僕が確か大学生の頃か卒業直後に、当時お世話になっていたレストランのオーナーシェフから教わった言葉。
その方は昭和の時代に、修行でフランスをはじめイギリス、ドイツ、さらにはカナダ(ケベック)までを6年間渡り歩いた方で、イギリスでは王室御用達のホテルの厨房に立ち、なんと女王陛下の魚料理にも携わったということだった。
若い頃から料理だけでなく政治の世界にも通じていた方なので、言葉を通じたインプット・アウトプットの能力も優れていて、当時の僕には「これが大人なんだ」と感銘を受けた記憶がある。
だからこそ、指導を受けたその当時の情景を思い起こせるほどにその方から教わった言葉は今でも強く印象に残っている。
その筆頭にあるのがこの言葉なのだな。
パラ卓球活動においても(それ以前の職業においても)、「話し上手は聞き上手」というのが僕の人生のキーワードであることに変わりないのだけれど、最近は特にその大切さをしみじみと実感することが少なくない。
話し上手は聞き上手。
聞くことが上手な人は話すのも上手いという単純な話ではない、と僕は思っている。
歳を重ねるごとにその考え方、言葉の捉え方はより深くなっていってるから。
誰が言った言葉なのかは分からない。
でも、それを最初に言った人にはこの言葉の奥に真意が存在していたはず。
確かめようはないけれど、それを考えるとこの言葉の意味はもっともっと奥深い。
で、この言葉をパラ卓球、というよりもスポーツのジャンルに当てはめた時、話す側は指導者であり、指導者は情報を発信する側となるのが一般的。
そこで、指導者こそ「聞き上手」でなければならないと思うのだ。
情報を一方的に発信するだけならそれはごく簡単なこと。
何も考えずに思ったことをSNSに書き込むことと変わらない。
でも指導する現場であれば、それは目の前に指導を受ける人がいる空間になる。
そこには少なからず聞き手のニーズが存在しているはず。
それを少しも理解せずに、あるいはまったく無視して、自分が言いたいことだけを一方的に押し付けるのでは、それは指導ではなくもはやハラスメントに近い状態かもしれない。
そんなところに信頼関係などが構築できようか。
会話の中でその瞬間の相手のニーズを瞬時に察すること、それが「聞き上手」であり、だからこそ「話し上手」となるのだと考える。
質問をしやすい雰囲気づくり、意見を述べやすい雰囲気づくり、それもまた聞き上手だと思う。
そもそも、指導するポジションにある人は立場的に「上」に立つ場合が大半だ。
先輩後輩の立場だったり、あるいはもっともっと上下の関係だったりすることも多いので、逆らえないどころか意見すら言えない、言いにくい空気が漂っていたりもする。
ただそれは上下の立場であるからこそ自然なものなのかもしれない。「先生」という文字が示す通り、目上の人は敬って然りであり、それは儒教や朱子学?により僕たちのご先祖様も当然のことと学んだこと。「指導してもらう」ということから謙遜し、あるいは遠慮してしまうのは敬意の表れでありまさに日本人のアイデンティティとも言えるだろうから、それを一概に否定するつもりもなく、むしろそういった姿勢に日本人の美意識が存在するとも言えるように思う。
であるからこそ、逆に指導する側の人間が質問や意見を言いやすい空気感を生む、そんな相手を「気遣う」必要があると思うのだ。
それこそが「聞き上手」だと思っている。
それは何もスポーツに限ったことではなく、接客業はもちろんの事、ビジネスシーンにおいてもすごく重要なことだと思う。
でも、それが案外難しいようで、出来ていない痛々しい現場を目の当たりにすることも少なくない。
逆に、それが上手い指導者やプレゼンターを見た時、話の内容を超えてその人自体に関心を抱くし、多分話を聞いているその時の僕の目は輝きを増していると思う(笑)
「相手が気を遣わないように自分が気を遣うこと」
は母から教わった言葉。
そして自分が気を遣ったことに対してのバックを求めないこと。
それが例え無意識のものだとしても、それを求めてしまうからそこでギャップが生じてしまう。
教えたことをその人がすぐに出来るようになるとは限らない。
それには個人差があるもの。
それも踏まえて当然。
すぐに出来ないから分かってないではなく、出来るようになるまでには個人差があるわけだから、大切なことは教えられたそれをその人が「出来るようになるまで頑張り続ける」ことが出来るかどうかであり、それは教えたその言葉が「心に深く残ったか」どうかだと思う。
どれだけ時間がたっても、教えられたそれを頑張り続け、出来るようになったその時、その人は教えてもらえたことを深く感謝するはず。その感謝の気持ちは教えてくれた人に向くだけでなく、その人の後輩たちへも向けられて、そうやって次の世代へと繋がっていくものなのだ。
