ぎしょ、たわむれがき、ざれがき、と言葉を見る。
戯書を中国語としてはおかしい、日本語の造語と見る、というふうに、香坂順一氏の言及がある。
たわむれは、言葉の遊戯である。
ざれ書きは、てなぐさみである。
九九による表記が戯訓としての興味をもたせるが、それを中国伝来とした説明がある。
古代人に算数の知識があった、それをまた、言葉に応用したのである。
また、次のような和語の読みもある。
左右 二手 . . . 本文を読む
凡そ55年前の記憶である。長い時間の経過がある。未だそのころのことを覚えているか、心許ないことである。脳の記憶は上塗りされて自身の能力に、記憶違いを起こすこともありそうだが、それは正しい記憶によることのようで、ひとたび覚えれば、それは脳のどこかに仕舞い込んでしまっている。漱石の愛読は中学校2年生になる。夏目漱石全集を読んだ。全集読みを始めたのは、亀井勝一郎の影響だった。未だラジオで学ぶようなことで、その読書論に傾いた。それは小説から詩集、評論に至るまで、全集で読むことをした。さきの記憶という点では、それを取り出すのに時間がかかる。新聞の連載を読んで、やはりあの時の、吾輩に、坊ちゃんに、それをはじめとして、そしてこの期の、心にしても3部作にしても、思春期に這入る少年に小説が与えた影響は、いまも判然することがある。いまも、長い時間かかっての、漱石の用字と文体に馴染んでしまったこのかた、文章は替わり映えしないが、そのルビに、通行字体の漢字で奇妙さがあるものの、これで漢字をよく覚えたことだったと、懐かしい。 . . . 本文を読む