伊勢志摩サミット(平成28年5月26.27日)を来年に控えた
海や山の自然に恵まれた{美し国}へ伊勢志摩ライナー
(近鉄特急)で{立秋}を跨いだ{2.3日}の小旅行に出かけました
第62回神宮式年遷宮~五十鈴川 上流に御鎮座の
天照坐皇大御神~皇大神宮(内宮)
山田の原に御鎮座の豊受大御神豊受大神宮(外宮)
伊勢太神宮にて--『二拝 二拍手 一拝』
『お伊勢さん』」の{おかげ横丁}を通り~鳥羽着
先ずは 信長に頼られ家康に恐れられたと言う
熊野水軍 総督 九鬼嘉隆の《鳥羽の浮き城》
22年間 鳥羽の小浜で町医者として過ごしたと
言われる 漂泊の詩人 伊良子清白の旧家が
鳥羽マリンパークに移築されたと聞き
立秋とは言え炎天下の鳥羽駅を徒歩で出発!
明治10年10月4日島根に生まれた 伊良子清白
(輝造)は 明治32年6月に京都府立医学校を卒業~
鳥羽小浜で 漁村の治療に専念した医師でもあり---
ロマンチックな空想を基調--豊富な抒情性.物語性を
伴った--18の詩篇だけを積んだ『孔雀船』を残して
明治の詩壇から 消え去った(漂泊の詩人)と---
言われていますね!
『孔雀船』巻頭の 《漂泊》
蓆戸に 秋風吹いて 川添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は 夕暮れの空を眺めて
いと低く 歌いはじめぬ ~~~
《安乗の稚児》
志摩の果 安乗の小村 早手風岩をとよもし
柳道木々を根こじて 虚空飛ぶ断れの 細葉
石垣だけが残る 熊野水軍総督・九鬼嘉隆
《鳥羽の浮き城》《錦(二色)城》
大手門を{海}に向け---{海側が黒色} {山側が白色}
《信長に頼られ家康に恐れられた》と言われている
-熊野水軍-九鬼嘉隆の居城~その後.内藤 土居
松平 坂倉~稲垣が最後の藩主となったが
明治4年度会県に編入されました
名残の《鳥羽の浮き城》は夏休み中の現在~
親子ずれで賑わう鳥羽水族館を眺めるように
熊野水軍総督 九鬼嘉隆の栄華を偲ぶかの如く
蝉時雨~石垣{城跡}案内図だけがひっそりと
残っていました
♪鳥羽の浦から 舟路も軽く
かもめもろとも とび立つ思い
心はればれ 海境越えて
今日も来ました答志島♪ {答志小唄}
鳥羽.佐田浜~答志島.和具漁港へ渡った処迎えてくれたのが
{ようこそ九鬼水軍ゆかりの地.答志島!
矢張り答志島は戦国時代に織田信長方で
勢力を誇った九鬼水軍の根拠地ですね!
海に向かった大手門の海城!海の浮き城鳥羽城を築き上げ1
0年以上も対抗してきた毛利水軍(村上水軍)を鉄張の
軍船をつくり撃退したと言われている
九鬼嘉隆(1542~1600)の根拠地ですね!
九鬼嘉隆父.子は関ヶ原の戦いで西軍.東軍に
分かれて戦い 西軍の嘉隆は 答志島で自刃!
「我が首は我が鳥羽城が見える場所に」
嘉隆の首は鳥羽城を見渡せる丘の上
胴はその麓に葬られ{首塚、胴塚}として
答志島.和具に残されており浜辺で休憩中の
親切な島の海女さん(80歳)に案内されて
尋ねて見ました
守隆(子)が父である嘉隆追善のために
建てたものとされていますね!
{八幡神社の八}~{神祭}~(旧暦.1月17 日~19 日)
神聖なる墨を島の男らが奪い合い!
島の人達が次々に{お的}に飛び込み護符!
この墨紙で家の戸口や船に{丸に八の字}
1年の大漁.魔除け.家内安全を祈願されます
海の安全祈願.弓引神事は答志島の祭の中でも
最も盛り上がる迫力満点の行事ですね!
{寝屋子交流の館}~{寝屋子制度}
答志島では古からの慣習として寝屋子制度!
{寝屋親}~中学校を卒業した男の子を預かり
世話をする制度!答志島の若者達は生涯
義兄弟の縁を結ぶと言われていますね!
釧つく 手節の崎に 今日もかも
大宮人の 玉藻刈るらむ
柿本人麻呂 萬葉集 巻壱-0041
釧を着ける手節の岬に今日も
大宮人たちは玉藻を拾っているだろうか
柿本人麻呂が持統天皇の求めに応じて
この歌を詠んだ{手節の崎}~(答志島)
八幡神社の鳥居の近くに柿本人麻呂の
歌碑が建てられています
♪鳥羽の浦から 舟路も軽く
かもめもろとも とび立つ思い
心はればれ 海境越えて
今日も来ました 答志島♪
♪潮の速さも 胸すくばかり
何故かひかれるあのまなざしの
彼女の口笛 懐かし恋し
♪ 伊勢に鳥羽浦 屏風に立てて
知多も渥美も 庭石小石
過ごした一夜が夢路にかよう
♪ 茜に映えた 海原ひろく
はるかに昇る 大きな朝日
今年しゃ豊年 豊漁のしるし{答志小唄}
海や山の自然に恵まれた{美し国}へ伊勢志摩ライナー
(近鉄特急)で{立秋}を跨いだ{2.3日}の小旅行に出かけました
第62回神宮式年遷宮~五十鈴川 上流に御鎮座の
天照坐皇大御神~皇大神宮(内宮)
山田の原に御鎮座の豊受大御神豊受大神宮(外宮)
伊勢太神宮にて--『二拝 二拍手 一拝』
『お伊勢さん』」の{おかげ横丁}を通り~鳥羽着
先ずは 信長に頼られ家康に恐れられたと言う
熊野水軍 総督 九鬼嘉隆の《鳥羽の浮き城》
22年間 鳥羽の小浜で町医者として過ごしたと
言われる 漂泊の詩人 伊良子清白の旧家が
鳥羽マリンパークに移築されたと聞き
立秋とは言え炎天下の鳥羽駅を徒歩で出発!