心に深く言葉を残せる人、それこそがまさに「話し上手」であり、その為の条件として「聞き上手」であることが求められるように思う。
幸い僕は人に恵まれているので、僕の身近な人、コーチをはじめ出会う卓球仲間にはそうした方々が多い。
だからこそ、気持ちよく活動が出来ているのだろう。
でも、どれだけ良い人と巡り合い、どれだけいい言葉をいただき、どれだけ良い指導を受けたとしても、最後は自分の頑張りでしかないから、そこは間違えないようにしないといけない。
実績のあるハイレベルな指導者についただけで、自分もハイレベルになったと勘違いしてしまう。
僕は以前フランス料理店で働いた経験があるけれど、そうしたお店で働くスタッフはハイクラスなお客様と常に接しているから、自分もハイクラスな人間になったと勘違いしがちだ、なんて言葉を聞いたことがある。
それはパラ卓球活動をしている今も同じことが言える。
身を引き締めて、気を引き締めて、取り組んでいかなければならない。
自分自身話し上手である前に聞き上手であるかどうか、まだまだ道半ばで恩師の足元にも及ばない。
日々精進、まさにその一言に尽きる。
今一度自分自身を見直し、頑張っていこうと思う。
オリンピックの中継を見た友人たちは「卓球めちゃくちゃ面白かった!興奮した!」と声を上げていた。
同じ興奮をパラの僕らでも感じさせたいと思った。
さぁ、いよいよ東京パラ2020が始まる。
海外の友人達も既に来日している。
彼らが東京の舞台で大いに躍動できることを祈りたいし、陰ながら支えていたい。
パラリンピックの為、選手たちの為、いや、日本社会の為、そして人類の為に、目立たずとも陰ながら、支える。
それは感染拡大を抑える努力だと思っている。
僕一人の努力は選挙の一票と同じで実に小さなもの。たかが1票のその存在感は恐ろしく小さい。
でも、それは間違いなくそこに存在している1票。
塵一粒は目に見えないし触れてみてもきっと存在を感じないもの。
でも確実にそこに存在しているもの。
そんな小さなものも、積もれば山となる。
口で言うだけなら簡単なので、それを行動で示さなければならない。
まずは選手の活躍だけでなく、パラリンピックの成功を祈り、それと同時に、その為に自分が今何をすべきかを考え、判断し、行動を取る。
だからみんなには存分に頑張ってほしい。
そして、この困難が少しでも早く終息することを切に願う。
その方は昭和の時代に、修行でフランスをはじめイギリス、ドイツ、さらにはカナダ(ケベック)までを6年間渡り歩いた方で、イギリスでは王室御用達のホテルの厨房に立ち、なんと女王陛下の魚料理にも携わったということだった。
若い頃から料理だけでなく政治の世界にも通じていた方なので、言葉を通じたインプット・アウトプットの能力も優れていて、当時の僕には「これが大人なんだ」と感銘を受けた記憶がある。
だからこそ、指導を受けたその当時の情景を思い起こせるほどにその方から教わった言葉は今でも強く印象に残っている。
その筆頭にあるのがこの言葉なのだな。
パラ卓球活動においても(それ以前の職業においても)、「話し上手は聞き上手」というのが僕の人生のキーワードであることに変わりないのだけれど、最近は特にその大切さをしみじみと実感することが少なくない。
話し上手は聞き上手。
聞くことが上手な人は話すのも上手いという単純な話ではない、と僕は思っている。
歳を重ねるごとにその考え方、言葉の捉え方はより深くなっていってるから。
誰が言った言葉なのかは分からない。
でも、それを最初に言った人にはこの言葉の奥に真意が存在していたはず。
確かめようはないけれど、それを考えるとこの言葉の意味はもっともっと奥深い。
で、この言葉をパラ卓球、というよりもスポーツのジャンルに当てはめた時、話す側は指導者であり、指導者は情報を発信する側となるのが一般的。
そこで、指導者こそ「聞き上手」でなければならないと思うのだ。
情報を一方的に発信するだけならそれはごく簡単なこと。
何も考えずに思ったことをSNSに書き込むことと変わらない。
でも指導する現場であれば、それは目の前に指導を受ける人がいる空間になる。
そこには少なからず聞き手のニーズが存在しているはず。
それを少しも理解せずに、あるいはまったく無視して、自分が言いたいことだけを一方的に押し付けるのでは、それは指導ではなくもはやハラスメントに近い状態かもしれない。
そんなところに信頼関係などが構築できようか。
会話の中でその瞬間の相手のニーズを瞬時に察すること、それが「聞き上手」であり、だからこそ「話し上手」となるのだと考える。
質問をしやすい雰囲気づくり、意見を述べやすい雰囲気づくり、それもまた聞き上手だと思う。
そもそも、指導するポジションにある人は立場的に「上」に立つ場合が大半だ。
