美味、美味しい、この表記に、ふと思う。
味に美しいとは、味わいに美味があるということだから、美のとらえ方が変わる。
美そのものはそもそも味を修飾する語ではないだろうに、おいしいにあてはめたのは日本語らしい。
らしいと、何の根拠なく思うところが面白い。
美の概念があるとして、自然美とか、造形美とか、機能美とか、そう言うのがあるようだけれど、味にはまるのは、芸術的な美ぐらいか。
芸術が何であるかとなると、食の芸術があるということになる。
漢字文字についての美字は犠牲を表す。
犠牲にかかわるから、これを、美し、うつくし、うるわし、と読む訓は、字義から少し異なるようである。
それは言語のことであるから、日本語には日本語らしく、訓読みにしたのには、稚けなき者への思いがあったのである。
これをまた美の定義とか概念で哲学的に探るとなると、それはまた美の語源から説明を辿ることで、ずいぶんと、それぞれに美のとらえ方があることが分かる。
そして日本語の、美味しいである。美味い、とすれば、うまし、である。
ウイキペディアより。
>美を一意に定義することは困難であり、その定義づけが美学という一つの学問として成立するほどである。美の種類、もしくはカテゴリーとして次のようなものがある。
自然美 - 自然の手付かずの美、自然による造形(グランドキャニオンなど)
造形美 - 建築構造物の美(宮殿、大聖堂、ピラミッド)
芸術的な美 - モナリザ、ダヴィデの像、印象派の絵画
機能美 - ハンドクラフト、織部の焼き物、パイプ、ガラス器
>美、希: καλόν, 羅: venustas, bellus, 英: beautyとは、「美しいこと」、あるいは「美しさ」であり、自然の事物等に対する感覚的に素朴な印象から、芸術作品に対して抱く感動の感情、あるいは人間の行為の倫理的価値に対する評価にいたるまで、さまざまな意味と解釈の位相を持っている。
美は一般に、「良いこと」従って、哲学的な表現では、「善」と何かにおいて関係するものだと言える。
>例えば、古典ギリシア語における「美(kalon)」という言葉は、通常の国語としての日本語で使う「美」の意味とは異なる意味範囲を持っているのであり、同様に、ラテン語の「美・美しいこと(pulchrum)」もまた、古典ギリシア語の「カロン(美)」とは、また違う意味範囲を持っている。異なる言語のあいだで、まったく同じ意味内包を持つ言葉はそもそも存在しないのであり、たとえばプラトンが「美」について何かを論じている場合、それは古典ギリシア語の「カロン」について語っているのだという事実は重要である。
美(kalon)
>西洋哲学の濫觴の地ギリシアにおいてもこの事情は同様である。「美しい人」(ho kalos)は容姿の美しさよりも、その社会的地位、能力、うまれのよさを指すことばであり、「美しい人」とはポリスの市民としての倫理規範を体現した「見事な人」であった。
こうした「美」の極めて倫理的な色彩をよく表す概念が「善美」(kalokagathia カロカガティア)である。善を表す語と美を表す語から造語されたこの語は、ギリシア的人間が実現すべき理想像として提示されている。
味に美しいとは、味わいに美味があるということだから、美のとらえ方が変わる。
美そのものはそもそも味を修飾する語ではないだろうに、おいしいにあてはめたのは日本語らしい。
らしいと、何の根拠なく思うところが面白い。
美の概念があるとして、自然美とか、造形美とか、機能美とか、そう言うのがあるようだけれど、味にはまるのは、芸術的な美ぐらいか。
芸術が何であるかとなると、食の芸術があるということになる。
漢字文字についての美字は犠牲を表す。
犠牲にかかわるから、これを、美し、うつくし、うるわし、と読む訓は、字義から少し異なるようである。
それは言語のことであるから、日本語には日本語らしく、訓読みにしたのには、稚けなき者への思いがあったのである。
これをまた美の定義とか概念で哲学的に探るとなると、それはまた美の語源から説明を辿ることで、ずいぶんと、それぞれに美のとらえ方があることが分かる。
そして日本語の、美味しいである。美味い、とすれば、うまし、である。
ウイキペディアより。
>美を一意に定義することは困難であり、その定義づけが美学という一つの学問として成立するほどである。美の種類、もしくはカテゴリーとして次のようなものがある。
自然美 - 自然の手付かずの美、自然による造形(グランドキャニオンなど)
造形美 - 建築構造物の美(宮殿、大聖堂、ピラミッド)
芸術的な美 - モナリザ、ダヴィデの像、印象派の絵画
機能美 - ハンドクラフト、織部の焼き物、パイプ、ガラス器
>美、希: καλόν, 羅: venustas, bellus, 英: beautyとは、「美しいこと」、あるいは「美しさ」であり、自然の事物等に対する感覚的に素朴な印象から、芸術作品に対して抱く感動の感情、あるいは人間の行為の倫理的価値に対する評価にいたるまで、さまざまな意味と解釈の位相を持っている。
美は一般に、「良いこと」従って、哲学的な表現では、「善」と何かにおいて関係するものだと言える。
>例えば、古典ギリシア語における「美(kalon)」という言葉は、通常の国語としての日本語で使う「美」の意味とは異なる意味範囲を持っているのであり、同様に、ラテン語の「美・美しいこと(pulchrum)」もまた、古典ギリシア語の「カロン(美)」とは、また違う意味範囲を持っている。異なる言語のあいだで、まったく同じ意味内包を持つ言葉はそもそも存在しないのであり、たとえばプラトンが「美」について何かを論じている場合、それは古典ギリシア語の「カロン」について語っているのだという事実は重要である。
美(kalon)
>西洋哲学の濫觴の地ギリシアにおいてもこの事情は同様である。「美しい人」(ho kalos)は容姿の美しさよりも、その社会的地位、能力、うまれのよさを指すことばであり、「美しい人」とはポリスの市民としての倫理規範を体現した「見事な人」であった。
こうした「美」の極めて倫理的な色彩をよく表す概念が「善美」(kalokagathia カロカガティア)である。善を表す語と美を表す語から造語されたこの語は、ギリシア的人間が実現すべき理想像として提示されている。