ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

アンチ・キリストの時代は来たのか?

2020年11月05日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「11月2日全ての死せる信徒のお説教」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

プーガ(Puga)神父様によるお説教 2020年11月2日全ての死せる信徒の日


PUGA神父様によるお説教
2020年11月02日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

アンチ・キリストの時代はきたのか?

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、「今の世は厳しく悪い時代になっています。残念ながら、現代社会は死をもたらしていると言わざるを得ません。いつもどんどん、死をもたらしている、死を宿している現代社会になっています。邪悪や堕落が支配しています。法律においてまで、支配しています。
ですから、現代のこれほどの堕落と邪悪さ、精神らの腐敗を確認すると、もはやイエズス・キリストによって予言された世の終わりの時代に入りかけているのではないかと思ってもおかしくありません。そして、堕落をもたらす子、アンチ・キリストはすでにこの世において到来しているのではないかと思ってもおかしくない時代なのです。」

以上の言葉は私の言葉ではなく、20世紀のはじまりぐらいに教皇聖ピオ十世の言葉でした。聖ピオ十世が現代で生きていたら、何と言っていたでしょうか?

いと愛する兄弟の皆様、死というのは天主の印ではなくて、怪物の印なのです。堕落した天使、自分を創造し給った天主に対して反逆したルシファーの印なのです。

反乱を犯したこの天使を指して、イエズス・キリストは仰せになりました。「彼は始めから人殺しである」(ヨハネ、8、44)
まさにその通りであって、悪魔は人を殺しています、

というのも、創造の始まりから、人間を創造なさった時に、天主は本来ならば生まれながら死すべき人間に不死を与えて、ご自分の永遠性に参加することをお許しになりました。しかしながら、サタンの誘惑の結果、アダムは原罪を犯してしまいます。その結果、死がこの世に初めて入ってしまいました。

いと愛する兄弟の皆様、死はどこにでも入ってきました。人間なら皆、死によって染まっています。そして、現代になって、死は社会をめちゃくちゃにさせて社会を破壊しています。堕胎、安楽死、殺人をはじめ、死は蔓延しています。

この世は不思議ではないでしょうか?コロナ関係で、人々を救うという名目で、自由をなくす多くの法律を押し付けられている現代です。そして、社会に死をもたらすこれらの「衛生法」などは、社会における絆全体を破壊するだけではなく、家族をも破壊しています(注・フランスで、家庭教育を禁止する勢い、教育義務は三歳まで引き下げられたなどなど)。また、宗教による絆をも破壊しています(注・フランスでのミサなどの禁止を指す)。

この少し前、10月の頭ぐらいに国家の一番偉い権力者が堕胎に対する反発を見て、憤慨したのはまさに象徴的でしょう。彼は堕胎を指して、女性の基本的な権利だともちろん断言しておきつつ、「女性が自分の体を自分の勝手にする権利がある」とまで言っていました。母のお腹の中の赤ちゃんはあたかも単なる生命のない器官であるかのようなことを暗に断言している酷い発言でした。



生物学あるいは遺伝学の大専門家ではなくても、だれでも、赤ちゃんが生きていることを知っているはずなのに、これを言うのは国家のエリートによる単なる嘘にすぎません。それは驚くことではないのです。というのも、彼等の父は悪魔に他なりません。キリストは仰せになるように、悪魔は「うその父だ」(ヨハネ、8、44)からです。

いと愛する兄弟の皆様、我々は以上のような酷い嘘を述べている人々を聞いて、彼等が天主のみ前に、天主の裁判への出廷が来た時を考えてみると、恐ろしくてゾッとせずにいられません。「人が話した無駄ごとは、すべて裁きの日に裁かれるだろう」(マテオ、12、36)と仰せになったイエズス・キリストなので、これは恐れるべきことです。

聖書にしるされているように、「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライへの手紙、10、31)

かつて、フランスでは、死刑の廃止になってかなり騒がしかったのです。今になって、カトリック教会のトップの人ですら、「死刑廃止せよ」となんの憚りもなく、主張しています。

しかしながら、いと愛する兄弟の皆様、フランスにおいて、死刑が廃止されている現代はどうなっているでしょうか?もはや死刑台では誰も死なないかもしれませんが、我々の町で、我々の教会で斬首刑にされている人々が多くなっています(注・教師の斬首刑、またニースにおけるテロ事件三人死亡。犠牲者を斬首刑しようとしたが、実現できなかった。)



ついこの前、野蛮人らによって酷く容赦なく殺された教師を思い出しましょう。このような犠牲者を捧げて、共和政が彼を英雄にしてしまいます。しかしながら、この教師を見たら、一体どこに英雄的なことがあるでしょうか?14歳の未成年者の女性たちに、ポルノグラフィー(春画)を見せることは共和政にとって英雄的なことになっているとでもいうのでしょうか?

