物売買」と「お礼」とは違います。例えば、死者のために特別にミサを捧げる時、頼まれた人から謝礼を貰っても大丈夫です。そのミサを捧げることに当たる費用や苦労などを労うための謝礼にすぎません。つまり、ミサを買うことではありません。あくまでも、ミサを捧げることに当たる苦労を労うことになります。司祭を買うことはありません。
同じように、いわゆる蝋燭など、このような物質的な物を売ることは大丈夫です。が、これらのものへの祝別を売ることはありません。祝別を売ることは禁止です。つまり、蝋燭やメダルなど、それを作るために苦労があったから、その代価を労うために売買しても大丈夫です。例えば、聖遺物などを売買うすることは禁止です。
ただ、聖遺物の箱を売買してもよいわけです。それらのものを作ったりすることに当たる苦労を労うのは正当であるからです。しかしながら、聖物を売買することは禁止です。例外なし、許可されることはありません。深刻な罪です。聖なるものを汚すようなことです。霊的な物を世俗化するような行為です。
以上は第一誡に対する罪をご紹介しました。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第九十七講 第一誡に対する罪
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
これは第一誡です。前回、崇拝を中心に第一誡の意味を説明しました。つまり、天主への崇拝を義務付ける第一誡です。要するに、第一誡を以て、自然法に沿って、創造主に対して報いるべきことを命じています。これは、天主への崇拝です。
しかしながら、第一誡を以て同時に、禁じられていることもあります。何が禁じられているかを知ることが大事です。というのも、第一誡に対して罪を犯すことがはあるからです。具体的にどうやって第一誡に対して罪を犯すのでしょうか。
過度になる場合、罪を犯すのです。「迷信」といった行為を行う時です。また、欠如になる場合、罪を犯すのです。「無宗教」といった行為を行う時です。
最初に、過度になる時の第一誡に対する罪を見ましょう。「迷信」といった行為を行う時です。これは、一言でいうと、偽りの神に崇拝を捧げる時です。あるいは、本物の神である天主に、相応しくない崇拝を捧げる時でもあります。
まず、偽りの神に崇拝を捧げる時はどうなるでしょうか。ここでは、程度の違いというか、具体的にいくつかの種類があります。
最初に思い浮かぶ言葉は「偶像崇拝」という表現ですね。偶像崇拝とは「被創造物に対しての崇拝」という意味です。被創造物というと、何でもありです。前にあった有名な例でいうと、旧約聖書の金の子牛の像があります。天主から十誡を授かりにいったモーゼがシナイ山に登っていた間に、ヘブライ人たちがは金の子牛の像を作って礼拝したという場面があります。
つまり、天主を礼拝するのではなく、被創造物を礼拝していたから大問題でした。偶像崇拝といいます。言いかえると、天主ではない何かに対して礼拝することは、崇拝することをは偶像崇拝といいます。このような行為は愚かだけではなく、天主に対する侮辱にもなります。これは、当然ながら、大罪です。
「迷信」といわれたら、最初に思い浮かぶのは「偶像崇拝」です。しかしながら、ほかにも、偽りの神を崇拝する、あるいは偽りの崇拝で天主を崇拝する、ということもあり得ます。
例えば、「占い」はまさにそうなのです。「占い」とは「明白にせよ、あるいは暗にせよ、自然な方法で知れない物事を知るために、悪魔に頼ること」という定義です。つまり、知られないことなのに、知られない物事を知るために、非常な手段を取りますが、これは悪い手段であり、つまり悪魔らに頼るのが「占い」です。
悪魔に頼る時、具体的に明白に直接に頼ることもあり得るし、間接に暗に頼ることもあり得ます。いずれにせよ、どちらもこれは「占い」です。つまり、本来ならば私たち必ずしも知る資格がないものの、天主が知っている物事を知ろうとするのが「占い」です。このような行為をは天主は大嫌いです。旧約聖書には次の文書があります。レビの書にあります。「占いも、まじないもするな。(…)口寄せを信じてたよったり、占い師のもとに足を運んだりしてはならぬ。」
占いはどういったようなものか覗ける文書ですけど、また「交霊術」とも呼ばれています。つまり、このような情報を知るために、悪魔に頼ること自体ははっきりと知らないとしても、結局、悪魔に頼る行為であるということです。
