1022 旧料理店の解体申請保留
見出しに、堀川沿い 旧料理店の解体申請保留 河村市長”所有者に待った” 中日新聞トップ記事、見出しである。20141022
リードには、
名古屋市中村区の堀川沿いにある旧・料理店の木造建築所有者が、マンションに建て替えようと、今の建物解体に必要な許可を市に申請したところ、河村たかし市長が約一カ月間、可否を判断せず、保留していることが分かった、
とある。
トップ左の見出しに、「道徳」18年度教科化 中教審答申 愛国心養成、抵抗感も とある。 20141022
記事には、
中央教育審議会(中教審)は二十一日、現在は教科外活動の小中学校の道徳を、検定教科書を用い学習評価を行う正式な教科とすることを決め、下村博文(はくぶん)文部科学相に答申した、
とある。
中央の囲み記事の見出しに、豊川バイオマス発電「特許侵害」 国5億円補助事業 めーかー側豊橋技科大などに抗議 とある。20141022
記事には、豊橋技術科学大(愛知県豊橋市)と愛知県が豊橋市内で実証研究し、下水道汚泥や生ごみを堆肥化して発電する「豊川バイオマスパーク構想」に、特許権を侵害されたと中央大の教授が訴えている、
とある。
見出しには、地方創生と分権、首相が推進強調 知事ら新交付金要望 とある。 20141022
記事には、
安倍晋三首相は二十一日、官邸で開かれた「国と地方の協議の場」で、「地方創生は内閣の最重要課題だ。これまでとは異次元の施策に取り組んでいく」と強調した、
とある。
>地方分権に関しては、本年度導入した提案募集方式で自治体から多くの案が寄せられたことに対し「最大限の実現に向けて取り組んでいく」と意欲を見せた
中日春秋(朝刊コラム)
2014年10月22日
美智子さまは、皇太子妃となった一九五九(昭和三十四)年にこういう歌を詠まれた。<てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて>
その二十年あまり後に、今度はこう歌われた。<くろく熟れし桑の実われの手に置きて疎開の日日を君は語らす>。天皇皇后両陛下はともに、少年少女時代に戦争を体験し、不安な疎開の日々を送られた
おととい八十歳となられた皇后さまは、中学時代に、A級戦犯への厳刑言い渡しを伝えるニュースを聞いた時に感じた強い恐怖が忘れられないのだという。八十年の歳月を振り返る所感で、こう書かれた。<恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖(おそ)れであったのだと思います>
少女時代に覚えた「おそれるべき責任」の重みを、自らの手でじかに感じることとなったその歩み。出版されたばかりの『皇后美智子さま 全御歌(みうた)』(新潮社)を開けば、三十一文字にこめられた思いがあふれるようににじみ出てくる
たとえば二十年ほど前に天皇陛下の歩みを詠まれた歌。<平和ただに祈りきませり東京の焦土の中に立ちまししより><君が歩み遠く来ませり一筋のさやかにつづく道とし思ふ>
五十五年前にてのひらに感じた小さな桑の実の重みを、傘寿を迎えられた今も、大切にしておられるのだろう。
見出しに、堀川沿い 旧料理店の解体申請保留 河村市長”所有者に待った” 中日新聞トップ記事、見出しである。20141022
リードには、
名古屋市中村区の堀川沿いにある旧・料理店の木造建築所有者が、マンションに建て替えようと、今の建物解体に必要な許可を市に申請したところ、河村たかし市長が約一カ月間、可否を判断せず、保留していることが分かった、
とある。
トップ左の見出しに、「道徳」18年度教科化 中教審答申 愛国心養成、抵抗感も とある。 20141022
記事には、
中央教育審議会(中教審)は二十一日、現在は教科外活動の小中学校の道徳を、検定教科書を用い学習評価を行う正式な教科とすることを決め、下村博文(はくぶん)文部科学相に答申した、
とある。
中央の囲み記事の見出しに、豊川バイオマス発電「特許侵害」 国5億円補助事業 めーかー側豊橋技科大などに抗議 とある。20141022
記事には、豊橋技術科学大(愛知県豊橋市)と愛知県が豊橋市内で実証研究し、下水道汚泥や生ごみを堆肥化して発電する「豊川バイオマスパーク構想」に、特許権を侵害されたと中央大の教授が訴えている、
とある。
見出しには、地方創生と分権、首相が推進強調 知事ら新交付金要望 とある。 20141022
記事には、
安倍晋三首相は二十一日、官邸で開かれた「国と地方の協議の場」で、「地方創生は内閣の最重要課題だ。これまでとは異次元の施策に取り組んでいく」と強調した、
とある。
>地方分権に関しては、本年度導入した提案募集方式で自治体から多くの案が寄せられたことに対し「最大限の実現に向けて取り組んでいく」と意欲を見せた
中日春秋(朝刊コラム)
2014年10月22日
美智子さまは、皇太子妃となった一九五九(昭和三十四)年にこういう歌を詠まれた。<てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて>
その二十年あまり後に、今度はこう歌われた。<くろく熟れし桑の実われの手に置きて疎開の日日を君は語らす>。天皇皇后両陛下はともに、少年少女時代に戦争を体験し、不安な疎開の日々を送られた
おととい八十歳となられた皇后さまは、中学時代に、A級戦犯への厳刑言い渡しを伝えるニュースを聞いた時に感じた強い恐怖が忘れられないのだという。八十年の歳月を振り返る所感で、こう書かれた。<恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖(おそ)れであったのだと思います>
少女時代に覚えた「おそれるべき責任」の重みを、自らの手でじかに感じることとなったその歩み。出版されたばかりの『皇后美智子さま 全御歌(みうた)』(新潮社)を開けば、三十一文字にこめられた思いがあふれるようににじみ出てくる
たとえば二十年ほど前に天皇陛下の歩みを詠まれた歌。<平和ただに祈りきませり東京の焦土の中に立ちまししより><君が歩み遠く来ませり一筋のさやかにつづく道とし思ふ>
五十五年前にてのひらに感じた小さな桑の実の重みを、傘寿を迎えられた今も、大切にしておられるのだろう。