今月に入り、2度の大雪に見舞われた関東地方。 「2014年」という年は後世、「未曽有の大雪が降った年」として振り返られる事だろうが、今から78年前の1936年(昭和11年)、東京は降雪が多く、何度か大雪にも見舞われたと言う。2月4日の大風雪では、30cmを超える積雪。23日も大雪に見舞われ、26日にも更に雪が降った事で、其の積雪は35cmを超えたと言う。
そんな1936年2月26日未明、「陸軍『皇道派』の青年将校が、1,483名の兵士を率い、『昭和維新断行・尊王討奸』を掲げて、政府中枢を襲ったクーデター未遂事件。」、所謂「2・26事件」が発生。未だに謎多き事件だが、新たな史料が見付かった。当時、憲兵司令部の総務部長で、司令官代行だった矢野機・陸軍少将が記した手記だ。
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「<2・26事件>憲兵幹部『機密日誌』に戒厳司令部との攻防」(2月25日、毎日新聞)
日本近現代史上、最大のクーデター未遂となった1936年の「2・26事件」で、事態収拾に奔走した憲兵司令部幹部の「機密日誌」が見付かった。反乱将校を自殺させ様とする戒厳司令部と、証人として身柄を確保し様とする憲兵側との攻防が生々しく記されている。憲兵幹部が記した史料は殆ど知られておらず、研究史の空白を埋め得る一次史料だ。
見付かったのは憲兵司令部の総務部長で、司令官代行だった矢野機・陸軍少将(1887~1992年)の「戒厳機密日誌」。陸軍罫紙9枚に、事件が起きた2月26日から、28日を除く3月2日迄記されている。
事件発生後、陸軍内部では穏便に決着させ様とする長老等と、鎮圧を主張する強硬派が対立。矢野は自殺させず逮捕する為に、陸軍省と参謀本部高官の間を奔走した。
29日の記述では、香椎浩平・戒厳司令官が「叛徒タル将校ノ罪ハ大イニ憎ムヘシ、将校ハ全部之レヲ斃スヲ適当トス。」等と述べ、逮捕した場合は自殺させるのが適当と主張した。此れに対し矢野は「此ノ機会ニ軍ノ明朗化ヲ期ス、該将校ハヨキ証拠人ナリ。」等と主張。反乱将校は自殺した1人を除き、逮捕された。
「日誌」は他の史料等、凡そ70件と共に千葉県習志野市の酒屋「張替酒店」で昨年秋に見付かった。同店は1905年創業で、軍人との交流が深かった。矢野は千葉県出身で、地元に縁が在った。
加藤陽子・東京大教授(日本近代史)は「戒厳司令部の極論を抑え、反乱将校の逮捕に尽力した憲兵司令部幹部の動きが判った事で、事件がより立体的に見えて来た。」と話している。
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矢野少将が主張した「軍の明朗化」、真の意味合いは当事者のみぞ知るだ。若しかしたら「『軍の明朗化』を旗印に掲げ、実際には『対立する勢力の一掃』を図りたいだけだった。」かもしれないけれど、“良い意味で”解釈すれば、「反乱将校を逮捕し、彼等に実態を証言させる事で、軍部の暴走を食い止めたい。」という事なのだろう。
「自身や自身が所属する組織にとって不都合な事柄は、全て闇に葬る。」というのは、何処の国にも見られる事だが、我が国では“国の組織”にそういうスタンスが顕著。大日本帝国陸軍も其の例外では無いのだけれど、中には「不都合な事柄で在っても闇に葬るのでは無く、敢えて満天下に曝け出す事で、より良き方向に持って行きたい。」という動きが在った事は、非常に興味深い。
反乱将校達の中には、自身の正義感に基づいて行動した者も居るだろう。だがしかし、どんな正義感を有していたとしても、暴力に訴えたり、違法行為に及んだりするのは肯定出来ない。抑、「正義感」とか「愛国心」なんていうのは極めて抽象的な概念で在り、人其れ其れに異なった「正義感」やら「愛国心」が在って当然。其れなのに、「自分達が有する正義感こそが、絶対的に正しい。」と許りに暴力に訴えるのは、とんでもない事。
特定の人物や特定の勢力が強大な力を持つ事の怖さを、我々は「2・26事件」等、過去の歴史から学ばなければいけないと思う。「私は最高責任者なのだから、何でも出来るのだ。」なんていう思い上がりを一国のトップが持っているとしたら、こんなのは絶対に許されない。
磯部浅一なんかはものすごく極端にそれに当てはまる例ですもんね。故に死後も影響を与え続けていくことになります…(三島由紀夫など)
以前から、其の存在は知られていた史料だったのですね。不勉強で知りませんでした。
右だろうが左だろうが、最低限の「論」が在り、尚且つ「排他的」で無ければ耳を傾け様と思うのですが、概して極右とか極左と言われる人達は、そういう所が無いので困ってしまいます。
私利私欲から主張しているならば軽くいなせるけれど、其れが「正義」と盲信している様な輩は実に厄介。