現在住んでいる地に引っ越して、もう40年は軽く経つ。大型開発分譲住宅地の中の一軒家で、引っ越した当初は近くに山や川が在り、野外で雉や狸等の動物を目にする事は珍しく無かった。
引っ越して数年後、父は病で急死。父は病気知らずの健康体で、体調を崩したのも風邪か何かだと本人も家族も思っていた(掛かっていたのが、とんでもない“藪医者”というのも、非常に運が悪かったのだが。)が、1週間程で容態が急変し、呆気無く亡くなってしまった。死因は心筋梗塞。
葬儀は全て自宅で執り行ったのだが、親族や町内会の人達が手伝ってくれたのは、本当に有難かった。で、火葬が終わって数日後、町内会の班長さんが、自宅に弔慰金を持って来て下さり、其の後に回って来た回覧板には「〇〇(我が家)様の世帯主様が、XX月△△日に御亡くなりになられました。謹んで御悔やみ申し上げますと共に、当班からの弔慰金を御渡し致しました事を、此処に御報告致します。」といった趣旨の紙が挟み込まれていた。
以降、同じ班に属されている方が亡くなられると、同様の手続きがされて来たのだけれど、何時の頃からか、そういう事が無くなってしまった。自宅では無く斎場で、葬儀の一切を執り行う事が一般化し、回覧板で“班の方が亡くなられた事の連絡”も無くなり、弔慰金制度も無くなった様だ。
「身内が亡くなった事を、周りに知られたくない。」という遺族の思いも在るのだろうし、個人情報保護の観点からもそういう流れになったで在ろう事は理解出来るものの、「近所の人が亡くなっていた事を、可成り後になって知る。」という事が珍しく無くなったのは、少し寂しさを覚えたりもする。近くに住んでいても面識が無い方ならば別だが、古くから知っている方ならば余計に。
「裏手に住む方の御家族が、自宅で亡くなられていた。」事を知ったのは、7年近く経ってからだったろうか。其の家の隣人から、「自宅で、自ら命を絶たれた。」という事だった。「状況が状況なので、周りに知られたくなったのだろう。」というのは理解出来るのだけれど、警察が自宅を訪れたりしていたそうなのに、全く気付かなかった。回覧板での連絡も既に無くなっていたので、話を聞かされなかったら、未だに亡くなられていた事を知らなかったに違い無い。
「近所の〇〇さん、ずっと見掛けないなあ。」という事が、近年増えている。高齢者施設に入られたというケースも在ろうが、「既に亡くなられている。」というのも、普通に在りそうな気がする。「近所の方が亡くなられていたとしても、今は全く判らない。」という御時世なのだ。
それともう一つの理由は、最近多くなった“家族葬”です。
私の母が数年前に亡くなった時、家族葬にして、僅かの親族だけ参加で教会で行いましたので、近所の方にも母の友人にも、遠くの親戚にも知らせませんでした。香典類も一切お断り。そんな訳で、近所の方でも母が亡くなった事は知らない方の方が多いと思います。
逆に、親類が亡くなった時も、家族葬だったので全然知らず、年末に届いた喪中欠礼葉書でようやく知るという事も多くなりました。
その10年前に亡くなった父の場合は、慣例に従いそれなりの葬式を出しましたが、まず親類に亡くなった事を電話で伝えるのに、どの順番でどの範囲まで連絡するかでもの凄く気を遣いました。それでも後で本家の親戚の方から「うちへの連絡が遅かった」とひどく叱られました。焼香の名前読み上げ順でまた気を遣い、さらに頼みもしないのに地元の議員から花や弔電がいっぱい届き、これを読み上げる順序でまたまた気を遣ったり、ヘトヘトになりました。
そんな事もあって、普通の葬式はもう懲りごり、兄弟と相談して「次は家族葬にしよう」と決めたという訳です。
葬式は、近い身内、よほど親しい方くらいで十分だと思います。その方が当人をよく知る者同士で故人を偲び、思い出話を語り合ったりで、よっぽど心に残ります。私の場合も子供には「家族葬で、墓もいらない、骨は散骨する事」と言い聞かせてあります。
売り手の"言い値"で購入せざるを得ない物というのが、昔は結構在りましたね。"商品"の原価やら作られるプロセスやらが買い手には全く(乃至は殆ど)判らず、又、「言い値通り購入しないと、不謹慎と思われる。」等の"心理的抑止力"が働く等の理由が在り、そういう状況が続いていた。眼鏡なんかもそういう商品の1つですが、価格破壊の波が及んで来た事で、格安眼鏡が一般化。
葬儀も同様で、ぼったくりみたいなケースが減り、家族葬や直葬(通夜・葬儀・告別式をしない、火葬のみの別れ。)等、料金的にも安価な選択肢が増えました。勿論、料金面だけでは無く、葬儀自体の精神的煩わしさを避けたいという面も在ると思いますし、自分も此の理由から「自分の場合は、直葬にしてくれ。」と家人に伝えています。
私の所の自治会では慶弔費の制度は残してありますが、もともと回覧板での告知はないし、ご遺族の意向で近所への周知を断られることも多いようです。
同じように引っ越しも「向こう三軒両隣」にも挨拶なく、引っ越し業者がきて家財を運び出しでお仕舞い(現に我が家のお向かいさんがそうでした)。
昔なら「夜逃げか?」と思うような引っ越しも今では珍しくないようですね(苦笑)。
Keiさんが書かれているように、葬儀のこまごまとした厄介ごとが軽減されるのは、ご遺族にとって良いことだと思います。
いっぽうでそれまでの近所付き合いが「そんな程度だったのか」という希薄感も・・・。
父が亡くなった際、親族は別にして、町内会の人達が手葬儀の伝ってくれたのは有り難かったのですが、町内会からの"招集"が在ったのでしょうね。其れを考えると、「迷惑を掛けて、申し訳無かったなあ。」という思いが在ります。
都心でもそうだったのですから、地方だと「招集は、絶対に拒否出来ない。」という空気が在ったでしょうし、実際問題、地方に住む知人は「昔はそうだったけれど、今は葬儀の手伝いに呼び出される事も無くなり、本当に嬉しい。」と語っていたっけ。
悠々遊様の今回の書き込みで、「そうだよなあ。」と激しく同意してしまったのは、「何時の間にか、居なくなってしまった隣人。」という話。去年から今年に掛けて、向かい側に在る御宅2軒が″引っ越し"されたのですが、当然と言うべきか共に"引越しの挨拶”も無く、「表札が無くなっていて、漸く引っ越しに気付いた。」という状況で、「昔ならば、夜逃げを疑ってしまう様な感じだよなあ。」と、自分も苦笑した物。煩わしさが無いのは悪い事では無いけれど、其の反面「人との関係性が希薄になった。」とも言えるのでしょうね。