このような「占い」は数えきれないほど、種類は多いです。神託、それから女預言者と女占師なども有名です。旧約聖書には、サウル王は女占師を訪問する場面があります。何をすべきかを知るために、占い師に頼んだ場面です。また、降霊術あるいは、口寄せもあります。つまり、情報を得るためにも、死者に頼るということですね。
またトランプ占いもあります。この場合、トランプに頼って将来でも知ろうとするのです。考えてみると途方もない行為ですね。トランプと将来はそもそも全く関係がないのに、このような占いができたのも理不尽です。また、手相占いもあります。その他、多くあります。顔相占い、昔は鳥占いあるいは鳥腸占い、また縁起関連の迷信等々。
これらのことものをやるのは大罪となります。天主のために捧げるべき崇拝に対する罪となります。というのも、被創造物に頼って、天主にしか知らないことを知ろうとするから、非常に途方もないことですし、そして、最終的にこれらの被創造物の裏でに、悪魔は結局、人間をごまかすにすぎません。
また、「迷信」に陥れて第一誡に対する罪の第三の種類は「虚しい遵守」です。「虚しい遵守」とは「占い」に近いですが、「虚しい遵守」の場合、目的というよりも手段に拘る点で区別します。言いかえると、科学によって証明されていないのに、あるいは天主によって制定されている手段ではないのに、あるいは、カトリック教会によって承認されていない手段なのに、あえてこの手段を踏んでこそ、ある効果を期待する時の罪です。
言い換えると、根拠なし、何かを取ってかわるある祈祷をやると、ある効果が必ず実現することを期待するときです。
要するに、この「何か」と関係のない効果が実現することに期待するときです。これは「虚しい遵守」です。細かく入らないことにしますが、「虚しい遵守」というのは、意外とキリスト教徒でさえ犯しやすいかもしれません。いつの間にか。この場合、大罪にならないかもしれませんが、「虚しい遵守」の一種になります。例えば、「これに期待して必ず効果が出る」と確信している時です。
例えば、「聖水」があるからといって、安心するというような。つまり、天主の御憐みまたは天主の愛を求めない時です。いわゆるて「お守り」扱いをするときです。つまり、例えば、聖水の場合、この「聖水」そのもの自体から効果が出るかのように思い違って、聖水を通じて天主から恵を頂くことを忘れるような時です。
つまり、「虚しい遵守」の罪の根本的な問題は、天主よりも、「ある物」あるいは「ある手段」を中心にすることです。例えば、祈祷を捧げる時も「虚しい遵守」を犯すことはあり得ます。つまり、「祈祷」自体がまじないであるかのように、唱えるだけで効果があることを思い込むときです。実際はそうではなく、天主が善い祈祷を聞き入れ給うのです。祈祷のお陰ではなく、天主のお陰です。
もちろん、ここで申し上げるのは秘跡の文句と違います。また、ミサの聖変化の時の言葉と違います。後述しますが、秘跡の場合、条件が満たされたら、その文句自体は必ず効果を伴うから違いますが、いわゆるそれ以外の祈祷には自動的に必ずある結果を伴うと信じた時、迷信となりまです。祈祷はまじないであるかのように、祝詞であるかのように、呪文であるかのように信じ込む迷信。これは「虚しい遵守」という罪です。
時に、かなり深刻になることもあります。つまり「虚しい遵守」のせいで、根拠なしにも自分が禍から絶対に守られていることを信じ込んだりして、あるいはそれで必ず治ることを信じ込んだりします。しかしながら、例えば、奇跡的な治療とは天主が決めるものなので、奇跡とは天主の御憐みのみによって実現します。つまり、祈祷あるいは聖水によって治るのではないのです。
つまり、「虚しい遵守」というのは、正当なる祈祷などを「まじない」として扱いするような罪です。つまり祈祷や信心において「確実に効く」と間違って思い込むようなことです。実際は、効果が出るのはた時、天主の御憐みによってのみです。当然ながら、祈祷などを捧げて、効果があることを望んで期待するのはもっともですし、善いことです。しかしながら、祈祷の文句自体に期待するのではなく、天主の御憐みに期待するようにするということがは大事です。
また、ちょっと前に触れましたが、迷信のもう一つの罪は「まじない(魔法あるいは魔術)」です。まじないとは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。厳密にいうといわゆる黒魔術です。いわゆる「白魔術」もありますが、大体の場合、このような「白魔術」は自然上の原因があるのですがりますが、原因がは不明のままだからといってなので「白魔術だ」として使われている言葉です。悪魔に頼っている魔術とは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。これも現に存在することです。