このような理不尽は「表現の自由」という大義でなされていますが、この教師も含めて、「表現の自由」を理解していないのではありません。共和政は意図的に「表現の自由」を悪用しているのです。

この結果、この教師、犠牲者のために、教育の聖域だとされているソルボンヌ大学において、豪華な記念式が執り行われました。
このような理不尽を見て、憤慨せずにいられないのですが、このような憤慨は忘れてしまいましょう。そして、イエズス・キリストが仰せになった通りにしましょう。「死人は死人に葬らせておけ」(マテオ、8、22)。

以上のようなフリーメイソン的な共和政が打ち出す「英雄」よりも、我々、カトリック信徒は公教会の慎み深い殉教者たちを模範にしています。
このような殉教者はある日、いつもと変わらないで、ある教会に入って天主に自分を捧げようとしていたところ、肉体をまとった悪魔的な人に出会い、カトリック信徒であるという理由だけで殺されている殉教者たちです。

彼は死にあったとき、裁きに出廷する準備はできていたでしょうか?これを見て、なぜか祈るために神殿に入るファリサイ人と税吏を思い出します。税吏の人は慎み深くて、教会の奥にとどまって、自分の旨を叩き、「ああ、天主よ、罪人の私をあわれみください」と言っている姿を思い出します。そして、イエズスは「私は言う。この人は義とされて家に帰った」(ルカ、18、9-14)と仰せになりました。

イエズス・キリストにおける殉教はすべてを清めます。「主において死ぬ人々は幸いである」(ヨハネの黙示録、14、13)と主は仰せになる通りです。

いと愛する兄弟の皆様よ、ですから、我々は死に負けることはありません。本日、死者の祝日ですが、死を祝うのではないのです。死んだ人々のために祈る日ですが、死んだ人々すべてのために祈るのではありません。キリストの信仰と希望と愛徳の内に死んだ人々のためのみ、祈っています。

カトリック信徒なら、死を恐れないのです。なぜでしょうか?我々の天主、イエズス・キリストがこの世に来たのは、死という辛苦を嘗めるためでした。我々の主、イエズス・キリストは死を受けて、耐えられた結果、御自らのご復活の力によって死に打ち勝たれたイエズス・キリストです。はい、カトリック信徒なら、死を恐れないのです。死は単なる通過なので、カトリック信徒なら、死に備える次第です。我々は知っているように、キリストはご自分の復活を我々と分かち合い給うことになります。これは墓地においても尊敬を払う死んだ信徒たちや先祖たちの信徳と望徳だったように、我々の信徳と望徳でもあります。

ですから、聖パウロは「死よ、おまえの勝利はどこにある。」(コリント人への手紙、15、55)という通りです。我々も悪魔に「おまえの勝利はどこにある。」と言ってもよいでしょう。悪魔は永遠の負け犬であり、現代風にいうと「ルーザー」です。聖ヨハネが言うように、「天主から生まれた者は世に勝つ。世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である」(ヨハネの第一の手紙、5、4)のです。

現代の指導者たちはミサ聖祭に与ることを禁止しようとしています。これも、怪物のわざであることを示しています。
また、あちこちでしつこく、コロナの第二波はまったくさきがみえないよと宣言されています。もう、我々の目には彼等の目論んでいることは見え見えです。



ちょっと前まで我々が持っていた自由の時代はもう一度訪れて取り戻せるでしょうか?だれも言い切れないことでしょう?
ですから、本教会の雑誌、『Le Chardonnay』の最新号を読むようにお勧めします。イエズス・キリストの御業を破壊することにあたってのサタンとその役割についてなので、これから都市封鎖になりますが、これを読むのがよいです。

また、聖母マリアにすべてを捧げましょう。聖母マリアは善き死を支配している御(おん)方です。最初から、ヘビの頭を踏みにじった御(おん)方です。毎日、我々は聖母マリアに祈って、言います。「罪人(つみびと)なるわれらのために、今も臨終の時もいのりたまえ」
はい、今と臨終の時が一致している日は近づいています。ですから、敵の前に、イエズスが恐れていた使徒たちを励むために仰せになった次の御言(みことば)を思い出しましょう。
「あなたたちがこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ、16、33)

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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