先輩後輩の立場だったり、あるいはもっともっと上下の関係だったりすることも多いので、逆らえないどころか意見すら言えない、言いにくい空気が漂っていたりもする。
ただそれは上下の立場であるからこそ自然なものなのかもしれない。「先生」という文字が示す通り、目上の人は敬って然りであり、それは儒教や朱子学?により僕たちのご先祖様も当然のことと学んだこと。「指導してもらう」ということから謙遜し、あるいは遠慮してしまうのは敬意の表れでありまさに日本人のアイデンティティとも言えるだろうから、それを一概に否定するつもりもなく、むしろそういった姿勢に日本人の美意識が存在するとも言えるように思う。
であるからこそ、逆に指導する側の人間が質問や意見を言いやすい空気感を生む、そんな相手を「気遣う」必要があると思うのだ。
それこそが「聞き上手」だと思っている。
それは何もスポーツに限ったことではなく、接客業はもちろんの事、ビジネスシーンにおいてもすごく重要なことだと思う。
でも、それが案外難しいようで、出来ていない痛々しい現場を目の当たりにすることも少なくない。
逆に、それが上手い指導者やプレゼンターを見た時、話の内容を超えてその人自体に関心を抱くし、多分話を聞いているその時の僕の目は輝きを増していると思う(笑)
「相手が気を遣わないように自分が気を遣うこと」
は母から教わった言葉。
そして自分が気を遣ったことに対してのバックを求めないこと。
それが例え無意識のものだとしても、それを求めてしまうからそこでギャップが生じてしまう。
教えたことをその人がすぐに出来るようになるとは限らない。
それには個人差があるもの。
それも踏まえて当然。
すぐに出来ないから分かってないではなく、出来るようになるまでには個人差があるわけだから、大切なことは教えられたそれをその人が「出来るようになるまで頑張り続ける」ことが出来るかどうかであり、それは教えたその言葉が「心に深く残ったか」どうかだと思う。
どれだけ時間がたっても、教えられたそれを頑張り続け、出来るようになったその時、その人は教えてもらえたことを深く感謝するはず。その感謝の気持ちは教えてくれた人に向くだけでなく、その人の後輩たちへも向けられて、そうやって次の世代へと繋がっていくものなのだ。
心に深く言葉を残せる人、それこそがまさに「話し上手」であり、その為の条件として「聞き上手」であることが求められるように思う。
幸い僕は人に恵まれているので、僕の身近な人、コーチをはじめ出会う卓球仲間にはそうした方々が多い。
だからこそ、気持ちよく活動が出来ているのだろう。
でも、どれだけ良い人と巡り合い、どれだけいい言葉をいただき、どれだけ良い指導を受けたとしても、最後は自分の頑張りでしかないから、そこは間違えないようにしないといけない。
実績のあるハイレベルな指導者についただけで、自分もハイレベルになったと勘違いしてしまう。
僕は以前フランス料理店で働いた経験があるけれど、そうしたお店で働くスタッフはハイクラスなお客様と常に接しているから、自分もハイクラスな人間になったと勘違いしがちだ、なんて言葉を聞いたことがある。
それはパラ卓球活動をしている今も同じことが言える。
身を引き締めて、気を引き締めて、取り組んでいかなければならない。
自分自身話し上手である前に聞き上手であるかどうか、まだまだ道半ばで恩師の足元にも及ばない。
日々精進、まさにその一言に尽きる。
今一度自分自身を見直し、頑張っていこうと思う。
オリンピックの中継を見た友人たちは「卓球めちゃくちゃ面白かった!興奮した!」と声を上げていた。
同じ興奮をパラの僕らでも感じさせたいと思った。
さぁ、いよいよ東京パラ2020が始まる。
海外の友人達も既に来日している。
彼らが東京の舞台で大いに躍動できることを祈りたいし、陰ながら支えていたい。
パラリンピックの為、選手たちの為、いや、日本社会の為、そして人類の為に、目立たずとも陰ながら、支える。
それは感染拡大を抑える努力だと思っている。
僕一人の努力は選挙の一票と同じで実に小さなもの。たかが1票のその存在感は恐ろしく小さい。
でも、それは間違いなくそこに存在している1票。
塵一粒は目に見えないし触れてみてもきっと存在を感じないもの。
でも確実にそこに存在しているもの。
そんな小さなものも、積もれば山となる。
口で言うだけなら簡単なので、それを行動で示さなければならない。
まずは選手の活躍だけでなく、パラリンピックの成功を祈り、それと同時に、その為に自分が今何をすべきかを考え、判断し、行動を取る。
だからみんなには存分に頑張ってほしい。
そして、この困難が少しでも早く終息することを切に願う。
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