Living by Bay and Canal

登場人物:海くん(夫)、キリン改めタクミ(長男)、ちびちび改めてんちゃん(次男)、そして私(妻)。最近は、お弁当日記

おばあちゃんに会いに

2015年12月26日 | Weblog


父方の祖母に会いに行きました。
現在92歳。1月の誕生日で93歳になります。

おばあちゃんとは、
子どものころに山口の防府市にある家で遊んだたくさんの思いでがいっぱいあります。

人工芝のテラスや、鯉のいる池、子供が夏に遊ぶ浅い池。
家の周りには農業用水路があり、メダカ、ハヤ、ザリガニ取りも楽しかった。
その頃仕事を持っていて、習字の先生もしていたおばあちゃん。
パンを焼いたり、ジャムを作ったりしてくれたな~。

今は清瀬に住んでいて、骨折で入院中なのでお見舞いに行って来ました。
お元気そうで、笑顔が絶えず、訪問を喜んでくれて、自分もとても嬉しくなりました。
別れ際、握った手の温かさと力強さに離れがたかったです。

話は変わり、

病院を出て、地図検索をしていたら、
多摩全生園が近くにあり、国立ハンセン病資料館が徒歩15分くらいだったので、行ってみることにしました。



恥ずかしいことに、この年になるまでハンセン病のことはテレビなどで見る断片的な知識しかありませんでした。
偏見からさまざまな苦労をされたり、療養所に強制的に入所させられたということなどです。
少しの不安と緊張感を持ちながら、受付を通りました。


常設展では、療養所の暮らしを、写真や年表、実際に使われていた道具の展示から見ることができます。
また、現在も帰る場所がなく、入所している方の作品や、過去の映像を見ることによって
実際にどんな歴史でどんな場所だったのか、またそこにいる、あるいはいた人々の思いに触れることができました。

一生、死ぬまでそこで暮らさなければならない絶望、家族や自身の人生の夢を奪われながらも
必死で自分が生きる意味を見つけようと、芸術や音楽、創作活動に励む人々の尊い生活がそこにはありました。

そこにいる人々は、私たちとなんら変わりはなく、人生に希望や笑いや楽しみをもとめ、
療養所の中で歌舞伎を演じたり、野球チームを作ったり、季節の行事での相撲を楽しみ、
友達と一緒に勉強をしていました。

しかし、ハンセン病の特効薬である、プロミンによる治療を受けられるまではやはりとてつもない痛みと
苦しみと、人としての尊厳を奪われる病気であったことは確かです。

1931年(昭和6年)に「らい予防法」が成立し、国の療養所が各地に建設され、すべての患者さんが療養所へ強制的に入所させられました。

特効薬が使えるようになったのは1943年(昭和18年)、日本でも1946年(昭和21年から)プロミンによる治療で治る病気であったのに、
昭和28年の「らい予防法改正」により、世間から隔離された生活を余儀なくされました。
それから半世紀後1996年の「らい予防法の廃止に関する法律」が制定されました。

その50年の間にも不当な隔離政策が行われていたという悲しい歴史です。

企画展は、九州にある私設のハンセン病の療養所の歴史でした。

驚いたことは、100年以上前に日本のハンセン病患者の看護施設を作り、
必要なケアをしたのはイギリスなどヨーロッパから来た、医者や、看護士、シスターたちでした。
日本の家屋を借り、患者の足を洗うことから始めました。

物資もなく、言葉も習慣も、違う国で不治の病におかされた人のケアをする。

心を洗われるような尊い行いだと感じました。

時計を持っていなかったので時間を気にせずに見学しました。
たぶん1時間以上はいたと思います。

人の尊厳、美しさ、愛に触れた時間でした。

資料館を出るころには、不安や緊張はなくなっていました。
ここには書ききれない様々なことがたくさんあります。

久しぶりに会った入院中の祖母が、とても喜んでくれたことと、
この閉鎖された場所で家族を恋しく思っていた人たちのことが重なりました。

そして、またおばあちゃんに会いに行こうと思います。

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