例えば、旧約聖書ではモーセの時にマジナイに関する場面があります。モーセはファラオンの前に現れる時です。自分が天主の使者であることを証明するために、モーセはアロンに彼の棒を地面に投げるように命じます。そして、この棒は一瞬で蛇と化します。これは天主によって行われた奇跡です。次に、ファラオンの魔術師たちがはそれぞれ、棒を投げて、地面についたら、蛇と化します。この時は、魔術でした。そしてそういえば、天主はこの呪いより何倍もの強かったことを示されました。というのも、そのあと、アロンの蛇は魔術師の数匹の蛇を食ったのです。魔術師によるマジナイは黒魔術でした。
次に、迷信に属するもう一つの罪を紹介しましょう。呪いです。ラテン語でいうと「悪を成す」という意味ですが、マジナイの一種なのです。ただ、呪いの場合、悪魔の助けを得て隣人へあるいは隣人の持ち物への加有害を目的にするマジナイです。このような行為は流行っている国もあれば、流行っている地域もあります。フランスの幾つかの田舎でもこのような行為はかなりあったりしました。
つまり、呪詛を群にかけたり、家畜小屋にかけたりなどしていろいろあります。理由は何でもいいですが、争いがあったからとか、嫉妬があったからとか何でも。残念ながらも、このような呪詛をかける行為は意外と広まっていた地域もありました。迷信という罪の一種です。なぜでしょうか?悪魔へのある種の崇拝となるからです。それはして、天主の力を侮辱して、悪魔の力に頼るからです。
以上のこれらの罪はすべて深刻な罪です。
このように、天主への偽りの崇拝、それから偽りの神への崇拝をみてきました。また、天主への悪い崇拝もあり得ます。大体、前より軽い罪になることは多いですが、例えば、無駄なことをやる時、あるいは本来ならば礼儀作法でいっても無用なことをするときです。あるいは、完全に乱れる形で崇拝するときです。たとえば、日曜日に断食しながら、金曜日、断食しないようなことです。日曜日は主の日であるから、このような行為は乱れているのです。また無用です。もちろん、より軽い罪になりますが。
それから、第一誡に対して欠如しているせいで罪を犯すこともあります。「無宗教」という罪です。「無宗教」というのは、天主に値する敬意を払う義務に対する違反であり、天主の名誉に対する侮辱です。要するに、この場合、迷信と違って被創造物を対象にすることはないのですが、あるいは無宗教の罪に陥れてもまた天主に向けられるべき崇拝は残っているかもしれませんが、非常に悪い形で天主を崇拝するときの罪です。
「無宗教」の第一種は「天主への誘い」と呼ばれる罪です。要するに、言葉あるいは行為あるいは挑発をもって、「天主を試す」ような罪です。つまり、くだらないことなのに、天主の御業を要求するときです。無謀な行為です。天主を誘う行為です。言いかえると、例えばよくある話は「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」といったような類いの挑発です。天主への誘いです。
「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」残念ながらも、この場合、奇跡があるからといって、奇跡だけをもって回心して天主を信じるためのではに足りないのです。福音にはこれを示す場面があります。貧しいラザロの喩え話です。ラザロは乏しくて、病気で、体もボロボロです。金持ちの玄関に物乞いしているところ、金持ちの人は一円たりともラザロに与えないという。そして、二人は死にます。金持ちは地獄に行きます。ラザロはアブラハムの懐内に行くと福音に書いてあります。
そして、金持ちはラザロとアブラハムに「この世に残った兄弟たちに【私はどうなったかを】しらせてくださいませ。そうするために奇跡を起こしてくださいませ」といいます。しかしながら、「いや、それは無駄な時間だ」とアブラハムが言い返します。そして、金持ちは「死者である私は彼らの前に現れて知らせたら聞いてくれるだろう」と。アブラハムは答えます。「多くの預言者がいたのに、彼らは聞いてくれなかったのです」。天主への誘いはこのような態度です。
