入院中に、お世話になった 二人の若い「看護婦」さん。
手元に、モノクロ(白黒)の写真が残っている。 手札形のものが 2枚だ。 看護婦さんは 白衣で、特派員は着物…、といっても 寝巻き姿だ。
1枚は、不二家のキャラクター「ペコちゃん」に似た…、看護婦さんとのもの。 もう1枚は、女優の伊藤榮子さんに似た顔立ちの… 看護婦さんで、特派員の斜め後ろから、肩に手を添えてくれているもの。 特派員の中では「ポコちゃん」である。
残念ながら、お二人の 名前を覚えていない。 子どもだったから、ペコちゃん、ポコちゃんで良かったのだろう。 残念だし、申し訳なく思う。
当時、特派員は 小学4年生。 大きな手術を経験した年の、晩秋に撮ってもらった写真のようだ。 背景は、病院の建設現場で、木造から鉄筋に立て替えられる途中だったらしい。 誰が写して下さったのか、大切な〝思い出写真〟だ。
二人の看護婦さんには、何かと気に掛けてもらった記憶がある。 中でも、組み立て式の「風力計」を プレゼントしてもらったことが、強く 心に 残っている。
銀色のブリキ製で、工具が無くても 組み立てられるものだった。 十文字の棒の端に、お椀を立てた形に 四つの風受けを付け、台組みの縦棒にセットすると、風を受けて 回ってくれる…。
風が無いときは、一生懸命、自分の息を吹き付けて、回していたものだ。
子どもだから、病棟の都合で、病室は あちらこちらへ…移されたものだ。 今でも覚えているのは、4回である。 つまり、移動要員!? でも あったらしい。
大きな手術の後は、個室だった。 輸血の人が、枕元に立っていた、あの部屋だ。 その後、6人部屋へ移った。 この部屋では、夏の花火を、病室の窓から 垣間見ることが出来た。 「犀川(さいがわ)」河畔の花火だったように思う。
その頃、「お富さん」という歌が流行っていた。 何故か、今でも覚えているのだ。 懐かしく、ほろ苦い気持ちになる。 だから、歌うことは無い、のだが。
ある時期は、女性用の部屋へも入っていたことがある。 先の「6人部屋」がそうだったかも知れない。
もちろん、各部屋とも 周りは全部 大人の患者さんだ。 詰まるところ、お世話になったのが「内科」だったから、当然なのだろう。
ただ、途中で、耳鼻科の病棟へ移されたときは、さすがに 子ども部屋だった。
毎週 日曜日に、遠い道のりを 見舞いに来てくれる〝お袋さん〟が、「たびたび 病室が変わっていて、何処か分からずに 困った…」と、今でも 思い出話をするほどだ。
退院が近付いた頃には、10人以上は入っていた 大きな部屋に移っていた。 随分 広くて、教室のようだった記憶がある。 以前は陸軍病院だった面影が、そんな所にも あったように思う。
この病室では、三日三晩以上 しゃっくりが止まらなかった人がいた。 その人は、ある朝、亡くなっておられた。 その日は、一日、ただただ 悲しかった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
退院したのは、翌年の1月31日。 入院期間は、6ヶ月と少しだった。
その後、風の便りに、ポコちゃん看護婦さんが、北海道へ転出された… と聞いたことがある。 今だと、お二人とも、70歳を超えておられるはず。
出来れば、お会いしたいものだ。
そして、ありがとうございます。 お二人が、今でも お元気でいらっしゃるように、祈っています。
そうそう、今は、看護師さんですよね。
当時、看護婦さんには、随分、お世話になりました。
思い返すと、ひときわ、感謝の気持ちが 湧き上がってきますね。
それにしても、そんなに病室移動されたのでは、落ち着かなかったですねえ。子供だとはいえ・・。
私も、お産での入院生活を思い浮かべると、まずお世話になった助産師さん(産科なので)たちの顔が浮かびます。
あんなに人に感謝したこと、今までなかったです。
ペコちゃんポコちゃん看護婦さんがお元気だといいですね。多分お元気なんじゃないかなあ、と何となく思う私です。