明治10年10月4日島根に生まれた 伊良子清白
(輝造)は 明治32年6月に京都府立医学校を卒業~
鳥羽小浜で 漁村の治療に専念した医師でもあり---
ロマンチックな空想を基調--豊富な抒情性.物語性を
伴った--18の詩篇だけを積んだ『孔雀船』を残して
明治の詩壇から 消え去った(漂泊の詩人)と---
言われていますね!
『孔雀船』巻頭の 《漂泊》
蓆戸に 秋風吹いて 川添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は 夕暮れの空を眺めて
いと低く 歌いはじめぬ ~~~
《安乗の稚児》
志摩の果 安乗の小村 早手風岩をとよもし
柳道木々を根こじて 虚空飛ぶ断れの 細葉
石垣だけが残る 熊野水軍総督・九鬼嘉隆
《鳥羽の浮き城》《錦(二色)城》
大手門を{海}に向け---{海側が黒色} {山側が白色}
《信長に頼られ家康に恐れられた》と言われている
-熊野水軍-九鬼嘉隆の居城~その後.内藤 土居
松平 坂倉~稲垣が最後の藩主となったが
明治4年度会県に編入されました
名残の《鳥羽の浮き城》は夏休み中の現在~
親子ずれで賑わう鳥羽水族館を眺めるように
熊野水軍総督 九鬼嘉隆の栄華を偲ぶかの如く
蝉時雨~石垣{城跡}案内図だけがひっそりと
残っていました
♪鳥羽の浦から 舟路も軽く
かもめもろとも とび立つ思い
心はればれ 海境越えて
今日も来ました答志島♪ {答志小唄}
鳥羽.佐田浜~答志島.和具漁港へ渡った処迎えてくれたのが
{ようこそ九鬼水軍ゆかりの地.答志島!
矢張り答志島は戦国時代に織田信長方で
勢力を誇った九鬼水軍の根拠地ですね!
海に向かった大手門の海城!海の浮き城鳥羽城を築き上げ1
0年以上も対抗してきた毛利水軍(村上水軍)を鉄張の
軍船をつくり撃退したと言われている
九鬼嘉隆(1542~1600)の根拠地ですね!
九鬼嘉隆父.子は関ヶ原の戦いで西軍.東軍に
分かれて戦い 西軍の嘉隆は 答志島で自刃!
「我が首は我が鳥羽城が見える場所に」
嘉隆の首は鳥羽城を見渡せる丘の上
胴はその麓に葬られ{首塚、胴塚}として
答志島.和具に残されており浜辺で休憩中の
親切な島の海女さん(80歳)に案内されて
尋ねて見ました
守隆(子)が父である嘉隆追善のために
建てたものとされていますね!
{八幡神社の八}~{神祭}~(旧暦.1月17 日~19 日)
神聖なる墨を島の男らが奪い合い!
島の人達が次々に{お的}に飛び込み護符!
この墨紙で家の戸口や船に{丸に八の字}
1年の大漁.魔除け.家内安全を祈願されます
海の安全祈願.弓引神事は答志島の祭の中でも
最も盛り上がる迫力満点の行事ですね!
{寝屋子交流の館}~{寝屋子制度}
答志島では古からの慣習として寝屋子制度!
{寝屋親}~中学校を卒業した男の子を預かり
世話をする制度!答志島の若者達は生涯
義兄弟の縁を結ぶと言われていますね!
釧つく 手節の崎に 今日もかも
大宮人の 玉藻刈るらむ
柿本人麻呂 萬葉集 巻壱-0041
釧を着ける手節の岬に今日も
大宮人たちは玉藻を拾っているだろうか
柿本人麻呂が持統天皇の求めに応じて
この歌を詠んだ{手節の崎}~(答志島)
八幡神社の鳥居の近くに柿本人麻呂の
歌碑が建てられています
♪鳥羽の浦から 舟路も軽く
かもめもろとも とび立つ思い
心はればれ 海境越えて
今日も来ました 答志島♪
♪潮の速さも 胸すくばかり
何故かひかれるあのまなざしの
彼女の口笛 懐かし恋し
♪ 伊勢に鳥羽浦 屏風に立てて
知多も渥美も 庭石小石
過ごした一夜が夢路にかよう
♪ 茜に映えた 海原ひろく
はるかに昇る 大きな朝日
今年しゃ豊年 豊漁のしるし{答志小唄}