つまり、天主より限りのない物事や恵みをいただいているのに、「それよりもさらに多くの奇跡などが必要だ」と自分をごまかすような、天主を誘うようなことです。例えば、別の形ですが、自分がどうしてもいま、恩恵を受けていると確信しているから、重い罪を犯しやすい状況を積極的に自分が作るときです。これはまさに天主への誘いです。第一誡に対する罪です。また傲慢の罪です。深刻な罪です。以上は無宗教の罪の一種でした。
もう一種として、「涜聖」を行う時です。涜聖とは、「聖なる物事を冒涜するとき」です。「聖なる物事」とはつまり、場所・人・物をもさしています。天主に奉献された物事のなら、神聖となりますので、このような聖なる物事を世俗の使途のために使う時、「涜聖」となります。世俗とはつまり、ラテン語の意味を見ると「神殿の前にあるものごと」という意味です。要するに天主のものではなくて、奉献されていない物事です。従って、「涜聖」するとき、天主に奉献されている物事を、天主のものごとであるのに、天主の物事ではないかのように使う時です。
つまり、あえてたとえてみると、天主の持ち物を盗むような行為です。特に、天主への崇拝のために聖別された、奉献された何かをとって、これを「冒涜」するのです。例えば、聖職者を殴るような行為は冒涜です。なぜかというと、聖職者は天主へ奉献された人だからです。つまり、聖職者を殴ったり、あるいは無礼に扱ったりするのは冒涜です。人に対する「涜聖」です。
教会を冒涜することも同じです。つまり、教会に入って、天主と関係ないことをやるような冒涜です。場所に対する「涜聖」です。また、秘跡に対する冒涜もあります。例えば大罪を負っているのに、秘跡を受ける冒涜。「涜聖」です。なぜかというと、秘跡を授かる資格はないままであるのに、それでも受けてしまうという罪です。例えば、大罪の状態のままで、告解の秘跡を受けていないまま、聖体拝領するのは冒涜行為となります。
つまり、下品、卑しい行為です。また、御絵あるいは聖具などの冒涜もあります。現代でもこのような事件は話題になったりするのです。残念ながらも。教会の持ち物を冒涜するような行為もあります。以上は「涜聖」についてでした。
天主に捧げるべき崇拝のためにある物・人・場所をその使途から逸らす罪。つまり、本来ならば天主のためにある人、場所、物、秘跡などを相応しく使わないことによって、違う使途にして、第一誡に対する罪を犯すのです。
無宗教の最後の一種の罪は「聖物売買」です。フランス語で「シモニー」と呼ばれていますが、聖書に登場する「シモン」から転じる名称です。教皇初代の聖ペトロの時、使徒行録に登場する人物です。聖ペトロと聖ヨハネは人々に按手を以て聖霊を授けていた場面をシモンが見ます。そして、「自分も聖霊を授けられるようにしてください、金を払うから」と言い出して、その力を買おうとしました。
つまり、霊的な物の代わりに、世俗的な物で買おうとシモンがしました。聖霊を授ける力を買おうとしたシモンです。聖ペトロはこの依頼に対して強く咎めたのです。使徒行録の第八章にあります。聖ペトロは言います。「あなたの金にも、あなた自身にも呪いあれ。あなたは神の賜物を金で買おうと思いついた。」 これはシモンの話でした。つまり「聖物売買」なのです。
例えば、なんでもありですけど、例えば、金で天主のゆるしを得ようとするような行為です。「聖物売買」です。秘跡を金で買おうとしている時、あるいは司祭を買おうとしているときでもあります。繰り返しになりますが、「聖物売買」とは「世俗物の何かをもって、霊的なもの、あるいは霊的の権限に属するものを意図的に買おうあるいは売ろうとする行為」です。
「聖物売買」と「お礼」とは違います。例えば、死者のために特別にミサを捧げる時、頼まれた人から謝礼を貰っても大丈夫です。そのミサを捧げることに当たる費用や苦労などを労うための謝礼にすぎません。つまり、ミサを買うことではありません。あくまでも、ミサを捧げることに当たる苦労を労うことになります。司祭を買うことはありません。
同じように、いわゆる蝋燭など、このような物質的な物を売ることは大丈夫です。が、これらのものへの祝別を売ることはありません。祝別を売ることは禁止です。つまり、蝋燭やメダルなど、それを作るために苦労があったから、その代価を労うために売買しても大丈夫です。例えば、聖遺物などを売買うすることは禁止です。
ただ、聖遺物の箱を売買してもよいわけです。それらのものを作ったりすることに当たる苦労を労うのは正当であるからです。しかしながら、聖物を売買することは禁止です。例外なし、許可されることはありません。深刻な罪です。聖なるものを汚すようなことです。霊的な物を世俗化するような行為です。
以上は第一誡に対する罪をご紹介しました。