文法理論は考え方であるから、言語の現象に整合性のある統一を図るべきであると、常々思っている。したがって、その言語に主語があるかないかは、あるいは主語の用語が合うか合わないかについては、その言語でどう説明できるかということである。そして職能を考える、文におけるその語の働きを捉えると、日本語では文節となるのが単位であるから、そのまとまりを品詞とすれば、そこには文法の考え方がどう成立するか、ということを学び、理解してきている。一概に、修飾語として連用修飾関係をひとしなみに主語目的語状況語などを、修飾被修飾で見ることは可能である。そこで、膠着語による文法性と語順の自由度をもって、日本語には主語も補語も同じ扱いとするのは、そう考えるからであるが、よく見ると、それは格の関係でマーカーが現れて、その順序における論理性を問えば、主語と述語、そしてそこに目的語をおくならば主語と目的語と述語という、関係構成があって文を成立させているのであるから、そう考えれば、主語目的語を補語の類に入れてしまうこともまた状況語などの修飾要素をも補語とすることになる。つまり述語における文の定義は、述語動詞の関係構成を規則として順序をつくらないで、同様に形容詞文、名詞文にも補語述語の関係をとるかどうかの議論が出てくる。
文法理論は考え方であるから、言語の現象に整合性のある統一を図るべきであると、常々思っている。したがって、その言語に主語があるかないかは、あるいは主語の用語が合うか合わないかについては、その言語でどう説明できるかということである。そして職能を考える、文におけるその語の働きを捉えると、日本語では文節となるのが単位であるから、そのまとまりを品詞とすれば、そこには文法の考え方がどう成立するか、ということを学び、理解してきている。一概に、修飾語として連用修飾関係をひとしなみに主語目的語状況語などを、修飾被修飾で見ることは可能である。そこで、膠着語による文法性と語順の自由度をもって、日本語には主語も補語も同じ扱いとするのは、そう考えるからであるが、よく見ると、それは格の関係でマーカーが現れて、その順序における論理性を問えば、主語と述語、そしてそこに目的語をおくならば主語と目的語と述語という、関係構成があって文を成立させているのであるから、そう考えれば、主語目的語を補語の類に入れてしまうこともまた状況語などの修飾要素をも補語とすることになる。つまり述語における文の定義は、述語動詞の関係構成を規則として順序をつくらないで、同様に形容詞文、名詞文にも補語述語の関係をとるかどうかの議論が出てくる。